鹿友会誌(抄)
「第三十七冊」
 
△湖南・内藤翁を偲ぶ   青山芳得
 湖南翁は、我輩より四年々長であるから、常に師友として尊敬して居るのであるが、 少年時代、即ち小学校時代は余り交際はなかった。又明治十七年より同二十一年頃 までの東京の書生時代も、我輩は東京の兵学校から江田島の兵学校に移り、其後引続き 海上生活をして関係上、深き交りは無かった。
 明治三十二年、我輩は独身で大尉時代に、海軍大学校学生を命ぜられ、東京に居る ことになった当時、翁は本郷に居住して満朝報の記者であったから、適当なる素人下宿を 求むることを依頼したところ、同僚の記者である芝区兼房町の西澤某に紹介され、其二階 一室を間借りすることになったのであった。
 
 当時、満朝報社は銀座裏築地よりにあり、翁は退社の帰途、折々我輩の下宿に立寄られて、 天下の大勢を論じ、特に東亜の時事談を試みるといふ風で、学者といふより寧ろ、政治家の 風があったやうに思ふ。
 又其頃、本郷の翁の借家が近火にて類焼し、寝衣の儘、只書籍二三冊を持って避難された ことがあった。翌日見舞いに行くと、翁は泰然自若として少しも意に介せざるものの如く、 相変らず東西の形勢を論談せられた其脱俗的態度に、一驚せざるを得なかった。
 此一年有半の間に、我輩も結婚し、家庭の交際もあり、翁と最も応酬の深い時代であった。
 
 明治三十四年頃、我輩は兵学校教官として生徒募集試験のため京都市に出張せしに、翁は 大阪毎日新聞の記者として大阪にあり、態々我輩の旅館を訪はれた。我輩は講演の材料として、 世界列国の海軍兵力比較図を調整用意せしを以て、之を翁に示し説明せしに、其翌日新聞紙上 に詳細掲載しあり、其図たるやむ今日にては珍しくは無いが、当時線の長短高低を画き、 其寸法にて数字を現はすものは余りなかった。其数字は軍艦の頓数、兵員の員数になるまで、 吾々専門家にても記憶は容易ならざるに、翁は書とめもせず、我輩の説明を聞き、図を見たのみで、 暗記して新聞紙上に掲載せし其機敏と、博聞強記には殆んど敬服したのである。
 
 日露戦役中、戦地に和歌一首を寄せられ、我輩を激励して下された。
 わたつみもまもりますらんまつろはぬ えみしうつてふきみかみふねは
 慰問や激励の多かる中に、毎時もながら親朋の真情流露、特に感慨の深きものあり、 今尚記念として保存してある。
 
 日本海々戦直後、翁は吾輩の負傷に対し、懇切なる見舞状を下され、
 自分も近日満洲に渡航する予定なり、面会の機会あるやも計り難し、 とのことなりしも、吾輩は内地にありて其機を得なかった。
 
 其後翁は京都に、吾輩は東京に定住し、所謂平生相思はざるにあらず、身を側たてゝ西南を 望めば、憂内より来るもの数々、郷夢雁声と偕に遠しの慨なきを得ずして、荏苒十数年を過ぎ、 偶々翁は恩進講の栄を負ひ、出京せらるゝあり、閑談数刻に及んだ。翁の曰く、  『東京に来れば市井洗々の声、喧噪にして終夜安眠するを得ず』と。  吾輩曰く、  『昔年の老兄は静動忙閑の中、自ら晏如たるものあり、今此言を聞く、又老いたる哉。満洲の 前途尚遼遠にして支那の国情暗澹たるものあり、今や合縦連衡を策し、覇道に翼賛するの士、 其人に乏しからずと雖も、遠く文化の源泉を探り、王道に貢献するの士、果して幾人かある。 乞ふ自愛せよ。』と笑って相別れたのである。
 
 昨年、岳父の遺品、山馬勢毛、筆を贈呈せしに、大に喜ばれ、懇切なる手簡を寄せられた。 何ぞ図らん、墜雨軽塵落花と偕に謝し、今や絶筆として之を見るの哀あらんとは。古人の所謂 唯老年の涙を将て、一たび故人の文に文を灑ぐの感深し。

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