鹿角の近代人物伝
 
…… (秋田)県教育界の重鎮 ……
△豊口鋭太郎   明治六年年(1873)〜昭和二十七年(1952)
 昭和十二年八月、東京で第七回世界教育会議が開催された。この会議が成功したのは 、その企画運営に当たった市川房江(後参議院議員)や豊口鋭太郎に負うところが大き かったといわれている。
 
 鋭太郎は明治六年十一月、豊口木曽弥キソヤの長男として毛馬内上町に生まれた。この年 の六月、毛馬内に二百余軒を焼きつくす大火があり、鋭太郎は焼け残った古材の小屋で 産声をあげたのである。少年時代から頭脳明晰の誉が高く、二十八年秋田尋常師範学校 を優秀な成績で卒業した。さらに向学心に燃えて東京英語学校に学び、また伊沢修二に ついて国語学、発音学を修めている。後年の進歩的な教育思想は、青年時代の学問によ って形づくられたものである。
 
 同三十二年、二十七歳の若さで大湯小学校に抜てきされ、ついで母校毛馬内小学校長 となった。四十三年、発足して日の浅い秋田の明徳附属小学校首席訓導となり、県教育 推進に当たった。大正二年旭南小学校を経て、横手、大曲小学校を県下一の名門校に育 てあげた。昭和五年の定年退職後は、日赤秋田支部主事に就任し、愛国婦人会主事をか ね、多くの難問題を解決して、その再建につくしている。十二年秋田県教育会長に選任 され、帝国教育界理事も兼務している。世界教育会議で活躍し、またヘレン・ケラーを秋 田に招いたのはこの時である。
 
 鋭太郎は鹿角出身者では、出色のスケールの大きい教育者であった。余技の囲碁は、 佐々木幸助六段の高弟として五段格といわれ、蓮池秋田県知事とは夜を徹して碁を楽し む中で、談笑のうちに県教育界の諸問題を解決したという。また、現在県立図書館や弥 高イヤタカ神社に保管されている平田篤胤の資料は、鋭太郎と大湯の諏訪富多の尽力に よって保存されたものである。
 
 同二十二年脳溢血で毛馬内にもどったが、闘病生活にあっても、いつも数冊の新刊書 を手にしていた。二十七年九月病が進み、八十年の生涯を閉じたが、机上には愛読して いた蘇東坡ソトウバの詩「脚力尽きる時山更に好し」が置かれていたということである。

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