仏教とキリスト教 (1)   仏教について          (作成中)  

 このページは、「キリスト教雑記帳」(Blog)で、日本人の霊性を考えるために作成したものです。Blogでは書き方に制約があって表現しにくい箇所があるので、このモードで作ることにしました。とりあえず有り合わせの材料で記事を作り、追々と訂正・加除していくつもりですす。ご教示・ご意見などがありましたら、Blogページにお寄せください。
仏教とキリスト教

(1)仏教について
(2)般若波羅蜜多心経
  について
(3)浄土真宗について
(4)霊魂観と祖先崇拝
(5)
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1.根本仏教(あるいは原始仏教)について

 紀元前約5世紀(今から2500年程前)頃、インドのシャカ族の王子シッダルタ(
ふつうシャカと呼ぶ)によって説かれた教えを、根本仏教(あるいは原始仏教)と呼びます。
 仏教の出発点は先ず人生の現実に目を向け、人間の分析と省察から始まります。シャカは国王としての見識と教養を身につけましたが、次第に人生の生老病死に思い悩み、29歳で妻子を捨て、山林で苦行の生活に入りましたが、やがて極端な苦行が悟りへの道でないことを知り、菩提樹の下で瞑想に入り、ついに悟りの境地に達したといわれます。

 シャカは、人生は「苦」であり、人間の生活を成り立たせている要素(
これを五蘊<ごうん>といい、色<しき>・受<じゅ>・想<そう>・行<ぎょう>・識<しき>に別ける)はすべて「苦」であると観じました。「苦」とは人間の力ではどうすることもできない絶望的な状態で、これが「一切皆苦」の教えです。
 このような「苦」を解決するにはどうすればよいか。それが苦・集・滅・道の「四諦」(したい-四つの真理)の教えです。「苦」の原因は心の迷い
(煩悩<ぼんのう>・執着<しゅうちゃく>にあるので、「苦」を無くすためには正しい実践が必要であると教えます。

 正しい実践とは、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の「八正道」
<はっしょうどう>です。こういう生き方をするには、世界の真のあり方を知る必要があります。それは、「諸行無常」<しょぎょうむじょう>・「諸法無我」・「涅槃寂静」<ねはんじゃくじょう>の教えです。人間は、人生と世界について無知であるため「苦」が生じるが、正しい実践によって、正しい知恵「般若」<はんにゃ>を得れば「涅槃寂静」の悟りに達するというのです。
 そこには、神々に頼るという発想はなく、拠りどころは「法」によって正しく調御された自己の理性なのです。

2.仏教の流れ 

 上座部仏教 (小乗仏教) 
 シャカの死後、その教えは弟子たちに受け継がれましたが、実践の上で制約も現れてきました。
(1)根本仏教は、本来、「知恵」の教えであり、知識階級でないと理解しにくいこと。
(2)出家者(僧)中心であったこと、などです。

 大仏教乗
 そこで仏教内部の新しい運動として、出家、在家を問わず、広く人間の救済(利他)を目指す教えがあらわれてきました。大衆を悟りへと運ぶ大きな乗り物という意味で、この教えを説く人たちは自らの行き方を「大乗」と呼び、出家中心の自己完成(自利)の行き方(上座部仏教)を「小乗」と見下しました。

 悟り
を開いた人を「仏」と呼び、仏の教えを奉じ、人々を救うために力を尽くす人を「菩薩」<ぼさつ>といいます。大乗仏教では、菩薩の道を強調し、民衆を救済する仏の慈悲にすがることが説かれました。(仏はシャカだけではなく、過去・現在・未来にわたり、無数の「仏たち」があり得るわけです。このような仏たちは、人格的な救済者として尊崇され、後世には仏像もつくられるようになりました。大乗の教えは、般若教<はんにゃぎょう>、法華教<ほけきょう>、浄土三部経<じょうどさんぶきょう>などにまとめられ、中央アジアから中国、日本に伝わりました。

 一方、仏教が呪術と結びついたものを「密教」といいます。一種の神秘主義で、中には欲望や快楽を肯定し、その恍惚状態を悟りと結びつけるものまであるといわれます。仏教には「阿頼耶識」
<アーラヤシキ>という意識下の自己をあらわす言葉があり、近代心理学では「深層心理」の領域に相当するものですが、理性の光のあたらないどろどろした人間の深奥に働きかけるものとして、一笑に付せない存在意義があるのでしょう。

 また、「只管打座」
<しかんだざ>(ひたすら座禅をすること)により、直観によって、仏教の真理「空」<くう>を体得しようとする「禅宗」の行き方も仏教の有力な流れとなっています。
(※「只管打座」は、日本の曹洞宗・道元の禅の特色であって、言葉では言い尽くせない奥深い実践・修行の道です。書物だけで理解するのは無理でしょう。道元の著書「正法眼蔵」
<しょうぼうげんぞう>はきわめて難解な書物です。)
 
3.日本の仏教

 仏教伝来
 仏教が日本に伝来したのは538年、百済から仏像、仏具、経典などがもたらされて以来です。しかし仏教は日本土着の神々の信仰と結びつき、非常に歪んだ形で受容されたようです。「本地垂迹説」
<ほんじすいじゃくせつ>は、その一つの考え方です。

 鎌倉仏教
 鎌倉時代になると、法然
(浄土宗の開祖)、親鸞(浄土真宗)、道元(曹洞宗)、日蓮(法華宗)らによって、 きわめてユニークな信仰の道が興されました。が、・・・

 江戸時代以後
 やがて徳川幕府の保護と統制のもとに、「檀家」
<だんか>の制度が作られ、活力を失ってしまいました。どの宗派でも葬式や祖先の供養が重要な仕事となり、本来の仏教の主旨である「人間救済」はすっかり骨抜きになってしまいました。
 現在、日本の仏教の宗派は、密教系、禅系、浄土系、法華系の四つに大別され、13宗56派ともいわれます。概して伝統的な寺院は活力に乏しく、法華・日蓮系の新興宗教や、浄土系の在家仏教運動などの中に、本来の意味の宗教的実践や布教活動が命脈を保っているというのが実情のようです。

4、いわゆる「仏教行事」について

 本来、根本仏教は、生きている人間の悟りの道であり、祖先崇拝や死者の供養とは全く関係のないものですが、現在ではそれがすっかり習俗化されています。ちょっとあげてみましょう。

○葬式について: 死ぬと仏になる? 戒名・法名とは? 位牌と仏壇?
○死者の供養と祖先祭り: 法事(7日、49日、1年、3年、7年、13年、33年忌)? 
○彼岸会<ひがんえ>: いわゆるお彼岸の墓参り。
○盂蘭盆会<うらぼんえ>: いわゆるお盆で、祖先の霊が帰ってくるとされる。読経して追善供養をする。迎え火、送り火をたく
○仏壇礼拝: 供花、供物、燈明、焼香 など。
 これらの起源などについては省略しますが、現在では、仏教とはこういうものだと思っている人が多いようです。


1982年・松戸小金原教会の勉強会でのレジュメの一部です。「原始仏教」は、渡辺照広著「仏教」(岩波新書)、 「根本仏教」は、増谷文雄著「現代仏教入門」(角川選書)による用語です。その他いろいろな書物を参照しましたので、用語に不統一なところがあるかと思われます。(文責:岩崎)


 整理と補足

1.根本仏教 ---シャカの説いた原初の教え
●人生の現実は --- 「一切皆苦」
●苦を解決するために --- 「四諦」(四つの真理)
 苦 --- 人間的要素(五蘊)は苦である。
 集 --- 苦の原因(集)は、心の迷い(煩悩、欲望、執着)から来る。
 滅 --- 心の迷いを克服し(滅し)、解脱<げだつ>することができる。
 道 --- 迷いを滅ぼし、苦も無くするには、正しい実践が必要である。
●正しい実践とは
 正見(正しい見解) 正思(正しい決意)  正語(正しい言葉)  正業(正しい行為) 
 正命(正しい生活) 正精進(正しい努力) 正定(正しい瞑想)
●人間をとりまく世界の真相は
 諸行無常 --- 万物は流転し、恒常的なものはない。因(原因)、縁(条件)、果(結果)の繰り返しが続く。
            (輪廻<りんね>の思想)
 諸法無我 --- この世に固定し、永続する実体はない。
           現象を超越して支配するような主人公(神のようなもの)は無い。
●正しい実践によって得られるものは
 涅槃寂静<ねはんじゃくじょう> --- 正しい知恵(般若)を体得した境地 (人間の究極理想・悟りの境地)
●仏教の拠りどころ --- 法(真理)によって正しく調御された自己の理性

2.仏教の流れ ---                  ┌→上座部 --- 上座部仏教の流れ
●釈迦<しゃか>の教え → 弟子たちの集団 ----┤ (出家者中心)
                   三法に帰依し     └→大衆部 --- 大乗仏教の流れ
                   戒律を守る         (在家者重視)
                  (三法とは、仏・法・僧)
●大乗仏教とは --- 
 ◆仏は --- 釈迦1人ではなく、過去・現在・未来にわたり、無数に存在する。あらゆる者が仏性を持つ。
          釈迦如来、阿弥陀如来、薬師如来など --- (汎神論的?)
 ◆仏の慈悲 --- 仏は、人類救済のため、いつも、どこでも働いている。
 ◆菩薩の道 --- 自らは悟りを得た者であるが、人間世界に留まり、仏の慈悲を人々に及ぼし衆生済度につくす人。
             観世音(観音)、文殊、普賢、地蔵、弥勒菩薩、など
 ◆大乗経典 --- 般若経、法華経、華厳経、浄土三部経、涅槃経、維摩経、勝鬘経、など
                              └無量寿経、阿弥陀経、観無量寿経
 ◆大乗仏教の思想 --- 中観派と唯識説 など
 ◆後年、仏や菩薩は仏像の形であらわされ、礼拝の対象となった。
●仏教の他の流れ --- (と言っても、これも大乗仏教の中に位置づけられるものですが、---)
 ◆密教 ---  
 ◆禅宗 --- 

3.日本の仏教 ---           ┌−−−−→[日本]
●伝来  [インド]→[中央アジア]→[中国]→[百済]→[日本](538年)
●歪んだ形での受容 --- 新しい神々として、呪術的に、本地垂迹説、神仏混淆、など
●鎌倉時代の仏教 --- ユニークな教義が説かれ、大衆に浸透した。
    法然→ 浄土宗、親鸞 →浄土真宗、道元 →曹洞宗、日蓮 →日蓮宗(法華宗)
●徳川時代の仏教 --- 幕府の統制と保護、檀家制度、葬式と祖先供養などで、本来の仏教の主旨が失われた。
●現代の日本仏教 --- 
 密教系、禅系、浄土系、法華・日蓮系に大別され、13宗56派ともいわれ、国民の大半が檀信徒になっている。
 ◆信仰のあり方  難行道--- 戒律を守り、修行を重んじる。     (自力・聖道門)--禅宗など
   (二大別)    易行道--- 仏の慈悲にすがり、ただ信じるのみ。(他力・浄土門)--浄土系の仏教
 概して、伝統的な寺院は、観光・儀式・葬儀・祖先供養などに堕して、活力を失っている。
 法華・日蓮系の宗教団体や、浄土系の在家仏教運動などの中に、本来の信仰的実践が見られる。

4・いわゆる仏教儀式・行事について ---
●本来の仏教とは何ら関係がないか、または、意味を取り違えているものが多い。
 (例)◆葬式 --- 死んで仏になる? 戒名や法名をつける? 位牌を拝む?
    ◆死者の供養(祖先祭り) --- ◆彼岸会 --- ◆盂蘭盆会 ---
    ◆仏壇礼拝 --- 供花、供物、燈明、焼香、読経、など
●本来の仏教は形骸化し、日本古来の祖霊崇拝、シャーマニズムがその内容となっているものが多い。

5.キリスト者としての対応 ---
●仏教は「異教」である。 神観、人間観、世界観、救済観が違う。
●根本仏教・大乗仏教は、精緻な哲学体系と救済観を持っているが、人間の内在的な力や、理性によって救われる、
  とする点で聖書の教えとは大きく異なる。
●いわゆる「仏教儀式・行事」は、キリスト者から見れば、荒唐無稽なものである。
  しかし、世間的な根深い習俗であるから、慎重に対処する必要があり、
  またキリスト者の主体性を貫くためには戦いを要することがらでもある。      (未完)

●仏教かキリスト教か(筆者の遍歴
●参考          小乗仏教と大乗仏教

 仏教には小乗、大乗という2種類の区別がある。スリランカやタイなど南方諸国は小乗。日本やその周辺の国々は大乗である。歴史の教科書などを見ると、「小乗仏教では、個々の人が自分の救済を目指すが、大乗では、世の中すべての生き物を救おうとする」とある。どうみても大乗の方が立派だ。自分の救済しか考えない利己的な小乗より、皆のことを考える大乗の方がいいに決まっている。
 一方、歴史的に、小乗の方が大乗より古いことは間違いない。ということは、はじめは利己的で了見の狭い小乗仏教だったものが、後の時代に、より心の広い大乗になったということになる。しかし、仏教の最初は釈迦だ。だから釈迦の作ったのは小乗だ。それなら、釈迦は利己的で了見の狭い人だったのだろうか。
    *−*−*−*
 小乗と大乗を較べる時、忘れてはならないことがある。釈迦は、この世に超越者がいないこと、我々を救ってくれる神秘の力はないことを悟り、「それでも、この世の苦しみから抜け出す方法はあるか」と思案して、自分で自分を救済する方法を見つけた。それが小乗仏教になった。決して他人のことを無視したのではない。自分が見つけたその方法を皆に教え、「一緒にやろう、君らもがんばれ」と励ました。神秘力のない世界で皆を救うには、それ以外に方法がないからだ。
 それが大乗になると、次第に神秘的な要素が入ってくる。我々が助かるための不思議な力があり、それが多くのものを一挙に救い上げるという思想である。こうして大乗は、合理性と引き換えに、救済する人々の範囲を大きく広げたのだ。
   *−*−*−*
 小乗とは、この世を神秘なき法則の世界と見て、その中で自己救済を目指す道であり、大乗とは、その法則性を超えた神秘作用を信じ、そこに救いを求めていく世界だ。どちらに惹かれるかは人による。ただ、小乗が利己的で偏狭な教えではないということは知ってもらいたい。神秘性に頼って生きることが難しい現代では、小乗の教えもまた、人生の貴重な道しるべなのであ
る。

 (2008年・朝日新聞夕刊より抜粋 「日々是修行」---小乗は大乗より狭量か--- 花園大学教授 佐々木 閑)