鹿角の近代人物伝
 
…… 「鹿角方言考」の著者 ……
△大里武八郎   明治五年(1872)〜昭和四十七年(1972)
 昭和四十二年、花輪町議会は大里武八郎を、名誉町民第一号とすることを満場一致で決定 した。
 
 武八郎は明治五年一月九日、大里寿(初代花輪町長)の八男として花輪盆坂に生まれ た。幼少のころから俊才の誉が高く、創立されて間もない花輪学校に入学、同校の代表 として隣村尾去沢の又新ユイシン学校の首席と成績を競った。しかし、又新学校には内藤虎 次郎という秀才がいたため、いつも僅かの差で敗れていた。これが少年武八郎と、後の 東洋史学の権威内藤湖南との出合いである。後に武八郎が上京、一高を経て東大に入り 、また、鹿友会 ロクユウカイの幹事として郷土出身者の援助激励に当たるに及び、さらに湖 南の学識に接し感激し、終生代わらず湖南を兄事したということである。
 
 同三十三年東大の法学部を卒業した武八郎は、新進の法学士として引く手あまたであ ったが、「私は郷里からの仕送りがあるから」と言って、就職先に片端から友人に譲り 、皆を感激させたということである。
 
 武八郎は後に台湾に渡り、累進して高等法院(今の高等裁判所にあたる)院長となっ た。
 官を辞して花輪に戻ってからは、高齢にもかかわらず「影響庵」と名付けた書斎にこ もり、言語学の研究に没頭した。そして昭和二十八年、花輪を中心とする方言の意味・語 源等を調べて『鹿角方言考』を世に送った。日本民俗学の第一人者柳田国男はこれを高 く評価し、全国には方言に関し、千種に及ぶ類書があるが、学術的にも最も優れたもの である、との賛辞を贈った。
 
 武八郎は高官を勤め、また、すぐれた学者でありながら、極めて謙虚な人柄であった 。同四十七年三月二十四日、多くの人々の哀惜のうちに百歳の生涯を閉じた。
 現在、直系の子孫は東京に在住しており、また、大里病院の先々代院長の故文五郎は 、武八郎の実兄である。
「鹿角の民俗考」

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