海津城

■海津城散策

もしかしたら生まれて初めて訪れたお城跡が、この海津城であったのかもしれない。という個人的な事はともかく、ここへ訪れたのは真田町へ行った際に、松代までなら車を用いれば地蔵峠(県道35号線)を越えて行けばすぐに着くだろうと思ったからでした。はじめから行く計画だったわけでは無いので予備知識なく訪問させてもらいました。

(海津城とここでは言っておりますが、松代城と言う方が通りが良いかもしれません。ちなみに築城当初は海津城であり、松代城という名称へは江戸の正徳年間に改められたそうです。)

本来ならば上信越自動車道の長野ICから行くのでしょうが、先に述べた様に真田町から地蔵峠を越えての道なりでした。真田方面からやってくると松代側では急勾配でカーブが連続であり、名前の通り峠道です。ちなみにこの通りは真田信之が上田から松代へ移封された後、沼田との連絡道路だったと言われている道(現在の峠道は新道ですが)です。

さて海津城へは松代駅前にでれば標識も出ていたので迷わず行けました。また、その道すがら真田宝物館や旧真田邸もあります。 復元された門と橋

海津城は長野電鉄の踏切を越えた先にありますが、駐車場はその手前に大きく取ってありますので、そこに駐車する事ができます。ちなみに現在(平成十五年五月)の海津城はまだ一部が改装中の様で、城の周りには工事の最中である事を指し示す立て看板が立っていました。 その海津城を見てまず気が付くのが、城門が復元されている事です。さらに石垣が綺麗に整えて積んである所に目が行きます。そして堀で周りが囲まれており、その一部にはすでに水が入っておりました。むか〜し訪れた雰囲気は全然無く、別の城に来た感じがしました(単に記憶が薄れているだけか?)。

とりあえずは行ける所を散策する事に。堀を左手に見ながら進んで行くと、堀をまたいで橋が架けられておりそこから本丸内に入ることができました。工事が終了した暁には、周りの全ての堀の全てに水が注入されるのでしょう。さて本丸の中に入ってもやはり一部は工事中の様で、城の案内板にもビニール袋がかぶせられたままです。一部の石垣の上には上れる様になっており、妻女山をはじめとして松代周辺を眺める事ができます。また城の北側は一目見て工事中と分かる様相です。それは完成後のお楽しみといった所でしょうか。

この城は永禄四(1561)年の川中島合戦当時は、高坂弾正昌信が城主でした。ちなみに永禄年間当時は石垣では無くて土塁であったという事です。それはさておき、敵将の上杉謙信(当時は政虎)は一万ほどの兵を率いて、目の前の妻女山に陣取っていたわけですが、石垣に登って眺めると本当に目と鼻の先といった感じです。敵の兵数に比べて城兵はかなり少なかったと思われます。当時の状況を思い浮かべると、この至近距離に敵が存在していては、武田信玄が甲府からやってくるまでの間は、かなりの驚異を感じていた事でしょう。

復元完了後の2005年「海津城」

 
■海津城小史

甲斐の武田信玄が,越後の上杉謙信の押さえとして,山本勘助に命じて縄張りをさせた城である。城代として高坂昌信を配し,永禄四(1561)年の川中島の合戦に際しては,武田軍の本拠地となった。武田家滅亡後は織田領となり森忠政が城主となり,また本能寺の変後は上杉領となった。豊臣時代,徳川時代初期は城主は転々とし,元和八(1622)年に上田の真田伸幸が配置換えで,松代城主となる。真田一〇万石の基礎となった。真田家は外様でありながらも,明治維新まで家名を松代の地に存続させた。ちなみに松代という名に改めたのは真田幸道の頃と言われている。
 
■情報

別 名 :松代城
所在地 :長野県長野市
築城年 :永禄三(1561)年
関連武将:山本勘助,高坂昌信,真田伸幸
アクセス:長野自動車道松代ICより10分
    :長野電鉄松代駅徒歩15分