月は東に。3

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3.


『  』
夢の中で、誰かに呼びかけられた気がする。その声が邪魔で、無意識にに手で払いのける仕草をする。うるせえ、やっと眠れたんだジャマするんじゃねえ。頬に触れるさらさらした感触が心地良い、ああそうだ、乾いた木綿の感触。汗ばんだ肌に丁度いい。
植物から作るという綿布を初めて見た時は、ごわついた無骨な見た目を鼻で笑った。何という原始的で下等な素材だ、こんなものしか作れない地球はやはり未開の星だ、と思ったものだ。しかし日に良く干されたその布地に身を横たえると、思いの他肌ざわりが良いことを知りーーー。


「……おい」
再び夢で呼びかけられる。今度は声だけではない、肩まで掴んでゆすぶってくる。うるせえって言ってるだろ、くそったれ、誰だ俺の睡眠を邪魔する奴は。ぶっ殺してやる。夢の中で悪態をつきながら、うっすらと覚醒した。
そこまで考えて不思議な違和感に、もぞりと体の向きを変える。目覚め切らない頭で、違和感の正体について考える。自分が身を横たえていたのは確か草の上だったはずだ。それがどうだ、この感触は、まるで木綿のシーツだ。
「…………?」
「ベジータ、おめえ何でここにいるんだ?」


「…………!!!」
今度こそはっきりと覚醒した。ぎょっとして眼を開くと、最初に視界に飛び込んできた姿に、驚きのあまり絶叫しそうになった。無様な声を上げないよう、慌てて言葉を飲み込む。大きな体をかがめてこちらを覗き込んでくる、その姿を忘れる訳がない、何しろ自分が寝入る直前まで、思い描いていた男だったからだ。


「なあおめぇ、何でオラの隣で寝てるんだ?」
声の主に、のんびりとした口調で再び話しかけられる。かき乱れた前髪の間から、邪気の無い黒い瞳がこちらを覗き込んでいる。自分の目の前で胡坐をかく、声の主…孫悟空の姿を目にして、今度こそ絶叫しそうになった。


「なっななななッ!!!」
絶叫しそうになったその口を、いきなり大きな手のひらでふさがれる。
「しーっ!静かに!!悟飯が起きちまう!」
目の前に寄せられた顔の近さに目を白黒させたがら、そのうち、あまり強い力でぴったりと鼻も口もふさがれていたから、本当に窒息しそうになる
「ンーッンンーー!!!」
いくら肺が強靭でも、驚きのあまり咄嗟に息を継げなかったところだったから堪らない。たちまち苦しさに顔中の血管が膨れる気がする。塞がれた口の中でくぐもった悲鳴を上げ、こぶしを振り回し、鼻と口をふさいでいる手をもぎ放そうと腕を突っ張ったとこで、ようやく悟空がその手を離した。
「貴様、俺を殺す気か!!」
「あ、苦しかったか?悪ィ悪ィ」ぜぃぜぃと荒い息をするベジータに、少しも悪いと思っていない様子で、悟空は誠意の無い詫びを入れた。


しばらく嵐のような息をついていたが、それがおさまるにつれて次第にベジータは周りの景色の変化に意識が向き始めた。そこは大人が二人も入れば十分な狭い空間だった。左手の壁が上に向かうに従って大きく湾曲し、天井からは前時代的なデザインの照明がぶら下がっていて、ぽつりと点った常夜灯だけがオレンジ色にほの暗く室内を照らしている。床には何やら物があちこちに積み上げられていて、それらにぐるりと取り囲まれた状態で敷かれた布団の上に座していたのだ。その様子はさながらドーム型の狭い倉庫に無理やり布団を敷いたようだ。


「…どこだここは」
「ここか?オラんちだぞ?」
「……なんだと?」
言われてベジータがもう一度周りを見回すと、確かにそこは見たこともない場所だった。狭い居住空間の中に生活用品が天井近くまで積まれている。雑然としたその様子は、自分が現在暮らしている無機質なほど清潔なカプセルコーポレーションとはかけ離れていて、どう考えてもベジータのほうが闖入者のように見える。


どういう事だ?日ごろ冷静沈着で鳴らしているベジータもさすがに困惑した。訳が分からず頭を振りながら、懸命に今の状況を理解しようとする。
たしか先ほどまで、自分は草の上で眠っていたのではなかったか?うだる暑さに耐えかねて窓から外へ飛び出し、街はずれの高台で夜風にあたっているうちにウトウトし、カカロットの気を感じ…。記憶を反芻しているうちに、再び記憶と同じ声で話かけられた。
「驚いたなー、おめえも瞬間移動が使えるようになったんか?」
「ふざけるな、だれが貴様のくだらん技のマネなどするか!」ベジータの混乱など知らぬ気な、のんびりとした悟空の声に、一瞬状況の異常さを忘れて憤慨する。


「何で貴様がここにいる?」
「言ったじゃねえか、ここオラんちだって」
「貴様の家だと?!訳の分からねえ事ぬかしやがって。だいたいここが家なら、なんだこの散らかり様は!!」
「しょうがねえだろー、今チチの奴は牛魔王のおっちゃんの所に遊びに行っちまってるんだからよ」
あくまでものんびりと答える悟空は見慣れた山吹色の道着ではなく、ランニングシャツにたっぷりとゆとりを取ったズボンを身に着けていて、いかにも就寝用といった寛いだ様子だ。しかし口調と砕けた態度とは裏腹に、相変わらず鍛え上げられた肉体には、微塵の隙も感じられなかった。
「ベジータ、おめえの方がオラの横で寝てたんだぞ」
「……何?」
「オラ、さっき目ェ醒ましたらいきなりおめえが横で寝てるんだもんな。驚えたぞ」
「なんだと……?」
怪訝そうな表情で、悟空がこちらをうかがっている。ベジータは経験上、相手を騙そうとする輩を何人も見てきたが、そのような場合は必ず、瞬きが速くなったり頬がわずかに引き攣れたり、あるいは鼓動が忙しなくなったり、意識しなくても何らかの変化が現れるものだ。ベジータの顔を覗き込んでくる悟空の表情は、怪訝そうではあっても嘘をついているようにはまったく見えない。なによりこの男が、言葉巧みに他人を惑わすような舌技を持っているわけがない事を知っているベジータは、再び困惑に見舞われる。何だ?俺の身に一体何が起こったんだ?


「けどよー、本当に何でおめえ、ここにいるんだ?」
「それはこっちのセリフだ。何で貴様が俺の隣にいるんだ。…もう一度聞く。どこだここは」
「だからさっきから言ってるんじゃねぇか、オラんちだって。おめえ頭悪ぃなー」
「何だと?!貴様のようなバカにバカ呼ばわりされると100倍腹が立つぜ!!」混乱があまり過ぎると苛立ちに変わるらしい。
「くそっ何なんだ一体、わけが分からねえ!だいたい何だ貴様のそのマヌケ面は!見てるとムカムカしてくるぜ!」
極度の混乱に、何かに八つ当たりしたい気持ちと、日頃の鬱憤とが相まってとうとう爆発し、癇癪をおこしたベジータは思い切り右手を悟空の顔めがけて打ち込んだ。そのつもりだった。


「……っ?!」「ん?」
渾身の力で打ち込んだはずの右手には、いつもの10分の1の鋭さも無かった。強い力で殴るには確かに間合いが近すぎたが、それにしても勢いが弱すぎる。どんな敵をも倒せるはずの拳が、すっかりスピードを無くしていて、たちまち悟空に腕をとられてしまう。
「?なんだベジータ、おめえのパンチへろへろだぞ?」
「な?!なんだとこの野郎、そんなはずは…」
掴まれた右手の変わりに今度は左手を二度三度と打ち込んでみたが、結果は同じだった。夢の中で泳ぐ者が、いくら水を掻いても前に進む事ができないかのように、腕に力を込めようとしても上手くいかない。易々とよけられたばかりか、今度は両腕を取られて、ベジータはよろよろと悟空の胸の中に崩れこんでしまう。


「ほらやっぱりへろへろだぞ。おめえやっぱ熱でもあんじゃねえの?」
「俺に触るな!」
往生際が悪くまだじたばたと暴れる腕を掴んだまま、悟空が心配そうに覗き込んでくる。自分が苛立ちの元凶に同情されている事に、ますます癇癪を爆発させてベジータはもがいたが、悟空はかまわずベジータの額に手を当てた。


「うーん、熱はねえみてえだなぁ。ちゃんと冷てぇし」
「当たり前だ、この俺様が熱ごときで弱るものか!」悪態をつきつつ何とか自分を拘束する腕から逃れようともがいたが、どういう訳か一向にふり解くことができなくて、ますます困惑が強くなる。


どういうことだ、体に力が入らねえ…!
最強を自負していた自分が、いきなり非力になってしまった事に愕然とする。少なくとも目の前の男を除けば、自分が宇宙で最強だったはずだ、だいたい、自分は何でここにいるんだ?一体俺に何が起きたんだちくしょう!
かつて宇宙を飛び回りながら、さまざまな種族や、彼らが起こす超常現象のたぐいも見てきたつもりだったが、今自分に起きている事はそのどれと比べても異常だった。ほんの少し、居眠りをしていたら、自分の持つ力をすっかり奪われて、おまけに魔術的とも呼べる現象で、自分が宇宙一嫌っている相手の寝所に放り込まれたのだ。混乱するな、という方が無理だろう。
「…っていうかさ、それよりベジータ…」混乱しすぎて一種の恐慌状態に陥っていたベジータに、悟空の次の行動がさらに拍車を掛けた。
「何だ、……っ?!」


腕の拘束が解かれて、ベジータが気を緩めた次の瞬間、ふわりと体が何か包まれる感触があった。何が起こったか理解する前に、腰が強い腕で引き寄せられ、彼の体は自分よりも一回り大きな体に抱きとめられていた。
「なっ?!ななな何しやがるっ!!!!」今夜ベジータの身に起こった異常事態の中で最も異常な出来事に、ついに混乱が頂点に達した。


「貴様、いきなり何しやがる、はなせ、離しやがれ!!離せ離せ離せ離せ離せ~~~~っ!
「やっぱりそうだ。お前の肌、冷たくてきもちいいなー」うっとりとした表情で、悟空がベジータの肩に顎を乗せてくる。
「はっ離しやがれこのクソ野郎!!貴様は暑苦しいんだーーっ!!!」混乱の局地で大暴れするベジータを余所に、悟空はけろりとした表情で言い放った。
「いいじゃねえか、だってこれ、『夢』なんだろ?」
「…なんだと?」