消えない傷 4

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目を傷つけてしまったんだろうか、何も見えない。目を開けているはずなのに辺りは真っ暗闇だった。殆ど聴力を失いかけている耳に、何者かが言い争う声が聞こえてくる。
「邪魔しやがってこのクソ野郎が!俺の獲物を横取りしようってのか!」
一人は先程までベジータを押さえつけ嬲り物にしていた大男の声だ。
「へっ、ガキなんか興味あるか。てめえのような変態と一緒にするな」
もう一つは先程聞いた何者かの声だ。戦枯れしたやや低い成人した男の声だった。
「何だと?!」
大男の声にしゅうしゅうと荒い息づかいが混じる。肉欲と綯い交ぜになってその声は先程よりも一層獣じみて聞こえる。
「生憎俺はてめえのような醜い豚と違って相手には不自由してねえんだ、覚えておけよ変態野郎」
「こいつ、オレを舐めやがって!ぶっ殺してやる!!」
自分を押さえつけていた大男の力が弱まった今がチャンスなのだ、逃げなければ。そう思っても意識はどんどん遠ざかり、体は吊り下げた糸が切れてしまったかのように関節という関節全ての力が奪われていく。逃げなければ。事態は好転するどころか更に悪化しているかもしれないのだ。突如現れた何者かの正体は、味方とは限らない。或いは更なる強敵かもしれないのだ。これで本当にもう駄目なのかもしれない。沈んでいく意識の中でそう思った。
その直後から始まった洞窟全体を震わせるような地響きは、長い間続いた。大気の振動に混じって様々な音が聞こえてくる。獣のような吠え声、野卑な罵声。何かが崩れる音や、ばきばきと踏みしだく音。火花の散る音や雷鳴のような音。
「じゃまだ、どけ!!」
耳元でもう一人の男の声が聞こえたかと思うと、気配が激しく動き、熱風がまた吹き荒れた。激しい圧力に振り払われてどこかに激突し、その勢いでふと視界が戻った気がした。痛みと濁る意識を堪えて、思い切って指で視界をふさぐ目蓋をこじ開けるのと、大男が炎の哄笑に包まれて断末魔の絶叫を上げるのとは、ほぼ同時だった。
「―――――っ……」
熱に耐性のある戦闘服が一瞬炎を跳ね返したが、すぐに全体を押し包んだ。大男は茫然と立ちすくみ、次に喘ぐように体を震わせた後、身も凍るような叫び声を上げながら仰向けに倒れた。先程肉欲を満たそうとしていたその場所で。岩壁や地面にぶつかってあちこちがらがらと崩れていく。火達磨になった大男は、転げ回りながらなおも叫び声を上げていたが、止めの閃光がもう一人の男の手から放たれた後、動かなくなった。瓦礫が降り注ぎその巨体も見えなくなった。
……ああ、ちくしょう。あのクソヤロウはオレの手でぶっ殺してやろうと思ったのに……どこのどいつか知らんが余計な事しやがって……。
悔しさと、僅かな安堵を感じた直後、すぐ近くで何かが崩れる音がした。続いて背中や足を激しく何かに打たれた。
「やべえ、崩れるぞ!おい、ガキ、逃げろ!」
正体不明の男が怒鳴る声が、ひどく遠くに聞こえる。続いて、また頭部に一撃。
「ガキ、しっかりしろ!!おい!……っ……」
ああ、ちくしょう。エリート戦士であるこのオレがこんな場所で死ぬのか。やっぱり犬死に変わり無かった。崩落する岩天井に体を打たれながら、言い様の無い悔しさに見舞われる。耳元で誰かが怒鳴っている。その声が耳の奥でいつまでも木霊して、次第に遠ざかっていく。やがてそれも消えると今度は恐ろしいほどの静寂が訪れた。









…ぽたり。ぽたり。
何か温かい滴が頬に垂れる感触に目を開けると、辺り一面満天の星空だった。風に髪をなぶられながら、白黒の世界で星はどんどん自分の足元へ流れていく。ここはどこなのか、何が起こったのかも分からず、ただ自分の意思と関係無く体はどこかへ運ばれていく。相変わらず何の音もしない。手も足も麻痺して感覚が無い。自分の力はもう失われてしまったんだろうか、そもそも今自分は生きているのか、それとももう死んでしまったのか。崩れ落ちる岩に潰されて、体をどこかに置き去りにしたまま宙を漂っているんだろうか。もう戦う事はできないんだろうか。星空を見上げながらひどく悲しい気持ちになりかけた時、またしてもぽたりと何かが頬に垂れた。温かい、と思った直後にひどく安堵する。良かった、まだ少なくとも自分の皮膚には触覚がある。自分はまだ生きている。
「―――まだ寝ていろ」
ふいに声がした。幻聴かとも思ったが、間違い無くそれは何者かの声だった。声の主は黒い影となってベジータの顔を覗き込む。そのシルエットには見覚えがあった。
…ああ、さっき現れた奴か…
力強い腕で抱き直される感触に、ベジータは自分がこの男に抱きかかえられて、どこかへ運ばれている最中なのだと知った。
オレをどこへ連れていくつもりだ。
ベジータは男にそう言おうとして、出来なかった。口を開いて出たのは言葉では無く、猛烈な痛みを訴える、喘ぎと呻きだった。不思議な事だ、オレはどこも痛くないのに。そう言おうとして口を開くと、再び言葉の代わりに悲鳴と喚き声が漏れた。
「もう少しだ、辛抱しろ」
痛みに喚き声をあげるベジータを抱き直しながら、男はそう言った。ぽたりとまた温かい滴がベジータの頬に垂れる。…この匂い…。ベジータは上手く開かない目をこじ開けるように、男の顔を見上げた。
『おっと、すまねえな』
男の武骨な手が滴を拭う感触。その手が暖かくて気持ち良い。拭われるそばからポタポタと垂れ落ちる温かい滴が、男の流す『血』なのだと気がついた時、また墜落するような感覚が訪れて意識が急速に遠のいていった。ふわふわと体を包む温かい腕も心地良い。まるで揺りかごに揺られているような……






次に目を覚ました時、ベジータは見知らぬ場所に寝かされていた。
「……どこだ、ここは……?」
きょろきょろとあたりを見回す。狭い室内は刺激的な匂いが立ちこめ、ときどきゴボゴボと音を立てる暗渠や配管や手入れの悪い生命維持装置が壁一面を覆っている。設備は古びているが、体の上にかけられたシーツは洗いざらしの清潔な物だ。こわごわと体を起してみると、今度は叫ばずに身を起こす事が出来た。いつの間にか体中にあった傷も痣も全て消え、痛みは嘘のように引いている。念のためそっと腕を動かしても、どこの筋も痛めてはいなかった。
…何だ?何が起こった?
見知らぬ場所で目覚めた事も含めて、何もかもが現実感が無い。もしかしてこれも、今までの事も、全部夢か何かなんだろうか?そう思った直後、
「言っとくが夢じゃねえぞ」
ベジータの思考を読んだかのように、背後で声がした。ぎょっとしながら顔を声の方に向けると、古びた防具を身に纏った男が一人、壁際の椅子に腰かけながらこちらを見ていた。その顔の左半分は血で汚れた包帯で覆われている。
…この声…。間違えようもない、突如現れて自分を襲おうとする怪物を倒した、正体不明の男。血のにじむ包帯の端から、鋭い目がじろりとこちらを睨んでくる。
「―――まったく、ガキがあんな場所ウロウロしてんじゃねえよ」
男の声はいたって無愛想だった。その言葉にベジータは思わずカッとなって身を起こす。
「きっキサマ、このオレに向かってなんだその口の効き方は!オレを誰だと思ってる!!」
「てめえみてえなガキの事なんか知るか」
「このオレを知らんだと?!ふざけやがって!!」
このようなみすぼらしい身形をした男に不遜な口を効かれて怒りを表すベジータは、すっかりいつもの調子を取り戻していた。
「やれやれ、どうやらすっかり傷は治ったみてえだな」
「キサマどこの部隊だ?!その格好だと下級戦士だな、上官に向かってその口のきき方は何だ、ゆるさんぞ!」
「はいはい、どうも失礼いたしましたよエリート戦士様」
「おいキサマ答えろ、お前は一体…」
「まったく、そんな調子じゃいつまた変態野郎に襲われるか分からんな」
「――――っ!!!」
男の言葉にベジータの気勢は一転、その顔がさっと青ざめる。
「今回運良く俺が残党狩りに通りかからなけりゃ、てめえは今頃ヤリ殺されて、死体まで始末されてただろうよ」
途端に忘れかけていた恐怖が甦る。圧倒的な力で押さえつけられた事。衣服を引きはがされ、気味の悪いざらつく舌に全身を這いまわらされる不快感、満足な抵抗もできず打ちすえられた時の悔しさと苦痛、そして絶望感。膝上にかけられたシーツを握りしめた拳が、肩ががくがくと震えだす。こんな事は初めてだった。惑星ベジータ始まって以来の天才と持て囃され、幼い子供ながらベジータの強さは誰もが認めるところであり、事実これまで一度も負けた事などなかったのだ。屈辱的な姿勢で地面に押さえつけられ、自分でも触れた事の無かったような体の箇所を指や舌でいじられて、気持ち悪さにただ泣き喚く事しか出来なかった。実際目の前の男がもし現れなければ、男の言うように自分は今頃どうなっていたか分からない。その恐怖と、何も出来なかった自分に対する無力感と悔しさにベジータが肩を震わせていたその時。
「―――ひでえ目にあったな」
ベジータの頬に温かいものが触れた。固くかさついた感触が頬を撫でる。男が大きな手のひらで、ベジータの頬に触れていた。
「………あ………」
ベジータは思わず口を開きかけて喘ぐ。その温もりには覚えがあった。傷ついたベジータが夢うつつの中でどこかへ運ばれていく時、頬にぽたぽたと垂れ落ちてきた『血』の温もりと、まさに同じ体温を持っていた。それから自分を包んでいた、力強く温かい腕の感触を思い出した。
「この星の元住人が使ってた前哨基地だ。こんな場所じゃろくな設備もねえけどな、食いものと寝場所はある。だからもうちょっと寝てろ。寝て覚めたら腹いっぱい食え。何が起こったかなんて思いだす間も無いくらいにな」
「………っ………」
男の温かい手に頬を撫でられる感触に、体の震えが少しずつ収まってくる。ベジータの変化は男にも伝わったらしい。包帯で覆われていない方の目尻が微かに下がり、笑みの形になった。今なお血を流しているであろう傷を覆った包帯は薄汚れていたが、その下にある顔は笑うとどこか子供っぽく、ひどく好ましいものになった。ベジータは頬を撫でられながら、まじまじと男の顔に見入った。
「もう一寝入りすればすっかり体も元通りだろうよ」
「キサマ、その顔はどうした。さっさと……」
治療したらどうだ。そう言いかけて、はっとする。
「殆どぶっ壊れちまってるが生き残ったメディカルマシーンが一台だけあったんだ、てめえは運が良い」
頬を撫でられながら、ベジータはもう一度男の顔を見た。『一台だけあったんだ』…その一台を自分に譲って、この男は自分の傷に自分で包帯を巻いたというのか。おざなりに撒かれた包帯の隙間から、一見して分かる深い傷が覗いている。先ほどの怪物との戦闘で負傷したのか、それとも洞窟の崩落から脱出する際ついた傷か。何れにしても、この男はわが身を顧みずにベジータの傷の治療に専念していたのだ。そう思った途端、ベジータは胸に迫る何かを感じた。


「……お、オレはもう平気だ。ここはキサマの言うとおり大人しく寝てやる」
突如として現れた自分の変化にベジータは戸惑った。どきどきと胸が高鳴り始めやがて激しいリズムを刻み始める。視線を上手く男に合わせる事ができない。
「……だから、キサマもさっさとメディカルマシーンに入ってこい……」
どもりながら喋るベジータの言葉を聞いた男は、今度ははっきりとわかるくらいに笑った。顔半分が包帯で覆われたまま。
「そうか、じゃあそうさせてもらうとするか」
そう言って男はベジータの頬を撫でていた手を一旦離し、今度は彼のつんつんと逆立った髪をくしゃくしゃと乱暴な手つきで撫でた。途端にベジータは、今度は頬にかあっと赤みが差すのを感じていた。
「じゃあ俺は隣りの部屋でマシーンを使ってくるからな。捨てられた基地だし大した事は無いと思うが、俺が戻るまでそこらの物を勝手にいじったり食い物に手を出すんじゃねえぞ」
「……わかった……」
どきどきと高鳴る胸を押さえながら、ベジータは男の言葉に素直に頷いた。彼が大人の言葉に大人しく従うなど、生まれて初めての経験だった。頬に触れていた男の手が離れていく。温もりが離れる事がとても惜しく、ひどく寂しく思われた。



「じゃあな。しっかり寝てろよ」
室内の照明を煌々と灯したまま、男は部屋を出ていった。静かに扉が閉まるのを見送った後ベジータは暫くの間逡巡していたが、やがて大人しく男の言葉に従ってシーツの中に再び潜り込んだ。
シーツを頭からかぶり、目を閉じていてももう少しも眠くは無かった。
「……ふん、下級戦士の分際でエリートのオレに指図しやがって……」
そう呟きながら、いつまでたっても鎮まる事の無い胸の鼓動を抑えようと、ベジータは長い呼吸を繰り返していた。