GLN「鹿角の温故知新への旅・鹿角先人列伝一覧」

内藤湖南の周辺

参考:日本社会文学会会員伊多波英夫氏「内藤湖南と周辺」
註:太字は別掲参照
 
△湖南と一緒に秋田師範に入った友人
 泉沢恒蔵
 内藤錬八郎
 井上米次郎
 
△秋田師範学校時代の盟友
 斎藤山三郎 卒業時の首席。県内各地で中学教員ののち樺太中学教師。
 畑山呂泣:岸田芳蔵 明治31年死去、享年33。雪嶺『我観小観』を湖南と代筆。
 後藤忘言(祐助) 東京帝大専科(政治科)卒。『明教新誌』記者。
 中村木公:奥山千代松 報知新聞記者(婦人欄の創設)、犬養派の代議士。
 白土土羊(幸力) 東京神田で出版社を経営。『新編北羽発達史』等を刊行。
 山方香峰(石之助) 県内各紙記者ののち『秋田公論』主筆。長井金風と博学の双璧。
 
 関藤成緒 湖南が秋田師範時代の校長(岡山県人)。
 小貫慶治 後藤忘言の弟、東京帝大卒、横浜正金銀行天津支店長。
 柴田資郎 小西平州の出資を得て神田に出版社東華堂を経営。『新著月刊』。
 
  • 県立大館中学
     一期生 安成貞雄・佐藤貞次郎・小田島信一郎
     二期生 川村直哉川村左学の孫) ]……この一族に川村晃がいる。
     三期生 立山林平立山弟四郎の義弟)、一人娘隆は書家石田白樹夫人。
     
  • 日本初のプロレタリア文学誌『種蒔く人』創刊
     同人:小牧近江・金子洋文・今野賢三
     
    △湖南の生涯に関わった秋田人
     安藤昌益 元禄12(1703)〜宝暦12(1762) 江戸期の革命的思想家(大館市が生没の地)
     石垣柯山 文政11(1828)〜明治31 湖南や川村竹治(司法大臣)に漢学を教えた大館人。
     高橋健三 安政2(1855)〜明治31 松方内閣の官報局長。大阪朝日新聞客員。
     松田霞城 安政6(1859)〜昭和6 画家。上京当時の湖南の寄宿先。
     狩野亨吉 慶応元(1865)〜昭和17 湖南を京都大学に招致。大館生れの大学者。
     長井金風 明治元(1868)〜大正15 在野の知識人。秋田県史の編纂にもあたった。
     木村泰治 明治3〜昭和36 台湾商工会議所会頭。岳温泉(国民温泉第1号)開発者。
     伊藤銀月 明治4〜昭和19 明治・大正期の流行作家。忍術研究で有名。
     大里武八郎 明治5〜昭和47 台北高等法院長。満韓調査に同行。『鹿角方言考』。
     高橋本吉 明治6〜大正9 綴子小学校での湖南の教え子。米留学後に代議士。
     
     越津直治(大館市扇田)とその娘ミサ 直治は又新小学校時代の恩師。 ミサは看護界の先人。
     
    △内藤湖南と関わりのあった人々
     大内青巒 弘化2(1845)〜大正7 『明教新誌』を創刊。明治期の仏教指導者。
     那珂通世 嘉永4(1851)〜明治41 東洋史学者。『成吉思汗実録』の改訂本が有名。
     陸鞨南 安政4(1857)〜明治40 ジャーナリスト、評論家。『日本』を創刊し主筆。
     三宅雪嶺 万延元(1860)〜昭和20 日本主義を提唱、政教社を設立。『同時代四』 16巻。
     黒岩涙香 文政2(1862)〜大正9 萬朝報創業社長。『噫無情』『岩窟王』の翻案者。
     二葉亭四迷 元治元(1864)〜明治42 明治の文豪。代表作は『浮雲』『其面影』 『平凡』。
     沢柳政太郎 慶応元(1865)〜昭和2 文部次官、京大総長。狩野亨吉の同期生。
     谷本富 慶応3(1867)〜昭和21 国家主義の教育者。京大教授。のち京大を追放さる。
     幸田露伴 慶応3(1867)〜昭和22 名作『五重塔』の作家。第1回の文化勲章授章者。
     堺利彦 明治3〜昭和8 萬朝報論説記者。大正11年、日本共産党を設立。
     幸徳秋水 明治4〜明治44 堺利彦の同志。大逆事件で刑死。全11巻の全集あり。
     
    内藤家の人々
     天爵(仙蔵・湯瀬家より) − 十湾(調一) − 湖南(虎次郎) ……湖南の母は泉沢修斎(恭助)の娘。
     湖南の子女
     乾吉(関西大学教授)、耕次郎(立命館大学教授)、百合子、ヒナ子、 戊申(大学教授)、茂彦、夏五(洋画家)、早苗子(夭折)、祥子……五男四女の子福。

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