仏教とキリスト教 (2) 般若波羅密多心経について (作成中)
「般若波羅蜜多心経」は、大乗仏教のほとんどの宗派で尊重されている、 仏教の奥儀ともいうべき経典です。 これは260字程の短い経典ですから、先ずその全文を記してみましょう。
2.感 想高神覺昇著「般若心経講義」(角川文庫)から引用しましたが、WEBでは表現できない環境依存文字も含まれているので、原文どおりに見えるかどうか?? 一応ルビも付してみました。 真理(まこと)の知恵とは何か? ---般若波羅蜜多心経に学ぶ---解説書は、数えきれない程沢山出ていますし、「ウイキペディア」などのWEB上で手っとり早く調べることもできます。ここでは、筆者が20歳台の頃(まだキリスト教の理解が浅い頃に)、書いた「青臭い感想文」を記してみることにします。 --前文略-- 年は移り、人は変わり、すべてのものが刻々と変化する。「万物流転」は世の常とは知りながら、心の底にそこばくの悲哀を覚えざるを得ない。「万物流転」ということは我々の宇宙を支配するところの一大真理ともいうべきものだろう。真理とは、いつ、どこでも、何人もきっとそう考えねばならぬものだから。 「般若波羅蜜多心経」(まことの知恵によって彼岸に達する秘訣といったような意)は、真理の教えであるという。一概に「般若心経」などというと、何か時代離れした坊さんの唱える抹香臭い呪文のように聞こえるが、とんでもない。世にこれほど、理路整然として宇宙の真相を説き去り説き来っている書物はあるまいと思われるほどだ。それは僅か260文字の漢字にしか過ぎないが、あらゆる大乗仏教経典の神髄となり、仏教の根本思想を端的に表しているといわれる。それはまた、3000年もの昔の思想とは思えないくらい科学的であり、近代人の持つ合理的センスにぴったりするものであることにも一驚する。 その「般若波羅蜜多心経」の中で最も中心となっていることは、「色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是」 (色は即ちこれ空なり。空は即ちこれ色なり。受・想・行・識もまたまたかくの如し)という文句であろう。 ここで大問題になるのは「空(くう)とは何か」ということだが、それはもちろん空間とかSkyとかいう意味ではないが、「空しい」とか「有」に対する「無」ということでもない。それはやはり「空」(くう)というよりいいようがないのであろう。いわば「もっとも根本的な、あるがままの状態」とでも言っておこうか? 次に「色」(しき)である。これは”Colour”ではないし、エロチックなものの意味では勿論ない。もっと広い意味で、物質的現象をすべて「色」という。その「色」が「空」なるなる状態にあるというのである。 「色」が物質的現象であるのに対して、「受・想・行・識」は精神的現象である。現代の心理学の用語を用いれば、「知覚・感情・意思・意識」というところだろう。これらもまた「空」であるという。仏教では「色」及び「受・想・行・識」を合わせて「五蘊」(ごうん)という。
ところで、「空」の意味をはっきりさせるために、どうしても理解して置かなければならないことが一つある。それは「因縁」(いんねん)ということだ。つまり「因」と「縁」との結合によって「果」を生ずる関係をいうのであって、「因」とは結果に対する直接の力(原因)のこと、「縁」とは「因」を助けて結果を生ぜしめる間接の力である。 「一粒の麦、地に落ちて死なずばただ一つにて在らん。若し死なば、多くの実を結ぶべし」(新約聖書より)という有名な言葉は、一粒の麦という「因」が、土中に蒔かれ、日光・水・肥料等の「縁」が加わらなければ実ができない。 また、C(炭素)+O2(酸素)→CO2+97.8kcal(熱量)という化学変化は、酸素がうまく供給される機構とかいう「縁」が必要なわけである。 物事を単に原因と結果だけの関係で判断するのは正当でない。「因縁」は我々の生活を支配する一大法則である。我々の着ている洋服一着をとってみても、驚くほど多種多様な材料と器具と人手を経ていることがわかるし、自分という一個の生命を持った肉体についても、生まれてから(いや、生まれる前から)現在に至る過程を考えると、そこには、時間的、空間的にほとんど無限の「因・縁・果」の連鎖が続いていることがわかる。「今日」という日も実は単独なものではなくて、「昨日を背負い、明日を孕んでいる今日」(ライプニッツの言葉)なのである。 この「因縁」の関係を時間的にみた場合、「万物流転」であり、空間的にみた場合は「相対依存」(すべてのものが互いにもちつもたれつの関係で存在するということ)であって、共に宇宙の真理であるといわねばなるまい。 そこで「五蘊皆空」ということはつまり、「一切のものは、すべて「空」なる状態にあるのだ。ただ因縁によって仮に在るものであるから、執着すべき何ものもない」ということになる。また、目に見える有形の物質と精神とが集まって出来ているこの世の中のあらゆる存在は、ことごとく「空」なる状態であるから、生ずるといっても何も新しく生ずるものではないし、滅するといっても全然無くなってしまうわけではない。自然科学でいう「エネルギー保存の法則」は広い意味で「色・心」一切について成立するわけである。汚いとか、美しいとか、増えたとか、減ったとかいうことは、個々の事実にとらわれ、単に肉眼によって見る差別と偏見から生じるのであって、大きな立場から見れば、万物は「不生、不滅、不垢、不浄、不増、不減」だというのである。 「心経」では「有」にとらわれ「色」に執着する者に対しては「色即是空」と説き、「空」にとらわれ虚無に陥る者に対しては「空即是色」と諫めている。そして、よく260文字の短文の中に「五蘊皆空」の真理を体得することによって、「彼岸」(ひがん、宗教的な意味での)に到達する秘訣を言い表して妙なものがある。 「色即是空」の境地に到れば、すべてのとらわれの心が無くなるであろう。とらわれの心は恐怖心や傲慢の心に通じる。悪しき欲望や憎悪、嫉妬、闘争心もまたとらわれの心から生じる。「真理の知恵」に立脚する者は完全な自由人であり、不党不偏、「正を履み中を執る」のは当然であろう。一方、「空即是色」と観じて「万物流転・相互依存」の真相を会得すれば、自分を含めもちつもたれつの関係にある社会の向上に努力し、「昨日を背負い、明日を孕んでいる今日」をより有意義に過ごす分別も湧くだろう。 「般若心経」の終わりの所に「ぎゃてい、ぎゃてい、はらぎゃてい、はらそうぎゃてい、ぼじそわか」という文句がある。何だか蛙の歌合戦のようで、思わず噴き出したくもなるが、これは梵語<サンスクリット>の音をそのまま写したものである。意訳すると、「我も渡れり。人もまた渡し終われり。彼の岸へ。普く渡し終われり。かくて悟りの道は成就せり。」というような意味だという。これは即ち「全体の完成と相俟って、自分も完成する」という「大乗的精神」にほかならないのであろう。(以下略) 用語に不統一なところがあるかと思われます。(文責:岩崎) |
整理と補足
1.「般若心経」 ---仏教がインドから中央アジアを経て中国にもたらされた仏典の一つである。「西遊記」で有名な玄奘三蔵(三蔵法師)によって伝えられたという。漢訳した人は、中央アジア(今のシルクロード)にあった亀茲国(クッチャ)の王で、訳経家であった鳩摩羅什(クマラジュー)(350-409)といわれる。
原文は梵語<サンスクリット>で書かれており、「摩訶般若波羅蜜多」とか「ギャテ ギャテ---」などは、サンスクリットのままになっている。「摩訶」は大きな、「般若」は知恵、「波羅蜜多」は彼岸に到るという意味で、「般若心経」は「大智度経」とも訳される。
観自在菩薩(観世音すなわち観音さまのこと)が自ら悟った内容を仏弟子の舎利子(舎利弗ともいう)に語った言葉がこの経文である。
2.「因縁」の道理は、「般若心経」には直接言われていないが、仏教では言うまでもない根本の道理であって、「空」を説明するにはその根底に「因縁」があることをが前提になっている。
3.仏教の考え方「唯識論」<ゆいしきろん>について ---仏教の基本的な考え方は、この世界の全存在は、「縁起」(因縁)という関係性によって成り立っているものであり、その現象を人が心の中で認識することによって外界が存在すると感じるのである。(ここらへんの理屈はなかなか面白いが、省略して・・)人間の「識」の外側にある客観世界は存在しない。これが「唯識論」(ゆいしきろん)である。「唯識論」は仏教、特にシルクロード経由でもたらされた大乗仏教の特色である。「唯識論」は「唯心論」と似ているが、「唯心論」でいう心もまた「空」なるものと観ずる点が「唯心論」とは異なるものであるといわれる。(もう一つ、「空」のみを唯一実在とみなす「中観派」<ちゅうかんは>の説がある。)
※聖書にも「伝道者言く 空の空 空の空なるかな 都て空なり」(文語訳旧約聖書伝道の書1:1ほか)という言葉があるが、これは仏教の「空」とは違い、ただ「空しい」という意味である。新共同訳では、「---すべては空しい」(コヘレトの言葉1:2)となっている。
4.キリスト者の観点
聖書の教えに従えば、人間の外側には客観的な世界と歴史があり、それを成り立たせる(創造と摂理)根源的な存在者「主なる神」が存在する。この神のみにより頼むのが、キリスト教の信仰である。
「般若心経」は、人間の精神現象などを研究するにはなかなか深遠な考察が成り立つであろうが、キリスト教にとっては「異教」であり、信仰の対象とはなりえないものである。
文責: (未完)