作者別一覧
・ 深沢美潮(1)
・ 福井晴敏(6)
・ 藤原伊織(6)
・ リリアン・Ｊ・ブラウン(4)
・ ディック・フランシス(5)
・ フィリップ・プルマン(3)



MISHIO FUKAZAWA
深沢美潮



「菜子の冒険　猫は知っていたのかも」
形態文庫 種別ノヴェル 部門長編
出版富士見 値段￥500 初版2000-11-25
 総合−
 ストーリィ−
 技術−
　ライト（ジュニア向け）ノヴェル作家としては名の通る、深沢美潮ミッシーの初ミステリ。出版は富士見ミステリー文庫。解説は関口苑生。
　主人公は女流ミステリの大家・神乃瀬志帆を母に持つ、飯倉菜子16歳。その菜子はふとしたことから、町内の偏屈老人としてしられる「キヌ婆さん」が偽者なのではないかという疑惑を抱く。真相を究明するため、母の担当編集者である仁と共に調査に乗り出すのだが――といったストーリィ。
「そんなもん放っとけ」の一言で全てが片付くはずなのだが、流石に現役女子高生は自己抑制がままならないようで、キヌ婆さんとやらの正体を暴くことが自分の使命だと思いこんで大暴走。
　読んでみれば分かるが、著者は多少の筆力は認められるものの文章力はほとんどない。上質なミステリを欲しているのなら大人しく別の作品を当たった方が良いだろう。ただし、これからこの本を手に取ろうとする人間が対象年齢の中高生であったなら話は別。少年少女向けの含蓄も多少感じられたりするので、一読してみるのもいいかもしれない。
2003/11/18



「フォーチュン・クエスト」
形態文庫 種別ノヴェル 部門長編
出版角川文庫 値段￥520 初版1989-12-01
 総合☆
 ストーリィ☆
 技術−
　深沢ミッシーが贈る、人気ファンタジィ・ノヴェル「フォーチュン・クエスト」シリーズの記念すべき第１作。彼女のデビュー作であり、出世作でもある。
　ファンタジィ（fantasy）――幻想小説と一口に言ってはみても、その定義の幅は広い。世界最古の物語である各国の神話や妖精、精霊などの伝説も一種のファンタジィであるし、日本で『おとぎばなし』と呼ばれている種の話もまたファンタジィの一部である。ＴＶゲームで育った若い世代は、ファンタジィという言葉から即座に、中世ヨーロッパ風の異世界で繰り広げられる剣と魔法の物語を連想するはずだ。文学上では、ＳＦ（サイエンス・フィクション）をファンタジィの１ジャンルとして捉える考え方だってある。
　では本作「フォーチュン・クエスト」はどのような種類のファンタジィ小説なのかというと、これはもちろんのこと中高生が一番馴染みやすい形式――すなわち、剣と魔法の実在する異世界で展開する壮大な冒険絵巻という意味でのファンタジィだ。俗に <ソード＆ソーサリィ> 、 <ハイ・ファンタジィ> と呼称されるジャンルである。
　主人公は、パステルという１６歳の少女。彼女は冒険者であり、詩人であり、またマッパー（地図等の作成担当）であるのだが、そのどれにも不案内で未熟な存在である。容姿も頭脳も人並み、詩人とはいっても楽器はできないし、マッパーなのに方向音痴というハンデだらけ。しかも結構なおっちょこちょいで、これといった特技もない。唯一のとりえと言えそうなのは、悩みはするけど立ち直りが早いという性格だけ……という、読者からすれば感情移入が容易な等身大の女の子だ。
　そんな彼女には、未熟な初心者揃いだが信頼できる仲間が５人いる。心優しき戦士クレイ、口の悪い盗賊トラップ、博識な農夫キットン、エルフ族の幼い魔法使いルーミィ、そして巨人族のノル。金もなけば力もない彼らが、ドタバタ騒ぎを繰り広げながら様々な冒険を広げていく様を、主人公パステル・Ｊ・キングの視点から語っていくというのがシリーズ通しての特徴である。



HARUTOSHI FUKUI
福井晴敏



「川の深さは」
形態文庫 種別ノヴェル 部門長編
出版講談社 値段￥648 初版2003-08-15
 総合☆
 ストーリィ☆☆
 技術−
　1997年の第43回江戸川乱歩賞に応募され最終選考で落選、後年単行本として出版された福井初期作品。後に執筆された「Twelve y.o.」「亡国のイージス」と世界観がリンクしており、その点に注目してみても面白い。刊行されたのは第44回江戸川乱歩賞受賞の「Twelve y.o.」が先だが、執筆されたのも時代設定もこちらの方が先。
　内容は、退職した元警官の勤め先に、何者かに追われているらしき少女と拳銃片手に彼女を守る手負いの少年が転がり込むというもの。二人にただならぬものを感じた元警官は彼らを匿うことにするが、それを切っ掛けに日本社会の暗部を覗くことになる。
　事実上の処女作ということで、福井作品としてみると筆力はいまひとつ。人によっては読みにくさを感じることもあり得ると思う。ただ乱歩賞最終選考に残っただけあって内容は面白い。話のスケールも大きい。
　著者はガンダムのファンらしく（∀ガンダムの小説化も手がけているから筋金入り）、その影響が色濃く出ていて、この作品の主人公は「新起動戦記ガンダムＷ」の主人公ヒイロ＝ユイに酷似していたりするのは割りと有名な話。ヒイロの台詞を「川の深さは」の主人公である保がそのまま口にするシーンも少なくない。



「Twelve y.o.」（トゥエルブ・ワイ・オー）
形態文庫 種別ノヴェル 部門長編
出版講談社 値段￥648 初版2001-06-15
 総合☆
 ストーリィ☆
 技術−
　1998年の第44回江戸川乱歩賞受賞作。解説は、乱歩賞選考員であり福井ファンを公言してはばからない大沢在昌。大沢氏はよほど福井作品が気に入ったらしく、選考会の時から暴走していたとの話。
　内容は強力なコンピュータウイルス「アポトーシスII」と謎の兵器「ウルマ」を使ってアメリカ国防省（ペンタゴン）を相手にテロを続ける「１２（トゥエルブ）」を巡る物語。
　微妙に「川の深さは」のラストや基本設定を引き継ぎつつ、相変わらずのスケールで描かれる壮大な物語だが、ハリウッド映画的な多少の無茶、荒唐無稽さも感じられる。これを迫真の筆力でどれだけカバーできるかだが、これは読み手によって印象が違ってくるかもしれない。



「亡国のイージス」上下巻
形態文庫 種別ノヴェル 部門長編
出版講談社 値段￥695+695 初版2002-07-15
 総合☆☆
 ストーリィ☆☆
 技術☆
　2000年「日本推理作家協会賞」「日本冒険小説協会賞」「大藪春彦賞」のトリプル受賞作。福井が化けたと言われる、最高傑作の呼び声も高い作品。文庫版は上下巻の２冊組で、合計すると1000ページを超える大作。刊行は２巻同時、値段も同額。
　内容は「沈黙の艦隊」を彷彿とさせる海洋冒険小説で、自衛隊の護衛艦「いそかぜ」と核に匹敵する破壊力を有する兵器「GUSOH」を巡って、日米の政府、軍、諜報機関、北朝鮮のテロリストなどが火花を散らす物語。根底に、日本の外交、軍、戦争とは何か平和とはどうるべきかなどいったテーマが流れているため、非常に読み応えのある作品に仕上がっている。男たちの生き方や信念の激突などに感動を覚える読者も少なくないだろう。
　設定や世界観はやはり「川の深さは」「Twelve y.o.」の流れを汲むもので、この２作で登場した「ダイス」といった組織も登場する。その点に着目しながら読むのも面白いと思う。
　また登場人物の人間性や、自衛隊内部のリアリティに満ちた描写などは非常に迫力的で高水準。全体的な筆力は前作までとは比較にならないほど向上している。文章も福井作品としては比較的読みやすい。
　ただ氏の作品に共通する欠点もそのまま残っていて、基本プロットが似通っている（一種のマンネリ）、女性が相変わらず書けていない、ある程度の大人が読むと登場人物がみんな若く見える（40〜50代の男が作者と同年代の30半ば程度に見えてくる）などの問題があったりもする。
　細かい欠点や粗はあるものの、一読に値する勢いや面白さ、重みがあることは確か。本書（著者）が貫く主張に賛同しかねる部分もあるが、読みながら、また読了後に色々と考えさせられた１冊だったことに間違いはない。



「終戦のローレライ」上下巻
形態単行本 種別ノヴェル 部門長編
出版講談社 値段￥1700+1900 初版2002-12-10
 総合☆☆
 ストーリィ☆☆
 技術☆
　紹介するのは大抵が安価な文庫本なのだが、ここで紹介するのは単行本（ハードカヴァー）である。なぜ文庫版でないかと言えば、2004年１月現在、その文庫版が出版されていないから。
　本書は映画化を前提にした作品で、第二次世界大戦を舞台にした潜水艦もの。そもそも著者の作品を映画化しようという動きは前々からあったらしいのだが、「川の深さは」然り「亡国のイージス」然り、内容が微妙な国際情勢（特に北朝鮮関連）などに触れているため実現されることはなかった。そこで、今度は最初から映画化するつもりで１本長編を書き上げよう――ということになったらしい。潜水艦を使った物語にするということも、その時に決定されていたことだという。そういう意味で、著者にとっては色々と縛りや制限の多い中での執筆だったようだ。
　ストーリィはというと、これが説明し難い。そもそも２段構成で1000ページを超える大作だからして、簡単にこうと語ることが出来ないし、あまり突っ込み過ぎると今度は推理小説の犯人をバラすような無粋なネタばらしをしてしまうことになりかねない。主人公といえる人物も多いし、実に難しいところ。

　テーマはやはり戦争ということになるだろうか。人間を極限状態に追い込む戦禍の中で、人は何を見出すのか。何を支えに生きて行くのか。そういった含蓄に溢れる作品となっている。
　タイトルにもなっている『ローレライ』というのは、ライン川中流の右岸にそびえる巨岩およびその岩上に憩う妖女のこと。彼女の歌声に魅せられた舟人が舟もろともに沈むという伝説は、世界的にも有名なので耳にしたことがある人も多いだろう。
　本編中のローレライは、その伝説を元にして潜水艦に搭載された新システムにつけられたコードネーム。従来のレーダーなどとは比較にならない精度で、海中に存在する全てを正確に見通してしまう『千里眼』的なシステムを巡って、第二次世界大戦中のドイツ軍、日本軍、そしてアメリカを代表とする連合軍が熾烈な争奪戦を繰り広げる……というのが大筋ともいえるのだが、それは発端に過ぎず物語はそれを足掛かりに大きく展開していく。

　感想としては、長い。ただひたすらに長い。削ろうと思えば幾らでも削れそうな箇所を、余すところなく書いてしまっているから特にそう感じられる。人間描写に厚みが出るのは分かるわけだが、それは読者の体力やら集中力を考えつつ調整しながらやらなきゃならないわけで。
　筆力は文句ないし巧いのは認めるんだが、その辺りを見る限りまだ完成した作家とは言い難いと思う。逆に言えば、まだ成長するよちがあるということになるのだろうが。
　――終章に関しては、その必要性に賛否両論あがりそう。小説としては無い方が良いような気もするが、映画化が前提とされていることを考え、さらにこれをエピローグ的に流すシーンなどを想像すると在っても問題ないような気がしないでもない。
　これは読者の年代によってもまた反応が変わってくるだろう。10代20代の若者なら抵抗無く受け入れられる者も多いと思う。逆に30後半から40を超えると辛く感じるだろう。それはつまり、痛いところを突かれているからだ。そして自分には挽回することも、言い訳することすらできないことに気付くからだ。だから否定したくもなる。それが老いというものなのだろう。



IORI FUJIWARA
藤原伊織



「ダックスフントのワープ」
形態文庫 種別ノヴェル 部門短編集
出版文春文庫 値段￥457 初版2000-11-10
 総合☆
 ストーリィ☆
 技術☆
<第９回すばる文学賞> を受賞した表題作をふくめ、「ネズミ焼きの贈りもの」「ノエル」「ユーレイ」の４作を収録した作品集。 <すばる文学賞> の傾向を見れば分かるように、著者の出世作「テロリストのパラソル」などのエンタテイメント系作品とは若干毛色を異にした文学系の１冊となっている。
　とはいえ本書の表題作「ダックスフントのワープ」が藤原伊織の事実上のデビュー作であるため、「テロリストのパラソル」以降の作品が、作者の変化を物語った具体例――ということになるのかもしれない。いずれにせよ短い文章を積み重ね、読みやすいが深みのある物語を綴っていくスタイル、いわゆる藤原節はこのころより変わってはいない。

　収録された作品に共通しているのは主人公の造詣だろう。「ノエル」を唯一の例外とし、いずれも積極的に外界との接触をもとうとしない、むしろそうした部分を徹底排除てし、自己完結した仙人のような生き方こそを理想とする青年。この点で、ほとんど同一人物といっていいほど一致している。
　いずれにも幻想的な要素が多少なりとも含まれていて、表題作では都会から砂漠へワープ（瞬間移動）したダックスフントの物語を、家庭教師を引き受けた主人公が幼いが利発な少女に語り聞かせる話。「ネズミ焼きの贈りもの」では、万引き少女を逃がすためにガードマンを誤って殺害してしまった青年の物語。「ノエル」では生まれの事情が複雑な少年とその姉の小さな冒険行、そして「ユーレイ」ではタイトル通り主人公と彼の前にあらわれた若い女性の幽霊との交流を描いている。
　哲学的な要素をたぶんに内包する、という意味合いでも４作には大きな共通点があるとみていい。これはむしろ、文学系の作品としては当たり前のことなのかもしれないが。

　――ところで、「ダックスフントのワープ」と題した短編集は複数存在する。たとえば今回紹介した <文春文庫> 版のほかに <集英社> からも同名の本が刊行されているのだ。両者の違いは、 <集英社文庫> 版の方が10年早く発刊されていること。 同文庫版には「ノエル」と「ユーレイ」が収録されておらず（つまり表題作と「ネズミ焼きの贈りもの」のみ）、そのぶん本体価格が約150円ほど安いこと。新しいほうの <文春文庫> 版には若干の加筆修正があること（とはいえ、大した変更はない。「世界で一番すき」か「世界でいっとうすき」に変わっている程度）。あとは解説者の違いくらいだろうか。ちなみに集英社の解説者は植島啓司氏。文春のほうは藤沢周氏。どちらかといえば、藤沢版の解説の方が内容的にも考察的にも深みがあったように思える。
　そのようなわけで、今回は文集文庫版をお勧めする次第。
2005/09/10



「テロリストのパラソル」
形態文庫 種別ノヴェル 部門長編
出版講談社 値段￥619 初版2002-07-15
 総合☆☆
 ストーリィ☆☆
 技術☆☆
　1995年、第41回江戸川乱歩賞を全選考委員の絶賛を浴びつつ受賞し、更に翌年の第114回直木賞をかっさらっていったという希代の２冠作品。もちろん、これは史上初の快挙であった。全乱歩賞受賞作中、最高の売り上げを誇った作品でもある。
　1995年９月に単行本として刊行された本作であるが、今回紹介するのは３年後に出版された文庫版。背表紙が緑色のタイプと、水色のタイプの二種類が確認されているが、筆者が確認した限り内容に差異は発見できなかった。色違いが存在するのは出版社側の諸般の事情というやつだろう。特に気にする必要はない。
　ただ講談社文庫は、後に「藤原伊織の作品の背表紙は水色」と方針を固めたらしい。同文庫に収録された「ひまわりの祝祭」「雪が降る」などとの統一性を考えるなら、水色を選択した方が良いかもしれない。もっとも、緑色のモデルは古書店などでしかもはや見ることもないだろう。
　ちなみに文庫版の巻末には、関口苑生氏の作品解説がある。いつ読んでも問題ないと思うが、個人的には本編を読了した後に触れるようお勧めしたい。

　――さて本書の具体的な内容であるが、中年バーテンダーが新宿中央公園で発生した爆弾テロに遭遇したのを切っ掛けに、20年以上前のとある事件に端を発した因縁の渦にまきこまれていく、というもの。
　飾り気のない短く平坦な文章をつなげていくことで、独特のテンポと世界観を構築できる新人離れした筆力がなによりもまず魅力。選考委員の阿刀田高氏が、「“人が歩き電車が走り犬が吠く”といった普通のことを書いても味がある」と評しているが、まさにその通り。登場人物たちの何気ない日常の挙動を追うだけで、本書は既に面白い。
　また主人公、彼のかつての恋人、その娘（事実上のヒロイン）、学生時代の遠い親友、切れ者のインテリヤクザ等など、主役から脇役、端役にいたるまでキャラクターの造詣も見事。とにかく、それぞれに深みのある魅力が感じられた。
　これも選考委員が揃って評価している点であるが、会話も抜群に上手い。やはり選考委員のひとり西木正明氏が「熟達のプロの作品でも、なかなかこうはいかない」としているが、全くの同感である。

　ところで本書、多くの場所でハードボイルドと紹介されているが、個人的にはこの傾向に少し疑問を持っている。確かに全篇に漂うモノトーンや乾いた簡素な文体などはハードボイルドのそれに相応しいが、かといってハードボイルドと言い切ってしまうには違和感がどうしてもつきまとう。
　理由を考えていくと、問題は主人公の気質にあるのではないかと思えてきた。主人公の島村は、ハードボイルドの主人公というにはあまりにふわふわしている。頭は切れるが、感性は鈍い。感受性が高く、実は傷つきやすい人間たちが生き抜くために身につけた「ハードボイルド」ではなく、彼は生来鈍感であるためにハードボイルドらしく見えるに過ぎないのではないか。
　これは藤原作品の主人公に共通する部分だと思われる。

　全共闘世代の中年が、自らの過去を美化するために書かれた小説だ、という批判も出ている本書。
　また、くたびれた中年男性のまえに魅力的な若い女性が都合よくあらわれる展開（これは藤原作品に共通している点で、しかもヒロインはほとんど同一人物といって差し支えないほど似通っている）に関しても、やはり苦言が集中して仕方ない部分がある。
　しかし、これらの難点を含めて見ても本書が乱歩賞受賞作、ミステリ小説、一個のエンタテイメントとして大変に優れた存在であることは変わるまい。お勧め。
2005/04/09（追記）



「ひまわりの祝祭」
形態文庫 種別ノヴェル 部門長編
出版講談社 値段￥752 初版2000-06-15
 総合☆
 ストーリィ☆
 技術☆☆
　直木賞受賞後の第１作。解説は、自称「テロリストのパラソル」が江戸川乱歩賞と直木賞をダブル受賞することを予見していた男、郷原宏。
　やはり受賞後に執筆された初の長編であることから、「テロリストのパラソル」に雰囲気の似た同系統のハードボイルドになっている。内容は、自殺で妻を失った無職の男が、その妻に似た女性と出会ったことから様々な災難に見まわれつつ、妻の死に隠された謎に迫っていくというもの。死んだ妻は自分でない誰の子を身ごもっていたのか、ゴッホの「ひまわり」に関わる謎とは何か。そもそも彼女は本当に自殺だったのか。この辺りのミステリ的要素も面白い。
　著者は基本的に筆が立つので、普通に活字を追って行くだけでも物語に引き込まれていく。物語の組み立ても巧み。
　ただ、ゴッホの「ひまわり」を題材にしている――と聞いた時点で何やら嫌な予感がする人もいるかと思うが、やはり設定に荒唐無稽な部分が出てくる。それを参考資料などから得た薀蓄（うんちく）や何やらを使って必死に誤魔化そうとしているのだが、これが完全に成功しているとは思えない。総合的に見て、「テロリストのパラソル」には一歩譲るような気がする。
　あと、同氏の作品に共通する欠点が一つ。それは中年の妄想のようなものが透けて見えること。「テロリストのパラソル」でもそうだったが、主人公は共通してくたびれ果てた冴えない中年男である。これに妙なほど若くて聡明な女性が絡んでくる。しかも、その女性のタイプがいつも同じ。この辺は、確実に著者の趣味なのだろう。その辺が鼻につくという読者も少なからず存在すると思われる。 2005/04/09（追記）



「雪が降る」
形態文庫 種別ノヴェル 部門短編集
出版講談社 値段￥590 初版2001-06-15
 総合☆
 ストーリィ☆
 技術☆
　６篇からなる短編、掌編を集めた１冊。収録されているのは「台風」「雪が降る」「銀の塩」「トマト」「紅の樹」「ダリアの夏」。今回紹介しているのは文庫版で、これとは別にハードカヴァー版も存在。文庫版にのみ、黒川博行氏の作品解説あり。
　表題作にもなっている「雪が降る」をはじめ、藤原節の利いた作品が多い。それぞれ趣が異なりながら、高水準にまとまっている。
「銀の塩」には「テロリストのパラソル」の主人公・島村も主役として登場。「紅の樹」は第三長編「てのひらの闇」のベースとなる中編小説になっている。藤原伊織のファンなら、購読して損はないだろう。
2005/04/09（追記）



「蚊トンボ白鬚の冒険」
形態単行本 種別ノヴェル 部門長編
出版講談社 値段￥1900 初版2002-04-20
 総合☆
 ストーリィ−
 技術☆
　配管工として働く二〇歳の青年に <白鬚> を名乗る蚊トンボが憑依。筋肉を制御できるという彼の助力によって常人離れした力を瞬間的に発揮できるようになった主人公が、マネーゲームに端を発する暴力団関係のもめごとに巻き込まれていく――という、これまでの路線から一転、ファンタジィ色の強い設定を基にした待望の第四長編。
　虫や正体不明の生物にとりつかれて平凡な青年が超人的な力を得る。これ自体は、 <スパイダーマン> や <寄生獣> などでもお馴染みの、さして目新しさを感じない設定である。しかし、この現実離れした話をこれまでと同様、ハードボイルドタッチの文体と雰囲気で綴っているのが本書のユニークなところだ。頭にスッと入ってくる読みやすくて分かりやすい文章、魅力的な脇役、テンポの良い会話など、藤原節も健在。
　ただ完成度としては「テロリストのパラソル」「てのひらの闇」を凌ぐほどのものではなく、ヒロインも「また似たようなのが出てきた」と思わせるワンパターン的なキャラクターでしかない。個人的には彼女にまったく魅力を感じなかった。感情移入も当然できない。奔放、大胆といえば聞こえは良いが、ちょつとそういうレヴェルに収まっていない気がした。
　また、単行本にして600ページ近い文量がつぎ込まれているが、果たしてこれだけのボリュームが必要であったかも疑問。構成面などに若干の粗が見える。これは、雑誌連載であったことが影響しているのかもしれない。
　マネーゲームや金融関連の薀蓄も事細かに書き込まれているが、これがストーリィに完全には馴染みきれていない。設定やディティールを活かし切れていない印象が拭えなかった。
　藤原作品にしては少しパンチに欠けたかな、というのが素直な感想。
2005/04/09



「シリウスの道」
形態単行本 種別ノヴェル 部門長編
出版講談社 値段￥1714 初版2005-06-10
 総合☆
 ストーリィ☆
 技術☆
「週刊文春」の2003年11月6日号から翌年12月23日号まで連載された長編小説を単行本化した作品。2006年に上下巻の文庫本が登場しているが、今回紹介しているのは都合によりハードカヴァー版。したがって巻末の作品解説などは存在しない。
　もともと藤原伊織という作家は「てのひらの闇」や「蚊トンボ白鬚の冒険」でも少なからずその面を発揮していたように、ミステリ風の物語にスパイスとして経済や金融方面の業界ネタを塗すことが多かった。それがストーリィ展開や作品そのものに厚みのようなものをもたせていたわけである。
　本作はそういった形式の集大成ともいうべき書なのかもれしれない。広告代理店に勤務する中年男性を主人公にその業界の実情をリアルに描きつつ、ミステリやサスペンスの風味も加え、一粒で二度美味しい作品にしてしまおう――という意図が、演出レヴェルではなく主題のレヴェルで見えるからだ。しかも、これまでの作品が「ミステリの中にある種の業界ネタを入れる」といった形であったのに対し、今回は「ある業界ネタをメインとしたビジネス小説の中にミステリの風味を取り入れる」といった具合に比率が逆転している。ある意味、著者の転機となる作品なのかもしれない。

　本作の主人公は、上記したように広告代理店につとめる三〇代も後半の営業局副部長、辰村祐介。営業マンとしてたいへんなやり手である彼を中心に、一般には馴染みのない広告業界の内情をスリリングに描写した企業小説として物語の序盤は展開されていく。
　著者自身が広告代理店の最大手「電通」に勤めていた経験をもつだけに、大手弱電メーカーから持ちかけられた「競合」ベースとして進む内部模様は非常にリアリティに満ちていて興味深い。内と外に敵を抱え、それでも信頼できるスタッフたちと一大プロジェクトを形にしていくあたりは手に汗握る――それだけで一本の小説として充分なエンタテイメント性を秘めているといえるだろう。
　だが、この作品はそれだけでは終わらない。ここまで紹介してきた企業小説としての側面を縦糸とするなら、当然のこと横糸が存在し、物語に絡んでくる。それが主人公とその親友たちにまつわる封印された過去である。辰村には遠ざかっていた、だが忘れられない幼少期のある事件があり、競合の問題と時を同じくしてその過去に端を発する脅迫事件が彼の前に持ち上がってくるのだ。

　ここで問題となるのが、脅迫事件を核にしたミステリとしての本書の評価である。
　実際の話、このミステリパートは中途半端にも思えるもので、ネタとしてもありふれていて面白味に欠ける。いっそのことバッサリと切り、企業小説として堂々と勝負したほうが良かったのではないか……という意見が出てきておかしくないものになっているのだ。
　一方で、この過去に由来するエピソードがあればこそ本作は成りたっているのだ、と見る読者もあるだろう。恐らくは読み手によって評価が割れてくる、たいへんにデリケートな問題である。そのため、最終的な判断は読者個々にゆだねられる。絶対的な正解はない。

　――まったく話は変わるが、もうひとつ、是非とも指摘しておかなければならないのが「テロリストのパラソル」との関連性だ。
　この「シリウスの道」は、時代設定を「テロリストのパラソル」の数年後としており、そのことを示すように例の作品に登場した主要人物のひとりが少なからず出番を与えられている。「テロリストのパラソル」の主人公がその後どうなったのか、彼が切盛りしていた店の行方など、知っている人間にはニヤリとさせられる演出がそこここに仕掛けられているので、こちらにも注目してもらいたい。
2007/02/06



LILIAN JACKSON BRAUN
リリアン・Ｊ・ブラウン



「猫は手がかりを読む」（原題：The cat who could read backward）
形態文庫本 種別ノヴェル 部門長編
出版ハヤカワ文庫 値段￥600 初版1988-11-15
 総合−
 ストーリィ−
 技術−
　名前のつづりで20年間にわたり植字工や校閲者に頭痛のタネを与えてきた男、ジム・クィラランは経験を充分に積んだ記者だったが、一悶着おこして元いた新聞社を飛び出して以来、冴えない日々を送っていた。新しい町の新聞社 <デイリィ・フラクション> で心機一転、芸術関係のライターとしての職を得たクィラランは、さっそく美術界の著名人たちを訪ね歩き、親睦を深めていく。その面々といえば、多くの芸術家から嫌悪される辛口批評家マウントクレメンズ、美しき女性画家ゾラ、人気絶頂の青年画家キャル・ハラペイ、男勝りの女流金工家ブッチーなど、個性的なものばかり。
　そうした付き合いの中で、クィラランは何の因果か、批評家マウントクレメンズとその飼い猫ココに気に入られ、彼の屋敷の空き部屋に住みこむことになった。そんなおり、画廊を経営するゾラの夫が何者かに刺殺されるという事件が起こる。そして第２、第３の殺人が。クィラランは本件を同一犯による連続殺人と見、鋭いカンの持ち主であるシャム猫ココの助力を得て真相解明に乗り出す。
　クィラランと同じく新聞記者としての経験を持つ著者が送る、猫好きによる、猫好きのための、猫が大活躍する人気ミステリ <ココ＆クィララン> シリーズの記念すべき第１作目。

　本書は、ハヤカワ文庫から刊行された同シリーズ３番目の本になるのだが、解説でも触れられているように、アメリカ本国でシリーズ処女作として刊行されたのは、間違いなくこの「猫は手がかりを読む」だ。その証拠に、主人公のクィラランはこの物語で新聞社 <デイリィ・フラクション> に就職するし、長い付き合いになる美しきシャム猫カウ・コウ＝クン（Kao K'o-Kung：通称ココ）と初めて出会う。
　なぜ、日本ではシリーズ順に出版されず、読者を混乱させるようなトリッキィな発表の仕方をしているかというと、これは偏に早川書房の戦略――「大人の事情」ともいう――のせいだ。このシリーズはもともと1960年代後半のアメリカで書かれ始めたのだが、第３巻まで出版された時点ではそれほど人気が出なかった。ところが1986年に、同シリーズ第４巻である『The Cat Who Saw Red（邦題：猫は殺しをかぎつける）』が刊行されると、これが大ヒット。アメリカ探偵作家クラブ・ペーパーバック賞候補になるなど高い評価を得た。
　早川はこれに目をつけ、シリーズ出世作である第４巻「猫は殺しをかぎつける」を輸入し、これを一番に日本の読者へ紹介することにしたわけだ。だから日本では、極めて奇妙な順番でシリーズが出版されていく運命となったわけである。リアルタイムでこの物語を追いかけてきた読者にとっては、既に旧知の仲であったクィラランとココが、３番目に出版された本で新たに出会うという珍現象を目の当たりにして面食らうこともあっただろう。レイモンド・チャンドラーなどの作品でもそうだったが、早川書房は良くこの手を使うので気をつけたほうが良い。
　当ガイドは本国での正当な発表順――すなわち下記リスト（原作発表順）の通りに読み進めていくことを強くお勧めする。
　というのも主人公は担当部署を点々とし、転機となる重大なエピソードを経験して頻繁に転居したり、友人以上恋人未満といった付き合いを繰り返していくからである。ある作品の設定はきちんと次回作にも持ち越され、時には作品を跨いだ伏線が張られることもあるのだ。こうした要素を100パーセント楽しみ、また混乱なく受け入れるためには順序こだわった方がいい。こだわるべき、とさえ言える。
　以下は、本シリーズの原作発表順と日本での発表時期を比較してまとめたリスト。

話数タイトル 原作の出版日本での出版
001The Cat Who Could Read Backwards
猫は手がかりを読む		 1966年1988年
002The Cat Who Ate Danish Modern
猫はソファをかじる		 1968年1989年
003The Cat Who Turned On And Off
猫はスイッチを入れる		 1968年1990年
004The Cat Who Saw Red
猫は殺しをかぎつける		 1986年1988年
005The Cat Who Played Brahms
猫はブラームスを演奏する		 1987年2001年
006The Cat Who Played Post Office
猫は郵便配達をする		 1987年2002年
007The Cat Who Knew Shakespeare
猫はシェイクスピアを知っている		 1988年1992年
008The Cat Who Sniffed Glue
猫は糊をなめる		 1988年1992年
009The Cat Who Went Underground
猫は床下にもぐる		 1989年1993年
010The Cat Who Talked to Ghosts
猫は幽霊と話す		 1990年1994年
011The Cat Who Lived High
猫はペントハウスに住む		 1990年1994年
012The Cat Who Knew the Cardinal
猫は鳥を見つめる		 1991年1995年
013The Cat Who Moved a Mountain
猫は山をも動かす		 1991年1995年
014The Cat Who Wasn't There
猫は留守番をする		 1992年1996年
015The Cat Who Went Into the Closet
猫はクローゼットに隠れる		 1993年1997年
016The Cat Who Came to Breakfast
猫は島へ渡る		 1994年1997年
017The Cat Who Blew the Whistle
猫は汽笛を鳴らす		 1995年1998年
018The Cat Who Said Cheese
猫はチーズをねだる		 1996年1999年
019The Cat Who Tailed a Thief
猫は泥棒を追いかける		 1997年1999年
020The Cat Who Sang for a Bird
猫は鳥と歌う		 1998年2000年
021The Cat Who Saw Stars
猫は流れ星を見る		 1999年2002年
022The Cat Who Robbed a Bank
猫はコインを貯める		 2000年2002年
023The Cat Who Smelled a Rat
猫は火事場にかけつける		 2001年2003年
024The Cat Who Went Up the Creek
猫は川辺で首をかしげる		 2002年2003年
025The Cat Who Brought Down the House 2003年未刊
026The Cat Who Talked Turkey 2003年未刊

　どのような楽しみ方をしようが、それは各読者の自由なのだが、基本的にこのシリーズはガチガチの本格ミステリ――いわゆるパズラー的魅力を求めるものではないように思える。シリーズについた多くのファンは、事件というメインテーマよりも、それを通して描かれる猫たちの日常風景や愛らしさ、そして主人公であるクィラランとの交流、彼のロマンスなどといったサブテーマに注目している節がある。
　血なまぐさい耽美猟奇的な推理小説でなく、ほのぼのとしたポップな感じのミステリを手軽に読みたいというニーズに応えてくれる種の作品なのだ。
　ちなみに本シリーズ、日本では『海外版・三毛猫ホームズ』と紹介されることが多いようだが、これはある意味で冒涜的である。赤川次郎が同シリーズを始める10年以上前に、リリアン・ブラウンは既にこのシリーズを開始して何冊も本を出している。むしろ、三毛猫ホームズシリーズを『日本版・ココ＆クィラランシリーズ』と紹介すべきなのだ。それが先達に対する礼儀というものだろう。
2004/03/23
2005/09/14（追記）



「猫はソファをかじる」（原題：The cat who ate danish modern）
形態文庫本 種別ノヴェル 部門長編
出版ハヤカワ文庫 値段￥440 初版1989-08-31
 総合−
 ストーリィ−
 技術−
「猫は手がかりを読む」に続く、新聞記者 <クィララン> と飼い猫 <ココ> の人気ミステリ・シリーズ第２段。前作と連続する（設定を引き継ぐ）直接的な続編で、この第２作目からココは名実ともにクィラランの愛猫として活躍する。
　物語は、 <デイリィ・フラクション> 紙が新しく始める『特別日曜増刊号』の記者として、クィラランが新たなポストに就かされるところから始まる。これはインテリア・デザインを専門に扱う週刊誌で、富豪や著名人などの豪邸や高級マンションを取材し、その住まいと生活を記事にするという仕事だった。もちろん、かつて花形記者として活躍したプライドを持つことや、インテリア・デザインの「イ」の字も知らない門外漢であることもありクィラランはその話を辞退しようとするのだが、目の前に昇給をぶらさげられたことで彼はその誘惑に屈することになってしまう。
　渋々ながら取材に乗りだし、高価な翡翠コレクションを溜めこんだ富豪の記事を発表したクィラランだったが、なんの呪いか、記事が公開されるやいなや取材先の豪邸に盗人が入り、翡翠コレクションを根こそぎ持っていってしまうという事件が発生。更には知り合って仲良くなりかけた青年インテリア・デザイナーが殺害されるなど、『特別日曜増刊号』の先行きを案じたくなるような出来事が頻発する。 　名誉挽回、呪われた特別号の汚名を晴らすため、クィラランは飼い猫ココの助けを借りながら事件の真相究明に乗り出していく。
　後に、ココと人気を２分することになるメス猫 <ヤムヤム> も巻末で登場。読後、本書のタイトルが「猫は記者をたぶらかす」や「猫は見事に演技する」でも問題無かったであろうことを痛感させられることになるだろう。

　――ところで、著者は本当に猫が好きで、彼らを良く観察する人なのだと思われる。事実、彼女は猫を飼っているし、著者紹介の写真には自分のシャム猫と一緒に写っていたりもするのだ。そうした愛情ある視線から描かれているおかげで、ココの存在は本当に魅力的に見せられている。彼らの神秘性の表現も素晴らしい。
　とは言っても、ココは美味しいところをさらっていく役割を担っているだけで、物語に終始出ずっぱりというわけではない。要所要所に顔を出し、その強烈な個性をアピールしていくだけなのだ。その辺りのサジ加減も、また猫の特性を上手く表現する演出的手法のひとつなのかもしれない。猫は気ままで、人間が触れたいときに触れさせてくれるとは限らない。会いたい時に決まって顔を見せたり、声を聴かせてくれるとは限らない存在なのだ。たまにしか登場しないココは、その辺りをどことなく思い起こさせる。
　こうした猫に関連する描写に特筆すべき点が見られる中で、ミステリの肝となる「事件の面白さ」や「トリックの大胆さ」などに眼を向けると、これはパズラー（本格ミステリ）を信奉する人間にはいささか厚みに欠ける部分が目立ってしまうかもしれない。恐らくは、単に手法の問題だろう。そもそも猟奇的で、耽美で、血生臭い犯罪を描くために著者はこのシリーズを開始したわけではないのだ。彼女はエラリィ・クイーンに見出され、その猫の描写の上手さから「もっと猫を主題とした作品を書いてみては」とすすめられ、クィラランとココを生み出したのである。彼女が主題としているのは、あくまで事件を通して引き出されるクィラランとココの魅力であり、彼らの暮らしぶりなのだ。
　本シリーズが、「猫好きのためのミステリ」と謳われる所以である。そういうわけで、「少しミステリが好きで、なおかつ猫がたまらなく好きだ」という読者や、「前作を読んで、もう少しシリーズのことを知りたくなった」というタイプの読み手にはお勧めする。
2004/03/27



「猫はスイッチを入れる」（原題：The cat who turned on and off）
形態文庫本 種別ノヴェル 部門長編
出版ハヤカワ文庫 値段￥480 初版1990-04-15
 総合−
 ストーリィ−
 技術−
　1968年にアメリカの <Ｅ・Ｐ・ダットン社> から刊行された、クィララン＆ココシリーズの第３作。第１作では美術界、第２作ではインテリアデザイン業界が描かれたが、今度の話の舞台はアンティーク業界。
　クリスマスを目前に控え、何か賞（とその賞金）をとれるような特ダネはないかと眼を皿のようにして日々を過ごす主人公クィラランは、 <ジャンクタウン> と呼ばれる一種の貧民街に最後の希望を託す。麻薬中毒者や社会的落伍者、犯罪者が数多くたむろするという噂の一帯を取材すれば、読者の同情票を獲得できるような人情味のある記事が書けるとふんだのだ。――ところが、これはクィラランのとんだ勘違い。 <ジャンクタウン> は掘り出し物のアンティーク専門店が集う一種のマーケットだった。渋々クィラランは路線を変更し、骨董品をテーマにした記事を作成しようと業界に首を突っ込んでいくが、やがて <ジャンクタウン> で発生した奇妙な自殺事件の話を小耳に挟むことになる。近所でも評判高い人格者の死とあって、少なからぬ関心と小さな疑問を抱くに至ったクィラランは例によって頼まれもしない調査にのりだしていく。
　前作ラストでクィララン一家に加わった愛らしいメス猫『ヤムヤム』を含め、ますます猫好きにはたまらないシリーズとなったこの話、同時にクィラランの恋の行方にも関心が募るところなのだが、本作でもその傾向は強い。今回クィラランが心惹かれるのは、恋人を失ったばかりの若いお嬢様。毎回きれいな女性にクラっときて、そこそこ良い仲になれはするものの次の巻になるとアッサリふられるのがパターンのクィラランだが、今回のロマンスは実を結ぶのか。この辺りに注目してみても面白いだろう。
2004/03/29



「猫は殺しをかぎつける」（原題：The cat who saw red）
形態文庫本 種別ノヴェル 部門長編
出版ハヤカワ文庫 値段￥600 初版1988-05-31
 総合−
 ストーリィ−
 技術−
　1986年にアメリカの <ジョウヴ・ブック> から刊行されたペーパーバック（日本の文庫本に相当）、『クィラランと愛猫ココ＆ヤムヤム』シリーズの第４作。日本で最初に紹介された同シリーズの１冊だが、実際は「猫は手がかりを読む」、「猫はソファをかじる」、「猫はスイッチを入れる」に続く４番目の長編となる。
　最初は美術部門を担当、次にインテリア・デザイン、前回でアンティーク関連のコーナー担当した新聞記者クィラランだったが、今回はグルメコーナー担当を言い渡されることに。本来なら、無料でご馳走が食べられると貧乏人の彼は大喜びするはずだったが、運悪くドクターからダイエットを勧められ体重計と睨めっこを続ける毎日を送っていた彼は、この決定に不満タラタラ。やる気の欠片もなく、だが編集長命令に逆らうこともできず美食家たちの世界に足を踏み入れることになる。
　その美食家たちのパーティで、クィラランはかつての恋人と運命的な再会を果たしてすっかり機嫌を直してしまう。彼女は既に結婚し、現在は陶芸家として活躍しているらしいが、夫婦仲は良好とは言えず離婚を真剣に考え始めているという。クィラランは彼女に同情し離婚に必要な資金の援助を行うが、金を渡した翌日、彼女の姿が忽然と消えていた。
　当初は行動派の彼女が自ら行方をくらましたのだと考えられていたが、その後、彼女をはじめといる美食家たちのマンションで奇妙な事件が続発。クィラランは元恋人の失踪劇に不穏な影を感じ始め調査を開始する。

　もちろん、シャム猫ココとヤムヤムの活躍ぶりは相変わらずだし、クィララン本人のロマンスも健在。素朴で庶民的で、ウィットに富んだクィラランはまさに等身大の中年男だから、同性であれ異性であれ彼に感情移入することは決して難しいことではないだろう。彼を取り巻く些細なできごとに、一緒になって一喜一憂するのも楽しみ方の一つだ。
　北アメリカで最も権威ある <アメリカ探偵作家クラブ・ペイパーバック賞> の候補作にもなったというオマケつきの本作は、リリアン・Ｊ・ブラウンの出世作であり彼女に本格的な作家活動を始めさせる切っ掛けとなった重要な作品である。主人公クィラランと似たような職歴を辿った著者による、リアリティある現場の雰囲気を楽しむのも手だ。
　さほど猫が好きだと思わなかった人間にも、猫を飼ってみようかという気にさせてしまうような作品。
2004/03/29



「猫はブラームスを演奏する」（原題：The Cat Who Played Brahms）
形態文庫本 種別ノヴェル 部門長編
出版ハヤカワ文庫 値段￥620 初版2001-06-10
 総合−
 ストーリィ−
 技術−
　1987年にアメリカの <ジョウヴ・ブック> から刊行されたペーパーバック（日本の文庫本に相当）、『クィラランと愛猫ココ＆ヤムヤム』シリーズの第５作。
　日本での紹介は１作目から常にシリーズの翻訳を担当し続けてきた羽田詩律子女史の手によって、2001年になされた。――が、その１年前の時点で、本シリーズ第20作目にあたる「猫は鳥と歌う」の日本語版が既に発刊されている。このおかしな事実は、ファンにとって注目に値するだろう。
　当ガイドでシリーズ１作目を紹介したときに述べたことだが、日本では『クィラランと愛猫ココ＆ヤムヤム』シリーズを順番どおりに紹介していない。最初にシリーズ第４弾を翻訳し、それから１、２、３ともどり、次は（５作目と６作目を飛ばして）シリーズ７作目を翻訳しているのだ。その７作目から２０作目まではおおかた順番どおりに翻訳され、出版されている。そして２０作目の次にようやく本書――５作目に相当する「猫はブラームスを演奏する」にもどって来たというのが顛末。
　このような次第だからして、日本での滅茶苦茶な刊行順に読んでしまった読者は大いなる混乱を余儀なくされる。ある街で暮らす主人公の生活を10年分、何冊もの本にまたがって書いてきたと思ったら、突然ずいぶんと時を遡って、その街に引っ越してくることになったエピソードを唐突に語りだす。……こうした何ともチグハグなシリーズ構成に頭の中をかきまわされることになるからだ。

　もし運良く、原作の刊行順にそって本来歩むべき道を忠実に歩んできた読者がいるならば、その方にはペースを乱さないように助言したいものである。このシリーズは各巻の繋がりが密接で、設定が基本的に連続しているのだ。いわば１話完結の形式をとりながら、しかし物語と設定の面で進行性をもった連続ドラマシリーズのようなものだ。１話見逃せば、シリーズで大きな役割を果たすことになる新キャラクターの加入が知らぬ間に語られていたり、後の展開に影響する重要な伏線の存在を見逃したりすることになる。
　性質上、この『クィラランと愛猫ココ＆ヤムヤム』シリーズは英語版の刊行順に沿って読み勧められることを強くお勧めしたい。そして、この第５巻については読み終わっても訳者あとがきを読まないよう警告したい。なぜなら、後書きにおいて後のシリーズ展開についてのネタばらしが存在することである。
　翻訳の順番が不規則であることは、やはり訳者の羽田女史も気にしておられたようである。これは完全に出版社の都合だからして、彼女もまた被害者のひとりと言えるだろう。しかし、フォローをするのは窓口である彼女の役目なのだ。
　そのため、羽田氏は本書のあとがきで翻訳の不規則性についていくらか言及している。問題は、それは先行して翻訳された第20作までを読み終え、急に話が遥かな過去に戻ったことを不審に思っている読者を対象としたものだ、ということ。彼女としては当然の流れとして、第20作を読み終えた者むけの知識や共通認識について触れざるを得ない。これが、順番どおり読んできた人間についてはネタばらしのようにも見えてしまう――というわけである。

　第５作目での主人公クィラランは、会社に吹き荒れる合理化と近代化の嵐に不満を爆発させ、３カ月の休暇をとって北の田舎町でリフレッシュしようという計画をたてている。母親の親友がその町に住んでおり、自然に囲まれた条件の良い住処を無料で貸してくれるというのだ。おりしも、前作でクィラランの新たな住居となったアパートが、大家の都合で売りに出されることになった。これは「北で少し羽を伸ばせ」という天のお告げに違いない。そう解釈したクィラランは、意気揚々と休暇旅行に旅立つ。
　到着した北の田舎町の風景は素晴らしく、クィラランはこの環境を大いに気に入りつつあったが、同時に不穏な影が彼の周囲につきまといはじめるのだった。田舎町ゆえの閉鎖感、貸してもらったロッジに何者かが入り込んだ形跡、尾行しているとしか思えない青いトラック、盗まれたとしか考えられない金製の時計とペン。
　そうした掴み所のない不安と不吉な予感は、やがて隣人が殺害されるという事件で形となる。新聞記者としての性から事件調査に首を突っ込み始めたクィラランは、やがて隣人の死のうらに大きな陰謀の存在を見出していくのだった――。

　クィラランの生活環境が激変し、また彼の人生そのもの、更にいえば今後に続くシリーズ展開としても極めて大きな意味をもつエピソードが本書では語られることになる。ファンならば、何をおいても欠かすことの出来ない１作。必読の書といえるだろう。これを素通りして日本語版を製作していたというのは、読んでみると信じがたい話だし、クィラランが聞けば自慢の口ひげを震わせて怒り狂うであろう暴挙に思える。
　確かに謎解きを主眼としたミステリとしては物足りなさを感じることもあるだろうが、都会派のクィラランが北の田舎町で受けるカルチャーショックや、街の閉鎖的性質、そこに生きる個性豊かな住人など、これらはなかなか上手く書かれていて興味深い。閉鎖された社会を書かせたら国内では小野不由美などに突出したものが見られるが、彼女とはまた方向性の違った表現法――彼女ほど濃密に書き込むのではなく、小さく軽いエピソードを通してテンポ良く書き連ねていく――が用いられている点も注目されたい。
　いまさらいうまでもないが、２匹のシャム猫たちの魅力ある描写は健在。細かいことは抜きにして、この素晴らしい猫の描写だけでも充分に楽しめる１冊。
2005/09/15



DICK FRANCIS
ディック・フランシス



「本命」（原題：DEAD CERT）
形態文庫 種別ノヴェル 部門長編
出版ハヤカワ文庫 値段￥520 初版1976-06-30
 総合☆☆
 ストーリィ☆
 技術☆
　もし競馬好きであり、ミステリの愛好家でもあり、かつハードボイルドタッチの固めな文体を好む者がいたとすれば、ここで改めてディック・フランシスを紹介する必要などないだろう。
　それどころか、きっとその人物は「何をいまさら」と苦笑するに違いない。彼――大抵の場合は彼だろう――にとってそれは、本格ミステリファンにアガサ・クリスティを紹介しようとするに等しい愚挙に見えるだろうからだ。
　それだけ、ＵＫ（イギリス）の競馬界を舞台にしたフランシスの『競馬シリーズ』は、冒険小説として、またミステリとしても極めて有名な作品である。もちろん支持者も多く、冒険小説を好む知り合いを複数持つ場合、その中にかならず一人はデック・フランシスの熱狂的なファンが含まれるはずだ。

　本書『本命』は、1962年に刊行された長編ミステリ小説である。日本語に翻訳されたものは1976年にまとめられ出版。訳者はシリーズ全体を受け持つ菊池光氏。
　この競馬シリーズには単行本と文庫本の２種が揃えられているが、ここで紹介している文庫版の巻末には「競馬、イギリスと日本の違い」と題された原田俊治氏の解説が付いており、そのタイトル通り日本とＵＫとの競馬の相違について語られている（小説本編の解説にはなっていないが、そこはご愛嬌だ）。
　――物語の主人公は、アラン・ヨークという名の若い騎手。彼はレース出場中に、前方を走る親友が落馬して死亡するというアクシデントを目撃する。
　後に現場を調べた彼は、針金を使用した悪質な罠の形跡を発見。親友の死が単なる事故ではなく意図されたもの、すなわち間接的な殺人であったことを悟った。
　ヨークは警察に親友の死の調査を依頼したが、証拠不充分で当局は落馬事件を「事故」と処理。捜査を打ち切った。この決定に納得のいかないヨークは、独自に調査を進め親友の死の真相をつきとめることを誓う。

　今のところ、シリーズ３９作目の『勝利：SHATTERED』までが刊行されているが、本書『本命』はそこに至るまでの第１段として存在している。日本で紹介されたのはシリーズを代表する『興奮』『大穴』などが先だが、もっとも古い競馬シリーズの１冊はこの本命である。
　とは言っても、ディック・フランシスの競馬界を舞台にした作品群を『競馬シリーズ』として紹介するのは出版社側の都合に過ぎない。シリーズとはしているが、同じキャラクターが複数作品で主人公を務めることは稀で、作品同士の繋がりも皆無に等しい。それぞれが純粋に独立した長編小説であるのだ。
　一貫しているのは、競馬界を通して男たちの生き様を描いているということくらいだろうか。このシリーズは競馬に関心を持たない人間に忌避される傾向にあるというが、それはあまりにもったいないと言うものだ。
　ディック・フランシスの魅力は、ハードボイルド風の硬質な文体、困難や恐怖に歯を食いしばりながらそれでも己に厳しく生き続ける男たちの姿にある。かつて自らが騎手として活躍していたフランシスは、その経験を活かし競馬界を舞台に選んだに過ぎない。
　言葉の選び方や競馬界の雰囲気を再現する手腕に優れているため、確かに彼の試みは成功している。読者を引きつける大きな要素の一つでもある。だが、決してそれだけの作品ではないことをここでは明らかにしておきたい。
2004/06/28



「度胸」（原題：NERVE）
形態文庫 種別ノヴェル 部門長編
出版ハヤカワ文庫 値段￥520 初版1976-07-31
 総合☆☆
 ストーリィ☆
 技術☆
　ＵＫの競馬界を舞台にしたミステリ長編「本命」（DEAD CERT）に続く、ディック・フランシスの第２作目。1965年に出版された英語版を翻訳したもので、日本では1976年に刊行されている。日本語訳は前回と同じ菊池光氏で、彼はシリーズそのものの翻訳を通して担当しているようだ。
　前回「本命」の主人公は富豪のアマチュア騎手が務めたが、今回は駄馬ばかりを担当させられるパッとしないプロ騎手が主役に抜擢されている。
　彼、ロバート・フィンは二〇代半ばの若い騎手であったが、ある日、国内でも指折りの実力を持ったベテラン騎手アート・マシューズが拳銃自殺をする現場を目撃する。
　この自殺劇は一旦そこで幕が引かれ人々から忘れ去られたが、フィンはここから人生の転機を迎えることになる。次々と幸運が転がり込み、一気にＴＶ番組で紹介されるほどの人気騎手の座にまで押し上げられていったのだ。
　当然、彼は実力のある本命候補の馬に乗る許可を与えられ、様々なレースに参加していった。ところがある日を境に、彼の走らせる馬という馬がレースで惨敗するという事件が起こり始めた。ガチガチの本命候補を何度も敗北させ、しっかり信用を失ったフィンは、この転落劇を演出し自分を破滅に導こうとしている黒幕の存在を感知し、この正体を暴こうと調査を開始する。

　もちろん、ミステリだからして犯人役――もっと言ってしまえば悪役が登場するわけなのであるが、この「度胸」に登場するそれは、ディック・フランシスの手がける競馬シリーズの中でも屈指の悪役候補として度々名を挙げられることがある。
　確かにその人物は非常に特徴的で、非常にユニークかつ背筋の凍りつくような歪み方をしている。そのあたりの異常性が良く描写されていて興味深い。
　やはり物語のクォリティを上げるためには、実力のある魅力的な悪役の存在が必要不可欠なのだ。そのことを痛感させてくれる１作。
　ディック・フランシスの作品には俗に言う「大ハズレ」――つまり、極端に質の悪い駄作がないと良く言われるものだが、この「度胸」もその評判を裏切ることのない高いクォリティを誇った作品である。本命を読み終えた読者には、次に是非ともこの「度胸」をお勧めしたい。
2004/07/07



「興奮」（原題：FOR KICKS）
形態文庫 種別ノヴェル 部門長編
出版ハヤカワ文庫 値段￥620 初版1976-04-30
 総合☆☆
 ストーリィ☆☆
 技術☆☆
　ブリテンの競馬界を舞台にした、ディック・フランシス第３の長編ミステリ。ファンの中では初期作――或いはフランシスの著作通しての最高傑作に推す声も強く、またそうした事情は、本書が先行作である「本命」（DEAD CERT）、「度胸」（NERVE）の２作を押し退けて「い」の一番に翻訳され、日本国内の書店に並べられた事実からも窺い知れる。
　確かに構成の妙、ストーリー運び、キャラクタの造詣と魅力などを総合的に考え合わせると、前２作より頭１つ抜き出た完成度を誇ると見て良いだろう。
　原本の刊行は1965年で、菊池光による翻訳により日本語版が刊行されたのが1976年。シリーズ通してのことであるが単行本と文庫本の２形態が存在し、ここで紹介する文庫版の巻末には――本編のクォリティからすると見劣りする内容だが――石川喬司による作品解説が付属している。

　物語の大まかな流れは以下の通り。
　オーストラリアで種馬農場を経営するダニエル・ロークは、自国（ＵＫ）の競馬界で頻発している不正に頭を痛めるオクトーバー卿なる人物と出会う。
　障害レースの理事会メンバーであるオクトーバー卿は、半ば偶然がもたらしたとも言えるこの出会いを切っ掛けに、ロークの人柄に一目惚れ。多額の謝礼金と引き換えに、イングランドへ渡り馬の飼育係として地元競馬界へ潜入、裏で蠢く不義不正について調査してもらいたいと持ちかける。
　早くに両親を失った弟と妹を育て上げるため、己の自由や可能性を犠牲にしてまで働き続けて来たダニエル・ロークにとって、この刺激に満ちた冒険への誘いはまさに天からの贈り物だった。弟妹たちの学費を捻出するという目的も含め、彼は悩んだ挙句にこの話を引き受ける。
　かくしてロークは経営者の身分を一時的に捨て、スーツから薄汚れた作業服を身にまとい潜入調査員として海を越えたイングランドの競馬界に潜りこむ。

　身をやつしての潜入調査――という基本シナリオが、この物語を魅力的なものにしている。正体を隠し、自分の本来の能力や身分を無理に押し込めた上で、どこに潜んでいるとも知れない黒幕を探り当てていく過程は、もうそれだけでスリル満点だ。
　正体がバレはしないか、調査そのものが破綻しはしないか、そもそも事件の裏にいる悪党は何者なのか。大穴扱いされていた駄馬をパワーアップさせ、レースで優勝させてしまう不正トリックとは何なのか。これらの要素が力強く読者を引っ張り、ページを捲らせていく。
　物語を彩る登場人物たちも、個性豊かな面々ばかりである。特に、誇り高い主人公が本来の自分を殺し、無理に卑しく偽悪的に振舞う過程で、己のプライドと戦い葛藤する姿には胸を打たれる。彼は任務のために、好感を抱いていた人々から嫌われるような行動を敢えてとり、悪者が進んで近付いてくるようなキャラクター造りを心がけなければならないのだ。
　大した想像力を持ち合わせていなくても、これが人にとっていかに苦痛なことであるかは明白である。
　とにかく、エンタテイメント性に満ちた魅力ある作品であることに間違いはない。是非、一読をお勧めする。
2004/07/08



「大穴」（原題：ODDS AGAINST）
形態文庫 種別ノヴェル 部門長編
出版ハヤカワ文庫 値段￥621 初版1976-04-30
 総合☆☆
 ストーリィ☆☆
 技術☆
　ディック・フランシスの著作ほど、安心して紹介できる小説もない。彼は実に４０冊近い長編をリリースしているが、どれもクオリティが高くハズレらしいハズレがないからだ。
　そのことは、先に紹介した３冊を読了した人間なら既に誰もが理解していることだろう。
　しかし、そんなフランシスにも特筆して挙げなければならない、抜きん出た傑作が幾つか存在する。他のなにを置いても、これを読まずしてフランシスを語る資格なし――と言いきれる作品だ。
　個人的にそれは４冊存在すると思っている。まずは当然ながら、競馬シリーズの第１作目にあたる「本命」である。記念碑的な意味合いからも、この１冊は特別視して良いだろう。
　それから作品人気としてはナンバー１とも囁かれる、第３作「興奮」。これも絶対に外すことはできない。日本で最初に公開されたフランシスの作品ということもあり、国内の読者には圧倒的な支持を得ている。フランシスとの出会いとも兼ねて、特別な存在となり得るだけの価値は間違いなくある。
　そして３冊目が本書「大穴」である。

　ご存知の通り、『競馬シリーズ』の主人公は原則として作品ごとに顔ぶれを変える。だが、例外的に複数作品にまたがってヒーロー役を務める男が存在するのだ。彼こそがシッド・ハレーである。
　シッドは、この第３作「大穴」と第18作「利腕」に２度その姿を見せる。フランシスは２度同じ男を描かないというジンクスを破った最初の男であり、同著者が生んだ最も著名な主人公であるわけだ。
　シッド・ハレーの人気には底知れないものがある。冒険小説界を見まわしてみても、彼と比肩し得るキャラクターはそうそう見つからない。そのことは、「冒険・スパイ小説ハンドブック」における『好きな主人公　ベスト１０』の第２位にランクインしている辺りからも如実に窺える（ちなみに「興奮」のダニエル・ロークは８位）。
　同「冒険・スパイ小説ハンドブック」で、八角純二氏はシッド・ハレーをこのように評価している。
　――「自分が永遠に対応できない、絶えられないこと。それは自己蔑視である」
　――シッド・ハレーの魅力とは、このセリフの説得力である、と言ってもいいのではないだろうか。
　シッド・ハレーは元は優秀な騎手であったが、レース中の落馬事故を切っ掛けに腕をいため、騎手生命を絶たれた男である。
　本書 <大穴> の冒頭におけるシッドは、そんな事情もあってほとんど抜け殻同然の人間として登場する。自らが最も輝ける居場所から退かざるを得ず、その挫折に打ちのめされているためだ。
　騎手を辞めたあと、彼はツテを頼って <ラドナー探偵社> に調査員として再就職したものの、実際は閑職に就いて日々を無気力に過ごすばかり。
　しかし、転機は訪れる。ある事件の調査中にシッドは拳銃で撃たれて重症を負うのだが、これが彼の復活の切っ掛けとなるのだ。
　自分はなぜ撃たれなければならなかったのか。その答えが競馬界に蠢く根深い陰謀の裏側にあると見た彼は、騎手としての過去と戦いながら己の復権をかけて立ち上がる。

　この「復権」というのが、シッド・ハレーひいてはフランシス作品を彩る全主人公の掲げるメインテーマだ。
　フランシスの描く男たちは、いずれも過去の経験から心に傷を負っていたり、誰からも見向きされない孤独な境遇にいたり、理不尽に幸福を奪われてどん底に落とされた人間ばかりだ。
　そんな彼らが歯を食いしばり、拳を固め、正視しがたい現実や凄惨な過去に立ち向かう姿――、人間として男としての尊厳を取り戻し、誇りを貫こうとする姿勢にこそ我々は深い感銘を受ける。
　シッド・ハレーという男に一際強いそれを見出すからこそ、彼はフランシス作品最大のヒーローとして知れ渡っているのだろう。しかも１度ではない。フランシスを語る上で絶対にはずすことの出来ない４つ目の作品、 <利腕> に再登場し、彼は更なる困難を克服すべく歩んでいくのだ。

　シリーズ代表作として広く認知される本書は、驚くべきことに1965年に刊行された作品である。古典と表現するには至らないものの、一昔以上まえの小説であることに変わりはない。それにも関わらず、現代においても変わらぬ感動とカタルシスとを提供してくれるのだ。まさに傑作である。
　日本語版の翻訳は、例によって菊地光氏。巻末解説の担当は平尾圭吾氏で、ここではフランシス作品の特徴と長所とを分かりやすく語っている。
2004/09/26



「飛越」（原題：FLYING FINISFH）
形態文庫 種別ノヴェル 部門長編
出版ハヤカワ文庫 値段￥520 初版1976-09-30
 総合☆
 ストーリィ☆
 技術☆
　処女作「本命」（DEAD CERT）から始まったディック・フランシスの長編ミステリ <競馬シリーズ> の第５作目。原書は、1966年にブリテンで発表されている。
　さてフランシスの初期作に分類されるこの「飛越」であるが、読了した者は既に前４作とかなり毛色の違った話になっていたことに気付いただろう。
　確かに主人公は退屈な事務職を辞め、遣り甲斐を求めて競走馬運搬業に転職した若き伯爵である。その彼の物語であるわけだから、当然のこと競馬界や馬に関連する描写は至るところに見られる。決して本作のシナリオと不可分ではない。しかし、今回の事件は競馬界とは外れた所で発生するのだ。
　――ところで、ディック・フランシスが偉大な騎手であったことは有名な話である。では、彼が元パイロットという経歴の持ち主でもあることをご存知だろうか。
　普段の競馬シリーズでは、フランシスがプロ騎手であったころの経験がいかんなく発揮されているが、今回の「飛越」ではむしろパイロットとしての経験の方が作品に大きく役立っているように思われる。これは競馬のテーマとした作品ではなく、空を駆ける飛行士の物語であるとも言えるのだ。

　主人公ヘンリイ・グレイは、爵位で自分の価値を図ろうとする者、家柄と結婚したがる娘たちの相手に辟易している若き青年。
　その彼は趣味としてアマチュアの騎手とセスナのパイロットをしているのだが、この経験を活かし飛行機で競走馬を運搬する仕事を請け負うようになる。
　しかしヘンリイは、運搬業に従事するうち競走馬を利用した重大な不正が行われていることに気付く。一方、自らの所業がヘンリイに露見してしまったことを知った事件の黒幕は、隠蔽のために彼の抹殺を企てるのだった。
　逃げ場のない大空で絶体絶命の危機に追いやられていくヘンリイ・グレイの活躍を描いたこの物語だが、これまでの作品との相違はなにもモチーフだけではない。はっきりとした事件が中盤に至るまで明らかにされないのだ。
　これまでのパターンだと、競馬界で行われている不正は輪郭だけにせよ序盤で読者の前にハッキリと提示される。主人公はこれに明確な目的意識を持ち、独自の調査を展開していくわけだ。だから、読み始めてしばらくすると、何に注目して何を楽しめば良いのか読者はすぐに了解することができるわけだ。
　ところが「飛越」はそうではない。ヘンリイは不審に思われる出来事や危険な揉め事に幾度となく巻き込まれるが、これらが偶発的に発生したものなのか、何らかの必然性と関連性をもって発生したものなのかに判別がつかないのだ。
　物語はそのままのらりくらりと中盤まで進み、ヘンリイがある娘に一目惚れをするに至っては「すわ恋愛ものか!?」と思わされてしまう。
　しかし後半から終盤に入ると、やはりフランシスはフランシスであったことを我々は知ることになるのだ。序盤から中盤に描写されていた全ての要素を活かし、手に汗握るサスペンスフルな急展開が始まるのである。
2004/10/10



「利腕」（原題：WHIP HAND）
形態文庫 種別ノヴェル 部門長編
出版ハヤカワ文庫 値段￥640 初版1985-08-15
 総合☆☆
 ストーリィ☆☆
 技術☆
　第３作「興奮」と並び、フランシス作品の最高傑作候補としてたびたび話題となるこの長編小説は、ブリテンの競馬界を舞台としたフランシス作品としては18作目に当たるもので、1979年に発表されるやいなや <アメリカ探偵作家クラブ受賞> <英国推理作家協会賞> の２冠に輝いている歴史的傑作である。
（いうまでもなく、この２つの賞は世界のミステリ小説が獲得しうる最大の栄誉だ）
　だがしかし、この <利腕> が人々の記憶に深く刻まれているのは、ダブルクラウンを手にした からではない。冒険小説界、またミステリ界屈指の名言として世界中に広く知れ渡っている――実際、これが引用されているのを何度見かけたことか――、「自分が永遠に対応できない、絶えられないこと。それは自己蔑視である」という名ゼリフが登場するからに他ならない。

　この言葉の主はシッド・ハレー。第４作「大穴」にも登場した、とある探偵社の調査員である。
　前回の物語で騎手生命を絶たれた過去と向かい合いこれを克服したハレーは、調査員としての信用を深め、「競馬界での揉め事ならこの人」と囁かれるまでになりつつあった。
　そんなおり、絶対の本命と目されていた馬が突如として力を失いレースで惨敗するという事件が続発する。偶然の範囲内で片付けられる話ではあったが、競馬関係者はハレーにこの件の調査を依頼。
　半信半疑、確認のつもりで独自の調査を開始したハレーではあったが、やはり結果はシロ。馬の体調管理は万全、薬物の使用痕跡もなく、不正行為が介入したと思わしき根拠はまったくない。
　話はこれで決着かと思われたとき、事件は思わぬ展開を見せ、ハレーは再び絶望の淵に追いやられることになる。
　恐怖のどん底に叩き落されたハレーが、再び己の誇りと尊厳とを取り戻すべく奮闘する様を描いたフランシス中期作品の名作。

　最後のページを捲り終えたとき、読者はシッド・ハレーのような男は決して敵に回してはならないのだ、という真理を理解することになるだろう。
　それはラストシーンで、ある人物の口から端的に表現される。
　誰もが同じなのである。シッド・ハレーと戦って何も失いたくないのなら、自らもシッド・ハレーになるしかない。
　恐らくそれは非常に困難なことなのだろう。だが、絶対に不可能というわけではない。その微かな希望が我々の支えであり、この作品が秘める魅力なのではあるまいか。
2004/09/26



PHILIP PULLMAN
フィリップ・プルマン



「黄金の羅針盤」　The Golden Compass
形態単行本 種別ノヴェル 部門長編
出版新潮社 値段￥2400 初版1999-11
 総合☆☆
 ストーリィ☆
 技術☆☆
　ライラの冒険３部作の第１巻。ＵＫ（俗に言うイギリス）では、ある意味「ハリーポッター」より評価されているファンタジー小説。児童向けの体裁をとってはいるが、これを中学生以下の子供が読んで咀嚼し切れるかは甚だ疑問。ロンドンのジュニアはよほど精神的成熟が早いのか？
　きちんと人間が書かれているし、子供だましの要素は全くない。おとぎばなしのように精神論や根性、想いの強さだけではどうにもならない現実も厳しく書きこんであるし、宗教や神、人間の成長などを題材とした大きなテーマもしっかりと存在している。むしろ、子供を持った親に向けたような話であるようにさえ思えるのは気のせいか。
　著者の文章には奇妙な味を感じた。子供向けということで翻訳版でも平仮名を多く使った読みやすさ重視の造りとなっているが、それとは関係なく何か筆舌にしがたい魅力を感じる。
　物語の舞台は、並列世界――我々の知るのとは少し違う性質を持った地球。主人公は男勝りのお転婆少女ライラで、最近頻発している子供の誘拐事件、奔放な父の存在などが彼女を大きな冒険に引きずり出すというようなストーリィ。
　とにかく質や話の重みなど、総合的に見て日本のライトノヴェルの存在が恥ずかしくなるような出来であることは間違い無い。



「神秘の短剣」　The Subtle Knife
形態単行本 種別ノヴェル 部門長編
出版新潮社 値段￥2100 初版2000-04
 総合☆☆
 ストーリィ☆☆
 技術☆☆




「琥珀の望遠鏡」　The Amber Spyglass
形態単行本 種別ノヴェル 部門長編
出版新潮社 値段￥2800 初版2002-01
 総合☆☆
 ストーリィ☆☆
 技術☆☆










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