GLN「鹿角の温故知新への旅・鹿角先人列伝一覧」

内藤湖南略年表

註:太字は別掲参照
 
 大正二年(1913)四十七歳 五男夏五生れる。上京区吉田町和泉殿町五に移転。
 
 同三年(1914)四十八歳 三月”支那論”刊行。
 
 同五年(1916)五十歳 ”清国書画譜”刊行。
 
 同六年(1917)五十一歳 十月稲葉岩吉、高橋本吉と支那旅行。三女早苗子生れる。
 
 同七年(1918)五十二歳 九月南満洲各地の視察旅行。五月三女早苗子死す。 上京区田中野上町二〇に転居。
 
 同九年(1920)五十四歳 四女祥子生れる。
 
 同十一年(1922)五十六歳 胆石病に病む。大阪朝日客員を辞す。
 
 同十二年(1923)五十七歳 三月胆嚢の手術を受ける。夏に有馬温泉で療養中、 ”新支那論”を大毎記者岩井武俊に口述す。十二月”宝左アン(今冠+酉+皿か)文” を刊行。
 
 同十三年(1924)五十八歳 七月”日本文化史研究””新支那論”刊行。 同月欧州旅行。
 
 同十四年(1925)五十九歳 二月帰朝。九月朝鮮史編輯会顧問となる。
 
 同十五年(1926)六十歳 一月学士院会員となる。八月京都帝国大学教授退官。 九月正四位。
 
 昭和二年(1927)六十一歳 一月継母みよ歿、八十五歳。四月京大文学部講師嘱託。 七月名誉教授。八月京都府相楽郡瓶原村(現木津川市)の恭仁山荘に移転。 十一月嘱託を辞める。
 
 同三年(1928)六十二歳 ”玉石雑陳””研幾小録”刊行。
 
 同四年(1929)六十三歳 八月”読史叢録”刊行。
 
 同五年(1930)六十四歳 十月”増訂日本文化史研究”刊行。 十一月国宝保存会員となる。
 
 同六年(1931)六十五歳 一月二十六日御講書始に漢書”杜佑の通典”を進講。 十二月佐多愛彦、清水銀蔵と東方文化連盟を創立する。 九月満洲事変起る。
 
 同八年(1933)六十七歳 十月日満文化協会設立のため病躯を押して渡満。
 
 同九年(1934)六十八歳 胃癌と診断され、五月六日吐血、重態に陥る。 四月二十九日満洲国総理鄭孝胥山荘訪問。六月二十六日恭仁山荘で死去。
 勲二等瑞宝章を授けられる。法名「文照院静処湖南居士」、六月二十九日 京都東山法然院に葬られ、遺髪は故郷毛馬内仁叟寺に埋められる。

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