home > 闘牛の知識 > 闘牛の歴史
闘牛場
闘牛の魅力
闘牛の楽しみ方
闘牛の技
闘牛の種類
闘牛の歴史

• 戦 前
沖縄闘牛の起源については諸説があり、統一された定説はない。留意すべき点としては社会現象として人々に認知され、一部の地域でそれが習慣化し始めた時期。現存する資料を分析、整理すると、明治の後半というのが無難な結論となるようだ。明治40年4月の地元新聞には"牛闘"という表現で闘牛大会の様子が詳しく書かれている。

盛んに闘牛が行われている地域として現在の糸満市、具志川市、勝連町、与那城町を挙げている。糸満市と勝連町での闘牛は消滅したが、具志川市と与那城町では今も闘牛が盛んだ。大会の状況は現在とほとんど同じで、100年以上も前の事とは思えない程だ。その後大正時代までは“農村の娯楽 ”として位置付けられ、各地からの見物客を増やしながら全県に知名度を上げていったと推察される。

昭和に入って、戦争の足音が聞こえてくる頃には当然のごとく、闘牛大会を非難する新聞記事が登場。昭和10年8月の新聞では闘牛に耽って退廃した部落があり、当時の県農務課で指導に乗り出した云々が載っている。そして、昭和11年5月には闘牛を廃止する村があるとの記事も出ている。全般に混乱しつつある様子が伺えるが、筆者のヒアリング(現闘牛界の古老の方々より)では太平洋戦争が激しさを増す直前まで、地域によっては粛々と挙行されていたようだ。(記事はクリックで拡大表示)

闘牛が完全に途絶えたのは昭和19年から21年にかけての3カ年、つまり沖縄が戦場となった時期(昭和20年4月〜6月)の前後はまず、開催は不可能だったと考えられる。しかし、戦後の廃墟から心身共に立ち直りを見せはじめた昭和22年から、規模はともかく、闘牛大会が復活していたようだ。このあたりの事情は先程のヒアリング同様、関係者の記憶に頼るしかない。

• 戦 後
大戦を挟んで、闘牛は大きく変化を遂げる。それは、有料化(戦前は入場料を取っていなかった)によって、興業性が確立、以後大衆娯楽としての発展を遂げていくプロセスへの転換だ。昭和25年1月の新聞(うるま新報)の広告欄に闘牛大会挙行の案内が掲載されているのはこのあたりの変化を物語っている。ここから、昭和35年頃まで、各地で有料制の闘牛大会がそれ以前に比べて、頻繁に開催されるようにになり、芝居や映画と並んで娯楽の定番としての地位を固めていく。(記事は昭和25年(1950年)1月27日のうるま新報より。クリックで拡大表示)

昭和36年10月、県内各地に群雄割拠していた多数の闘牛組合の上部組織として、沖縄県闘牛組合連合会が結成されると、闘牛ブームに火が付き、一気に人気の頂点を極める。ブームが起きた大きな原因として、マスコミ、とりわけ新聞が闘牛を維持、発展させるべき伝統的娯楽として扱ったことがあげられる。折しも、スター牛(荒岩号、ゆかり号など)の輩出が追い風となり、闘牛ファンのすそ野が大幅に拡大、名実共に大衆娯楽の地位を確立した。1つの大会で、1万人の観客を集めることもしばしばで、昭和40年頃まで闘牛人気の絶頂期となる。

その後、沖縄祖国復帰の年、昭和47頃年まで、多少の人気のブレを繰り返しながら闘牛ブームは続く。昭和50年代はブームが終息し、一方で娯楽の多様化もあって長い低迷期を経験することになる。そして、昭和60年代に入って、小規模ながら、第二次闘牛ブームがあった。このブームは3年間と短めだったが、沖縄観光大躍進の時代を迎え、イベント重視の観点から、有望な観光資源として注目を集めるに十分な役目を果たしている。

 
Copyright © 2008 Togyu in Okinawa all right reserved.