月は東に。2

sign.jpg



2.


カカロットこと孫悟空という男は、あらゆる意味で異端児だ。彼の立派な体格は筋肉が発達していて、いかにも腕っ節が強そう、喧嘩が強そうといった印象を人に与える(もっとも、『喧嘩が強い』などというレベルは遥か昔に超えていた)が、それに反して童顔な顔立ちに浮かべる笑顔は、とても人好きのするものだ。田舎育ちで無学だが、その代わり見知らぬ人とでもすぐに打ち解けてしまうという得難い人柄も持っていた。大きな体を折り曲げて人を和ませ、いつの間にかするりと人の懐に潜り込んでしまう。もし彼が純粋に『地球人』だったら、気の良い田舎青年として、平凡で幸せな人生を送っただろう。しかし残念な事に彼は非凡だった。

なにしろ貴様は純粋な『サイヤ人』だからな。


昇っていく月の下、東の空の向こうにこの星で一番強い気を感じる。
それは誰よりも明るく強く輝いていて、それは時には目を焼くほど鋭いものになるが、今日はとても穏やかだ。その気を感じると、なぜかいつもベジータは胸が苦しくなるような感覚を覚えた。こんなにも胸が苦しくなるのは、それほどまでにあいつの事が憎いからに違いない、と彼はその度に考えた。


孫悟空の異端なところといえば、他にもまだ沢山ある。「サイヤ人でありながら地球人を名乗る」「サイヤ人でありながら弱い者を愛する」など、上げ連ねれば切りがない。そのどれも、ベジータにとっては理解しがたく、死に値するほど危険な思想だ。


しかしなにより彼にとって一番理解しがたくそして許しがたい事は、下級戦士である孫悟空が、王族であるベジータに土をつけさせた事だ。誇り高き王子が、一介の下級戦士を相手に無様に敗走した事に、彼のプライドは激しく傷つけられた。ベジータの人生は、その日を境に一変した。不老不死を得る事から、自分に屈辱を味わわせた裏切り者の下級戦士に、この手で制裁を加えてやるということに、いつのまにか生きる目的がすり替わっていた。


月はますます高く昇っていく。頬の下には草の感触、近くには木立と土と水を感じる。そして東の空の下では、一層強く金色の気を感じる。胸の苦しさが一層ひどくなり、はあ、と深い息を吐いた。ベジータは胸を強く押さえ、苦しさを吐き出すように呟いた。
「なにもかも貴様のせいだカカロット……!」


ベジータにとって悟空は、憎んでも憎みきれない相手だが、その姿、あらゆるものを超越した強さを見せつけられる度、彼の胸は予期せぬ羨望でいっぱいになる。悔しいけれど、敵わない。目を背けたいのに、反らすことができない。こんなにも苦しいのはあいつのせいだ。悔しいけれど自分はあいつから離れられない。自分が目を反らすことができないように、あいつも自分から目が離せなくなれば良い。そうすれば…

「……!」
あらぬ方向に向きそうになって、あわてて思考を一旦切った。あいつはどこまでも自分の領域に踏み込んでくる、忌々しい存在なのだと強く思いなおす。妙な気まり悪さをごまかすように眼を閉じたが、それが逆効果だった。視界を遮断すれば、気を感じる感覚は一層強くなる。金色の気は、今度は網膜の裏に生々しくもはっきりと像を結んだ。あまりに強く感じるので、手を伸ばせば届きそうに近く思われるほどだ。


すっかり夜も更けた今、悟空は眠っていた。昼間見るのと同じのんきな表情で、狭い室内いっぱいに手足を広げて、大の字になって鼾をかいている。しかしやはり暑くて寝苦しいのか何度も寝返りをうっている。あいつもあまり眠れていないようだな、ざまあみろ。
悟空の姿を近くに感じると、なぜか気を感じていただけの時の苦しさが少し引いて、代わりに眠気を射すような心地よさを覚えた。なぜそうなるのか理由がよくわからないまま、その感覚が欲しくて、ベジータは一層意識を凝らした。網膜の裏に結んだ像はますます鮮明になり、今やすぐ隣にいるかと思うほどはっきり感じられた。その寝息、体温、匂いまで感じるほどだ。気を凝らすほど、うっとりするような眠気に沈んでいく。その時、それまで仰向けで大の字になっていた悟空が、不意に大きく伸びあがってごろりと横を向いたような気がした。
『……ん~?』
寝起きの擦れた声が聞こえ、寝ぼけ眼がこちらを向いて焦点をあわせたような気もした。


深く、静かで潤んだ夜の大気と、柔らかい草の感触が心地良い。呼吸がすうすうと穏やかになっていく。