宣誓10

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宣誓 I'll swear royalty and love to him.

10.





夜ごとにその身を細らせる月は、まるで日の光に恋煩う者のようだ。日増しに細くなっていった月が、遂に夜空にやつれたその身を恥じ入るように隠して、次の新月になった。


暗い夜の森の空気は肌寒いほど涼しく、清々しくきよらかに澄んでいる。汗ばんだ肌が心地よく冷やされるのを感じながら、彼は甘い緑の匂いを胸に吸い込んだ。足元を流れるせせらぎもまた、彼の思った通り澄んでいる。手元の明かりをかざすと暗闇の中から浮かび上がった小さな水の流れは、水面に顔を出した岩にぶつかってはところどころ複雑な水流を描きながら、早瀬となりまた一つの飛沫となって流れていく。
「へへっ、やっぱりあったぞ」
自分の予想が当たった事に胸を張り、カカロットは屈みこんでその水を両手にすくって鼻先に近づけ、匂いを嗅いだ。冷たく澄んだ水の匂いだ。鉱物の匂いはほとんど無い。続いてそれを口に運び、軽く含んで舌先でそれを味わった。始めにうす甘い味を感じ、次に何の味もしなくなった。天然でろ過された、清らかな水だという証拠だ。これなら飲み水として申し分無いだろう。
カカロットは手にしていた水筒の蓋を外し、清水で中身をいっぱいに満たした。再びしっかりと蓋を締め、水筒を小脇に抱えながら元来た道を急いで引き返し始める。早くこれをベジータの所に持っていってやろう。


その日のベジータは、どうも調子が悪そうだった。手合わせをしてもいつもの技の切れがさっぱり見られない。いつもならどこから拳を打ちこんでも鮮やかにそれをかわし、逆につむじ風のようにこちらの懐に切り込んでくるのに、今日は避け方にあまりにも余裕が無い。防戦一方といった感じだ。一度などこちらが仕掛けた足払いに見事にかかって大きくよろめいていた。流石に無様に転ぶような真似はせず、すかさず片手を地面について体勢を立て直していたが、いつもの彼ならあり得ない事だ。
『ーーベジータ、ちょっとストップだ』
『どうしたカカロット、もうバテやがったか?!』
凄んでみせる声にもいつもの迫力は全く無い。組み手を始めて間が無いというのに既に息も上がっている。その顔を見れば、見開いた瞳は赤く充血していて、目の下にははっきりと隈が出ている。



「ベジータ、おめえ何か調子悪そうだな。ちょっと休めよ」
「休めだと?!貴様、誰に向かって言ってやがる!この俺様がこの程度で疲れる訳が…」
案の定気遣われる事に対して腹を立てるベジータをよそに、カカロットは顔を彼から背けて何か遠くを伺うような顔をする。
「いいからいいから。…なあおめえ、喉乾いてねえ?オラ水持ってくるからさ、ここで座って待っててくれよ」
「水…だと…そんなものが一体どこに…」
「近くに川があるみたいなんだ、そっから持ってきてやるよ」
はあはあと顎で息をしながら、ベジータは少し怪訝そうな顔をする。この森林地帯の地図はかなり前に見たきりだ。川があったかどうかなど思い出せない。カカロットは相変わらず見当違いの方向に顔を向けたままだ。その目が見据える先は、うっそうと暗い夜の森が広がっている。
「川…?…貴様何でそんな事を知っている?」
ベジータの言葉に、今度は逆にカカロットが怪訝そうな顔をする。
「いや知らねえけどさ、分かるんだ。あれ?ベジータは何も感じねえの?」
「感じる?何をだ」
「何ってえーっと…ま、いっか。とにかくオラが行ってくるからちょっと待ってろよ」
どこからともなく吹いてくる風が湿り気をはらんでいる事が、頬に触れると良く分かった。耳を澄ませば、風の音と木々の葉擦れに交じって微かな川のせせらぎの音が聞こえる。深く息を吸い込むと鼻腔から伝わる匂いでその水が清く澄んでいる事も感じられる。カカロットの五感は、この頃ますます鋭くなってきている。



汗を拭いた布を地面に落としながら、カカロットが手を振る。
「じゃあな、ベジータ、すぐ戻ってくっからな!」「おいカカロット待て…!」
ベジータが声をかけ終わる前に、彼は暗い森へと飛び込んでいき、たちまちその後ろ姿は闇にまぎれて見えなくなってしまった。一人残されたベジータは、始めは所在無さげに立ちすくんでいたが、そのうち仕方なく地面に腰を下ろした。
この頃ずっと眠ってなかったからなーー
いつも目印にしている大木に背をもたれさせて腕を組む。調子が悪そうだ、と指摘してきたカカロットの言葉は実際当たっている。彼はここしばらくろくに眠れない日が続いていた。
月を見ては溜息が洩れ、眠ろうとすれば様々な思いが浮かんできて、目が冴えて眠ることができない。そんな状態が何日も続いていた為に、さすがの彼もすっかりまいってしまっていた。本来の状態からすると信じられないほど力が弱まっていたが、持ち前のプライドからできるだけそれを相手に悟られないようにと意識していたつもりだった。しかしどうやらそれは無駄だったらしい。あの鈍いカカロットに気取られるようでは、自分の疲れた様子は相当なものなのだろう。


…けれど原因はそれだけじゃない。ベジータは再び我知らず溜息が洩れるのを感じた。
少なくとも自分の平常のふりをした演技は城を抜け出すまでは完璧だったはずだ。それなのに、カカロットの姿を目にした瞬間、自分の中で何かが崩れてしまった。膝の力が抜けてしまい、体勢を保とうとしてもそれが出来ない。頭もぼんやりと霞んで反応が鈍り、正直組み手の時など相手の攻撃をかわすことで精一杯で、カカロットが止めるのがもう少し遅ければどんな無様な醜態をさらしていたか分かったものでは無い。ベジータはもう一度溜息をついた。
…ずっと会いたいと思っていた、あの温かい太陽のような笑顔を見て、気が緩んでしまった。もう今更、否定しようと思ってもできるものでは無い。自分はずっと会いたかった。会いたくてたまらなかったのだ、あの男、カカロットに。
離れれば泣き喚きたいほど苦しく、その姿を見ればひどく心地良く安堵を覚えた。そして今、再び自分は闇の中に一人きりだ。カカロットの戻りを待ちながら再び強い不安に駆られる。こんな事で、本当に大丈夫なんだろうか?……残り半年、自分は本当に決別できるのだろうか?
ーーあの野郎に二度と会わないなんて事、本当にできるんだろうか?



組んでいた腕を解き、片膝を胸に抱え込む。うつ向きながら所在無さげに辺りを見回すと、ふと地面に落ちた白いものが目に止まった。先ほどカカロットが投げ落とした、彼が汗を拭っていた布だ。
「………」
一瞬頭を過ぎった考えを、すぐさま頭を振って否定する。バカバカしい、何を考えているんだ俺は。
しかし自分の考えとは裏腹に、いつの間にか彼は手を伸ばして布にそっと触れていた。乾いた夜風に汗は渇き始めていて、指先に僅かに湿った布の感触が伝わった。触れていると先ほどまでの持ち主の体温が感じられるような気がして、少しずつ気持ちが落ち着いてくる。そのまま布をそろそろと自分の元へ手繰り寄せた。
照明を落とした程良い暗さと、涼しい森の夜風が心地良い。いつしかうとうとと瞼が重く降りてくる。何日も目が冴えてろくに眠れなかったはずなのに、ここではどうしてこんなにあっさりと眠気に見舞われるんだろう、そんな事を考える間にも頭はぼんやりと霞んでくる。掴んだ布を自分の元へ引き寄せる。さすがに『胸に抱きしめる』なんてマネは恥ずかしくて出来ないが、せめてこれくらいならと布に指先で触れながら、ベジータは地面に身を横たえていつの間にかうとうとと眠ってしまっていた。



それから半刻ほど経った後、カカロットが生い茂る木々の間を縫うように飛びながら戻ってくる。照明は落とされ彼の視界は殆ど真の闇にも関わらず、その体に枝がかする事はほとんど無い。遠くに目印の大木と、ベジータの手元の僅かな明かりを目に留めて、彼は飛ぶスピードを一層速くする。漸く木立の間を抜けて開けた空き地に身を躍らせて、彼はひらりと地に降り立った。
「悪ィベジータ、すっかり遅くなっちまった…あれ?」
ベジータの元に歩み寄ったカカロットが、その傍らに屈みこむ。彼は地面に身を横たえ、体を丸めて眠っていた。 


「おーいベジータ、水持って来てやったぞ?」
水筒を振って見せながら声を掛けたが、返事は無く彼はぴくりとも動かない。よほど深く寝入っているらしい。小さく開いた唇から、すうすうと静かな寝息が洩れている。
「ベジータ寝ちまったのか?しょーがねえなぁ、おいベジータ、こんなところで寝ちまうと風邪ひくぞ」
その肩を掴んでゆり起そうとして、眠るベジータが何かを胸にしっかりと抱きしめているのが目に留まった。
「あれ?これって…」カカロットは不思議そうに目を瞬いた。
――なぜか彼の胸には、先ほど自分が汗を拭くのに使った布が、しっかりと抱き込まれていた。



「?なあなあベジータ、なんでおめえがこれ持ってんだ?」
眠る彼に問いかけながら、身を乗り出してベジータの傍らに手を突く。すると地面の上に広げた自分の手と、白い手袋のはまった彼の手との対比が目に入った。
ーーちっせえ手だな
胸の上に重ねられたベジータの手は、驚くほど小さい。それとも自分の方が大きく育ってしまったのか。自分の手はいつの間にか彼の手をすっぽりと包んでしまえそうなほど大きくなっている。
「………」
ベジータの上に身を乗り出したまま、その寝顔をまじまじと見つめる。考えてみればこれまでの付き合いで、彼の寝顔を見た事など初めてかもしれない。いつも自分を睨みつけてくるきつい瞳が閉じられると、その寝顔は驚くほど無防備であどけない。顔立ちは初めて出会った頃にくらべて、やや目鼻立ちがはっきりとしてきてはいるものの、柔らかな頬のラインは相変わらず幼いままだ。そしてふわりと閉じられた唇はやはり小さくてーー


「……カカロット……」
思わず驚きに目を見開いた。その唇に目を奪われているときに、その唇が何事かを呟いているのが聞こえ、耳を澄ますと彼が自分の名を呼ぶのがはっきり聞こえたのだ。いつも彼が喜ぶ時にそうするように、ほんの僅かに口元をほころばせて。
その瞬間、ぞくりと背筋を感じた事の無い衝動が走り抜ける。それは体の奥底から湧き出てくる、何者かに心臓を掴まれたかの様な、強烈な衝動だった。それに突き動かされて、我知らず身を乗り出す。
「…なあ、ベジータ、起きてるか…?」
呼びかけても返事は無い。相変わらず、すうすうと穏やかな寝息を立てて眠っている。その頬にそっと指の腹を這わせた。わずかな呟きにも似た吐息のような声が彼の唇から洩れるが、瞳はしっかりと閉じられたままだ。このまま彼に起きてほしいような起きてほしくないような、自分でも良く分からない微妙な気持ちででじっとその顔を見ていた。そしてそっと唇を重ね合わせた。