消えない傷 6

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足をコンソール上に投げ出して後ろにもたれ、何も起こりそうにないモニタに目を向けていた男は、微かな空気音と共に開いた戸口に立つベジータの姿に気がついた。
「よう、ガキか。何だ眠れねえのか」
「……まあな……」
いつになくベジータの受け答えが歯切れの悪い事に、男の眉が僅かに動いた。ベジータは口ごもったように答えると、無言で男のそばに椅子を引き寄せて腰掛けて、ちらりと上目づかいに男の顔を盗み見る。ベジータの位置から見える男の浅黒い頬は何の傷も無い。精悍で近寄りがたく、それでいてどこか子供っぽく人好きのする横顔。しかし男の背後にある暗いモニタに映った反対側の頬は、相変わらず一面血で汚れた包帯で覆われ、一向に癒えた様子が無かった。
ベジータは再び俯いた。男のいつまでも消えない頬の傷と、先程目にした空っぽのタンクの映像が脳裏に甦る。どうして男の傷がいつまで経っても治らないのか。恐らくは……。更にベジータが俯きかけた時、目の前にことりと何かが置かれた。
「飲むか?」
顔を上げると、目の前に湯気の立つ飲み物を満たしたカップが置かれ、男が手にした瓶から何かを注ぎ入れていた。途端に甘く、微かに刺激的な香りが立ち上る。
「眠れねえ時はこれが一番だ。てめえは俺の飲みさしなんて不満だろうがな、我慢しろ」
そう言って男が瓶を振ると、中身の琥珀色の液体が揺れて刺激的な香りが一層強くなった。どうやら中身は酒らしい、ということはベジータにも分かった。
飲み物は淹れ立てらしく、とても熱くてふうふう冷ましつつ飲むと体が芯から温まった。
「旨いか?」
男の問いかけにベジータは無言でうなずき、暫く夢中で飲み物をすすった。酒を飲んだ事など無かったが、舌に感じる味は微かに苦く、とても甘かった。


カップを両手で抱えて持ち、夢中で飲み物をすするベジータを男は暫く黙って眺めていた後、再び口を開いた。
「明日、てめえを母艦まで送っていってやる」
途端に、ベジータの肩がぴたりと止まる。
「もうすっかり傷も良さそうだからな、いつまでもここにいる訳にはいかねえ。ここ数日天候も悪かったがどうやら明日回復するようだし、丁度良いだろ」
そう言って男が机上に触れると、一面に表れた大画面のモニタにはフリーザ軍の配置図が映し出された。点在する小型艇に囲まれるように、中央にひときわ大きな母艦の機影が色変えされて浮かんでいる。
「……分かった……」
ベジータは一言、それだけ言うとまた俯いた。そこには仲間の元に帰れるという喜びは少しも感じられなかった。
……この男とも『これでお別れ』ってヤツか……
そう思った途端、胸に隙間風が吹き込んだような寂しさを感じ、それを埋め合わせるようにベジータは熱い飲み物をぐっと一気に飲みこんだ。
「……キサマには散々世話になったな」
ベジータは両手に抱えたカップを一旦下ろし、男の顔を見上げた。男は腕組みをしたまま、無言でこちらを見つめ返してくる。その男らしく整った幅広の口元を見ていると、なぜかベジータは胸がどきどきと高鳴るのを感じた。景気付けにカップの中身をまた一気に煽って、ベジータは男の目をひたと見つめた。
「……けれどこれが最後だ。これ以上キサマの世話にはならんぞ。オレはこれからもっと強くなるんだからな」
「ああそうしろ」
ベジータの言葉に、男は薄く笑った。包帯の縫い目が微妙な陰影になって動き、男が頷いたのが分かった。
「もうオレは誰にも負けんからな。キサマなんかの世話にならなくても、二度と無様なマネなんかしないからな。それからキサマも殺せる程に強くなってみせる」
「ああ、好きにしろ」
真っ直ぐ自分を見つめ上げてくるベジータの姿に、男はまた少し笑みを深くした。それから大きな手のひらでベジータの髪をくしゃくしゃと撫でた。温かい指が髪の間を滑る感触が気持ちよくて、ベジータはうっとりと目を閉じる。
「お前ならなれるさ、誰よりも強くな」
気のせいかドキドキが一層強くなってきた。ふと目を開くと、なぜか世界がくるくると回っている。薄暗い電灯もむき出しの配管も、星間図を写すモニタも何もかもがくるくると回り、虹色の光彩を放ちながら互いに入り混じって楽しげにダンスを踊っている。
「……・お前は惑星ベジータの希望の星なんだからな、ベジータ王子様」
男の低い声が耳に心地良い。ベジータはもう一度目を閉じて、それからころりと男の膝の上で丸くなり、すうすうと心地良さげな寝息を立て始めた。
「――やれやれ、隙の多い奴だ。これじゃ、この先一体何度危ない目に遭うかわかったもんじゃねえな」
男はまた微苦笑しながら、すっかり眠りこんだベジータを寝台に運ぶためにその体をそっと抱き上げた。


ふわふわと温かくて気持ち良い。まるで揺りかごに揺られているような…。その日の明け方近く、覚えのある感触にベジータはふと目を覚ました。いつの間に眠りこんでしまったのか、男の部屋を訪れていたはずがベッドに寝かされて、肩のあたりまできっちりと掛け物がかけられている。そして、目の前では、男が同じ寝台の上で、身を横たえて眠っていた。
…コイツ、いつの間に…
寝ぼけた目を瞬きながら、ベジータは初めて見る男の寝顔を少しの間見守っていた。削いだような鋭い顎や鼻筋、垂れ落ちる豊かな前髪。傷の無い側の頬を下にして、ベジータの体を胸に深く抱きこんで眠っている。肩に乗せられた男の太い腕は重たかったが、直に触れる肌は温かく不思議と眠気を誘う心地良さがあった。ベジータは二、三度ゆっくりと瞬きをし、それからふわぁ、とあくびをした。再び目を閉じて、男の胸に身を寄せると、暫く座りの良い位置を探してごそごそと動いた後、再び男に揺り起こされるまで深く眠りこんだ。




限界まで飛行速度を上げると、舞い落ちる雪は波紋状に波打った。引き離されまいと必死についていく男の後ろ姿の遥か向こう、地上にぽつりと平坦で殺風景な空き地が見えたかと思うとぐんぐんと近づいてきた。臨時の軍事施設の中央あたり、見えない光線と警報装置に厳重に囲われた中に、目指す宇宙船の姿がはっきりと浮かび、象牙色をおびた金属面と、細かい細工が凝らされた側面に刻印された船名までがはっきりと見て取れるまで近づいてきた頃、男は徐々に飛行速度を落とし、それにならってベジータも速度を落として、やがて空中で静止した。
「おいガキ、てめえの乗ってきた宇宙船はこれか?」
男の問いかけにベジータは素直に頷いた。寒冷な土地に鎮座する母艦は、辺りのどんな建造物よりも大きく、堂々たる威風は辺りを払い、一点の欠落も無いために却ってどこか異質で不安定なもののように見える。
「さすがにエリートの乗る船はでけえな、俺達のような下級戦士には一生お目にかかれないようなシロモノだ」
「……………」
男が感心したような声を上げたが、この頃のベジータはすっかり無口になっていた。
「もっと近づいて良く見たいところだがな、俺がついていくのはここまでだ。もうここから先は一人で行けるだろ」
男の言葉に、ベジータがはっとした様子で顔を上げ、それまで噤んでいた口を開いた。
「なんだキサマ、オレと一緒に来ないのか」
「行くかよ。あんな場所、俺が一歩足を踏み入れた途端捕まっちまうだろうよ」
「オレがいるから大丈夫だろう。そうだキサマ、オレが世話になった礼をやるぞ、だからキサマもオレと一緒に来い」
「だから行かねえってっつってんだろ。俺が行ったら『礼』どころか、『お前が誘拐犯か』と身に覚えの無い事でぶちのめされるのがせいぜいだろうよ」
男が片頬をゆがめて皮肉な笑いを浮かべたが、ベジータはなおも食い下がった。
「オレは借りを作るのが大嫌いなんだ。だからキサマはオレから礼を受けとれ!オレと一緒に来い!」
終いにベジータは怒鳴り声になっていた。口調は不遜だが、その言葉の裏には男と離れがたい気持ちがはっきりと表れていていた。
「だから行けねえんだって。喧嘩は上等だが食ってもいねえ飯のタダ食いを疑われるのは俺でも気分が悪いからな。……お前だって回りの連中から憶測交じりの変な目で見られるだろうしな」
「飯?飯ならキサマもさっき食っただろう!」
「ああ、『飯を食う』ってのは……まあ何でもねえよ、こっちの話だ」
「何の事だ教えろ!」
「無駄口叩いてねえでさっさと行けよ」
「いやだ!オレは一人では行かんぞ!!」
すっかり頑是ない子供になって、ベジータは大きく首を振った。この数日間で情が移ってしまったに違い無い。離れがたい気持ちはこちらも同じだというのに。男はまた苦笑して、ベジータの髪をくしゃくしゃと撫でた。
「――こんな場所で喋ってちゃ俺が風邪ひいちまう。俺はもう行くぞ、じゃあな」
これ以上時間を引き延ばせばますます未練が残るだろう。男は言うなり直ちに踵を返し、ベジータが顔を上げる間も無く元来た方向へ猛然と飛び去った。
「!?お、おいキサマ待て、待ちやがれってんだ!!」
男の咄嗟の行動にベジータは大声で呼ばわったが間に合わなかった。顔を上げた時、すでに男は降りしきる雪に霞んだ空に紛れて見えなくなっていた。
「……くそっ!あいつめ!!」
別れの言葉をかける間もなく男は行ってしまった。ベジータは忌々しげに舌打ちをし、それから消沈したように項垂れた。自分の足元にある母艦の事も忘れて、降りしきる雪が肩に積もるまでしばらく茫然と空に浮かんでいた。