※お願い:リンク先から戻るときは、ブラウザの「戻る」ボタンをクリックして下さい。 彫塑・彫刻など文化活動に貢献。父は善次郎。 平成11年文化財保護・教育文化の向上で鹿角市文化功労者。花輪。 平成17年民生の安定・社会福祉の向上で鹿角市一般表彰。花輪。 仙台藩の医家。「平泉雑記」東鑑訓点の項で「希婦ヲキフト訓ゼリ。是モ南部領鹿角郡 狭布ノ事ナルベシ、ケフト訓ず、古歌ニ詠ル細布ノ名所地」と。 @初代青山庄左衛門昌長の長子市之助は、慶長18年(1613)南部(北)重左衛門に 随って大坂城に入り、豊臣秀頼方となって働き、後佐竹家に仕え、その子孫は桧山に住した。 A宝暦9年(1759)7月尾去沢御銅山山先を命ぜられて尾去沢に移った六代青山金右衛門 昌周は幼名市之助、尾張屋五郎七(一書に伊右衛門)家から入り、尾張屋は白根吹屋 として栄え、その後花輪へ移った。 昭和51年鹿角市文化功労者。 鹿友会員。尾去沢の人。大正四年没。 白根山先青山金右衛門は、宝暦9年(1759)7月24日尾去沢銅山御山先を仰せ付けられた。 鉱山家、古河銅山王国元勲たる。 満鮮鉄業の技師長など。 足尾銅山興隆の基礎を築いた。 白根金山慶長三年発見は、白根の見立人であり、金山山先であった青山庄左衛門である。 後青山家は、尾去沢鉱山田郡へ移住。 正保三年(1646)家督を継ぎ、延宝五年(1677)70歳で没。 足尾銅山興隆の基礎を築いた。 平成11年地方自治の振興で鹿角市功労者。 商法に巧に、晩年に至り富巨万を重ぬ。 「伊寺水門(いしなと)」を特定。 鹿友会員。錦木。 鹿友会賛成員青山熊次郎氏の息。文豪の未成品。大正四年十月病没。 鹿友会員。 昭和52年地方自治の振興で鹿角市功労者。 北海道に曾て硫黄山王と称せられたる。 海軍大佐、水雷母艦熊野丸艦長など歴任。 歌集「秋燕」。「花輪小学校校歌」作詩者。 南部・安東の 永禄合戦 (永禄9〜11年(1566〜1568))のときの秋田藩主。 永禄一〇年(1567)濁川に本地観音摺野大明神を建立(本願人秋元左馬介) − 鹿角のあゆみ。 鹿角市役所。「石にこめた縄文人の祈り:大湯環状列石」の著者。 「上津野」研究発表バックナンバーNO.7。 ハリスト正教の洗礼を受く。郷土文化の発展につくした。 鹿角一の剣士。 鉱業家、中日興業社主。 平成15年交通安全の推進・社会福祉の向上で鹿角市一般表彰。 平成9年産業経済の振興・公益で鹿角市功労者。花輪字八正寺。 平成11年武道の振興・商工業の振興で鹿角市文化功労者。花輪。 平成9年社会福祉の向上・民生の安定で鹿角市一般表彰。花輪字合ノ野。 醤油醸造業の基礎を築いた、また花輪醤油をして今日の声価を得しめたる人。 浅利佐助商店。 女子マラソンで日本人初の世界チャンピオン、アトランタオリンピック代表。 平成20年地方自治の振興・教育文化の向上で鹿角市功労者。花輪在住。 平成5年学校教育・武道の振興で鹿角市文化功労者。十和田毛馬内字森崎。 永正一五年(1518)鹿角を占領す − 鹿角のあゆみ。 大湯出身。理学博士、化学分析学の世界的権威。小学校高等科卒の学歴だけで、 苦学力行のすえ、東京大学理学部助手に進み、昭和二十五年「ストロンチウムの 地球化学的分析について」の論文で博士号を得た。 伝説「芦名沢の観音さま」。 |