消えない傷 5

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建物を出るとまた雪が舞い始めた。砂糖粒程度の大きさの雪は粉のような手触りで、衣服についてもいつまでも解けない。気温が低いからだ。前哨基地の周囲は機械が作りだした空気と熱の膜で覆われているが、一歩踏み出せば辺りは背の高い雪の壁や氷柱が立ちはだかる。長い年月に圧し固められた雪塊は神秘的な青みを帯びていて、同じく青色に塗られた基地の外壁と巧みに同化していた。
なるほど、これなら同胞たちも気付かなかったわけだ。自分の背の何倍もある高い氷壁に穿たれた穴越しに、まだらな空を見上げながら少しばかり感嘆したようにベジータは白い息を吐き出し、それから一つくしゃみをした。
「ッ、クシュン!」
ぶんぶんと唸りを上げる機械類はどうやら相当ガタが来ているらしい。施設の周辺環境は完璧に保たれるはずなのに、どこからともなく身を震わすほど冷たい隙間風が忍び込んでくる。寒さに両腕で体を抱き込みながら振り向くと、
「寒いなら中に入ってろ」
男がベジータに背を向けたまま黙々と作業を続けていた。撤収のための荷物をまとめながら機械類をチェックし、まだ動く機材や使えそうな部品を手早く取り外している。持ち帰って戦利品として提出するのか、それともどこかで換金するのかのどちらかなのだろう。外した部品を全て収納ボックスに収め、圧縮するとたちまちそれは手のひらに乗るほど小さくなった。
「よし、そろそろ出発するか」
落とさないように厳重に腰にくくりつけながら、男は漸くベジータの方に向き直った。
「あ、ああ」
男の言葉に、ベジータは素直に頷いた。
この数日、栄養と休養を取ったお陰で、ベジータは少なくとも表面上はすっかり元の調子を取り戻した。何日ぶりかに外の空気を吸い薄ら白い空を見上げながら、ベジータは同じく白い息を吐きだす。手足を動かしても何の痛みも感じないどころか、今や気力が充実していてこれならすぐ別の戦場に向かう事だって出来そうだ。それも皆あいつが――。ベジータはもう一度男の広い背中をちらと見ながら、ここ数日の事を思い出していた。



どれだけ眠ったのか、ベジータは極度の空腹と胃を刺激するご馳走の匂いで目を覚ました。このベッドで目を覚ましたのはこれで二度目だ。身を起して頭を巡らすと、寝台横のテーブルには、粗末な基地には十分すぎる程の食事が並べられ、湯気を立てていた。このところ携帯用のエネルギー剤と岩塩しか口にしていなかったベジータの胃が、たちまちぐうっと大きな音で空腹を訴える。思わず手を伸ばしかけて、直後に慌てて引っ込めた。どんな場所であろうと迂闊に食べ物を口にするのは危険だ、良くないものでも入っていたらどうする。戸惑うベジータの横で、無愛想な声がした。
「さっさと食え」
顔を上げると、また男が壁際の椅子に腰かけてこちらをじっと見ていた。相変わらずその顔半分は血で汚れた包帯で覆われている。メディカルマシーンには結局まだ入っていないのかとベジータはちらりと考えた。
「さっさと食えっつてんだろ。腹減ってるんだろうが」
「……………」
仏頂面の男に促されてもベジータは手を出さず、相手の顔をじっと見つめていた。腹の虫を鳴かせながら、その目に浮かんだ疑いの色に男が僅かに表情を緩める。
「安心しろ、毒なんか入っちゃいねえよ。俺が毒見済みだ」
そういって男は皿を指差した。確かに、男の言うとおり、どの皿に盛られた料理も一さじずつ掬って食べた形跡があり、さじ自体も使った跡があった。
「……………」
「ったく、疑り深えガキだな」
それでも黙って手を出さずにいるベジータに、男は今度ははっきり苦笑しながら、ベジータの目の前でさじを取って料理を一口掬って口に入れた。
「どうだ、何とも無いだろうが」
咀嚼する男を見、自分の生理的欲求と戦いながら、それでもベジータはまだ戸惑っている様子だった。戦場に立つ者としては良い心がけだが、食事をしなければ体力は回復しない。
「ほら食えよ」
「……キサマの食いさしなんか食えるかってんだ」
「何だ、まだ気に入らねえのか。それなら俺だって無理強いはしねえよ、やせ我慢して飢え死にするなり好きにするが良いさ。こいつは俺が貰っておく」
男はそう言ってわざとテーブルに手を伸ばす素振りを見せると、小さな手がさっと伸ばされてさじをかすめ取った。
「ふん、オレは別に腹なんか空いていないんだがな。キサマがどうしてもと言うなら食ってやらん事も無いぞ」
「口の減らねえガキだな。へっ、まあいいさ。好きにしろ」
とうとう堪え切れなくなって、さじを掴む手ももどかしげに猛然と食べ始めたベジータを見ながら、男はまた苦笑した。




「いいか、飛ばすぞ。てめえが遅れたら遠慮なく置いていくからな」
極寒の大気が顔を刺し、呼気を蒸気に変える。出発の身支度を整えた男とベジータは、元の住人に遺棄され、この数日間は二人のねぐらとなっていた前哨基地を後にした。
「うるせえ!キサマ誰に向かってそんな口を利きやがる!」
「この辺りの磁場は惑星ベジータの八千倍だ、スカウターの通信も役に立たねえからな、覚悟しろ」
「フン、そんな事でオレがビビるとでも思うか」
「まあ、どっちにしろ俺は左目がこんな調子だから暫くはスカウターも付けられねえな」
それを聞いた途端、ベジータの顔いろがさっと青くなったが、男は気にする様子も無く半分包帯に覆われた顔で天を仰いだ。
「よし、行くぞ」
「お、おい!待ちやがれ、まだ話の途中だくそったれ!」
言うなり男は、助走も付けずに地面を踏み切り高速で舞い上がった。ベジータも慌てて男の後に続いたが、彼の飛ぶ速度は驚くほど速かった。降雪は大した事は無かったが、上空には冷たい暴風が吹いている。体を煽られないよう水平に保ちながら、ベジータは男の動きの速さと無駄の無さに目を丸くした。幼いながらも常に多くのエリート戦士に囲まれ、飛行の速さを誇る者も何人か見てきたが、この男のそれはどんなエリートにも引けを取らないものだ。一体コイツは何者なんだ?本当にただの下級戦士のクズか?
おまけに飛ぶ事が速いだけじゃない。スカウターが無いので詳しくは分からないが、この男が圧倒的な戦闘力を持っている事は間違いない。その上よく働き、ひどく無愛想ではあるが意外に気も利く。この数日、この男が休んでいる姿を殆ど見た事が無かった。ベジータが寒いと思えばいつの間にか毛布が余分に用意され、腹が減ったと思ったと思えばいつの間にか食事が準備されている。ベジータが食事をしている間、男は施設内の制御装置に目を走らせながら、熱心に記録を取っている。面倒な仕事は全て男がこなし、更に不寝番もほとんど男がこなした。ベジータが『オレは戦士だ、寝ずの番くらいオレがやってやる』と言ったところで、結局ベジータの半分も寝ないですぐに起き出してくる。その間すら、本当に休んでいるかどうか分からない。一体いつ寝ているんだ、この男が寝ている姿を見たなんてあの時一度きりだ。と、そこまで思い返して、急にベジータの頬が赤くなった。



「――――っ!!」
基地で過ごして何度目かの夜、ベジータは大声で叫びながら跳ね起きた。アンダーシャツを身につけたままの首筋にも、シーツを握りしめる手にも、冷や汗をびっしょりかいている。目をきつく閉じると、先程見た悪い夢が甦ってきた。
抗いがたい力に押さえつけられ、気味の悪い感触の舌が体中を這いまわる。あの怪物のような大男に襲われた時の恐怖と絶望感が、再び甦って来る。体の傷はすっかり癒えても、精神はまだそうでは無いらしい。
「……………。」
はあはあ、と荒い息をつきながらベジータは唾を飲み込み、もう一度荒い息をする。目を閉じればまた嫌な夢を見てしまいそうだ。これ以上眠っていたくなくて、ベジータは寝台から飛び降りた。
隣室にいる男の元へ行ったのは、無意識だった。誰かと口をきけば気がまぎれると思ったのかもしれないし、そうではないのかもしれない。壁一面に巡らされた機械類が時折蒸気を噴き出す横をすり抜けて、ベジータは男の居る隣室の扉に触れようとした瞬間、目にした物にはっとして立ち止った。
廊下を挟んだ反対側、扉が開きっぱなしになった医務室は、壊れた生命維持装置の残骸が整然と並んでいた。その中で唯一生き残っているメディカルマシーンは、おそらくベジータの治療に使われたものだ。そして内部を満たす溶液の入っているはずのタンクは、「残量0」を示す赤いランプを点灯させて止まっていた。