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----- トミサンペツ シヌタプカ (浜益の歴史) を想像すると -----

遠い昔、対馬海流交易圏(日本海・オホーツク海)の津軽から知床までの後の
場所請負制の所謂、上場所と千島海流交易圏(太平洋)の知床から恵山岬までの下場所
二つの交易圏があり樺太は、日本海側交易圏に属していたと考えられます。

千島列島・知床半島は、その境に位置していて択捉島(チュプカ)はどちらにも関係していて
ユーカラに良く出てくる地域。現代人の想像を遙かに超える交易がダイナミックに展開して
いたと思われます。アイヌは文字を持って居なかったので、情報を残したりするのに
シュムンクルの都、沙流でユーカラとかウゥエペケレ(噂話・四方山話)として残した。

矢張り、蝦夷第一の河川流域の石狩川が注ぎ込む石狩湾を守ることが日本海側交易圏の
人々にとって必須だったと思われます。
その歴史をカムイウゥエペケレとかユーカラにして記録していたのだと思われます。

1、Kamui uwepekere ユーカラが出来た訳(アイヌラックルとポイヤウンペが仲良くなる)
2、Wendarap yukara (アイヌラックルとポイヤウンペがオホーツク人の侵攻を防ぐ) 
3、後、何百年も色々な処から命と宝を狙われる・・・8世~13世紀 ?          ・
4,アイヌラックルもイケスイ(何処かに行って居なく成る)してつまらなく成る。    ・
5,最後のユーカラ(妹が人攫いに遭い大きく成って取り戻したら又、神の謀略に遭う)
6,そしてポイヤウンペもイケスイして居なく成る。・・・時代は不明            ・

7、1663年の有珠山噴火の時は既に居ないとされる Kamui sonko(神のお告げ)有る
8、1669年 寛文蝦夷蜂起が勃発・・・この時マシケ(浜益)と余市も参加する    ・
9,1707年場所請負制で浜益がマシケ場所として管理される・・・・・〆一と云う者に
アイヌ只で酷使される。
10、1751年 現在の増毛とに請負場所が二分される                   ・
11,1778年 根室の乙名ションコに対して松前奉行所から『定』の書状が届く   ・
この時、起こった話しを Kaneran uwepekere で残す。
12、1789年 メナシ・クナシリの乱 没発                          ・

13、1859年~1868年まで浜益に庄内藩の陣屋が置かれる。            ・
14、明治の初頭800人くらいだった浜益の人口、昭和30年9000人をピークに  ・
ニシンが獲れなくなって人口が減って・・・現在1300人くらいだそうです・・・
自然の要害としての条件が揃っていた浜益が古代の軍事的要所だった事、納得(^_^)v

2018/02/11