GLN「鹿角の温故知新への旅・鹿角先人列伝一覧」

永禄合戦

参考(引用): 「戦国期の東北」
 
 永禄5年に安東愛季は浅利則祐を自刃させ、出羽比内地方が安東愛季の勢力下に入った。安東愛季は隣接する陸奥鹿角郡の完全支配を目論み、鹿角郡内の大里・花輪・柴内氏らに廻状を回し、南部氏の勢力下にある鹿角郡討ち入りの体勢を固めた。
 永禄8年頃から数年間、北奥はまれにみる凶作で人心は落ち着かなかった。長牛地方は米作地帯で、この地帯の生産力は貴重だった。そのため、南部方は長牛城を中心に夜明島川を挟んで、三ヶ田・石鳥谷・長内・谷内などの諸城を配置していた。
 永禄9年8月、安東愛季は比内の浅利残党・阿仁地方の嘉成一族を主力とした五千の兵を遣わし、大館から犀川峡谷を経て巻山峠を越えて、この地方に侵入、郡内の長牛・石鳥谷城を、柴内勢は北から長嶺・谷内城に攻めかかるという南北からの挟撃作戦を採った。この急報に驚いた南部晴政は、岩手侍の田頭・松尾・沼宮内・一方井の諸勢を鹿角に送ったが、狭隘な山道で進軍も思うに任せない。石鳥谷城・長嶺城などは安東勢の猛攻にたまらず落城、南部勢は主城の長牛城に立て籠もって防戦に務め、早い降雪に助けられ越年することができた。
 翌10年2月、雪をおかして安東勢は安東愛季自ら六千の兵で長牛城に襲いかかり、城主一戸友義以下城外で戦ったが、友義の叔父南部弥九郎までが討ち死にするほどの激戦で、相次ぐ苦戦に南部晴政は一族の重臣北・南・東ら諸勢を救援に繰り出したが、これを知った安東愛季は素早く兵を引いたので、長牛城は落城を免れた。
 しかし、この年の10月、安東愛季はまず谷内城を難なく落とし、ついで長牛城を襲い、城兵は一方的に攻め立てられ、長牛城は全滅に近い形で落城し、城主の一戸友義は辛うじて三戸に逃れた。こうして、南部氏は鹿角郡を失った。
 翌11年3月、南部晴政は世子南部信直とともに来満峠越えで大湯に着陣、九戸政実勢は保呂辺道経由で三ヶ田城に入った。この南部勢の作戦も南北からの挟撃だった。南部一族の総力をあげての決戦態勢に、鹿角郡の諸侍たちは南部方に降伏し、安東方の主力大里備中は郡外へ逃れ、鹿角郡はまた南部の手に戻った。
 しかし、鹿角・比内で境を接した南部・安東両氏の対立はこののち天正末年、豊臣秀吉の天下統一まで続く。
 
 合戦地所在:秋田県鹿角市 長牛付近

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