GLN「鹿角の温故知新への旅・鹿角先人列伝一覧」

浅沼郷左エ門:淺沼郷左エ門・淺沼安慶・浅沼安慶

 鹿角一の剣士。

参考(出典):「十和田町の先輩」
 
 鹿角一の剣士
 浅沼郷左エ門(ごうざえもん)は諱(いみな)は安慶、尾去沢銅山の川口与右エ門の次男で毛馬内浅沼郷左エ門の 養子となった人で、養父が没してからその名をうけついだ。少壮の時から武芸を好んだが、たまたま 武術の達人西田猪助という人が銅山にいたので、郷左エ門はこの人について山口流の剣道を修め、 かねて民谷流居合、桜田流鎌術、同流十手術、不変流柔術を学んだ。その技術が大いに進み、 免許皆伝となったので、家に帰って子弟を教導した。この山口流の剣道は、鹿角郡の中核をなすもので あるが、慶長のころ、当時加賀国大聖寺(だいしょうじ)城主だった山口玄蕃頭(げんばのかみ)は 武芸百般に長じ、とくに剣道は天才的で日夜鍛錬を重ね、ついに一派を編み出したのが山口流だと いわれている。その八代目に当たる西田猪助が、文化年間武者修業のついで、銅山見学がてら尾去沢に 立ちより、山相家川口与右エ門と肝胆あい照らす仲となり、しばらく滞留した。
 
 郷左エ門は自分の生家に剣道の達人がいるということを聞いたので、その友人で力量が伯仲の 間柄である勝又善左エ門と二人で尾去沢に出かけ、西田猪助の門に入り、数年間腕をみがいた。 やがて二人は奥義皆伝の免許をうけ、それぞれ毛馬内で門弟を養成するようになった。浅沼は主として 毛馬内館主桜庭氏の家中に教え、一方勝又は主として給人などに教えた。勝又はその後花輪の関右平太に 流派を譲った。
 
 嘉永年間にアメリカ船が出没するや攘夷論などやかましくなり、南部藩でも大いに文武を奨励する 時代となったので、浅沼道場でも門人が数百人にも及んだ。そのうち頭角をあらわした者は、近内一人、 井上新十郎、内藤金七、米沢直之助、田中茂八郎らがいる。一方東軍流が山本九一郎道場に開かれ、 共に毛馬内剣道の基礎となった。浅沼は文久二年八月十四日病のため没した。

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