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ぐずぐずしている内に明後日また出国だ。スピーディに書いておかないとイカン。
4月19日午後6時半成田発。シカゴで入国手続き・乗り換えでボストンに午後9時半着。時差が13時間なので16時間の旅だ。前日から来ている田村・藤井夫妻と当地で活躍するドラマー、たきさんの出迎えをうけ彼のスバル・レオーネでコモンウェルズ通りのホテルに入る。道々ボストンに長かった田村氏(以後<夏やん>)が「ボストンはきれいな所なんだけどホテルの界隈だけがズゲエ汚いんだ」と聞かされたがそんなこともなさそうだ。荷物を入れすぐに街に出る。MidlleEastという、その名のとおりの中東レストランで乾杯、俺だけラム・ケバブをもりもり食って満足。ホテルに送ってもらい寝る。20日。時差ぼけで睡眠は細切れ。昼ごろまたうつらうつらしていたらバンマス夫妻に電話で起こされ昼食に誘われる。彼らとその居候先のベーシスト、ジェーンとそのパートナーの、大男グラントと5人で近所のリッチなインド・レストランに行った。ビュッフェ形式でウマイものをたらふく食べた。その後夫妻はメイン州ポートランドでのデュオ・ライブに行き、俺は美術館の場所は訊いたものの昼寝をしたら6時になってしまったのでのんびり支度をして7時半頃からジョギング。まだまだ明るい。チャールス河沿いを30分ほど走った。帰りにワイン、牛乳、大麦フレーク、そしてよく<TVディナー>なんて言って小説に出てくるので試してみようと電子レンジ食品を2種購入。ボストンと言うと私立探偵もののイメージが強く、グルメの主人公でも一人だとこういうモノを食っているのだ。オリエンタル・ビーフと称する肉とブロッコリを中心にしたハヤシライスのようなものを夕食にしたがなかなか美味。
21日昼前、またうつらうつらしているところを起こされる。ペルーから到着したドラムの吉田達也を空港に迎えに行ったバンマス夫妻とたきさんとでベトナム料理屋に行った。これが安くて大量でうまい。ビールも飲み、今日演奏があるという気分じゃないくらい満悦。夕方トレモント・シアターというチャイナ・タウンの方の会場に行き準備。リハ後当然ながら中華。まあまあ。
演奏は大好評ってことでアイリッシュ・パブで打ち上がる。22日。朝川沿いをジョギングしてから由緒正しい倹約移動手段である長距離バスの代名詞、グレイハウンドでニューヨークへ。2時間20分くらいだったか。友人のところへ滞在する吉田君と別れ3人でアップタウンのホテルにチェックイン。
夕食は地下鉄でダウンタウンのコリアン街へでかけお粥屋。麺入りの粥もうまかったが白菜の塊をでーんとテーブルに持ってきてウェイトレスがハサミでジョキジョキ切ってくれるキムチがうまい。
満足して9時前帰ったがホテルに狭いアスレチック・ルームがあったので血が騒ぎ一休みしてから降りていくと既に夏やんがランニングマシンでウォーキングをしている。あとはクライミングのマシンとエアロ・バイク。当然目当てはこれ。ポラールの自動心拍センサー付のスグレモノだったが自己発電式なので途中で脚を止めるとデータが消えてしまうのが困る。自分の心拍計はポラールの電波に負けてしまうようででたらめ表示。しかし50分汗だくになって満足であった。
23日、TONICというアンダーグラウンド・シーンでは名のあるクラブで演奏。演奏はいいんだがたどり着くまでが大変だった。フライト・ケース入りの楽器と荷物を抱え夏やんと地下鉄+満員のバスを乗り継ぎミドルタウンの吉田君の滞在先のドラマーのところに行きドラムセットを路上に運びだす。郵送・預けてあった売り物CDを某所に取りに行っていたバンマスも現る。通りでタクシーを捕まえようとするが夕方の混雑時、一向に空車は来ない。来てもドラムを見ると行ってしまう。そうこうするうちに入り時間の5時は迫る。ベースアンプも別の吉田君の友人のところへ借りにいかねばならないが、家を知っているのは吉田だけなので夏やんと俺が路上に残りバンマス・吉田組がアンプ確保に向かう。何故こんな苦労をというと、店にはこれらが無いと言われたのと、マンハッタンに住んでいると車が無くても不便がないし駐車場も無いのでたいていのミュージシャンは車を持っていないからなのだ。30分も立っていると寒くてがたがたしてきた。ようやくホンダ・オデッセイのタクシーを捕まえ、嫌がる運ちゃんを無視して積み込み出発。一安心と思ったら今度はクラブの前の道が一方通行の入り口で工事をしていて入れない。しかたなく一番ちかい角でおりたものの、サテどうしたものかと思案していたらアンプを積んだタクシーも到着。結局皆で見張り役や運び役を交代しつつ搬入官僚。ここまでですっかり消耗してしまった。
Tonicの建物。地下はDJクラブ
打ち上げは今度は中華の、その名も「粥之家」。アメリカ人のミュージシャンたちも交えたらふく食った。
ライブの翌日24日はブルックリンの System 2 studio でレコーディング。ロック、ポップのゴールド・ディスクものからバキバキ・フリージャズまでこなすオーナー兼エンジニア兄弟の仕事は速く11時入り〜セッティング〜昼食〜開始で6時前に終わってしまい、しかも音もミックスダウンなしで殆どこのままでOKということになった。翌日ミックスの予定だったのが一挙にマスタリングということで万歳。コリアン街で盛大に打ち上げ、太っ腹郷子バンマスにゴチソウになる。
25日は午前中アスレチック・ルームで大汗をかいてから3時頃スタジオに出掛けるが既に作業は片づけに入っていた。早い。バンマス夫妻に「今頃来るなんて」と苦笑されたが更に吉田君は遅く来た。帰路チャイナタウンで飲茶。
夜はNY在住4年になる、サックス吹き&ジャズ・ジャーナリストの寒川光一郎と久々に再会。不良中年ラップバンドJAZZY UPPERCUT で一緒にやっていた仲。リトルイタリーに出かけ、生牡蠣、焼きアサリ、イカなどとワインで盛り上がる。しかしこの界隈、マフィア映画を彷彿とさせる雰囲気がだんだんチャイナタウン化されつつあり漢字の看板が目につくようになった。26日、夕方ずっと下のほうの14th street 1st ave.の地下鉄の駅でピアニストRod Williams と待ち合わせて彼の家へ。道々、19年前にDr.梅津バンドでリハーサルに通っていた Air Studio の場所を示される。今はクリーニング屋になっていた。オーナーだったサックス奏者のヘンリー・スレッギルやベースのフレッド・ホプキンス、Art Ensemble of Chicago のジョセフ・ジャーマンなど、ここにたむろしていたミュージシャン達との交流が懐かしい。Rod のパソコンで緑化のHPに書き込みなどしてから奥さんのジュンコさんと共に近所のイタリアン・レストランで食事。うまいワインにデタラメ英語で話ははずみ本日も楽しく終わる。
27日、フィラデルフィアへ。この日がツアー最大の厄日だったのだ。
トラブルその1:吉田バス乗り遅れ
12時発のフィラデルフィア行きバスに乗るべくターミナルに早めに行ったらすごい行列。急遽2台出ることになった模様。バンマス、夏やん、俺は1台目に乗り込み、直前にやってきた吉田君の姿も車内から見えたので一安心。2時間弱で到着し2台目を待つが全然来ない。責任感強い郷子バンマスを残して男二人タクシーでホテルへ。20分位でやって来たバンマスは一人だ。2台目の乗客の中に彼はおらず、運転手が嬉しそうに「あの中国人かい?あいつは乗れなかったぜ。1時の便だね。」と言ったという。我々は何週間も前にチケットを買っているのに乗り切れない数のチケットを売るとは。おまけに満員かどうかなんて実に適当な係員の判断で、現に俺の隣も空いていた。
我々もまだ掃除が出来ていないと、部屋にチェックイン出来ず。ナントカWomen’s Method Association 、推察するに女性マナー学校みたいな団体の、ピンクのドレスに花束を持った若い女性達で賑わうロビーのシックなソファーにデデーンとむさい身なりで荷物を積み上げころがる。見苦しいだろ?早く部屋に入れてよ、という圧力も空しく待たされ続け、その間吉田到着。何度もたくましきバンマスが催促しようやく一つだけ出来た部屋に荷物を入れて会場Painted Bridge Art Center入り。
トラブルその2:夏やん体調不良
バスに乗り込んでいた俺が吉田を目撃したので前の方に座っていた夏やんの所へ行き「今きたぞ!」と背中を叩いたのだが、その時彼はそれどころでは無く、大量の嘔吐をした直後だったのだ。ポリ袋を持っていたのと車内がごった返していたので周囲は気づかなかった。前の席のスキンヘッドの黒人の頭に飛沫が飛んだが「ん?」と天井を見上げていたそうだ。バンマスは慌てて無理やり外に出て袋を処分。朝から「どうも調子が悪い」と言っていた。
トラブルその3:なんと私に最大の災難
吉田君も「どうもペルーで感染症を患った気がする」と、消化器系の不調を訴える。バンマスと俺はぴんぴんで食欲旺盛。サウンドチェックも済ませ、本日2バンドの先攻、クン(ベトナム人Tp、P.メセニー・グループで活躍中)のバンドのリハを階段状客席の最上段で見物。今から思えばこれがいけなかった。しかも通路から数席入ったところにいたのが・・・。リハを終えたベーシストのツトム君と旧友の我がバンマスがやって来て空いていた並びに座り話しているうち、彼の楽器を弾かせてもらうことになり、二人の前をかき分けて通路に足を踏み出したとたん階段を転落、ゴキっと左足首がすごい音をたてた。尋常では無い。なんとか楽屋に入り氷で冷やすが見る見る足首は腫れ上がってくる。主催者も心配してくれるが「日曜だから医者も薬局も開いていない」と家から湿布薬と氷袋(ホカロンの逆で袋内の塊を外から割ると冷却材が効きはじめる)をとって来てくれた。本番を何とかすませ12時ごろホテルに帰り食事に出ようとするともう左足は地面に着けない痛み。それでもぴょんぴょんと向かいのレストランに入った。そうしたら何とノン・アルコールの店でガックリ来たがまあそれで良かったのだろう。部屋に戻っても痛みで寝付けず。明け方には一層ひどくなりどうなるかと思ったが2時間程眠ったら少し楽になった。昼のチェックアウト時には昨夜より大分マシになり、俺達よりはるかに立派なボーイを呼んでチップを払うのもしゃくなので自力で楽器と荷物を引きずりエレベーターに乗れるくらい回復。と、なんとも無残なフィラデルフィアだった。
28日、フィラデルフィア〜ダラス〜オースティンと飛行機を乗り継いで初めて踏みしめたテキサスの大地。テキサス・ブルース、テキサス・ファンク、・・・ん〜ん、ここがそうなのかと感慨に浸る間もなく、迎えにきてくれた主催者ペドロのホンダ・シビックの車内に流れるのはふにゃふにゃの70年代エチオピアン・ポップスである。助手席の私は思わず「俺もこれは好きだけど、テキサスの景色にはスティビー・レイ・ボーンやキング・カーティスが合うと思っていたんだけどなあ。」といい加減な英語で、K..カーティスならぬ片山そっくりの演歌テナーを聞きながら苦言。まあともあれ趣味が近いことが分かって?嬉しい。オースティンの街中からちょと離れた、その名もAustin Motelにチェックイン。藤井・田村はそのままサン・アントニオに地元トロンボーン奏者と演奏に出かけ、俺と吉田はペドロの案内で当地名物料理というものを食べに行く。でかいファミリーレストランのような所だが内装は古く、壁には演奏しているミュージシャンの白黒写真が沢山かかっている。「ここではライトニン・ホプキンスやジャニス・ジョプリン、ザッパなど色んな人たちが演奏してきたんだ。」と説明されびっくり。なるほど、じっくり写真を見るとジャニス、ザッパ、レオン・ラッセル、数々のブルースマン達・・・とすごい数だ。酒のメニューにも<ジャニスの特別オーダー>なんていうバーボン・ベースのものがあって「おお、すげえ」と感激する。料理のほうは、ステーキ状に平たくなった鶏のピカタでハッキリ言ってそれだけでした。夜はモーテルのはす向かいの小さい店でギターのビル・フリーゼルのライブがあったが洗濯をして寝てしまった。
レストラン ThreadGill's の壁のほんの一部。下の額の真ん中がザッパ、その右がジャニス。
ペドロ君、当地土産物のプレスリー・サングラスを着用。
転落後30時間経過の左足。自転車で
鍛え抜かれたスリムで美しい自慢の足首
が内出血でパンパン。
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テキサスはとにかく暑い。部屋では本当は避けたいのだが殆どエアコンを入れっぱなし。ホテルのプールで泳いだが足首がまだまだ痛くてクロールは出来ず、平泳ぎをたらたらするのみ。ま、リゾート・タイプのプールでムキになって泳ぐのも美しくない。 |
30日のオースティンの会場は教会で音の反響が物凄く、大浴場でやっているみたいだった。それでも大勢の観客はヤンヤの大拍手、スタンディング・オベーションをしていたのに一旦楽屋に引っ込んだらさっさと帰り支度をしている。ヘンなの。地元ラジオ局のジャズ番組のDJという長身の黒人がやってきて「ホントウニスバラシイ演奏デシタ。アナタハJaco Pastorius ガスキデスカ?」なんて見当違いのことを言われたが吉田君なんか Elvin Jones みたいだ、等と更にはずれたことを言われていた。夏やんは Don Ellis、これはかなり??、バンマスはなんと評されたか聞きそびれたが、大方オンナCecil Taylor くらいだろうな。
翌5月1日、ペドロの車でヒューストンへ向かう。昼食に招待を受けていた日本領事館へ。メンバーそれぞれ別のテーブルで当地の方々と親睦するようなセッティングになっており、上品なご婦人に「あなたの音楽のルーツは?」という趣旨の質問など受け「え〜、I started my carria as straight ahead jazz musician, ofcouse I played acoustic bass. But,え〜と、何だっけ、そんで、I was interested another music verymuch, and あー・・・」なんて具合でメシどころじゃない。ワインを飲みすぎて赤くなるのもみっともないので2杯でがまん。
夜の演奏はまたまた教会。しかしここは絨毯敷きだったので音はグワングワンにはならずにすんだ。夕方学生たちとワークショップ(いろんな組み合わせでインプロヴィゼーション)を行ってから本番。ここでも昨夜同様大歓声で大ウケだったのにあっさり人がいなくなりアンコールなし。ううむ、テキサスはコワイ。
2日はダラス経由の飛行機でサンディエゴに移動。ここの主催者ボニーおばさんはイカしてた。他のメンバーは彼女の家に滞在だったが俺だけ5km程のイタリア地区のホテル泊りだった関係でなにかと彼女の運転するTOYATA RAV4 に二人で乗る機会が多く、車談義やスポーツなど、話が弾んだ。ツアー中我々を乗せる車は押しなべて紳士的だったが彼女は頻繁に遅い車をののしるので俺もすっきりする。「あのビートルの色は珍しいでしょ?あれはネットでオーダーしてるのよ。」「今度のサンダーバードはとってもキュート、知ってる?走ってきたら教えるわ。」と、ずっとこんな感じ。週3回はボーイフレンドとジムでトレーニング、水泳の大会にもよく出るという63歳。ここは起伏が多く気候もいいので自転車には最高だ、と言われる。
3日当地での演奏は SpruceStreetForum 、画廊のようなところである。PAエンジニアのデヴィッドは以前はNYで活動していたベーシストだが、いたく俺の演奏を気に入ってくれ、「これは普通のものと全然音が違うから使ってみろ」とリハの時家まで取りに行って貸してくれた高品位シールドをプレゼントされた。
エンジニアのDavid Phillips
吉田、BonnieWright、早川、藤井
4日、ハリウッドの Rocco というクラブ。バスで午後早く着いたのに演奏は夜10時半からだ。思わず?となりのブロックの吉野家の牛丼をテイクアウト。味は同じだが肉が多すぎる。ホテルに帰ってビール&遅い昼寝。 ライブはまずまずの入りで、以前東京で何度かライブに来てくれていたカタギ留学中のベーシスト、ケンタロー君とも再会。
5日、最後の地、ポートランド・オレゴン。この旅の最北だが着いた日はホントに寒かった。街中は牛だらけ。ショーウィンドウの中にまでいる。300だか400頭だかいるそうだ。
演奏は6日。その名も<The Old Church>という由緒ある古い教会の、パイプオルガンのそびえ立つステージで演奏。観客数も反応もツアー最後を飾るにふさわしい盛大なものであった。勿論演奏もね。実に賑やかな主催のウィンター夫妻と仲間たちとでバーで打ち上げ。
7日、本来休みで8日出発の予定だったが1日早い便が取れたので変更。2時間半の睡眠で4:45起床。5時半、わざわざ起きて来てくれた(ホテル清算のついでか)郷子・夏樹夫妻(彼らはまだまだツアーを続ける)に見送られ、7時の便でスウェーデンに向かう吉田君と共に、こんな時間だというのに送ってくれるという親切な昨夜の観客の青年の車で空港に出発。7:30、アメリカン航空でサン・ノゼに向かい、ここで3時間も待ってようやく成田への機上の人となる。小型モニターで映画は3チャンネルやっているし(月が変わったから往路とプログラムが違う)、ガンガン飲んでもいいように通路側を確保したし耳栓もアイマスクもあるし、これでアスレチック・ルームがありゃあ長旅もいいんだが。
ともあれ、なんとか無事に終えることができたアメリカ・ツアー(未だに左足首は完調とは言えないが)。ごますりではないが、バンマス郷子氏はすごい。何たってこれだけ自力でブッキングしちゃうんだから。・・・11月に寒いこと間違いないフィンランドやイギリスのツアーをブッキング中なんだ、とほほ。
8日夕に帰国して1日おいてCOILや東京ナミイのライブやリハが続く中、ある筋から4年落ち東芝Dynabook SS6000 を譲ってもらった。12inchディスプレイにCPU266MHz、HD4.3GB、メモリー64MB(最大96)と、メモリ以外はこの死にかかっているiMac よりよっぽど良い。ただしバッテリがもう消耗していて充電出来ず、Dynabook専門店というカンバンの秋葉原チチブデンキで購入、\18,000也。これでモバイルばっちりと、その翌々日19日パリへ出発。梅津 KIKI Band。結果から言うと、パリでも次に訪れたケルンでもうまく繋がらなかった。まあ少しは空き日の曲作りに役立った。このページのUS tour -2 もこいつで書いた。MDをつないでスピーカーが鳴らせるので部屋に音楽を流せた。7月のアジア・ツアーまでにはなんとかしよう。
パリでは鬼怒に誘われルーブル美術館に行ったのだが地下鉄の改札を出てすぐ入館待ちの行列でビックリ。鬼怒の言うがままポンピドー・センターのパリ国立近代美術館に変更。丁度<シュールレアリズムの革命>という特別展をやっていた。エルンスト、ミロの多さが目立ったがダリ、マグリットからピカソなど豊富な内容に圧倒される。また、ロック小僧がそのまま大きくなったような鬼怒がアートに造詣が深いのも新発見だった。かく言う俺だって実は専攻は美学美術史学なのだがこちらは忘却の彼方。「ポンピドー?ムカシの大統領だろ、何があるんだよ、そんなとこ。」ってなもんである。久々にインテリに戻った一日であった。
ケルンの空き日には同宿の山下洋輔バンドのサックス、竹内直に誘われドラムの高橋君と3人でバスで街の中心地に行ったものの、宗教美術等を見るという彼等と別れ、電器屋と本屋を見てから観光名所だが今までケルンに来ても足を踏み入れたことの無かった大聖堂の五百何十段だかの狭い螺旋階段を登った。雨なので早々にホテルに帰り、買い込んだワインとチーズ、フルーツを前にじっくりとジロ・デ・イタリア第11ステージ、今年初の本格山岳コースのテレビ中継を観戦。終盤の見事なシモーニとカサグランデの一騎打ちに大興奮。
25日朝9時成田着。カミさんの運転でそのまま横浜に向かい、昼JazzPromenade 出演。開港記念館にて緑化計画。夜まで起きていたせいか時差ボケ感じず、翌朝多摩湖〜小沢峠のトレーニング・ラン65km。
28日、高円寺ジロキチに13oz (じゅうさんオンス)の対バンとして HAYAKAWA 初出演。対抗意識のせいか、メンバーなかなかテンションの上がったいい演奏だった。
31日、急遽制作案が浮上してきたソロアルバムの録音第1組として、林栄一<as>、藤井信雄<ds>とのトリオでレコーディング。パリで作った2曲、ウッドベース。百戦錬磨の二人、やっぱり良かった。全収録は7月18日終了予定。
連日のワールドカップ熱戦の中、6月17日 HAYAKAWA live at BUDDY。
1. ポルドイ (Pordoi) ;1月新曲に命名・・・ジロ・デ・イタリア山岳ステージの難所、ドロミテ山塊の峠名。
2. Tochi ;旧曲に昨秋新パートを付けて一応新曲ということにしたのだが曲名浮かばず。旧曲名なので変更予定。
3. アンモナイトの悩み;アルバム収録曲
4. No Shoes;アルバム収録曲
<休憩>
5. Pedal Tones
6. Emのバラード;最新曲仮題。バラードとは大ウソ。
7. バリタコ
8. 294ア;ルバム収録曲
アンコール. Triple Spirals
相変わらずの爆音。ご来場の方々、ご苦労様でした。メンバーも耳鳴りしていました。苦難を分かち合いましたね。さて、お知らせしたようにソロ・アルバムの制作に入ってはいるのだが、前回5月31日以来の録音第2弾を昨日行った。横浜のガンボ・スタジオで12時過ぎから、会長こと翠川敬基のチェロと私のウッドベースのデュオを録る。曲はD.U.B.時代の名曲<Tango>。旧録では84年のカセット・ブック「IQ84」とアルバム「DO-GWUWAW!」、それにドイツのITMレーベルで85年に作った「EightEyes and EightEars」がある。あのメンバー以外でやるのは初めて。ファースト・テイクでバッチリ、ではあったのだが14分超と長い。短めを心がけ2テイク目を録るが窮屈な意識の割にさほど短縮出来ず。しばし間をおき、3テイク目。これはしっかり手応えがあったのだがやっぱり10分超。改めてテイク1と聴き比べると整理されすぎの感がある。ファーストが内容盛り沢山で奔放だ。選択が難しいところ。
懸案事項ということで3時半頃会長お帰り、その後ウッドでのソロの録音に入る。曲はこれもD.U.B.のレパートリーだった「俺は悪くない」(「DANGER」Dr.梅津バンド+忌野清志郎/'82 収録)。あんまりの曲名は梅・片あたりにからかい半分に付けられたと思しいのでこれを機会に改名するぞ。で、演奏の方は苦労した。メロとベース・ノートを混在させて弾くにはCmというのはきつい。かと言って開放弦の使えるAmやEmにすると気分が出ない。やはり染みついたオリジナル・キーでやった。短すぎるくらいの予想だったのに録り始めてみると一人の悪あがきか、切りなく長くなってしまう。4,5テイクやったが結局テイク3に決定、8分弱。普通なら夜までやるところを7時前に帰途につく。なんて贅沢なスタジオの使い方だ。帰ってトルコ・セネガル戦を見た。いやあ、スゴイ試合でしたね、昼間の韓国・スペインと言い。
5/31:林栄一、藤井信雄と。モヒカンはガムテープ。
6/22:音合わせ中。私はカリンバを弾いているところ。
その86 ('02/ 7/9)ゆるゆる進行しているソロの制作、昨8日、ようやく先月22日以来のスタジオ入り。今回は一人で多重録音というプランである。そもそも今回のアルバムの構成はプロデューサーの脇谷氏の原案に殆どそのまま沿っている。このヒトリ録音もしかり。悩んだ末(スローペースだからたっぷり悩むヒマはあった)、曲は<Down Down>に決定。これもD.U.B.のレパートリーで過去には<Dynamite>('83年)や同年のメルス・ジャズフェスティバルでのライブ盤(ただしジャケットはミスで作曲:梅津になっている)に入っている。
ボロMacとローランドの音源で作ったシンプルなリズムパターンにMC924でメインのベースライン、それにAFRフレットレスに歪み系エフェクトでメロ、更にサズを重ねオマケにNSアップライトの弓弾き。ついでにダルブッカや鈴、わけの分からん笛も加えた。ここいらは大幅にカットするつもり。先週家でデモテープを作った時には久々に引っぱり出したヤマハの倍速カセットMTRが動かずミキサーとしての用しかなさなかったためいささか落ち込むようなものしか出来なかったが、さすがガンボ・スタジオ、豪華絢爛重厚荘厳になった。
D.U.B.の<D>以来17年ぶりのサズ録音。あのときのものは84年にイズミールで手に入れたフルサイズだったが今回は93,4年にイスタンブールで買ったジュラサズと呼ばれる小さめのもの。<D>の時のほうがテンポがやりやすくて上手く弾けてたなあ、残念。
その87 ('02/ 7/21)
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ソロ・アルバム制作最終段階。7月17日、女K-1戦士と異名を取るパーカッショニストの関根真理とのデュオを録音した。「ユニット作りましょう、<上腕二頭筋>っていうの。私の方が太いけど、ハッハッハ。」むむ、上背も俺よりありそうだし、チャーミングだが手ごわいやつだ。テキは16インチ・タムをキックにセットした変則ドラムセットにKORGのWAVE Drumというエレクトリック・パーカッションを乱打。こちらはIbanez MC924にワーミー・ペダルを2台(初期型のギター用赤とベース用青)にいつものエフェクター・セット、加えて80年代半ばに使っていたKORGのラック・タイプのデジタルディレイ・サンプラーまで引っ張り出して応戦する。曲はSALT<844>にも入っている「海東西」、簡単なリズムのキメ以外はインプロヴィゼイション。テイク4までやったが結局切り込み鋭いファースト・テイクに決まった。
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翌18日、最後の演奏。トランペットの渡辺隆雄とドラムの吉田達也にエレベでのトリオで2曲だ。ナベ&タツは初対面、曲もひとつはまだ音を出したことがない出来立て。多少の不安はあったものの、例によって細かい指示の無い俺の意向を汲み取ってくれた二人の協力により無事形になった。4拍子は苦手だというたっちゃんの要望により4分の5拍子、6拍子、8分の15拍子を組み合わせて作った甲斐もあったというもの。 19日、国立No Trunks で林栄一とデュオ。栄チャンは鬼気迫るものがあり素晴らしかった。そして翌日から KIKI Band で東南アジアツアー出発の筈がジャカルタのキャンセルがあったりして22日からに変更になったため、その空いた二日間にミックスダウンを行うことにした。そう、本日20日、今まさにスタジオで作業が進行しているろころだ。録音順に林・藤井との2曲が済み、翠川氏とのデュオにかかっている。明日までで残った分は帰国翌日の31日の予定である。素晴らしいモノにすべく頑張っちゃるぞー!!っと、頑張ってくれるのはガンボ・スタジオの川瀬君でした。
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7月22日午前11時25分成田出発、KIKI Band 4名+マネージャー多田葉子7時間のフライトでシンガポール着。今回ツアーの企画者であるマレーシア在住・西野氏(昨夏の梅津とのクアラルンプール・ギグの画策人)の出迎えを受ける。ホテルにチェックインしてから一休み後、海辺にチャイニーズのシーフードレストランが軒を連ねているところで食事。30分待ちで行列の、一番お勧めの店にどさくさに紛れて席を確保してしまう西野氏は実に頼もしい。おばちゃんが生きた海老をガラス鍋に入れて席まで持ってきて老酒をぶっかけ暴れるところに蓋をして調理場に引き返しやがて蒸されて出てくるのだが大変美味。残った汁も当然ながら旨い。その他たっぷりの黒胡椒にまみれたカニ、激辛空芯菜炒め、チャーハンなど、飲み物は当然シンハビールの生。皆はその後ライブをやっているクラブに出掛けたが俺は昨日殆ど寝ていなかったのに加え機内でもノートパソコンで曲を作ったりしていたので猛烈に眠く、一人引き上げた。
23日、午後旨い餃子屋があるからというので出掛ける。ショウロンポウと蒸し餃子、共にとろける感じ。その後3時から24日の公演会場のクラブでサウンド・チェック。ドラムの音決めに手間取るが5時半ごろ終了。夕食は西野氏の古い友人がやっている焼き鳥屋に。これがまた旨い。「世界数十カ国の焼き鳥屋に行ったが海外ではここしか無い!!」と断言する西野氏の言葉通りのものだった。終盤に「変わったものは?」というオーナーシェフの問いに勿論「食べます!」、しばらくして出てきたものがうめえ。ひょっとすると、と思ったとおりフォアグラの串焼き。ホテルでアレンジ作業をするというので来なかった鬼怒がカワイソウ。
その後、昨夜皆が行ったというクラブへ回る。70年代にS.ワンダーのバンドにいたというベースのクリスティ・スミス(勿論黒人)が率いるR&Bバンドのステージ。休憩後梅津が加わりアップテンポのBilly’s Bounce。次に俺が呼ばれウッドベースを借りSoftly As In A Morning Sunrise をやって大受けであった。1時半ごろ先に一人でホテルに帰りひっくり返る。
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小籠包 |
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24日、鬼怒に誘われチャイナタウンの簡易食堂で食事。ご飯にインゲン、目玉焼き、ポーク、ナスひき肉炒め、豆腐など適当に指差して乗せて3シンガポール$・¥180。味は大した事はなし。夕方会場入りして準備、近所の、昼と同じような店で食事、まあまあ。ライブは8時45分開始、2ステージを熱演。あまり入りは良くなかったが内容と音は良かった。打ち上げは昨夜のクラブ、そこがハネてからバンドの連中に誘われ別のクラブに行った。ここでやっていたギター&ヴォーカルの男がすんごく上手くてタマげたが睡魔には勝てず退散。
25日、2時過ぎチェックアウト。食事などをして6時20分の飛行機でマレーシアへ40分の旅。夜は昨年も写真を載せた中華食堂で食事。やはりカイラン炒めは旨い。メシの写真は昨年のものを見てね。<その61〜63>。夜中にラジオ番組に出演する梅津氏と別れ、去年演奏したライブハウス<No Black Tie>に顔を出した。ワインを飲んでいた筈なのに熟睡してしまったがステージが休憩に入ったところで丁度目がさめたので鬼怒、新井田氏をけしかけ楽器を借りて演奏、<Kiki>をガンガンぶっ飛ばす。我ながら立派である。おまけに英語でMCまでして「もう1曲やるかー?」と客をあおり<Vietnamese Gospel>をしっとり〜爆裂まで演奏。しかしステージを降りてちょっと飲んだら猛烈に眠くなり「じゃ俺行く」とさっさと帰ってしまった。翌日聞いたハナシでは無口な新井田さんが、俺が出て行った5秒後に「何なんだ、あの人は。」とボソっと言ったそうで鬼怒が大喜びしていた。
26日は27、8日の会場でサウンドチェック、リハーサルをする筈がホールに別のイベントが入ってしまいオフ。ホテルの朝食ビュッフェではコンチネンタルかお粥にしておけばいいものをついついチキンカレー、シーフードカレーをよそってしまう。おお、朝から辛いぜ!!部屋に帰ってうたた寝後、12時からホテルのプールで泳ぐ。ちゃんと四角いのでよろしい。白人のカップルが日光浴しているだけだ。8往復を4本やって上がる。25mで11〜12ストロークのところ9ストロークだったから17m位か。とすると1kmちょっとに過ぎないがまあいいか。部屋に帰ってビールを開けようとすると、マッサージに行こうという誘いコール。実は俺はプロのマッサージを受けたことがない。十数年前に整体治療に何度か行ったことはあるがそれは胃癌からの背中の痛みをいわゆる腰痛だろうと思っていたからで手術後は縁がない。というワケで未知の体験に繰り出すことにした。
西野氏に連れられゾロゾロと高級ナイトクラブ風の構えをくぐる。こんな雰囲気、知らなきゃ絶対引き返すところだ。若いボーイ達にかしずかれデカパン一丁に着替えてまず浴場。ジャグジーにサウナ、冷水浴を済ませて新しいデカパンとローブを着せられて休憩室。女性達に飲み物を供されしばしくつろぐ。そしていざマッサージ室へ。薄暗い部屋は紗布で優雅に20位のマッサージ台ごとに仕切られていて妖しい王宮風。皆バラバラの台に導かれ、俺の担当は小柄なマレー女性だった。ローブを脱いで台にうつ伏せになる。顔のところは穴があいている。タオルをかけられマッサージ開始。この手の台には一度しか乗ったことがないが、どうも位置が悪いのか、背中の上の方を押されると首が締まって苦しい。そのうち膝を使い始めたようで「イデデデ」と声が出そうになるがまだ早すぎる。先程から鬼怒の悲鳴やくすぐったがっている声が聞こえる。手のひらも膝で押されたあと、どうも背中に立ち上がった模様。その後も、こちらが床しか見えないのをいいことに屈強な男に入れ替わったんじゃないかというような強力な施術が続きついに二度三度と悲鳴を上げてしまった。40分。確かにうら若い女性だったことを確認して「身体が軽くなりました、ありがとう」と礼を言いフラフラと再び休憩室へ行き一休みして帰った。鬼怒以外は皆満足のようであるが俺は良くわからない。鬼怒は足の長さが左右違ったみたいで歩きにくくなったと言うが、それは今までバランスが悪かったのが直ったのかも知れない。
夜は街中から少し離れた住宅の多い界隈のインド・レストランでカレー三昧。そのあと市内のジャズ・フェスを見に行った。昨年共演したインド人ドラマー、ルイスの参加しているバンドも出ていて観客も多く盛り上がっていた。明日、明後日はこちらと重なっているのだが、何たってこのフェスは無料らしい。その後昨夜に続き No Black Tie に場所を変えるが女性ヴォーカルとピアノ・トリオ+ギターだったか、まああまり面白くなかったので先に帰った。27日クアラルンプール公演初日。会場はかなり広いクラブだ。東京で言うとOn Airやかつてのパワーステーション以上かも知れない。ステージ位置がすごく高くて観客は首が疲れそう。PA機材はなかなかのものが運びこまれ、自身もベースを弾く西野氏は「いやあ、低音バコーンと出て気持ちいい!」と上機嫌。アンプは氏の所有のSWRとリースの初めて見るLANEYを重ねて鳴らす。本番もバキーンと行きました。終了後は店の外のカフェテラス・スペースにてビールで乾杯。そのあと総勢20名くらいでドイツ・パブで飲む。更に車に分乗してKL初日の中華食堂へ乗り込む。ここでおそらく午前3時半頃、酒を飲まない素面の鬼怒と腕立て伏せ対決を決行。油じみた床で鬼怒が17回でダウン、俺は38回まででやめておいてやった。がはは。
28日。二日酔いながら、自転車合宿だったらこれ以上酷い状態でも山を走るんだからと奮起してプールで泳いだ。3往復目で右腕付け根がつってしまった。一体なんだ?ということでようやく昨夜の腕立ての記憶がおぼろげに甦る。こんな有様なので計12往復で無理せずやめた。昼食はここも昨年訪れた「新峰肉骨茶」SunHongMukKootTeh。お茶をベースにしたスープに骨付き豚、白菜、湯葉、油揚げ、えのきが入った鍋物。薬膳っぽい。ゆっくり昼寝後会場入りしてサウンドチェック。本番は昨年知り合った人たちも前日以上に来てくれ、いい出来だった(ようだ)。今回はIbanez MC924 を持参したが、西野氏のInnnerWood製ジャズベタイプ・フレットレスも2曲使用した。打ち上げは去年明け方に訪れたお粥屋。ここで腹を落ち着かせてからアイリッシュ・パブへなだれ込み黒ビール。成功に盛り上がる西野氏は更に飲みに行きたがったがバンドは皆疲労困憊、ホテルへ。送ってくれたM女史をワインでもてなそうと試みるがあっけなくつぶれる。
29日午後ホテルをチェックアウト後、手広い西野氏の事業のひとつである日本式ラーメン屋にて昼食。ここがうまいのは去年も記載済みだ。そこから官公庁街の学校の中にあるルイスと西野氏の共同スタジオを見学。ルイスが制作中の、アジアの様々なリズム・パターンをドラムキットに置き換える素材集を試聴。膨大な数である。すぐに曲が浮かびそうな面白いパターンが沢山あった。No Black Tie で夕食後空港へ向かい23時発の便で帰国の途についた。
「骨肉茶」の店頭席冷却ファン。管で後部に水が送られ噴霧されるという荒っぽい冷房装置。他でも見かけた。涼しがっているとすっかり湿ってしまう。