海軍大佐、水雷母艦熊野丸艦長など歴任。 参考(出典):「十和田町の先輩」
− 日本海軍育ての親 − 青山芳得は、明治二年三月十七日毛馬内に生まれた。父は正次郎、母はレキという。 毛馬内小学校は和井内貞行と同級であった。彼は始め同族の青山金弥を頼り、足尾銅山に勤めたが、 毛馬内の先輩石川伍一の勧告切なるものがあって上京し、苦学して明治十九年十月海軍兵学校に入学し、 卒業後任官して対馬水雷隊攻撃部付拝命、二十七、八年の日清役には、威海衛水雷攻撃に参加して偉勲を立てた。 明治三十三年九月、海軍兵学校水雷術教官となった。後の海軍大将となった永野元帥、米内総理、及川提督は当時の 兵学校の生徒であり、直接の教え子である。これらの人々から終生先生といわれたことは、一生涯の喜びであった。 無線電信の初期研究に鳥潟博士らと従事したのもこの時代である。 日露役の当時は、少佐として日本海戦の主力部隊第十七艦隊司令として活躍し、東郷連合艦隊司令長官から感状を 授けられ、功四級金鵄勲章を賜わった。大正元年海軍大佐に昇任、秋津洲艦長となり、翌年待命となった。 退役後は、同期生の秋山真之(少将)と共同して孫文一派の第一回革命を援助したこともある。 また在京中は、鹿友会の父として若い学生を育み感謝された。また文芸に趣味をもち作詞に進境を見せ梧堂と号し、 内藤湖南、川村亜洲らと交友が深かった。さらに盆栽には特技を有し、鉢植などを知人に贈って喜ばれた。 古稀の際は米内、及川両提督の主催で水交社に夫妻が招かれ祝宴に参列したのは、終生の思い出となった。 昭和十七年九月十一日持病に肝臓ガンが併発して没した。川村竹治がその死を聞いて「君にして待命を余儀なく された持病の胆石病がなかったならば、海軍の大先輩としてまだまだ昇進する人であったのに、惜まれてならない」 と述懐されている。
※お願い:リンク先から戻るときは、ブラウザの「戻る」ボタンをクリックして下さい。 |