仏教とキリスト教 ( 5)   Blogページ保存           

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Blogページより転載
仏教とキリスト教
(1)仏教について
(2)般若波羅蜜多心経
  について
(3)浄土真宗について
(4)霊魂観と祖先崇拝
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 仏教とキリスト教(その一)

 前回までの、信教の自由、靖国問題、憲法問題などは一応措いて、またここに戻ってみる。
日本におけるクリスチャン人口は、全国民の1%ぐらいという状況の中で、日本人の宗教的霊性というものを考えてみたい。特に、仏教は我々日本人の意識の表面下にあって、なお伏流水のように流れている底流だと思われるので、キリスト者の立場から考察してみたい。

 「仏教とは?」と問われると、我々日本人でも、その知識としてはキリスト教よりも乏しいのではないかと思われるので、先ずその大あらましをまとめてみよう。といってもこれは並大抵のことではない。蛮勇をふるって記したものが、「仏教について」である。クリックしてください
 キリスト教の先生が書いた仏教の解説では、「仏教は汎神論だ」と一刀両断に切り捨てているものが多いが、そんなに単純なものではない。
 この次には、「色即是空、空即是色」で知られている「般若心経」<はんにゃしんぎょう> について考え、それから、「歎異抄」<たんにしょう>などで有名な親鸞の「浄土真宗」へとすすめてみたい。

(続き)仏教について(1)として、「根本仏教」(あるいは原始仏教)と、日本に伝来して現在に到った大まかな流れを概観した。現在、世間で「これが仏教だ」 と思われている仏教行事が、本来の仏教とは如何に違ったものかということを、先ずチェックしておきたい。

 仏教とキリスト教(その二)

 先に、仏教とキリスト教(1)「仏教について」を書いたが、続いて、仏教とキリスト教(2) 「般若波羅密多心経」と、仏教とキリスト教(3)「浄土真宗」についてのWebページを作ってみた。
(ここ、http://www2u.biglobe.ne.jp/~matudo/reference1/buddhism.html をクリックしてください。)

 仏教の真意は、一口で言うと、自分の置かれている「一切皆苦」の現状を知り、世界を成り立たせている根本原理を探り、現状を脱却して、究極の「涅槃」の境地に到るということであろうか。
 一般に、宗教の目的が「人間が、ある究極の高い境地に達すること」であると観ずるならば、キリスト教だって同様の境地が考えられるだろう。たとえば、使徒パウロが、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしのうちに生きておられるのです。」(ガラテヤの信徒への手紙2:20)というのは、仏教の悟りの境地と同じであって、行き着くところは仏教もキリスト教も変わりはないという人もいる(M氏著「仏教とキリスト教」)。
 この悟りの境地をもっと拡大すると、書道、茶道、花道、柔道、剣道なども目指すところは同じになる。甚だしきは、宮本武蔵のような剣豪でも、大成すると「剣禅一如」というような一つの悟りの境地になるのであろうか。
 仏教の奥義ともいわれる「般若波羅密多心経」などは意識的に理解していなくても、、それをベースとした心情は、「諸行無常」、「もののあわれ」、「万物流転」の世の中で、「袖すり合うも他生の縁」と感じ、「一期一会」(いちごいちえ)の人と人とのふれあいを大切にし慈しむ心となる。これが「日本人の霊性」の一つのとらえ方である。

 ここで筆者の立場をいうならば、万物は「一切皆空」ではなく、すべての現象を成り立たせている天地創造の「主」の存在を肯定し、このお方にのみ依り頼むことが「キリスト教」だと信じているので、仏教とキリスト教は全く別の道であると思っている。
 しかし世の中の文化や科学、技術、芸術、哲学などと同等に、仏教から来る文化や芸術や道徳なども、(キリスト教の神学用語で言えば)神の「一般啓示」として、研究することは不信仰には当たらないと思っている。(本日はここまで)  次に、いわゆる仏教行事について、日本人の霊性の他の側面を考えてみたい。

(追記)仏教について--いろいろな流れを知るために、禅宗についてももっと知りたいのだが(筆者には坐禅をした体験も無いので)今のところ書きようがない。曹洞宗の開祖、道元の著「正法眼蔵」(しょうぼうげんぞう)あるいは、その弟子の懐奘(えじょう)が書いた「正法眼蔵随聞記」(ずいもんき)についても、どなたかが要点を解説してくださるとよいのだが・・・
また、真言密教などについても・・・

 仏教とキリスト教(その三)

 日本人の霊性を考えるために、仏教の周辺にある(仏教そのものとは異なる)、日本人世間一般の「霊魂観」と「祖霊崇拝」についてのページを作ってみました。
 ここ http://www2u.biglobe.ne.jp/~matudo/reference1/sosen.htmlをクリックしてください。
キリスト者としての所見と対応もそこに書いてあります。

 ここで「霊性」とは何かということが問題になりますが、
三省堂「大辞林」では、「宗教心のあり方。特にカトリック教会などで、敬虔や信仰などの内実、またその伝統をいう」と書いてあります。
 Web上の フリー百科事典・ウィキペディア(Wikipedia)では、冒頭に、「スピリチュアリティ(Spirituality、霊性)とは、霊魂などの超自然的存在との見えないつながりを信じるまたは感じることに基づく、思想や実践の総称である」と書いてあって、そのあと、詳細な出典・記事が記されています。(言葉の定義に深入りするつもりはありませんが、キリスト者の霊性を云々するのに食い違いがあっては困るので、一応----) (とりあえずここまで)

(続き)吉田隆著「カルヴァンの神学と霊性」(新教出版社)には、「霊性とは、私自身の定義で言えば、『信仰のかたち』のことです。」(p11)と、平明に書いてあります
 仏経とキリスト教(その四)
 仏教か、キリスト教か。 これは、観点を幾つかきめて、比較することは出来ようが、「どちらが優れているか」優劣を決めるというわけにはいかないだろう。結論から言うと、「あれも、これも」ではなく、「あれか、これか」の選択の問題である。

 仏教の側から見て、「宗教とは、人間が修行などによって、ある高い境地に達する道である」というように観ずるならば、そこに達する方法が「難行道」であれ「易行道」であれ、同じ高嶺に達する多様な道筋として、ある程度肯定することもできよう。イエス・キリストの救いも、仏教でいう菩薩の業と見ることができるから、「仏教でもキリスト教でも、目指すところは同じ」ということになる。

 しかし、釈迦の説いた「原始仏教」あるいは「根本仏教」に立ち帰ると、人が悟りを開き、「涅槃」の境地に達するのは、世の中の現実とその法則性を見極め、正しい実践によって「迷い」を滅ぼし、究極の知恵(般若)を体得した境地に至るのである。この世に固定し、永続する実体はなく、現象を超越して支配するような主人公(神のようなもの)は無い。仏教の拠りどころは、法(真理)によって正しく調御された自己の理性だけである。

 ところが、キリスト教は、天地の造り主であり、あらゆる存在の根源である絶対者「主なる神」の存在を認め、このお方にのみ依り頼み、忠誠を尽くすことから始まる。「主なる神」は人間の思索による哲理ではなく、世界の歴史・出来事を通して啓示された事実であり、具体的には「聖書」という特別啓示を規範とする教えである。 したがって、仏教の「涅槃への道」と、キリスト教の信仰は根本的に違うものである。

 仏教とキリスト教は、「私はどちらを選ぶか?」によって決まる信仰の道である。(今日は、ここまで、続きはまた・・)
http://www2u.biglobe.ne.jp/~matudo/reference1/buddhism.html(参照)

(続き)ここで、筆者の辿った道のりを、なるべく短く、乾いた言葉で記してみたい。
   「四つの遍歴」
1.中学生の頃、仏教の「般若波羅蜜多心経」のお話(解説)を聞いて、「これこそ、宗教も、自然科学も、人間の生き方も網羅した究極の原理ではなかろうか」と、ひどく感心した覚えがある。これこそ「宇宙原理」ともいうべきものであり、もし「神」というものがあるならば、このような「宇宙原理」を神格化した呼び方ではないだろうかと、一人合点していた。日常の嫌なことも(その頃は戦争中であったので何かと嫌なことが多かった)、やがて、修行?を積み重ねて「色即是空」の境地に近づく従って、闊達な生き方ができるのではないかと、ひそかに考えた。

2.やがて、戦争も敗色が濃くなり、学徒動員などで、生活も拘束され、敗戦前4-5か月は軍隊に召集されて、敵襲に脅かされ、味方の訓練?(軍隊経験者ならわかるであろう)が重なって、地獄の1丁目のような生活で、心身共に100%拘束された日々が続き、将来に生きる希望など考えられなくなった。このようになると、「修行を重ねて--」などとのんびりしたことはできない。「溺れる者は藁も掴む」の心境で、以前には軽蔑していた「他力本願」の親鸞の教えが念頭に浮かぶようになった。・・・このようにして、戦中戦後のひと時、親鸞の「浄土真宗」や「歎異抄」などにひとかたならず傾倒するようになった。

3.戦後、ふとした機会から、キリスト教(プロテスタント)の教会に出入りするようになり、「旧・新約聖書」に接するようになった。キリスト教は「勧善懲悪」を勧める道徳宗教ぐらいに考えていたが、そんな浅薄なものではない。とりわけショックだったのは、天地万物を支配し、「生殺与奪」の権を握る「主」といわれる恐るべき?(人格的な)神が存在することであった。これはとても「宇宙原理」などという抽象的なものではない。「できれば、そんなお方はいてほしくない」と思ったが、その存在を大前提に聖書は書かれている。躊躇の後、私は「このお方」に賭ける(変な言い方だが)ことにして入信した。旧・新約聖書の文脈から、「主」なる神の救いは、「イエス・キリスト」の十字架の贖罪の業によって成就されており、我々は何の功績にもよらず、「信仰のみ」によって義とされるのである。今まで「救いの恩恵性」は、浄土真宗の専売特許だと思っていたものが、キリスト教でより鮮明に、しかも架空の出来事ではなく歴史的な事実に基づくものとして示されている。しかも、これも浄土真宗の独壇場と思われた「悪人正機」も、新約聖書をよく読めば、ちゃんと記されているではないか。・・・

4.私が最初に洗礼を受けて入信した教会は、教理の上から分けると「アルミニウス主義」的な教会であった。勿論「信仰のみによる救い」が説かれるが、個人の自由意思の強調や、「完全聖化」の教えなどに、私としてはついていけないところがあり、またもや模索の結果、最終的に「カルヴィン主義」の教理によって立っている「改革派教会」に導かれて40年余、ここを竟の住み家と決めるに至っている。「アルミニウス主義」と「カルヴィン主義」の比較や、カルヴァンの「予定論」などに対する私なりの納得については、またいずれ・・・


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