浄土真宗について 仏教とキリスト教 (3)       (作成中)   

仏教とキリスト教

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  について
(3)浄土真宗について
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1.法然と親鸞
 
仏教が日本に伝来し、鎌倉時代になると、法然(浄土宗の開祖)、親鸞(浄土真宗)らによって、日本の風土に即したしたきわめてユニークな信仰の道が興されました。それは、戒律を守り修行に励むことによって救いに至る「難行道」(なんぎょうどう)に対して、仏の慈悲にすがり、ただ信じて念仏を唱えるのみによって救われると説く「易行道」(いぎょうどう)の仏教です。

 法然(1133-)は、はじめ比叡山で教義や戒律を懸命に学ぶうちに、唐の善導の著書の中から「専修念仏」(せんじゅうねんぶつ)の教えを知って、京都・大谷の吉水で終世この教えを広めました。
 親鸞は29歳のとき、法然の門下生となり、この教えを徹底し、遂に「浄土真宗」開祖となりました。法然と親鸞の違いは、法然は、仏道にはいろいろの修行の道があるが念仏の道が一番優れていると思うのでこの道を追求するのに対し、親鸞は、末世の世の中では、救いは「絶対他力」によるこの道しかないと唱えたことでしょう。

2.親鸞の教え  
 親鸞の教えの根本は、阿弥陀仏(あみだぶつ)という「仏」への帰依です。昔、法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)が修行中に、すべての人が苦しみ悲しみにひしがれている姿を深く憐れんで、一つの「願」を立て、「私を信じて、私の名を呼んだ者はすべて私の作った仏国土「極楽」あるいは「浄土」に生まれさせて「仏」にしてあげよう」と誓いました。この宝蔵菩薩が悟りを開いて「仏」になった名前が「阿弥陀仏」(阿弥陀如来)ですが、彼はあえて「仏」の地位に留まろうとはせず、世俗の中に留まって、万人救済のために尽したのです。

 それで、私たちが善いことをしようが悪いことをしようが、救われることには間違いはないというのです。「南無・阿弥陀仏」(なむあみだぶつ)と唱えて、弥陀の本願にすがる者は、私の所業によらず、阿弥陀仏の慈悲によって、「極楽浄土」(ごくらくじょうど)に生まれさせてもらえるのです。これが「他力本願」の教えで、自分の修行や善行によって救われるとする「自力」の道とは対照的な教えです。

 親鸞は、悪を無条件に許容しているわけではありませんが、現実の問題として、自分が悪の誘惑に勝とうとして善に励もうとすればするほど、悪に打ち勝てない自分を悲嘆して、自ら「愚禿親鸞」と称して、「たとえ自分が法然にすかされて、念仏を唱えて地獄に落ちたとしても、悔いることはない。もともと「地獄は一定(いちじょう)の棲家なのだから」と、徹底した他力信仰を貫いたのです。

3.悪人正機
 浄土真宗の教えの中で重要な意味を持つ用語に、「悪人正機」(あくにんしょうき)があります。これは親鸞の弟子である唯円が書いた「歎異抄」(たんにしょう)の中に、次のように述べられています。
 善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世の人つねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆゑは、自力作善の人(善人)は、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれら(悪人)は、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。  (「歎異抄」第3章より)
 つまり、阿弥陀仏が本当に救いたいのは「悪人」であり、自力作善の「善人」ではないというのです。

4.「歎異抄」について
 浄土真宗の組織神学ともいうべき書物は、親鸞の著作である「教行信証」(きょうぎょうしんしょう)ですが、これはかなり難解であり、一般には、「歎異抄」が親鸞の思想を代表する書物として親しまれています。著者の唯円は、親鸞が幕府の弾圧で越後配流の折、長男の善鸞や門下生が、「ただ念仏を唱えるだけで、他に修行や努力がいらないというならば、悪人がはびこって、世の中がメチャメチャになるのではないか、ということで、念仏+α(行い)という異なった教えを説くようになったことを憂いて、書いたものです。
 念仏によって救われた者は必ず「報恩感謝」の念が生じるので、キリスト教でいうような、いわゆる「律法廃棄論」にはならないのです。

5.「教行信証」について
 親鸞著作の「教行信証」は、教巻・行巻・信巻・証巻・真仏土巻・化身仏土巻・の六巻からなる書物です。
・教巻--- 真実の教えは、「大無量寿経」(だいむりょうじゅきょう)に説かれる釈迦の教えに基づくこと。
・行巻--- 「法」即ち信仰の実行である。「念仏」のみで、他に修行や功徳などはないこと。
・信巻--- 信仰の内容あるいは根拠である「弥陀の本願」についての説明。
・証巻--- 行・信によって開けてくる境地をいう。一口で言えば「涅槃」の世界である。
・真仏土巻--- 真実の仏・浄土とは何か。「証」の境地を更に深めたもの。
・化身土巻--- 真仏土は深遠な教理であり、凡夫が感知するには自ずと限界があるから、
 人間の智・徳に応じて「方便」をもって教えを説くことをいう。なお、真実の教えに対して、
 誤った教えを排除している。
(誤った教えとは「天を拝し、鬼神を祀り、吉良日をえらぶ」といったような余道)

 行巻の終わりの部分は、浄土真宗で読まれる最もポピュラーなお経である「正信偈」(しょうしんげ)となっています。「帰命無量寿如来、南無不可思議光 ---」ではじまり、法蔵菩薩が衆生済度の願を立て、阿弥陀仏となり、この救いがインド→中国→日本へと、高僧たちによって伝えられた経緯が述べられて、高僧たちの徳を讃え、念仏の勧めをするお経です。

6.浄土真宗の寺院
 浄土真宗は、日本の仏教の宗派の中では日蓮宗に次いで多く、信徒1億人以上(?)、代表的な寺院に、京都の東本願寺、西本願寺などがあります。


用語に不統一なところがあるかと思われます。5.「教行信証」については、金子大栄校訂の「教行信証」(岩波文庫版)を用いてまとめました。(文責:岩崎)
  整理と補足

1.浄土系の仏教 ---本来の根本仏教は、自己の「正しい実践」によって悟りを開き、「涅槃」に至るものであるが、
  大乗仏教では、信仰・実践のあり方に相反する二大別が生じた。
◆信仰のあり方  難行道--- 戒律を守り、修行を重んじる。     (自力・聖道門)--禅宗など
   (二大別)   易行道--- 仏の慈悲にすがり、ただ信じるのみ。(他力・浄土門)--浄土系の仏教

2.極楽・浄土について
 古来、インドの一般的な「輪廻」(りんね)の考え方 (低レベルの方から並べると)
 ・地獄→ ・餓鬼→ ・畜生→ ・修羅→ ・人間→ ・天   ・声聞 ・縁覚 ・菩薩 ・仏(極楽はここに相当)
  └────ここまでが輪廻する世界─────┘     └輪廻の鎖から解き放たれた世界┘
 現世の因縁によって来世には、この六つのいずれかの世界に生まれ変わると信じられた。(因果応報)
 最も悲惨な世界が「地獄」で、人々はここに生まれ変わることを最も恐れた。
 悟りによって、輪廻の世界から解き放たれ、寂静・安楽の世界に入る。「極楽・浄土」はそれを具象化した表現。

3.親鸞の著書  「教行信証」
 浄土真宗における組織神学?ともいうべきものである。インド伝来の「大無量寿経」(だいむりょうじゅきょう)に基き、
 序文と四つの教義と補足が述べられている。

4.「正信偈」というお経
 阿弥陀仏の救いがインド→中国→日本へと、高僧たちによって伝えられた経緯が述べられている。
 高僧たちとは、龍樹、天親、曇鸞、道綽、善導、源信、源空(法然)である。浄土真宗の福音書とでも言おうか?

5.真諦(しんたい)と俗諦(ぞくたい)
 真諦というのは究極的真理の領域であり、仏教本来の「涅槃」への道である。
 これに対して、「地獄と極楽・浄土」の教えは、大衆にわかりやすく教えるための方便であって、これが俗諦である。
 (浄土真宗・本願寺派第22世法主・大谷光瑞<1876-1948>の著書「第一義諦」に、この関係が述べられている。)

キリスト者としての対応 ---
 親鸞の教えは「阿弥陀仏」を「父なる神」に置き換えると、キリスト教のコピーではないかと思えるほど、救済観に似たところがある。宝蔵菩薩の往相回向(おうそうえこう)、還相回向(げんそうえこう)も、順序は反対だが、キリストの謙卑と高挙を思わせる。カール・バルトもこれに関心を持ったといわれる。仏教が中央アジアを経由する途中で、ミトラ教の影響を受けたり、景教と習合したりしたのではないかとの説もある。
 しかし、浄土真宗の本質は、その「真諦」といわれる中にあるのであって、悟りの道であることには変わりはない。

 注目に値するのは、その信仰の形である。「救いの恩恵性」という点で、きわめてプロテスタント的といえるだろう。
法然には、アルミニウス主義的な要素も見られるが、親鸞は、カルヴィン主義そのものと言えなくもない。
 浄土真宗の一つの特色に、「祈りのない宗教」という面がある。親鸞は、「父母のために一片の功徳もしたことがない」と言っている。「南無阿弥陀仏」と唱えることで、一切を仏に委ねているのである。浄土真宗の目から見ると、「ああしてください、こうしてください」と祈ることに自力の要素を感じるのかもしれない。 (キリスト教の祈りは、「主」に感謝をあらわすため、「主」から与えられた恩恵である点が他宗教の祈りとは違うのだが--)
 
 親鸞の教えは、キリスト教とは違う「異教」であって、教えそのものは受け入れがたいのであるが、信仰のあり方を追求する面で、他山の石として、研究に値するかもしれない。
      (未完)