月は東に。4

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4.


分厚い肩越しに見るこの部屋は狭かったが、その代わり丸く取られた窓は大きく開放的で、外の景色がよく見えた。窓枠の真鍮も古かったが良く磨かれてぴかぴかに光っており、大切に手入れされていることが窺われた。悟空が家磨きに精をだすような人物とは思えないので、おそらく彼の妻の手仕事だろう。窓の外は、半月の薄明かりに照らされて、あっさりと刈り込まれた生垣と、その向こうに今を盛りと枝を伸ばす森の葉影が見えた。昼間太陽の光をたっぷり浴びた緑は、今は夜露に濡れながら束の間の眠りについているに違いない。

緑を愛でるというのどかな趣味は無かったが、木々の間を渡ってくる夜風の涼しさを想像すると、ここの暮らしもまんざら悪くなさそうだ、とちらりと頭の隅で考えた。


「だってよー、おかしいと思わねえか?夜中に目ぇ醒ましたらいきなりベジータが目の前にいたり、ベジータのパンチがふにゃふにゃになっちまたり、なんてよ。だからさ、これって夢じゃねえの?」
「…夢だと?」


引き締めた顔で自分の言葉にうなづいている悟空に、ベジータは即座に罵声を浴びせようとした。『ばかか貴様、くだらねえ』
しかし直後にその言葉を飲み込んだ。確かに、今自分たちが『夢』の中にいるとは、おとぎ話でもあるまいし突飛すぎる発想だが、それを言うなら今夜彼の身に起こっている出来事の方がよほど非科学的で馬鹿げているではないか。これらを説明するには、どうも『夢』という言葉で表すのが、一番しっくりくるように思えてくる。


「……そうだな、これは夢だ。そうでなければこの状況は説明がつかん」
「な?やっぱりおめえもそう思うだろ?」
「……フン」
珍しくベジータが素直に自分の言葉に同調した事に、悟空は満面の笑みを浮かべて見せ、その笑顔を間近に見てしまい、何となく気恥しさを覚えたベジータはさり気なく目をそらすつもりで俯いた。
悟空の笑顔には不思議な魅力があった。そのぴかぴかに輝くような表情を見ると、どんなに頑なな者でも心を動かされ、いつの間にかすっかり彼の人柄に引き込まれてしまう。それは昼間の太陽の下でも、夜の月明かりの元でも効果は同じらしい。ベジータは、たとえ一瞬でも自分より格下であるはずの男に見とれてしまった事に自己嫌悪し、偽るように呟いた。
「ちっ、よりによって貴様のツラを拝まされるとはな。最悪の夢だぜ」
「おめえ夢なのにホントのベジータみてぇに口悪いな」


それにしても、と悟空が目を見開いた。
「すっげーリアルな夢だな、おめえまるでホンモノみてぇだ」
そう言って、ベジータの滑らかな肩の稜線を固い手のひらで撫でてみる。
「夢って触れるのもあるんだな、オラ、知らなかったぞ。いっつも、夢でごちそう腹いっぱい食ってもちっとも腹が膨れねぇのにな」
「気安く触るなくそったれ!」
「…てっ!!」
頬や首筋まで不躾な手つきで触れてくる悟空の手を、ベジータは持てる限りの力ではたき落とした。精一杯の力を出したつもりが、それはペチンと間抜けな音を立てただけだったが、それでも悟空は大袈裟に痛がった。
「痛ってぇなー、夢なのに痛えぞ。夢ってほっぺたつねっても痛くねえっていうの、あれウソなのか?」
「くそっ、どうなってんだまったく。本当に力が入りやがらねえ!」かみ合わない理由ながら、二人は同じタイミングで唸った。


「おめえ本当に夢のくせに、口も目つきも悪りいな。ホンモノのベジータそっくりだ」
はたかれた手をぶらぶらとふりながら悟空が不貞腐れた表情でつぶやくと、ベジータもきつい眼差しでにらみ返す。
「何言ってやがる、貴様こそ夢のくせに締まりのねえニヤケ面しやがって、カカロットそのものだな!あいにく俺は本物だ、貴様の方が夢だろうが!!」
「オラか?オラは本物だぞ?」
「俺が本物だ。夢は貴様だ」
「オラが本物だぞ」
「俺が本物だ」「オラだぞ」「俺が」「オラが」
「……どっちだって良い!!さっさとこの手を離しやがれ!!!」
いつまでたっても悟空の腕の拘束から逃れられないベジータが、とうとう癇癪を起してわめきたてたが、相変わらず悟空はけろりとしている。
「いーじゃねーか、減るもんじゃなし」
「減る減らないの問題じゃねえ!」
「離すのは良いけどよベジータ、おめえ、何でそんなに冷てえ体してんだ?」


「……何だと?」悟空の顔を殴るために固められた拳から力が抜かれた。
「おめえ、夢の中で泳いできたんか?すっげえ冷てえぞ」
悟空が不思議そうな顔をした。悟空の言う通り、本当に腕の中の体は、今しがた水から引き揚げられたばかりのもののようにひんやりと冷たかったのだ。悟空は物事を深く考えるタイプではないが、それでも今日のような暑い夜に、これほど互いの体が密着していながら、どうして彼の体は冷たいままなのだろうと、純粋に不思議に思った。


何を言っているんだこいつは?ベジータもまた今夜何度目かの大きな疑問に見舞われる。
「冷たいだと?誰がだ、まさか俺が、か?バカバカしい。俺はさっきまでうんざりするほど暑くて寝るに寝られねえ状態だったんだ、冷たいわけが…」
「けどよぉ、ホラ」
「……!」
悟空の大きな手の平が、気遣わしげにベジータの頬をつつみこむ。自分の頬に添えられた、その染みいるような温かさに、ベジータは思わず身を震わせ、逃げを打つように叫んでいた。「俺に触るな!!」


腕の中の小さな体が、むずかるように暴れるのを、悟空は目を見開いて眺めていた。
「ほんとに冷てえな……おめえ、熱は無えけどやっぱり病気じゃねえの?」
心配するような口調で、そしてわずかな好奇心を滲ませながら、頬や首筋、喉元に手を這わせると、ベジータは更に大きく身を震わせた。
「ほら、やっぱり冷てえ。寒いんじゃねえの?震えてるぞ」
「うるせえ、俺に触るなと言ってるだろうが!!」


「~~~~~~~~っ!!」
ベジータはひどく困惑していた。先程から耳の奥でひどく騒がしい音がする。何の音かと確認するまでも無く、それが自分の早鐘のように打つ鼓動の音だということにすぐ気がついた。自分の反応にまた困惑する。触れられた場所が熱い。手形に熱を感じるほどだ。触れられた場所から光が流れ込んだような、思わずその手にすがり付いてしまいたくなるような感覚。触れられる度に体が震えだして止まらないのは、意識しないまま本当に寒気を覚えていたのかそれとも緊張のためか。本当に自分の体が冷たいのか、こいつの体が熱いのか。混乱の中で感じる相手の体温が心地よくて、もっと、とすがり付いてしまいそうで怖くなる。


「震えがすげえな、そんなに寒いのか?」
「べ、別に寒いわけじゃねえ!」
相手を気遣う悟空の純粋な瞳にのぞきこまれて、ベジータがかぶりを振って相手の腕を振りほどこうと身もがくが、その力はいつもの彼からすれば信じられないほど弱々しく、その動きすらも次第に小さくなる。
「オラ知ってるぞ、寒い時はこうすると良いんだ」
「おい、貴様何…っ!」
何を、と聞く暇も無く体が再び強い力で引き寄せられる。自分の身に何が起こったのか理解するよりも前に、ベジータの体は前よりも一層深く、悟空の懐に抱き込まれる。


「何する貴様、離せ、離しやがれってんだ!!」
空気の介入する隙間もないほどきつく抱きしめられて、強い腕にその背をいたわるように擦られる。もはや手を突っ張って、相手の体を引きはす事も難しい。体の震えは治まるどころか一層ひどくなり、今や耳の奥で鳴り響く自分の鼓動は破裂寸前の大音量だ。背中をさする手は優しいが、触れられる度に鼓動は激しくなり、体の震えは止めようもなく激しくなっている。


畜生畜生畜生畜生畜生、もう何がなんだか訳がわからねえ!!


本当に、今夜は一体何が起こったというのだ、もしこれが夢だとすれば悪夢そのものだ、増してや現実だとすれば悪夢以上だ。こんな事ならC.C.の自室のベッドで朝まで寝苦しさに耐えている方が数倍マシだった!何でこんなに体が震えるんだ、おまけにさっきからやけに心臓がバクバク言ってやがる、なぜだ、それは俺がカカロットの野郎が大嫌いだからだ!
だいたいさっきから自分だけがうろたえたり、ドキドキしたり、馬鹿みたいだ、もういい、勝手にしやがれ!どうせこれは夢だ、夢なんだ!!
すっかり自暴自棄になって、ベジータはきつく目を閉じ、悟空の胸に片頬をぎゅっと押し付けた。その途端。

…どくん。
何だ?頬を強く押し付けた悟空の胸から、シャツ越しにひどく大げさな鼓動音が聞こえた気がした。気のせいかと思い、もう一度耳に意識を集中させると、再びその胸の奥からどくどくとひどく早いリズムで鼓動を刻む音が聞こえた。薄眼を開いて、悟空の表情を盗み見ようとしたが、ベジータの肩に顎を乗せているのでこちらからは良く見えない。それならばと今度は悟空の気を探ってみると、それは一見穏やかではあったが、平静時に比べて揺らぎが激しく、輝きも強く感じられる。それらが意味する状態を考えた時、すとんと何かが腹に落ちたような気がした。


…なんだ。こいつ、けろっとした顔してやがるくせに。こいつも結構緊張してやがるんじゃねえか…。そう考えた途端、不思議と体の震えが引いて、嵐が凪いだ後のような落ち着いた気分になった。体の強張りが治まって余分な力が抜けていく。その代わりにうっとりと眠気を差すような心地よさに見舞われる。目を閉じて深い息を吐き、いつのまにかその感触に深く身を委ねていた。
それは不思議な既視感だった。先ほど草の褥に身を横たえて、遥か遠くに悟空の気を感じた時も、初めはわめきちらしたいほどの胸苦しさを覚えながら、次第にその気を近く感じるようになると、今度は逆に、体のすべてをゆだねてしまいたくなるような心地よさを感じたではないか。ぼうっと霞みがかった頭で考える。この感覚、この感触。これは一体何なのだろう?………


さきほどからもがき続けていたベジータが、すっかり大人しくなって腕の中に納まるようになったのを見て、悟空がにこりと笑った。
「震えが止まったみてえだな」
「……ふん」
良かったな、と笑顔を見せる悟空を一睨みして、ベジータはぷい、とそっぽを向いた。頬に血色が射すのを感じながら。