矢沢 頼綱 永正一五(1518)年〜慶長二(1597)年
武将列伝
真田幸隆の弟にあたる。頼綱の頼の字は武田勝頼から賜ったらしい。常に兄であった真田幸隆の傍にあり、甲斐武田家の信濃先方衆として前線にいた。兄の死、そして真田家嫡流の真田信綱、昌輝が相次いで討ち死に後は、真田姓に復帰した昌幸を援助する。主に上州方面の参戦して名胡桃城や沼田城を陥れる。そして天正八(1580)年には沼田城代として入城。天正一三(1585)年には、沼田城へ攻め入って来た北条勢を打ち破っている。


山内 一豊 天文一五(1546)年〜慶長一〇(1605)年
武将列伝
尾張織田家に仕えていた、山内某の二男。はじめ織田信長に仕えていた。金ヶ崎など幾度か合戦に出陣するが、大きな手柄には恵まれなかった。その後、羽柴秀吉が長浜へ移る際に、秀吉の与力として四〇〇石で仕える。織田信長が本能寺で横死後、天正一三(1586)年には長浜城主となる。小田原の陣にて北条氏が滅亡し、関東へ徳川家康が移ると遠州掛川城主として、五万石を秀吉より賜る。豊臣秀吉の死後に起きた、関ヶ原の合戦では徳川家康に従う。小山会議では真っ先に自らの城を徳川家康に献上することで、家康に表裏無き忠誠を尽くした。これが功を奏し関ヶ原の合戦後には土佐一国二〇万石の大名となった。また一豊とその妻である千代との間には数々のエピソードが残されている。その一つに千代が密かに貯めていた金で、夫である一豊のために、駿馬を購入した話などは代表的ではあるが、真実かどうかは定かではない。
関連小説
巧妙が辻   □一豊の妻 
関連史跡



山内 康豊 天文一八(1549)年〜寛永二(1625)年
武将列伝
山内一豊の実弟。父が織田信長に攻められ自刃を遂げると,康豊は美濃の牧村家に身を寄せた。兄の一豊が父の敵である信長に仕えた後も,それを良しとせずに稲葉良通に仕える。天正一二(1585)年に兄一豊が長浜五千石の領主となると,馳せ参じてて山内家に仕える。慶長五(1600)年の関ヶ原合戦後,山内一豊が土佐一国を褒美として与えられると,康豊は主君に先立ち土佐に入国。そして土豪を押さえつけ地均しをし,中村二万石を与えられた。嫡男の忠義は兄一豊の養子となる。一豊が没した後,慶長十(1600)年に山内家の家督を継ぎ,土佐藩二代藩主となった。


山県 昌景 ????〜天正三(1575)年
武将列伝
飯富三郎兵衛尉。武田信玄の近従であり使番であった。永禄八(1565)年、兄である飯富虎昌が加わり、武田義信を武田家当主に据える計画を持っている事を知り、それを主君であった武田信玄に密告したと言われている。それに伴い兄の飯富虎昌は自刃。武田信玄は昌景の心に報いてか、長く家名が途絶えていた山県姓を継がせた。またこの時から兄の赤備えを引き継ぎ、山県隊の軍装も朱色で統一された。余談ではあるが武田家滅亡後、山県軍の残党を徳川家の井伊家が召し抱え「井伊の赤備え」となる。三増峠の合戦では北条軍の側面から攻撃を敢行し、味方の勝利に貢献した。元亀三(1573)年の三方原の合戦では、敵大将の徳川家康本隊に突撃を敢行する。天正元年、武田信玄は臨終間際に昌景を枕元へ呼び寄せ、後事を託したと言われている。天正三(1575)年、武田勝頼に従い長篠城攻めに出陣。設楽が原において織田・徳川連合軍と対峙する。撤退する事を勝頼に進言するが受け入れられず。昌景率いる山県隊は小笠原、跡部隊等と共に突撃を敢行。昌景は采配を手に持ちながら、無数の銃弾を体に受け討ち死にした。


山本 晴幸 ????〜永禄四(1561)年
武将列伝
勘助または号道鬼。第四次川中島の合戦にて、啄木鳥戦法なる戦術を、武田信玄に進言したと言われている人物である。その真意はさておき、とにかく謎の多い人物である。その存在すら近年になるまで、怪しいモノであった。しかしある書状に名前が記されていたことにより、実在の人物である事は間違いないようである。武田家に仕えるまでは、どこで何をしていたのかは全く不明である。三河牛窪の出身であるとか、全国を放浪して軍学を学んでいたなど、様々な説がある。前歴は兎も角として、天文一二年に武田家重臣の板垣信方の推挙でもって、甲斐武田家に仕える様になった。その後はその才を発揮し、ある時は築城の名手として、またある時は軍師として活躍したちと言われる。永禄四年の信州川中島の合戦にて、戦死したと今の世に伝えられている。
関連小説
関連史跡


横田 高松 ????〜????
武将列伝
武田信虎,信玄の二代に仕えた甲斐の武将。はじめ甘利虎泰の隊に配属された。信州佐久の志賀城攻めの際に活躍をしている。また武田軍が総崩れをした上田原の合戦においては,主将格の甘利虎泰が討たれる。その弔い合戦となる砥石城攻めでも武田軍は総崩れとなり,その時に殿軍(しんがり)として高松が配された。その際に高松は討ち死にをしたと伝えれている。ちなみに高松の子孫は江戸時代に旗本となった。