仏教とキリスト教 (4)   霊魂観と祖先崇拝          (作成中)  

 ここでは、仏教とか神道といったものの教理をとりあげるのではなく、わたしたちが、(意識的に宗教は信じないという者でも)、生まれながらにして、知らず知らずのうちに心の深層に根付かせられている「霊魂観」と「祖先崇拝」に触れてみたと思います。
仏教とキリスト教
(1)仏教について
(2)般若波羅蜜多心経
  について
(3)浄土真宗について
(4)霊魂観と祖先崇拝
(5)
blog保存
blogページ  へ
常識的説明 へ
ホームページ へ
        日本人の心に沁みているもの

1.人が死んだら?

 魂はあの世に行く---、天国に行く---、など漠然と考えられます。しかし、すぐにではなく、しばらくそのへんをさ迷っていて、元の家に帰りたい願望を持っているとされています。それで、盛大な心のこもった葬式を営み、死者が安心して旅立てるように、僧侶や神官を招いて儀礼を行うのです。
 儀礼のしきたりは、 宗派によって違いますが、さ迷っている間に死者が淋しい思いをしたり、怒ったり、場合によっては恨みや祟りをしては困りますから、鄭重に「霊をまつる」必要があるのです。神道の場合は「みたま鎮め」であり、仏教の場合は「初七日の供養」などです。やがて死者は、神または仏として、崇拝と加護を願う対象となるのです。

 この世とあの世とは全く断絶しているのではなく、霊魂にとって、ある程度通行可能な世界です。時々お迎えしておもてなしをするのです。神道の「慰霊」、仏教の「供養」がこれにあたります。こうして時がたつうちに「荒々しい」(個別的な)死者の霊は、鎮められ、抽象化されて、一般的な神・仏としての「祖霊」に合一されていくのです。

2.お祭りと祖先崇拝 
 神道の祭りは、本来、神としての「祖先」を招いて、礼拝し、神に仕える儀式です。最初に神主さんの「降神の儀」があって、それから祝詞(のりと)や玉串奉奠(たまぐしほうてん)・礼拝があって、神に仕え、人々は喜びを
共にします。
 向こうの世界 
 祭神(祖霊)
  ↓   ↑
 降神  昇神
 お 祭 り 
 (み魂鎮め)
最後に「昇神の儀」を行って祭りを終わります。この場合、向こうの世界は黄泉(よみ)の国なのか、天国なのかはっきりしません。そういうことはどうでもよいのです。要するに、我々の世界に招いて祭ることが最大関心事であって、そういう点では日本人は現世中心主義なのです。

 このような考えは形を変えて、仏教行事にも取り入れられています。お盆(盂蘭盆会)<うらぼんえ>がそうです。これは本来の仏教の教えではなく、後世に中国から伝来した風習によるのですが、あの世から霊魂を迎えて供養し、またあの世に送り帰す儀礼です。仏教の発祥地の古来印度では、死者は、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天の六道を輪廻転生(りんねてんしょう)すると考えますから、地獄で苦しんでいる人がもっと良い世界に生まれ変わるようにと、一生懸命ご馳走を供えて、追善供養をするわけです。
 仏教行事がおもに家庭的・血縁的であるのに対して、神道のお祭りが町村共同体的・部族的、あるいは民族的であるところに特徴があります。

3.神社・仏閣、  神棚と仏壇
 民族の始祖や偉人の「祖霊」である神や、家族の祖先である仏が宿る場所が、神社・仏閣であり、それを家庭にとりいれたものが神棚・仏壇です。それで、神社・仏閣に対して、日本人なら当然頭を下げるべきだという気持ちが何となく暗黙の了解のようになっています。ここから、民族および天皇の始祖を祀る伊勢神宮に首相が参拝したり、国のために殉じた靖国の英霊を「慰霊」するのは、宗教とは無関係な、国民として当然の儀礼だという議論も起こってくるのです。
 神棚や仏壇も、「俺は無神論だ」と言っているような者でも、何となく手を合わせないと、社会通念に反するうしろめたさを感じさせられるのです。この祖霊崇拝が、日本人の心に沁みている、いわゆる「日本教」の原点といえましょう。

4、祖霊崇拝とシャーマニズム
 日本人の心に沁みているもの、その原形は一種のシャーマニズム(Sharmanism)です。
 仏教も本来の教えは、輪廻から解脱して悟りを開くことであり、深遠な哲学と修行実践の道を備えた生き方の道であって、葬式儀礼や死者の供養とは無関係なものです。しかし、日本人の多くはそのように受容せず、祖霊信仰と習合して、現在は、本来の趣旨とは全く別の内容になっています。
 神道は、教理のようなものは近世の付加で、もともとが素朴なシャーマニズムそのものといえましょう。

 最近は「新宗教ブーム」とやらで、霊界交流や、超能力や、占い、まじない、先祖のたたりとその供養、病気のいやし、などなど---、科学技術の進歩と裏腹に流行しています。その多くは、昔から日本人の心の奥に住み着いている「祖霊信仰」が形を変えて出てきたものといえるでしょう。
 かつて伝来した仏教が「葬式宗教」と化した如く、キリスト教が「日本教」となってしまわないように、キリスト者は、聖書の教えに忠実に従い、内なる戦いに勝ち抜かなければならないのです。
1991年7月・松戸小金原教会の月報「まきば」に載せた文章の一部です。下記の「クリスチャンと祖先崇拝」もそのの文章中の一項目ですが、整理と補足の方に移しました。(文責:岩崎)
  整理と補足

1.いわゆる仏教儀式・行事について ---  
●本来の仏教とは何ら関係がないか、または、意味を取り違えているものが多い。
 (例)◆葬式 --- 死んで仏になる? 戒名や法名をつける? 位牌を拝む?
    ◆死者の供養(祖先祭り) --- ◆彼岸会 --- ◆盂蘭盆会 ---
    ◆仏壇礼拝 --- 供花、供物、燈明、焼香、読経、など
●本来の仏教は形骸化し、日本古来の祖霊崇拝、シャーマニズムがその内容となっているものが多い。

2.シャーマニズム  
Shamanism(英)
 シャーマニズムとは、超自然的な存在(霊)とこの世の人々が交信する現象によって成り立つ、一種の自然宗教で、交信は、 「シャーマン」といわれる霊を呼び出す能力を持つ霊能者(神主、僧侶、巫女、霊媒師など)の媒介によって行われる。世界の地域を問わず、同様の宗教、現象、思想などをシャーマニズムという。
 シャーマンはツングース語「šaman, シャマン」に由来し、トランス状態に入って霊(超自然的存在)と交信する現象を起こすとされる。(ウィキペディアWikipediaより)

3.仏教行事の例---お彼岸
(彼岸会)
             おひがん
 仏教では、「迷いの世界」を「此岸」(しがん)と言い、「さとりの世界」を「彼岸」(ひがん)と呼んでいる。「此岸」とは「こちらの世界」であり、「彼岸」はそれに対して「向こうの世界」という意味である。そしてさらに、「迷いのないさとりの境地に到達する」ことを「到(とう)彼岸」と言っている。ついでながら、「到彼岸」とは、インドの言葉の「パーラミター」を訳したものである。
 しかしこのように書くと、我々の住んでいる「現実の世界」が「此岸」で、そうでないどこか遠くの彼方にある「清淨(しょうじょう)な世界」が「彼岸」であるというふうに誤解されがちである。これは、「此岸」と「彼岸」という文字のせいかも知れない。 ことわるまでもないが、そのような受け取り方は、むろん間違いである。なぜなら、「此岸」も「彼岸」もともに「心」の問題だからである。
 「到彼岸」を意味する「パーラミター」はインドの言葉であり、それを中国で「到彼岸」と訳したものであるが、「お彼岸」の行事はインドにも中国にも存在しない。つまり、「お彼岸」にお墓参りをしてご先祖さまをうやまう行為は、日本独特の仏教行事なのである。(途中省略)-- この行事が、のちに、春の農作物の種まきの時期と、秋の収穫の時期とがともに順調に行われるようにと、先祖の霊の加護を祈る行為に結びついて風習化した。
 このことは鎌倉時代のはじめに、日本に浄土信仰が根付くとともに「西方浄土」(さいほうじょうど)の思想が広まり、太陽が眞東から昇り真西に沈む日に、「西方浄土」にいるご先祖さまの加護により、我々の生活が、いつまでもつつがなく続き、一生を悔いなく過ごすための「生きる力」を得られるようにと祈る日となったのである。
 昔から我々日本人は、「お彼岸」には、「ご先祖さま」に、春は「牡丹餅」(ぼたもち)を、秋は「お萩」を、それぞれお供えして、先祖供養をかかさず続けている。くり返すようだが、これは日本にしかない、心の豊かな「仏教行事」なのである。(以下略)           (真言宗 □□寺 季刊(広報誌)秋彼岸号より)

4・キリスト者としての対応 ---
       クリスチャンと祖先崇拝
クリスチャンは、聖書に啓示された三位一体の神にだけ仕える者ですから、神棚や仏壇は拝みません。それで、「クリスチャンは祖先を粗末にする」と非難されることがあるのですが、果たしてそうでしょうか? 確かに仏壇や位牌を拝まず、お彼岸やお盆や法事などに積極的ではありません。
 しかし、見方を変えれば、キリスト教ほど生きている者も死んだ者も含めて、人間を大切にする教えはないと思うのです。人は「主」なる神によって神のかたちに創造された被造物ですから、その死に際しては、遺体は心から鄭重な葬りの儀式をします。魂は造り主である「主」のご支配のもとに帰ります。法事のようなものはありませんが、時折、個人を偲び、神を崇めるための墓前礼拝や個人の記念を心をこめて行い、復活の日を待ち望みます。
 しかし、「先祖の霊を慰める」とか、「冥福を祈る」とか、「追善供養をする」ということはしないのです。そのような人間の側の影響力が死者に届くことはなく、却って「神の主権」を尊重しない罪深い行為となるからです。キリスト者にとっては、祖先を大切にすることは、「主」なる神を礼拝することの中にすべてが包含されるのであります。
 私たちは、隣人の「祖先を大切にする心」を尊重し、理解してあげなければなりませんが、クリスチャンは、その表現の仕方が異なることを平素からよく表明しておき、異教習慣と妥協せず、かえって唯一の神を崇める新しい生き方を啓蒙していく知恵をめぐらせ、努力をしなければならないのです。       (まきば1991年7月号より)
    (未完)