鹿角の近代人物伝
 
…… 鹿角の観光に新時代を築いた ……
△関直右衛門   明治六年(1873)〜昭和十八年(1943)
 明治から昭和にかけて鹿角の観光に新しい時代をもたらし、また造材業者として北海 道から満州にかけて活躍したのが、関直右衛門である。
 氏は明治六年九月五日、四代直右衛門の二男として湯瀬に生まれた。はじめ鶴蔵とい ったが、大正六年一月、先代没後に襲名して直右衛門と改めた。
 
 幼少のころ、関家は苦難の連続だつた。父親は木材の流送を家業としていたが、米代 川の洪水で材木をたびたび流出し、また七年で三回も火事に見舞われ、直右衛門が七歳 の時には、全財産を処分しなければならなかった。湯治宿でもあった母屋と家財だけは 、遠親類の小浜屋に確保してもらった。
 鹿角一のハタゴ屋にしたかったという母の願いや、父が債権者にわびる姿を見て、少 年鶴蔵はいつの日にか関家を再興して見せるぞと心に誓った。
 
 鶴蔵が苦楽を共にした友人阿部和三郎と北海道に渡ったのは、明治三十四年四月、二 十九歳の時である。当初は釧路の軍馬補充部で土木工事請負をやったが、軍の下げ金五 千円を持ち逃げされ、函館の姪の家に身を寄せなければならなかった。沈淪チンリン一年後 の三十六年、三井の天塩小樽木材の造材を請負った。この時青森、秋田、岩手から多数 の山子ヤマゴを募集し、羊蹄山麓において最初の造材事業を開始した。四十二年王子製紙 と造材契約を結び、ついで四十五年同苫小牧工場、三井物産小樽支店、さらに夕張工場 の造材も請負うに及んで、業界に不動の地位を確保した。その後樺太、沿海州にも侵出 したが、数百万石の木材払い下げをめぐって、政財界にも累を及ぼしかねない大誤伐事 件が起こり、盟友和三郎は全責任をとり失踪した。氏は手をつくして探す一方、その長 子栄治も中々の人材で、関木材の重要に役割を果たしたということである。
 
 氏は木材業のほか、鵡川村千四百町歩の開墾と農民への解放も行っている。晩年に郷 里湯瀬に戻った後は、ホテル建設、玉川温泉や道路の開発をなしとげ、公益事業への寄 進など、その功績は枚挙にいとまがない。また推されて宮川村村長となり、その在任中 脳梗塞に倒れ、昭和十八年九月、苦闘の生涯を閉じた。享年七十一歳である。

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