ハリスト正教の洗礼を受く。郷土文化の発展につくした。 参考(出典):「十和田町の先輩」
− 俳匠で郷土史研究者 − 小魚、浅井末吉は明治八年、大湯丁内瀬川家に生まれ、長じて浅井家に養子となった。 幼児から学問を好み、青年となるに及んで、熱心なキリスト教信者となり、布教活動もした。 その後、生業である鋸鍛冶のかたわら、河東碧梧桐に師事し、俳句の創作に精魂を傾け、生涯約五万の 句を作った。その間、俳句をホトトギスを初め、俳星、海紅などに投稿し、秋田の大湯に小魚ありと、 地元よりも中央でその名が知られるようになった。 こうして俳句で有名になった小魚のところには明治四十年代から、大正の初めにかけて碧梧桐をはじめ、 露月、井泉水、和風、桂月など著名人が訪ねて、俳句や文学について論談を交えたと言われている。中でも、 露月は明治四十年八月小魚を訪ね、 相逢うて 相語る 林檎紅に の句を小魚庵で作ったと言われている。 小魚はこうして、俳句を作りつつ、蘚会(蘇会か)、凍雲会(東雲会か)などを組織して指導者となり、 俳句を地方にまで広めようとした。 その後、現在の文部省指定特別史跡として有名な大湯環状列石の発見者となり、大湯郷土研究会(会長諏訪富多氏)を 組織し、自らその主査として、遺跡の発掘、調査、保存にあたった。 晩年の小魚は、鹿角全域にわたる郷土史料の蒐集と調査に当った。これは浅井史料として高く評価され、秋田県史をはじめ、 幾多の郷土史に貴重な文献として引用されている。 また、俳画や、スケッチに優れ、同好者に分けたり、大湯郷土人形を作って観光土産品として売りだしたこともあった。 小魚は、田園詩人として俳句を作り、郷土愛から遺跡の発見や、郷土史料の探査、さらには俳画、彫刻などに幾多の優れた 業績を残して、昭和二十二年九月、この世を去った。 秋立つや 大樹の梢 おのづから の句碑が、大円寺門杉前に建てられてある。
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