消えない傷 7

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薄暗い室内、未だまどろみの中で視線だけを彷徨わせると、自分が今どこに身を横たえているのか咄嗟に思いだせなかった。
――……どこだ、ここは……?
目を開いて最初に見えたのは、天の川底を無数に流れる砂金のような星空。壁一面に取られた窓枠は額縁となって、宝石を散りばめたような夜空の一角を切り取り、更に右手の空にひときわ明るく輝く星を浮かび上がらせる。絵画のような夜空の中、煌々と光るあの星が西の端にかかればもうすぐ夜明けだ。そんな事を考えながら寝がえりを1つ打ったところで、ふと不思議な気持ちになった。
……オレはさっきまで、フリーザ軍の母船上空に浮かんでいたんじゃなかったか?雪を肩に積もらせて。置き去りにされた腹立たしさと寂しさで、胸が一杯になりながら。その気持ちを再現しようと試みる最中、目蓋が落ちた。




再び意識が明瞭になった。
「……――もういい、落ちついた」
ここは惑星ベジータにある、下級戦士専用訓練場の控室。頭上では古びた照明が灯り、体は男の膝上に座り込んだままだ。俯いた視線の先では白い手袋をはめた自分の手が、相変わらず男のアンダーシャツをくしゃくしゃに握りしめている。ちらりと上目で見れば男の頬には相変わらず生々しい傷が張り付いたままだ。いつまでも自分の背を撫で続ける男の手の感触に、ベジータは決まり悪そうに一旦上げた顔を再び俯かせた。本当にベジータが落ちつきを取り戻した事が伝わったらしく、神妙な顔つきだった男が微かに笑ったのが息遣いで感じられた。
「――まあ、良い教訓になったじゃねえか」
男の言葉に、ベジータの肩がぴくりと動く。
「今回の件で、ガキが自分の力を過信して出しゃばった行動をすれば痛え目に遭うって分かっただろ。これに懲りたら少しは力だけでなく頭も使う事を覚えろ。上手く立ちまわれ」
「なんだと?!キサマ!」
ベジータは三度勢いよく顔を上げた。その顔はすっかり落ちつきと生来の勝気さを取り戻している。
「なんだそれは、オレに他の奴らに向かって頭を下げろと言いたいのか?!」
「そうじゃねえよ、考えて行動しろって事だ。戦場で生き残るためにも、相手に勝つためにも、戦闘力だけじゃねえ、知恵もちょっとは必要だって事だ」
「ふ、フン、オレに指図するな」
ベジータが聞く耳持たないというように鼻を鳴らすと、
「へっ、好きにすれば良いさ。けどな、良く覚えておけよ。次に危険な目に遭っても偶然助けの手が伸びる、なんて幸運はそうそう無いだろうからな」
諭すような大人の声に、ベジータは顔を赤らめて、ぷい、とそっぽを向いた。



「さて、と」
男は膝の上のベジータを重さなどない物のように軽々と抱き上げて床に下ろし、立ち上がった。
「いつまでもここで油を売ってるわけにはいかねえな、そろそろトレーニングに戻らせてもらうぜ」
「おい!待て、キサマ、オレの話はまだ終わってないぞ!」
床に立たされたベジータは、慌てて男の服の裾を掴む。
「何だ、まだ何かあるのか?しつけえガキだな」
「うるさい!オレがキサマを見つけるのにどれだけ苦労したと思ってるんだ!」
ベジータは顔を真っ赤にして男を睨み上げた。事実、前哨基地からベジータを連れ帰った男が去ってからというもの、彼はこれまでの人生で一番必死になって男を捜しまわった。誰の手も借りる事無く。


氷の惑星で男と別れた後、母艦に戻ったベジータは直ちに尋問を受けた。この数日間どこにいたのだ、なぜ連絡が途絶えたのだと散々追求されたが、全て曖昧な供述で誤魔化した。心配そうに尋ねる者、非難めいた口調の者、そして好奇の目を投げてよこす者、その誰にも、男と過ごした数日の事は話さなかった。
もちろん、自分が怪物に襲われかけたという恥ずべき経験は口が裂けても話したくないが、それ以上にあの男に救われた事、そして共に過ごした数日間の事は、何故か得がたい特別な経験のように思われて、誰にも話したくなかった。話せば大切な秘密が全て壊れてしまうような気がしたのだ。
やがてベジータは男の身体的特徴、身に付けてた装備の記憶を頼りに、遂に一人で『最近頬に傷を負った下級戦士』の居場所を突き止める事に成功した。ベジータにとってこれまでの人生で、自分以外の誰かに興味を持つなど生まれて初めての経験と言って良かった。



「このオレに散々手間を掛けさせやがって!さっさと言え、キサマの欲しいものはなんだ!言わなければ言うまで毎日だってここに来てやるからな!」
「おいちょっと待て、毎日だって?冗談じゃねえ、勘弁してくれよ」
顔を真っ赤にしてこちらを睨み上げるベジータに、男はさすがにうんざりした様子で肩をすくめた。ベジータの目は強く輝いて、本当に毎日でも来てしまいそうな気迫が籠っている。
「……チッ、仕方無えな」
ふむ、と男は何かを考え込むそぶりを見せ、それから彼を睨み上げるベジータの険しい目と、引き結ばれた柔らかそうな唇とを交互に眺めた。
「欲しいもの…礼か……」
精一杯背伸びをして、自分を睨み上げてくる子供の瞳には、大人を怯ませるほどの気迫がこもっているが、その反面、白く滑らかな肌や顔の造作はひどく愛らしくあどけない。この幼さが消えた頃には、生まれついての王者だけが持つ品位と威厳、そして瑞々しい肢体と高貴であるが故に膝まづかせ啼かせたいと思わせる色香が、誰の目にも隠せなくなってしまうに違いない。


「…ふん、そうだな」
男はベジータの小さな顎を無遠慮に掴んで、強引に上を向かせる。
「…あと10年したら…『礼』ってやつを貰ってやるか」
もっとも、その頃このガキは俺なんかお目にかかる事すら出来ねえ『高嶺の花』になってるだろうけどな。ひそかに続けた男の言葉はベジータには聞こえない。丸い頬がまた真っ赤になった。
「10年だと?!ふざけるな、何が欲しいのか知らんがそんなに待てるか!」
「『何』って、ナニに決まって…まあ良い、10年経てば意味も分かるだろうよ。とにかく今はまだ駄目だ」
そう言って男は、手を離し、ベジータの肩を軽く突いた。
「ガキはさっさと家に帰ってお勉強でもしてろ。大人は今からお仕事に行ってくる」
「ダメだ、許さんぞ!もっと早くしろ、今すぐ受け取れ!」
「悪いが俺はガキには興味ねえんだ。じゃあな、ガキ。10年後にてめえがまだ覚えてたら『礼』を貰いに行ってやるよ」
言うなり男はくるりと踵を返し、控室の扉を開け放ってさっさと立ち去ろうとした。
「だめだだめだ、10年なんて絶対待ってやらんぞ!おい待てキサマ、まだ話は終わってないぞ!キサマ、『礼』に何が欲しいのかだってまだ聞いてない、おいキサマ、待ちやがれ!」
顔を真っ赤にし、拳を振り回してわめくベジータの声に、男は面倒臭そうに足を止めた。それから深い溜息をついた後、振り返った。


「キサマ、キサマってな、オレにはちゃんと『バーダック』って名前があるんだ」
……バーダック。ベジータは喚き散らすのを一旦止めて、目をぱちぱちと瞬いた。こいつの名前は『バーダック』……
押し黙って目をしばたく相手を見た男…バーダックは、急ににんまりと笑った。まるで楽しい悪戯を思いついた子供のように。そのまま一旦屈みこみ、目を瞬き続けるベジータの体を片腕に軽々と抱き上げた。
「――そうだ、忘れないように『前金』だけ貰っておいてやるか」
それから、腕の中の子供の丸くすべらかな頬に、不満そうに突き出された小さな唇に、自分の唇をそっと触れ合わせた。
「――――っ?!」
ベジータの目が驚きに見開かれる。目の前に大写しになる男の顔。頬の傷。それから自分の頬と唇に温かく柔らかい何かが掠めるように触れた。男らしく幅広のそれは少しだけかさついて、ちくりと肌を刺す。ベジータが驚いて抗議の声を上げようとすると、その体は再びすとんと地面に下ろされていた。



「――これで『前金』は頂いたからな。10年後をしっかり覚えておけよ、王子様」
言うなり男は再び踵を返し、今度こそ振り返らず足早に部屋を出ていった。今しがた何が起きたのか、反芻しながら少しの間ぼうっとしていたベジータは、再びはっとして声を上げる。
「い、今のは一体なんの真似だ?!今の何が『前金』なんだ?!意味の分からん事を言うな!!くそっ10年なんてオレは待たんからな!キサマが礼を受け取るまでオレは毎日だって来るからな!覚えておけよ、キサマ!」
叫びながらベジータは、ふと胸に体験した事の無い高揚感が湧き上がるのを感じていた。男が自分にした行為の意味はよく分からなかったが、この男と秘密を共有したのだという事実が、外からもはっきり分かる程に、胸を高鳴らせた。
「バーダック、だ」
「覚えておけよ、バーダック!」
得体の知れない胸の高鳴りに頬を赤くして、拳を握りしめたままベジータは暫く地団駄を踏んでいたが、
「――おい、キサマ戻る前にちゃんと医務室へ行け!!」
再び出血していた頬の傷を気遣う言葉を口にすると、バーダックは振り返らないまま片手を上げてそれに答えた。応じながらも恐らく男が医務室へ行く事は無いのだろうと匂わせながら。


「…くそっ!アイツめ!!どこまでもオレをガキ扱いしやがって!!」
口汚い言葉に反して、ベジータは男が自分を子供扱いする事が、ちっとも嫌では無いと気が付いていた。それどころか、これから毎日だって男に会いに来れるのだと思った途端、浮き浮きと胸が躍って今にも走り出したいような気持ちになった。
「…オレは毎日ここに来てやるからな」
そう言ってベジータは、高鳴る胸の鼓動に合わせるように、男と逆の方に向かって走り始めた。
「覚えてやがれ!キサマが『礼』を受け取るまで、オレは毎日ココに来てやるからな!」
もう男の居場所も、名前も突き止めた。これからは毎日だって男に会いに来られるのだ。理由は良く分からなかったが、今間違いなく自分は嬉しくて嬉しくて、力一杯叫びたかった。事実、堪え切れなくなって素直に叫んでいた。
「ホントに毎日来てやるからな!」










――本当に、オレは毎日行ってやるつもりだったんだ。
――けれど結局、奴に会えたのはそれが最後だった






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