鹿角の近代人物伝
 
…… 郷土文化の発展につくした ……
△浅井末吉(小魚)   明治八年(1875)〜昭和二十二年(1947)
 浅井末吉は、その生涯において五万余に及ぶ俳句を残し、また多くの郷土史資料収集 と遺跡発掘調査をなしとげ、鹿角の文化に偉大な足跡を残している。小魚は、その号で ある。
 末吉は明治八年、大湯の瀬川家に生まれ、長じて浅井家の養子となった。幼少のころ から学問を好み、大湯小学校に進んでからは、大湯におけるキリスト教の先覚、千葉佐 惣治の訓陶を受けた。後年そのもとで研さんを重ね、熱心なキリスト教徒となり、布教 にも従事している。
 
 また小魚は、河東碧梧桐ヘキゴドウに師事し、句作に精魂をかたむけた。作句は俳誌ホト トギスを初め、俳星、海紅に投句し、中央俳壇からも、秋田大湯に小魚あり、と高い評価 を受けている。
 明治四十年から大正にかけ、碧梧桐、石井路月ロゲツ、萩原井泉水セイセンスイ、安東和風ワフウ 、大町桂月ケイゲツなど著名な俳人文人が大湯を訪れ、小魚と清談を交わしている。明治四 十年石井路月は、紅い林檎のたわわな小魚庵を訪ね、「相逢うて、相語る、林檎紅に」 の名句を残している。小魚はさらに、蘇アザミ会、東雲シノノメ会など句会を組織して後輩の 指導にも当たっている。
 
 小魚は、またれに見る鋸鍛冶の名工であったというが、鍛冶業は生活を支えるだけに とどめ、余暇はあげて郷土史の研究に没頭した。昭和七年、中通耕地整理の際に出土し た史跡群の重要性に着目し、諏訪富多氏を会長に、大湯郷土研究会を結成し、自らその 主査となって、遺跡の保存顕彰に力を注いだ。この施設こそ特別史跡大湯環状列石で、 その発掘保存は、小魚の研究と先見性に負うところが大である。
 
 晩年は、もっぱら郷土関係史料の収集研究に当たり、一月にわたって盛岡の南部家の庫 に籠ったのは、人も知るところである。小魚がまとめた「白根談叢シラネダンソウ」などの史 料は、多くの歴史書に引用されている。さらに俳画やスケッチにも優れ、郷土人形を作 って、観光土産品開発にも力を注いだ。
 同二十二年九月、郷土愛に徹した小魚は、七十二歳の生涯を閉じた。「秋立つや大樹 の梢おのづから」の句碑が大円寺に建てられている。
小魚句碑
句碑のある「大円寺」

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