メルマガメッセージ集1

長島龍人のメールマガジン「お金のいらない国」のメッセージ集です(1〜100号)。

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1号(2007年2月12日)
2号「お金社会の生んだもの」(2007年2月26日)
3号「今まで、そして『地球村』との出会い」(2007年3月12日)
4号「お金と仕事」(2007年3月26日)
5号「経済社会の限界」(2007年4月9日)
6号「お金と所有」(2007年4月23日)
7号「続・お金と所有」(2007年5月7日)
8号「物々交換」(2007年5月21日)
9号「競争社会とお金」(2007年6月4日)
10号「続・競争社会とお金」(2007年6月18日)
11号「結婚制度」(2007年7月2日)
12号「続・結婚制度」(2007年7月16日)
13号「独占欲と嫉妬心」(2007年7月30日)
14号「人間関係三箇条」(2007年8月13日)
15号「続・人間関係三箇条」(2007年8月27日)
16号「お金のいらない国2の誤解」(2007年9月10日)
17号「必要なことが、必要な時に起こる」(2007年9月24日)
18号「続・必要なことが、必要な時に起こる」(2007年10月8日)
19号「人間の多様性」(2007年10月22日)
20号「続・人間の多様性」(2007年11月5日)
21号「それぞれの役割」(2007年11月19日)
22号「9.11の真相!?」(2007年12月3日)
23号「かえるくんの葉っぱ」(2007年12月17日)
24号「来年もよろしくお願いします」(2007年12月31日)
25号「マニュアル人間」(2008年1月14日)
26号「続・マニュアル人間」(2008年1月28日)
27号「子どもがほしいという感情」(2008年2月11日)
28号「お地蔵さまと魔法の薬」(2008年2月25日)
29号「オリジナル曲」(2008年3月10日)
30号「モノとお金の交換について」(2008年3月24日)
31号「お金社会の三箇条」(2008年4月7日)
32号「木の花ファミリー」(2008年4月21日)
33号「反省と修正が成長への道」(2008年5月5日)
34号「重要なのは言った人ではなく、言ったこと」(2008年5月19日)
35号「いいとこ取りをする」(2008年6月2日)
36号「動物と人間」(2008年6月16日)
37号「生きる目的と、その発想の源」(2008年6月30日)
38号「人生の主役」(2008年7月14日)
39号「ユートピアのイメージ」(2008年7月28日)
40号「続・ユートピアのイメージ」(2008年8月11日)
41号「足ることを知る」(2008年8月25日)
42号「続・足ることを知る」(2008年9月8日)
43号「9・11事件の真相は?」(2008年9月22日)
44号「おすすめの本」(2008年10月6日)
45号「ノーベル平和賞と911事件」(2008年10月20日)
46号「左脳と右脳」(2008年11月3日)
47号「9・11事件真相究明イベントを終えて」(2008年11月17日)
48号「うつ病を克服した友人」(2008年12月1日)
49号「ある村長の勇気ある発言」(2008年12月15日)
50号「戦争について」(2008年12月29日)
51号「広島、原爆ドームを訪ねて」(2009年1月12日)
52号「ホ・オポノポノの解釈−1」(2009年1月26日)
53号「ホ・オポノポノの解釈−2」(2009年2月9日)
54号「ホ・オポノポノの解釈−3」(2009年2月23日)
55号「お金のいらない世界に至るまで−1」(2009年3月9日)
56号「お金のいらない世界に至るまで−2」(2009年3月23日)
57号「イネイト整体」(2009年4月6日)
58号「日本人が知らない恐るべき真実」(2009年4月20日)
59号「落語はいかが」(2009年5月4日)
60号「長島龍人の新刊」(2009年5月18日)
61号「この先どうなる」(2009年6月1日)
62号「長島龍人のブラックショートショート」(2009年6月15日)
63号「お金のいらない国が教材に」(2009年6月29日)
64号「バシャール−1」(2009年7月13日)
65号「バシャール−2」(2009年7月27日)
66号「ホ・オポノポノとバシャールから気づいたこと」(2009年8月10日)
67号「9.11事件の真相は?〜ビル崩壊の謎を解く〜」(2009年8月24日)
68号「与えることと受け取ること」(2009年9月7日)
69号「柳家喬太郎」(2009年9月21日)
70号「三英傑」(2009年10月5日)
71号「ダム建設問題」(2009年10月19日)
72号「9.11事件の真相は?〜ビル崩壊の謎を解く〜」(2009年11月2日)
73号「タオ・コード」(2009年11月16日)
74号「続 タオ・コード」(2009年11月30日)
75号「9.11事件真相究明イベントを終えて」(2009年12月14日)
76号「ゲームオーバー」(2009年12月28日)
77号「落語をYou Tubeにアップしました」(2010年1月11日)
78号「働くということ−1」(2010年1月25日)
79号「働くということ−2」(2010年2月8日)
80号「平成22年2月22日」(2010年2月22日)
81号「しないこと」(2010年3月8日)
82号「安部芳裕さんの新刊」(2010年3月22日)
83号「初めての骨折、入院、手術」(2010年4月5日)
84号「骨折して思ったこと」(2010年4月19日)
85号「レムリア・ルネッサンス」(2010年5月3日)
86号「お金のいらない国 発想の原点−1」(2010年5月17日)
87号「お金のいらない国 発想の原点−2」(2010年5月31日)
88号「お金のいらない国 発想の原点−3」(2010年6月14日)
89号「口蹄疫騒動に思う」(2010年6月28日)
90号「FIFAワールドカップ終了」(2010年7月12日)
91号「スピリチュアリズム−1」(2010年7月26日)
92号「スピリチュアリズム−2」(2010年8月9日)
93号「スピリチュアリズム−3」(2010年8月23日)
94号「唯物論者から唯心論者へ」(2010年9月6日)
95号「大切なのは今をどう生きるか」(2010年9月20日)
96号「許されることの辛さ」(2010年10月4日)
97号「悪いこととは」(2010年10月18日)
98号「講演のご依頼はお気軽に」(2010年11月1日)
99号「少女時代にはまっています」(2010年11月15日)
100号「100号 ありがとうございます」(2010年11月29日)

1号(2007年2月12日)

みなさん、こんにちは。長島龍人(りゅうじん)です。
メールマガジンに登録していただき、ありがとうございます。
これからみなさんと、社会のこと、生き方のことなど、
いろいろ楽しく考えていきたいと思います。よろしくお願いします。

まずはちょっと自己紹介を兼ねてお話しさせていただきます。
ご存じと思いますが、僕は「お金のいらない国」という小説の作者です。

1958(昭和33)年、東京生まれですが、
もう二十数年名古屋に住んでいて、ずっと広告代理店に勤めています。

僕の仕事の中でも、お金に関する仕事はかなりあります。
とても面倒で、やっかいです。いろいろと問題も起きます。
ある時、お金はやりとりしているだけのものなんだから、仕事さえすれば、
そんなやりとりなんてやめてしまえばいいんじゃないかと考えました。

想像していくと、すごいことに気づきました。
もし、お金が存在しなくなったら、お金に関する仕事はすべていらなくなる。
いったいどのくらいの仕事が必要なくなるだろう。
そうしたら、どんなに楽になるだろう。
そうなって困る人がいるか?
いや、お金が存在しないのだから、お金がなくて困るということはない。
そうなったら、やりたいことをすればいい。みんな何をするようになるだろう。

お金が存在しなくなったら、お金に関するトラブルはすべてなくなる。
お金がないための不自由さ、苦しみもなくなる。
ものはあるところからないところへ自然に流れるのではないだろうか。
飢餓貧困、不公平もなくなるのではないだろうか。

お金が存在しなくなったら、単にものを所有しているということには
意味がなくなるのではないだろうか。
余分なものは作る必要も、持っている必要もなくなるのではないだろうか。
お金の存在しない社会ってなんておもしろいんだろう。

いや、お金は人間が考え出した道具。はじめはなかったものだ。
今の社会ではお金がないと生きていけないのは、
人間がそういうシステムを作ってしまったからにすぎない。
お金の存在しない社会こそが自然な、本来あるべき世界なのではないだろうか。

1993年、「お金のいらない国」という短編小説を書きました。
この現代社会の青年が、お金のいらない国に迷い込んで
さまざまな体験をするというストーリーです。
ホームページなどで紹介していましたが、2003年に出版しました。

まだ、お読みでない方はぜひ読んでみてくださいね。
「お金のいらない国」はそれ以降シリーズ第3弾まで出版され、
今月2月25日に第4弾が発売になります。

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2号「お金社会の生んだもの」(2007年2月26日)

みなさん、こんにちは。
第1号は、僕が、本当はお金なんていらないんじゃないかと
考えているというお話しをしました。
はじめて聞かれて、びっくりなさった方も
いらっしゃるのではないでしょうか。
ありえないよ〜、なに夢みたいなこと言ってんの?
お金がもらえないんだったらきっと誰も仕事しなくなるよと
思われたかもしれません。

そうですね。今の世の中、ほとんどのことが
お金がなければ動かなくなっていますから、
そう考えられるのも当然と思います。

では、お金がもらえなかったら、仕事はしなくていいんでしょうか。
言い換えれば、私たちはお金のために、
本当はしなくていい仕事を毎日一生懸命しているってことですか。

そうなんです。もちろんすべてではありませんが、
実は、このお金社会は、お金のために生まれている、
本来は必要ない仕事がものすごく多いんです。

そして、お金はなるべくたくさんあった方がいい、
お金をたくさん儲けたい、お金持ちになりたいと多くの人が望んでいるから、
困ったことに仕事の目的がお金儲けにすりかわってしまっているんです。

だから新しいものをどんどん作らなければならない。
どんどん売らなければならない。
どんどん捨てて、どんどん買ってもらわなければならない。
もっと会社の売り上げを伸ばして、もっと会社を大きくしなければならない。
もっと、もっと、もっと!

そうやって日本のような経済社会は発展してきました。
しかし、その結果、何が起きたか。
致命的な環境破壊。森林伐採とCO2排出による地球温暖化。
世界的な極端な貧富の差。飢餓貧困。

よくよく考えていくと、
みんな根本的な原因はお金が関連していることに気づきます。
お金がなければ生きていけなくしてしまったシステムの中で、
お金儲けの競争をしてきた結果が今の社会なのです。

地球は今、存続できるかできないかの瀬戸際に立っています。
お金中心の社会は、永続不可能であることがはっきりしています。
今こそ、皆がそれに気づき、本当に大事なことは何かを考え、
動き出さなければいけない時なのです。

社会からすぐにお金はなくせないでしょう。
無理になくしても、その意味が理解されていなければ混乱を招くでしょう。
本当に大事なのは、お金をなくすことより、
一人でも多くの人がお金の本質を理解し、
お金に縛られない生き方をすることです。
お金中心の価値観を変え、どのような生き方をすれば
地球、そして私たちの社会が存続できるかを一人ひとりが考え、
できることからはじめることです。

自分は大したことはできないと思われるかもしれません。
でも一人ひとりが変わり、すべての人が変わったら、
永続可能な社会は必ず実現するでしょう。
まず、あなたが自分で考えること。そして変わり、動くこと。
これはものすごく大きな意味のあることです。

さあ、どう動くか、一緒に考えていきましょう。

 

※環境問題に関するおすすめの本

「新地球村宣言〜世界再生への道〜」
高木善之著 ビジネス社

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3号「今まで、そして『地球村』との出会い」(2007年3月12日)

僕が「お金のいらない国」という小説を書いたのは
1993年ですから、もう十数年前です。
ワープロで打ったものをプリントしてコピーし、
簡単に製本して身近な人に配っていました。
その頃はだいたい「ふうん、変わったこと考えてるんだね」
くらいの反応でした。

1999年にホームページ「人間って何だ?」を立ち上げ、
その中に掲載すると、ネット仲間になった人たちから、
「お金のいらない国」やショートショートを
おもしろいと、気に入っていただきました。

2002年、ひょんなことから、やはりネット上で
知り合ったグループが「お金のいらない国」を絶賛。
バンドで音楽をやる人が多かったので、
2003年にそのグループでイベントをすることになりました。
それに合わせて「お金のいらない国」の本を出版し、
寸劇も作ろうということになりました。
本は新風舎から自費出版。
寸劇は、音だけ録音しておいてそれに合わせて演じる方法を考えました。

2003年7月に、岐阜県可児市で200名くらいのイベントをしました。
僕は「お金のいらない国」の寸劇とお話、日本語のイマジンを歌いました。
今の活動のキックオフでした。

2005年1月、知り合いを通じて
ネットワーク『地球村』(※1)の会員の方と出会いました。
自己紹介代わりに一人芝居を見ていただくと、
「愛・地球博」(愛知万博)の『地球村』の参加する市民プロジェクト
「ストップ・ザ・温暖化キャンペーン(STOC)」(※2)に
ゲスト出演してほしいと言われました。

4月のリハーサルのときにはじめて
ネットワーク『地球村』代表の高木善之さんとお会いしました。
寸劇を見ていただくと、立ち上がって拍手をされました。

高木さんは、環境問題をはじめ、この経済中心の社会の不自然さ、
人の生き方についてなど、長年、講演活動をされている方です。
「お金のいらない国」はまさに高木さんの考えられていた
本来のあるべき社会像、未来のビジョンだったようです。

「愛・地球博」終了後も、高木さんのワークショップに
度々呼んでいただき、寸劇などをさせていただくようになりました。
本も『地球村』出版から
「お金のいらない国2〜結婚って?家族って?〜」
「お金のいらない国3〜病院の役割は?〜」
と出版していただき、「お金のいらない国」も
若干の修正を加えて改訂版を出させていただきました。
そしてこの2月に、新刊「お金のいらない国4〜学校は?教育は?〜」
が発刊されました。

後にお知らせがありますが、
高木善之さんの講演会やワークショップには
ぜひ一度参加されることをおすすめします。
この社会がいかに不自然か、また、人間本来の生き方に気づき、
きっと目からウロコが落ちるのではないかと思います。

僕が何の気なしに書いた短編小説「お金のいらない国」は
こうして多くの人に知っていただくことができました。
これからも出会いを大切に、
感謝の気持ちで伝えて行きたいと思います。

寸劇などのご依頼はお気軽に。
ご連絡お待ちしています。
info@nagashimaryujin.comまで

 

※1 ネットワーク『地球村』は、永続可能で
平和な社会の実現を目指すNPO(市民ネットワーク)です。
http://www.chikyumura.org/

※2 ストップ・ザ・温暖化キャンペーン(STOC)
http://www.stop-ondanka.com/

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4号「お金と仕事」(2007年3月26日)

今の社会では、人々の概念として、
お金と仕事がぴったりくっついていますね。
これを切り離すのは至難の業。

何をするにもお金がついて回る、
とにかくお金がなければ生きていけない社会ですから、
お金のために仕事をするのだ、お金がほしいから仕事をするのだ、
という概念が植えつけられてしまったんでしょう。
でも、よく考えてみると、お金にならない仕事って
すごく大切じゃありませんか?

例えば、家事や子育て。
人間が生まれ育ち、生きて行く上で最も重要な仕事のはずなのに、
他にお金になる仕事を、
自分か、生計を共にする家族の誰かがしていないと
こんな大事な仕事にも専念できないのが今の社会です。

だから、お金を稼ぐ仕事をしている人がえらいなどという
おかしな価値観が生まれてしまう。
昔から、子育てしているお母さんより、
外でお金を稼いでくるお父さんの方がえらいなんて意識や風潮
ありませんでしたか?

お金をもらえない行為はなかなか仕事として認められない。
ボランティアなんかでも
よくやるね、ひまなのね、遊んでるんでしょ、
そんなことしてないでちゃんと仕事しなさい、
世間ではそんな反応多くありませんか。

災害時のようなわかりやすい場合もありますが、
ボランティアによって多くの人や自然が救われたり、
潤ったりしていること、たくさんあると思います。

お金で価値判断していると、
本当に大事なことを忘れてしまいそうですね。

・・・

人間や動物にとって一番根本的な仕事は何かといえば
食べ物を得ることでしょう。
いざというときにはそれができる人が一番安心ですね。
都会を離れて農業に従事する人が増えているのも
本能的なものと言えるかもしれません。

今の社会は分業化が著しく進み、
仕事が生きることに直結していることが感じられず、
自分が何をしているのかわからないようなことも
多いのではないでしょうか。
会社などでも、自分がやめても代わりはいくらでもいる、
だからおもしろくもなければやりがいもない。
でも、クビにされては生活に困るから
ただお金のために仕方なく続けている。
そんな空しい状態の人も多い気がします。

本当はお金と仕事は切り離して考えるべきもの。
お金はもともとは存在しなかったものなんですから、
お金の存在しない社会になっても自分がしたいと思う仕事が
本当にすべき仕事なのではないでしょうか。

考えてみてください。
お金が存在しなくなったらどのくらいの仕事が必要なくなるでしょう。
お金のいらない国になっても、あなたは今の仕事を選びますか?
お金のいらない国になったら、あなたは何がしたいですか?

自分のすることで誰か一人でも喜んでくれることはないか。
自分の本当にやりたいこと、自分にしかできないことは何か。
時間がかかってもいい。結果はすぐに出なくてもいい。
お金のためじゃなくて、自分が本気で打ち込める
やりがいの感じられる仕事はなんだろう。

さあ、自分の心に問いながら、自由に想像してみませんか。
お金のいらない国にはすぐにはならないだろうけど、
今の社会でもやれそうなことはすぐに始めてもいいし、
今の仕事を通してできるならすばらしいことだし。
何か思いついたことを始めてみませんか。

ためらっていないで、一歩踏み出してみませんか。

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5号「経済社会の限界」(2007年4月9日)

今の社会は貨幣経済の社会です。
仕事をしたらお金をやりとりし、
利益を生むことによって自分の収入を得ます。
お金は腐らないのでいくらでも貯めることができます。
たくさんお金を持っていればほしいものが買えるし、
いざというとき安心だし、
人からもすごいと思ってもらえるかもしれません。
だから、お金はたくさんあったほうがいい、お金を稼いで何が悪い、
自分の稼いだお金は自分のものだ!となるわけです。

多くの人がそれをよしとして生きてきました。
とにかく働いてお金を稼ぎ、できれば金持ちになることが
人として正しい生き方なのだろうと信じてきました。
きっとこの経済社会は、誰かがちゃんと考えてできたんだろう。
この社会の価値観に従って生きれば間違いはないのだろう。

しかし……どうも様子がおかしい。
ものは増えたが、果たして豊かになったんだろうか。
人々は幸せになったんだろうか。
働き過ぎで体を壊したり、精神を病む人も増えている。
どんどん環境は破壊され、資源は失われている。
異常気象が起き、いじめや犯罪も増えている。
飢餓貧困は増え、いまだに戦争も起きている。
この社会は何か間違っているんじゃないか。
このままで大丈夫なんだろうか。

        ***

経済社会は競争の社会です。
お金は、受け取った人は増え、払った人は減ります。
お金はトータルで見ればゼロサム(プラスマイナスゼロ)。
限りあるものを奪い合っているだけであり、
みんなが豊かになることはないんです。
経済社会で金持ちになるということは、貧しい人を作るということです。

国際間ではかなり不公平な取り引きがされていますから、
先進国が豊かになれば、発展途上国は貧しくなります。
実際、私たちが飽食をしている間に、
貧しい国では一日に4万人以上の人が餓死しています。

森林は先進国に安く買いたたかれ、どんどん伐採されていきます。
現在の森林の価格には、再生にかかる費用が含まれていませんから、
そういう意味では極端に安く、自然は破壊される一方です。
また、再生不可能で埋蔵量にも限界のある石油を使いたい放題に使い、
燃やすことによって、二酸化炭素が増加、地球温暖化が起きました。

私たちの経済社会はそういう欠陥だらけのシステムなのです。
金持ちに有利なようにできている上、永続を全く考えていないのです。
また、お金を借りた人が利息をつけて返さねばならず、
金持ちは放っておいてもお金が増えるようなシステムでは
貧富の差はつく一方です。
このシステム、価値観の経済社会はもう限界でしょう。

お金は、人体でいえば血液のようなものです。
循環させずにどこかにためてしまうと、健康を害します。
社会が道具としてお金を必要とするなら、
お金がうまく循環するようなシステムを作らなければなりません。

例えば、ものは再生などを考えた適正価格にする。
所有できる財産に限度を設ける。相続は認めない。
お金に使用可能な期限をつける、などでしょうか。
お金がスムーズに循環するシステム、あなたも考えてみませんか。

しかし、お金をなくしてしまえばそんな決めごとも必要ありません。
お金のいらない国ではすべての人が平等であり、貧富の差はありません。
誰もお金の心配をする必要はありません。
貧富の差がある社会より、
みんなが幸せに生きられる社会がいいと思いませんか。

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6号「お金と所有」(2007年4月23日)

もし、お金が存在しない社会だったら
あなたは何を持っていたいですか。

その社会の前提としては、
食べ物や生活用品は何でもお店にそろっていて、
いつでも好きなだけもらってくることが
できるということにしましょう。
家も自由に選べます。
さあ、あなたはどんな家に住んで、何を持ち、
どんな生活をしたいと思うでしょう。

大きな家で、豪華な家具や、高級な品々に囲まれて
暮らしますか?
毎日、高級食材を使ったグルメ料理を食べますか?
それもいいでしょう。
お金のいらない社会では、
お金のいる社会であこがれるような暮らしも
その気になればいくらでもできます。

ただ、お金のいる社会と違うのは、
自分が何を持ち、どんな生活をしようと
誰もうらやましがってくれないことです。
すごいなあとも、いいなあとも言ってくれません。
その代わり、余計なものを持っていると、
なぜ、そんなものを持っているの?
と聞かれるかもしれません。

お金のいらない社会では
その気になれば誰でも何でも手に入れられますから
何かを持っていることで人より優位になることはありません。
また、いつでも手に入るのですから
今使わないものを持っていても邪魔なだけでしょう。

お金のいる社会で
値段の高いものを持っている人がすごいと思われる理由は、
それが買えるくらいのお金持ちだからです。
あるいは、それを売ればお金になるからです。
やっぱりお金社会では、
お金を持っている人がえらいみたいですね。

お金のいらない社会では所有という概念がなくなるでしょう。
ものはすべて借りているという状態ですから、
自分のものという意識はなく、
必要なら手元に置き、必要なくなれば必要な人にまわすか、
お店に返すだけです。

物の代用品であるお金が存在することによって、
所有という意識が生まれるのは不思議ですね。
やはりお金の、無限に貯められるという性質が、
限りない所有欲を生んだのでしょうか。

お金のいらない社会になったら、
人々は、必要なものを必要なだけ持ち、
必要なだけ使って暮らすのではないでしょうか。
余計なものを作る必要も、手に入れる必要もなく、
資源もエネルギーも必要最小限で済むのではないでしょうか。

そうしたら人々は必要なだけ働けばよく、
働きすぎて病気になることも
精神をおかしくすることもないのではないでしょうか。
いいことずくめだと思いませんか?

お金のいらない社会は、永続可能で
みんなが幸せに生きられるのではないかと思います。

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7号「続・お金と所有」(2007年5月7日)

所有って何でしょう。
自分のもの?
自分のものって何でしょう。
お金を出して買ったもの?

でも、その所有しているものって
自分ではないですよね。
自分とくっついているわけではない。
自分の隣にあるだけ。

そのものはどこから来たんでしょう。
原料は?誰が加工した?
自然から取ってきた原料に誰かが手を加え、
いろんな道をたどって今、あなたの隣にあるんでしょうね。
それがあなたのものなんですか?お金を払ったから?

あ、誰かがそれをくださいと言っています。
あげますか?だめ?
あなたがお金を払ったものだから?
そうですね。お金を払ったものは
なかなか人にはあげられません。

じゃあ、お金が存在しなかったらどうでしょう。
あなたの隣にあるものは
あなたがお金を払って買ったわけではありません。
今度はあげられますか?
さっきよりあげられそうですね。
必要ならまたもらってくればいいですからね。

お金の存在がなくなると、所有という概念が薄くなる、
あるいはなくなると思いませんか?
ものの代用品であるはずのお金の存在によって
所有という概念が生まれるのはおもしろいですね。

ものは、自然の中の原料を加工しているわけですから、
すべて借りものと考えられるのではないでしょうか。
必要な時は使わせていただき、
使い終わったら、自然にお返しするのが筋でしょう。

借りていただけのものなのに、
それが自然にうまく返らず、環境を破壊するようなものに
変わってしまっていてはまずいですね。
そこにゴミ問題が生まれます。
原発の廃棄物処理の問題も、
自然にお返しすることを考えなかったために
起きているのではないでしょうか。

所有という概念は人間をおごり高ぶらせるようです。
お金さえ払えば何をしてもいいんだというような
傲慢な意識もあると思います。
使えるものをどんどん捨ててしまったり、
食べ物をたくさん残したり。

すべては貴重な資源、自然からお借りしているのだという
謙虚な気持ちを忘れずにいたいですね。

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8号「物々交換」(2007年5月21日)

貨幣経済の社会になる前は、
物々交換をしていたと言われています。
「お金のいらない国」を読んでくれた方からも、
お金が存在しなくなったら
物々交換になるんでしょうかと聞かれることが
よくあります。

貨幣が生まれた理由が、
交換するものの代用品として便利だからだったとすれば、
昔の人は物々交換をしていたのかもしれませんね。
ということは貨幣が生まれる前にも
何かしら所有という概念はあったのかもしれません。

僕の考える「お金のいらない国」は
交換はしないんです。
そもそも物々交換をしたことが、
人類の大きな過ちだったのではないかと思います。

交換するためには、
双方に何かしら交換するためのものが必要です。
片方が交換するものを何も持っていなければ
交換は成り立ちません。
そのために貨幣も生まれたのでしょう。

しかし本来、交換する必要があるんでしょうか。
必要とする人に与えるだけで済むのではないでしょうか。

交換は平等なようですが、
本当に公平な交換がされなければ
貧富の差がついてしまいます。
先進国と途上国の間でも、
不公平な交換がされたから貧富の差がついたのです。

所有という概念を持たずに、
交換もせず、持っている人がない人に与えるだけなら、
そういう心配は、いらないはずです。

そして、一対一で見るのではなく、
人類全体として見るのです。
自分が必要な時には与えてもらい、
自分が与えられる時には必要とする人に与えればよい。

持っていない時に無理をする必要はなく、
もらう人と与える人は別でいいと思いませんか。

現在の社会常識では、
誰かに何かをいただいたら、
くれた人にお返ししようとするでしょう。
この発想がそもそもおかしいんだと思います。

太陽はあれだけの光と熱を与えても、
見返りを求めませんよね。
「お金のいらない国」を実現させるには、
みなが太陽のような心を
持つことが必要なのではないでしょうか。

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9号「競争社会とお金」(2007年6月4日)

この社会は競争社会です。
学校に入ればみんなが同じことを勉強し、
試験を受け、成績や順位をつけられます。

進学する時は入学試験があります。
進学校であるほど、学校の勉強は、成績を上げ、
よりレベルの高い学校に進学することが目的となります。
塾などは、はじめからそれだけが目的です。

そこには常に、他者との比較、競争があります。
人よりもいい成績をとることが、順位を上げることが、
入学試験にパスすることが、
一番大事なことのように思えてしまいます。

仕事に就くときは就職試験があります。
少しでもレベルの高い学校に入りたいと思うのは
就職試験を有利にする、あるいは
将来、経済的に有利な職業に就きたいという理由が
大きいのではないでしょうか。
ある意味、学校に行くのはお金のためといえそうです。

でも、就職しても、出世競争があります。
いかに同僚よりも早く、高い地位と収入を得るか、
サラリーマンはそれを目的に
身を削って働いている人も多いと思います。

結局、勉強も仕事も、とどのつまりはお金でしょうか。
多くの人は、どんな勉強をしたいか、
どんな仕事をしたいかより、
効率よくお金の稼げる職業に就くために
子どもの頃から競争しているように思えてなりません。

競争は勝ち負けを生みます。
勝ち負けにこだわれば挫折も生みます。
人によってはかなりのダメージになるでしょう。

しかし、人はそうやって生きるために
生まれてきたのでしょうか。
他者と競争し、お金や地位を得るために努力し、
それなりの成功を収めれば、満足できるのでしょうか。

         ***

「お金のいらない国」になったらどうなるでしょう。
競争して成績を上げようとするでしょうか。
自分は興味がなく、少なくとも自分が生きる上では
必要ない勉強をするでしょうか。
給料が上がらないのに出世競争をするでしょうか。

考えると笑いがこみあげてきますが、
そんなおかしなことをこの社会では
ほとんどの人が一生懸命やっているのではないでしょうか。

僕は、少なくともそこにあまり価値観を求めたり、
他者に強制したりはしない方がいいように思います。

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10号「続・競争社会とお金」(2007年6月18日)

競争がないと進歩しないのではないかと
言われる人がいます。
たしかに競争が必要な場合もあるかもしれません。
しかし、進歩とは何でしょう。
何のために競争するのでしょう。

先進国では便利快適を求め、
たくさんの企業が競って研究、新製品を開発し、
すさまじいスピードでさまざまな進歩を遂げてきました。
たしかに便利快適にはなりました。
しかし、世の中はよくなったでしょうか。
人々は幸せになったでしょうか。

山ほどのものを所有し、たくさんのゴミを出し、
環境は破壊されつくしました。
人間はこんな社会を求めて競争し、
努力してきたのでしょうか。

僕は、進歩がいけないとは言いません。
便利快適がいけないとも思いません
しかし、これほど急激な進歩は必要ないし、
あふれるほどのものはいらないと思います。

こんなに急がねばならなかったのは、
こんなに次から次へと新しいものを
作らねばならなかったのは、
やはりお金のためではないでしょうか。

売り上げを増やしたい、もっと儲けたい。
GNPを上げる、経済を拡大することはすばらしい。
個人も企業も国も、このお金というワナにはまり、
妄想にとりつかれ、する必要のなかった競争、
してはいけなかった努力を
重ねてきてしまったように思えてなりません。

        ***

拙著「お金のいらない国」では、
とてもゆっくりと進歩してきた世界を描きました。
ライバル会社もあるのですが、
つぶしあうような競争をする必要はなく、
いい関係でお互いが仕事を進めていきます。
そこには自分だけが、あるいはうちの会社だけが
よければいいというような発想はまるでないのです。

製品などはとことん使う人のことを考えて
研究しつくされています。
使いやすく、長持ちし、いつでも修理がききます。
古いものでも部品がなくて直せないなどと
いうことはありません。
資源は再生できないものは使いませんし、
万一、環境に影響を与えてしまった場合は、
元に戻るまでいくらでも待ちます。

こんな社会ならいいと思いませんか。
進歩のために慌てて競争する必要なんて何もないと思います。

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11号「結婚制度」(2007年7月2日)

結婚……
あなたはこの言葉にどんなイメージを持たれるでしょう。

昔は、家と家が結ばれる、嫁に出す、もらうといった
イメージが強かったようですが、
現代では、結婚は二人が新しい家庭を築くものであり、
感覚も大分違ってきたようです。

しかし、結婚制度は何のためにあるのでしょう。
好きな人と暮らす、あるいは子どもを作り、育てるのに
特別な契約が必要なんでしょうか。

また、いつ気が変わるかわからないようなことを
半永久的に誓うような儀式が必要なんでしょうか。

僕は、どうも結婚という制度によって、
さまざまな不幸、囚われ、思い込み、不自由が
生まれているような気がしてなりません。

結婚という契約をしないと子供が作りにくい、育てにくい。
自然界ではあり得ないことです。

一夫一婦制も決める必要があるんでしょうか。
一対一でいたい人同士ならそれはそれでいいと思いますが、
そうでない人は、自由にすればいいのではないでしょうか。
みんな同じにしようとするところに無理が出るのではないでしょうか。

相手は一人でなければいけないと考えるのも
後から作られた観念のような気がします。
動物の生きる目的のひとつであるDNAを残すという意味においても
相手を一人に決めるというのは非常に不利なことです。

また、家族という閉鎖的な人間関係に縛られることにより、
すべての問題を家庭内で解決しなければならなくなる。
近頃では子供を育てられない親が増え、
虐待や、子殺し、親殺しのようなことも起きています。

こういうことは、結婚制度はあったにしても、
昔のような近所づきあいの盛んな時代なら
起きにくかったことかもしれません。

何らかの理由で、子どもは親が育てられない場合もあるでしょう。
誰が親かということには関係なく、
すべての子どもを育てるのは
すべての大人の役割ではないでしょうか。

***

拙著「お金のいらない国2」では、
結婚制度や戸籍が必要になった背景には、
お金の存在が深く関わっているのではないかということを書きました。

お金が存在する社会においては、
生計を共にする夫婦や家族といった枠を決める必要が生まれ、
それに縛られることになると思います。

もっと助け合える、緩やかな人間関係を認められる社会が
望ましいのではないでしょうか。

ちなみに僕は結婚して24年、大学生の息子が一人おります。

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12号「続・結婚制度」(2007年7月16日)

前回のメルマガいかがでした?
結婚や、一夫一婦制に対する僕の意見、
抵抗がありましたでしょうか。
あるいはご賛同いただけましたでしょうか。

結婚に関しては拙著「お金のいらない国2」に書きましたが、
シリーズの中でも最も賛否が分かれる作品です。

僕は、お金がなくなれば、
すべての制度はいらなくなると考えていますので
特に結婚制度だけにこだわっているわけではないのですが、
結構多くの方が、結婚制度はあった方がいい、
あるいは一人のパートナーと一生連れ添うのが望ましいと
考えていらっしゃるようです。

僕も別に、一生一人の相手とうまくやれるのなら
それを否定するつもりはありませんし、
結果的にそうなるのなら何も問題はないと思うのですが、
なんでそれを先に約束したり、縛られたり、
いやになっても我慢する必要があるのかと思うわけです。

また、お金の存在しない世界の話をしているのですから、
パートナーに経済力を求める必要はないわけで、
生活費や教育費の心配も、
別れるときに慰謝料の心配をすることもないのです。

それでも結婚制度が必要だと考えるのは、
第三者に自分と相手との関係を認めてほしい、
あるいは好きな人を独占したいという気持ちでしょうか。

他人に認めてもらうことにどんな意味があるのか、
そもそも人間の関係なんて決められるのか、
人が人を独占することなんてできるのかと考えていくと、
とても曖昧になってくるのですが、
それでも何らかの契約が必要になると考えてしまうのが、
今まで培われてきた観念の根深いところかもしれません。

僕は、独占欲や嫉妬心すら、
この社会における不自然な感情ではないかと思っており、
そもそも相手のことが好きなら、
相手が相手の好きなように考え、行動することを
喜べるのではないかと思います。

それができないとすれば、
それは自我が顔を出しているからだと思うのですが、
結局は自分を中心に考えている限り、あらゆる問題は
解決しないということに行き着くのでしょう。

           ***

僕の言っていることはあくまでも僕の意見であり、
正解というわけではありません。
くれぐれもこれが正しいと信じたり、鵜呑みにはされませんように。
一緒に考えてみてくださいね。

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13号「独占欲と嫉妬心」(2007年7月30日)

恋人同士や夫婦など、恋愛感情のからむ男女の場合、
よく、独占欲や嫉妬心が生まれるようです。
あなたは私のもの。私だけを好きでいてほしい。
他の人と仲良くしてはいや。浮気なんて絶対許さない。
男性から女性に対しても同じです。

昔から恋愛を扱った小説やドラマなどはたくさんありますが、
この独占欲と嫉妬心なくしては
成り立たないものがほとんどかもしれません。

しかし、こういった感情は持っていてうれしいものでしょうか。
持たなくて済むならそのほうが楽なのではないでしょうか。

独占できたらうれしい、独占できなければ苦しい。
相手が自分の思い通りになってくれればうれしいが、
ならなければ苦しいということになります。
しかし、人はそうそう自分の思い通りにはなりませんから、
これは相当なリスクです。

そもそも相手のことが好きなら、
相手が自由に考え、行動することを
自分も喜べばいいのではないでしょうか。
独占欲や嫉妬心は、見返りを求めない与えきりの愛からは
程遠い感情である気がします。

独占欲や嫉妬心は、
所有という概念から生まれるのではないでしょうか。
所有に関しては以前書きましたが、
所有という概念が本来はないものだとすれば、
独占欲や嫉妬心も本来ないのかもしれません。

恋愛関係の男女でなくても、
例えば過保護な親と子どものように、
自分以外の人を自分の所有物のように考え、
自分の思い通りにしようとする場合もあるでしょう。

そういう親に育てられた子どもは、大人になっても、
依存体質の人間、自分で考えられない、
意思決定ができない、アダルトチルドレン(AC)に
なるのではないでしょうか。

そもそも、人が何を考え、何をしようと、
それによってその人がどんな結果を招こうと当人の問題です。
自分以外の人間の考えや行動を苦にしたり、
自分の思い通りにさせようとしても
誰にとってもよい結果は招かないと思います。

相手のことが好きなら、相手のことを思うなら、
相手を信頼し、その意思を尊重することが
お互いにとって大事なのではないかと思います。

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14号「人間関係三箇条」(2007年8月13日)

僕は今まで50年弱、生きてきて、こんなことを考えました。
人と付き合うときに心していることです。

人間関係三箇条

●関係に名前をつけない。
●独占や嫉妬をしない
●過去や未来にこだわらない

はじめは男女関係に関して考えたことなのですが、
人間関係全般に当てはまるかと思います。

●関係に名前をつけない
人と人にはさまざまな関係があります。
親子、兄弟、夫婦、恋人、友だち、上司・部下……。
しかし、これらは人間がつけた名前であって、結局のところ、
そこにはただ複数の人が存在しているというだけのことです。
血縁のある親子ですら別々の人間なのであり、
夫婦の間には血縁もなく、ましてや恋人などは非常に曖昧な関係です。

関係の名前にこだわることでメリットがあるなら
別にかまわないと思います。
しかし、それが足かせになったり、
それによって依存や甘え、束縛などが生まれるとすれば、
名前にはこだわらず、お互いが自立し、
距離を保って付き合うことが大切なのではないでしょうか。

●独占や嫉妬をしない
これに関しては前号に書きましたので
再度お読みになりたい方は、
メルマガ登録画面から、バックナンバーをご覧ください。
http://www2u.biglobe.ne.jp/%7Enagaryu/indexokane.html

●過去や未来にこだわらない
自分がいるのは現在です。
今どうしたいのか、どうするかが重要なのであり、
過ぎ去ったことにとらわれたり、
未来を案じて取り越し苦労をしたりすることは
マイナスにしかならないでしょう。

男女でも、それまでの関係がどうだったとか、
この先どうなるかなどということにとらわれず、
今その瞬間、その人と関わりを持てることに幸せを感じ、
そこに意味を見出すことが大事なのではないでしょうか。

いかがでしょう。
これはあくまでも僕が考えたことですから、
正解ではありませんが、
身近な人との関係を考えるヒントになれば幸いです。

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15号「続・人間関係三箇条」(2007年8月27日)

●関係に名前をつけない
●独占や嫉妬をしない
●過去や未来にこだわらない

前回紹介させていただいた人間関係三箇条、
こんなことに気づきました。

不安に思うことがあると、
人生は楽しめず、暗いものになってしまう。
人間関係、あるいは恋愛関係においては、
この三箇条に反した場合、不安を感じるのではないか。

          ***

この人は夫、この人は妻、この人は恋人。
お互いにとって特別な人だから、
愛し合わなければいけない。
でもこの人は本当に私のことを好きなんだろうか。
私はこの人を愛しているんだろうか。

他に好きな人がいるんじゃないだろうか。
私だけを好きでいてくれるんだろうか。

昨日は好きだと言ってくれたけど、今日はどうなんだろうか。
明日はどうだろうか。
ずっと好きでいてくれるんだろうか。
私は愛し続けられるんだろうか。

          ***

こんなことを考えているといつも不安で、楽しくありません。

こういう関係なんだからこうでなければいけない、
といった固定観念に縛られると、
自分や相手の正直な気持ちを抑えることになるかもしれず、
その人との関係も自分の生き方も
とても窮屈なものになってしまう気がします。

また、人間にはいろいろな面がありますから、
好き、嫌いというのも、単純にどちらかに
分けられるものではないかもしれません。

恋愛関係は自分だけでは成立しないでしょうが、
相手の気持ちは相手次第です。
どんな関係でも、本当に相手を思うなら、
見返りを求めない、与えきりの愛で
大きく包んであげてはいかがでしょう。

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16号「お金のいらない国2の誤解」(2007年9月10日)

「お金のいらない国には結婚制度がないんでしょ?
 法律もないんでしょ?じゃあ、誰と暮らしても、
 誰と子どもを作ってもいいんですよね」
「いいですよ。あなたが関わろうとするすべての相手が
 それを認めてくれるなら」
「ええ?何をしてもいいわけじゃないの?」
「いいも悪いも、何も決まりはありませんよ」
「トラブルが起きたらどうするんですか?」
「自分が起こした問題なら、自分で解決するしかないでしょ」
「それじゃ、この世と変わらなくないですか?」
「法律や制度がないですから、それに反したなどと、
 他者からとがめられることはありませんよ」
「でもなんか、よけい勝手なことはできない感じですね」
「自分の行いが招くことのすべては自分に返ってきます。
 自由とはそういうものです」

これは「自由の勘違い」というタイトルで、
僕のホームページに載せているものです。
「お金のいらない国2」を読まれたり、
寸劇を見られた方の中には、
こういった勘違いをされる方がいらっしゃるようです。

また、女性からはよく、浮気し放題の、
男性にとって都合のいい世界だからいやといった反応があります。
僕は男性に限ったことを言っているわけではありませんし、
確かに複数の異性と関係を持ちやすくなるかもしれませんが、
そこは価値観の同じ人と付き合えばいいわけで、
自分の意思に反して、
何でも許さなければいけないということではありません。

「お金のいらない国」シリーズでは、
僕は人間の作った不自然な決め事のない世界を
描いているだけです。
自然な暮らしをしている先住民族にはお金や制度はありませんし、
そういうものが作られる以前の大昔の社会でも
もちろんなかったでしょう。
この経済社会においては多くの人が
お金や制度がなければ社会が成り立たないと考えてしまうのは
長年この社会で受けてきた洗脳、思い込みによるものだと思うし、
とても不自然なことなのではないでしょうか。

そういう意味では、僕の描いているのは未来のことではなく、
過去にあった自然な社会のことかもしれません。
この無理のある経済社会が破綻した後、
歴史は繰り返されるのかもしれません。

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17号「必要なことが、必要な時に起こる」(2007年9月24日)

この世を生きていますと、いろいろなことが起こります。
うれしいこと、悲しいこと、驚くようなこと。

自分が望んでいるいないにかかわらず、
さまざまなことが降りかかってきます。
自分の行いが招くこともあるでしょうし、
予想もしなかった事故や災害に見舞われることもあるでしょう。

なんでこんなことに!どうして私がこんな目に!
なんて思いたくなるようなことも起こると思います。

でも、原因は何であれ、起きたことは起きたこと。
起きなければよかったのにと憤慨してみても、
起きたことは受けとめるしかありません。

その原因は何だったのか、どうしたら解決できるか、
繰り返さないためにはどうすればいいのか。
よく考え、反省すべきところは反省し、
その後の人生に役立てることが大切でしょう。

望まないことでも起こるからには意味があるのだと思います。
自分がその経験をし、そこから学ぶことがあるから
起こるのだと、僕は考えます。

晴れの日ばかりでなく、嵐の日にも大切な意味があるのです。
嵐の日から学ぶことが多いとすれば、
嵐を経験するために生まれてきたのかもしれません。
そしてその試練を乗り越えていくことによって
自分は成長していくのではないでしょうか。

僕は、乗り越えられない試練は与えられないと思っています。
また、必要のない試練は与えられないと思っています。
そして、解決策のない問題はないと思っています。

必要なことが、必要な時に起こる。
自分の成長に必要なことが、ベストのタイミングで起きている。

こうなってほしいとか、こうなっては困るとか
心配しながら生きていても、起こることは起こります。
何が起きてもすべて受けとめ、動揺せず落ち着いて、
的確な対処ができるようになりたいものだと思います。

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18号「続・必要なことが、必要な時に起こる」(2007年10月8日)

過去を振り返ってみた時、
思い出したくないようなこともあるかもしれません。
あんなこと起きなければよかったのに。
過去のいやな記憶を消してしまいたい。

しかし、もし、過去に戻って、
苦しかった経験を回避することができるとしたら、
あなたはどうするでしょうか。
その場合、その経験をせずには済みますが、
そこから学んだことも失われます。
そうなると、ある意味、今のあなたではなくなります。
あなたは、苦しみを避けることと引き換えに
学んだことまで手放す気になるでしょうか。

今のあなたは、苦しかったことを含め、
今までの全ての経験の上に形成されているのです。
そう考えますと、どんな経験も貴重なものだったと
考えることができるのではないでしょうか。

たしかに、戦争や犯罪など、起こすべきではなかった、
起きなければよかったと思えることもあるでしょう。
しかし、そういった経験からも学ぶべきことを学び、
二度と同じ過ちを繰り返さないように
自分や社会が何らかの努力をするようになるなら、
過ちもそれなりの意味があったことになると思います。

実際には過去に戻って事実を消すことはできません。
しかし、それをただ苦い経験、
忘れてしまいたい記憶とするのではなく、
その原因を追究し、これからの自分の人生に役立てることが
大事なのではないでしょうか。

人生、いつ何が起きるかわかりません。
また、人間である以上、人は永遠に未熟なもの。
どんな人でもいくつになっても失敗はあるでしょう。
その原因が自分にあるのか、
不可抗力なのかは場合によると思いますが、
事実を真摯に受けとめ、心から反省できた時、
苦い経験もありがたい記憶に変わるのではないでしょうか。

そして、反省すべきことを反省したら、
もうそれ以上、思い悩むことはありません。
過去のことは過去のこと、
それを乗り越えた自分に自信を持って生きましょう。

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19号「人間の多様性」(2007年10月22日)

人間はさまざまです。
生まれも育ちも、習慣も生活環境もみんな違います。
ものの考え方、性格もひとりひとり違います。

人間社会は、そういういろいろな人が
集まって暮らしているのですから、
さまざまな意見、価値観があって当然です。

どれがいいの悪いの言っていてもはじまりません。
みなそれぞれ自分の考えがあるのだし、
意見は同じである方が不自然です。

自由に意見の言えない社会、
誰かの言いなりにならなくてはならない社会は危険です。
また、自分の意見、価値観を他者に押しつけようとすれば
摩擦や反発が起きるでしょう。

ですから、健全な社会を営むためには、
お互いを受けとめ、違いを認め合うことが必要になります。
これは、家庭でも学校でも、会社でも地域でも
共に生活や仕事をしていく上でとても大切なことです。

世界を見たら、いろいろな国や人種の人がいます。
その国にはその国の歴史があり、言葉も宗教も違うし、
気質や価値観もかなり違うでしょう。

そういうさまざまな人間がいる地球上で
皆が幸せに生きられる世界を作ろうとするのなら、
やはり多様性を認め合うことが必要不可欠でしょう。

自分の国が正しい、自分の宗教が正しい。
他はおかしいのだから認めない。
そういう考え方がエスカレートすれば戦争が起きます。

        ***

あなたはあなたでいい。
あなたの考えで、自由に生きてほしい。
自分とは違った意見をありがとう。
気づかせてくれてありがとう。

自分とは違った意見にも感謝できるくらいの
心の余裕を持ちたいものです。

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20号「続・人間の多様性」(2007年11月5日)

前号では、こんなお話しをしました。
世の中にはいろいろな人がいるので、違いを認め合うことが大事。
生まれも育ちも、習慣も生活環境もみんな違う。
また、好き嫌いや性格も違うのだから、
いろいろな意見があって当然。
それを踏まえた上で今回は、ちょっと違う視点に立ってみます。

そういうことで生まれる意見の違いなら認め、
お互いの納得も得られるかもしれないが、
そうでないことで起きる意見の食い違いが
問題を起こし、対立を生むのではないか。

現状の経済社会は、お金儲けの競争になっています。
会社などの組織では、ある意味自分の意志とは関係なく、
それぞれに与えられた立場で、与えられた仕事を
遂行していかねばなりません。

また、国家という支配の下では、法律やさまざまなルールが作られ、
国民はそれに従うことを義務付けられています。
この社会にとっては必要なものもあるかもしれませんが、
僕は、どう考えても不必要な決めごと、
また、経済優先のおかしな政策も多々ある気がしてなりません。

そういう不自然な社会だから、それぞれの立場、都合によって、
おかしな意見を言わざるを得なくなったり、
本当のことが言えなくなったり、
必要のない対立を起こさねばならなくなっている気がするのです。

また、経済社会における不自然なルール、
作られた常識の中で判断していると、
本来自然なことが間違っているとされることもあると思います。

昨今、会社の不祥事が続き、
社長が頭を下げる場面も日常茶飯事ですが、
お金がらみはもちろんのこと、
余計な決めごとさえなければ問題にならないことも
多いのではないでしょうか。

利害関係や立場を度外視し、原点に立ち返れば、
意見の食い違いも大分少なくなる気がします。
お金のいらない国だったら、
現状のほとんどのトラブルは起きないし、
問題にもならないでしょう。

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21号「それぞれの役割」(2007年11月19日)

人間の多様性にも通じることですが、
人にはそれぞれの役割があると思います。

この世を生きる上では、自分の能力や才能を生かして、
誰かのためになったり、社会の役に立てれば
自分にとっても皆にとっても、幸せなことだと思います。
 
人にはそれぞれの個性があり、役割もいろいろです。
得手不得手、向き不向きもありますから、
誰もが同じことをする必要もなく、できるわけもありません。

ですから、人と比べる必要はなく、
背伸びをすることもないでしょう。
その上で、自分の役割を見つけ、できることをし、
その能力を最大限発揮できれば
人生は充実し、より楽しくなるのではないでしょうか。

複数の人で何かをしようとする場合は、それぞれが適材適所で、
その能力を生かせる役割に就くことによって
仕事をスムーズに、ストレスなく進めることができると思います。

また、おもしろい話があります。
働きアリの集団の中では、よく働くアリは2割、
普通に働くアリは6割、ほとんど働かないアリが2割いるそうです。
そして、働かないアリを排除しても、
いずれは同じ割合になるんだとか。

会社などでも、働きの悪い社員をリストラして
優秀な社員だけ残しても、
業績が上がるとは限らないと聞いたことがあります。
仕事もできるばかりがいいわけではなく、
働かない社員にもそれなりの役割があるのではないでしょうか。

かくいう私ももう27年も会社に勤めており、
若い頃はがむしゃらに働いていた記憶がありますが、
気がつけば働かない2割に入っているような気がします。

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22号「9.11の真相!?」(2007年12月3日)

今回はちょっと路線の違う内容です。

奈良の 「虹のまつり」で仲良くなった、きくちゆみさんから、
9.11事件に関するDVDを送っていただきました。

『911の嘘をくずせ−ルースチェンジ セカンド・エディション』
http://www.wa3w.com/LC2J/

『CONFRONTING THE EVIDENCE
A Call to Reopen the 9-11 Investigation』
http://store.globalpeace.jp/index.php?main_page=product_info&cPath=2&products_id=57&language=ja

9.11の事件は、アメリカ政府の陰謀によるものであるという
説を裏付ける映像と、各方面の識者たちによる講演会のもようです。

飛行機の衝突によってビル全体が崩落することはあり得ず、
その時の映像を改めてよく見直すと、ツインタワーが崩壊する時、
階下で次々と起きている別の爆発の光が見える。
ペンタゴンに突っ込んだとされる飛行機の残骸は見つかっておらず、
建物にそれほど大きな損傷はない……
これは、戦争を始めるために仕組んだ、
アメリカ政府の自作自演劇である。
各方面の講演者たちの発言は
真摯で説得力があり、自信に満ちています。

僕は以前、陰謀説をはじめて聞いたとき、
いくらなんでもまさかそこまでしないだろう
そんなとんでもないことをして許されるわけがないだろう、
捕まらないわけがないだろうと思いました。
でも考えてみたら、世界最強の大国の支配層が
各機関をまるめこみ、合意の元にしたのであれば、
それを裁く人も、捕まえる人もいないのです。

断定することはできませんが、陰謀説は本当かもしれません。
この件に限らず、情報操作はかなり行われているようですから、
マスメディアの報道を鵜呑みにすることは危険です。

これらのDVDや本などから情報を得ることも大事かと思います。

その上で自分はどう判断し、どんな行動を起こすのか。
今、一人ひとりが真剣に考える必要があると思います。

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23号「かえるくんの葉っぱ」(2007年12月17日)

久しぶりにショートショートを書きました。
1週間ちょっと前に僕のホームページにアップし、
ミクシーでも紹介したものなので
既に読んでくださった方もいらっしゃるかと思いますが、
今回はこれが生まれたいきさつについてお話しします。

1ヶ月ほど前に、友だちからメールが送られてきました。
童話を書いたので読んでみてほしいとのこと。
読ませてもらうと目のつけどころがすばらしく、
意見交換するうち、僕の創作意欲がかきたてられてしまいました。
そこで、同じネタで僕にも書かせてほしいとお願いし、
できたのがこの作品です。

同じネタで書いてもストーリーや表現など、
人それぞれ個性が出るのでおもしろいものです。
「お金のいらない国」などはいくらでも想像できると思うので、
みなさんも書かれてみてはいかがでしょうか。

では、「かえるくんの葉っぱ」の一部をご紹介します。

………………………………………………………………………………

「かえるくんの葉っぱ」(原案:ゆうちゃん)

森がありました。たくさんの動物たちが住んでいました。
ある秋のこと、かえるくんは思いました。
(あの高い木の上に生っている柿の実を食べてみたいもんだ)
ある日、かえるくんが柿の木の下を通ると、
サルが木の上でおいしそうに柿の実をむしゃむしゃ食べていました。
かえるくんはうらやましくてしかたありませんでした。
(うまそうだなあ。でもケチで有名なサルのこと、
ただほしいと言ったってくれるわけがない。
なんとかしてあの柿の実を手に入れる方法はないものか)
しばらく考えていたかえるくんは、いいことを思いついたというように、
舌をぺろっと出して口のまわりをひとなめしました。
それから近くに落ちていた葉っぱを1枚拾い、
木の上のサルに向かって叫びました。
「おおい、サルくん。おいしそうな柿だねえ」
サルはかえるくんを見下ろして言いました。
「ああ、すごくうまいよ。でもおまえにはやらないよ〜」
やっぱりなと思いながら、かえるくんは言いました。
「あはは。タダでとは言わないよ。今日はいいものを持っているんだ。
その柿の実と交換しないか」

(続きはこちらをご覧ください)
http://www2u.biglobe.ne.jp/~nagaryu/tanpen3.html#kaerukunnohappa

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24号「来年もよろしくお願いします」(2007年12月31日)

時の経つのは早いもので、今年も大晦日となりました。
みなさんにとってはどんな一年だったでしょう。

この一年を代表する漢字に「偽」が選ばれるという
ちょっと寂しい世相ではありましたが、
これも、無理のある不自然な社会では
いたしかたないことかもしれません。

偽らなければならないのも
お金が原因していることが多いのではないでしょうか。
賞味期限なども、決めさえしなければ
食べられるものを捨てる必要はないわけで、
廃棄させるための余計な決めごとと思えてなりません。

僕としては、今年もたくさんの出会いや
さまざまな機会を与えていただき、
とてもありがたく、充実した一年でした。
2月からはじめたこのメルマガも、おかげさまで
500人以上の方にお読みいただいています。
読者のみなさん、スタッフのみなさんに感謝します。

さて、ここのところ、年末年始に思うのですが、
お店がほんとに休まなくなりましたね。
デパートでも1月2日からやっているし、
コンビニなどは年中無休、24時間営業。

一昔前は、デパートは4日からでしたし、
コンビニも夜中は開いていませんでした。
正月くらいもう少し休んだらどうでしょうか。
焼けば食べられる餅や、保存のきくおせち料理もあるのですから、
正月の三が日くらい休んだって餓死する人はいないでしょう。

誰も、休まずに働きたいと思ってはいないはずなのに、
そういうことになってしまうのは、やはりお金のためでしょうか。
休日が減り、営業時間が増えれば、
それだけ電気などのエネルギーも必要になる。
環境問題がこれだけ表面化してきた社会なのに、
どうにも効率が悪く、矛盾していることだと思います。

いいかげんに無駄な消費、無駄な労働はやめて、
みんなが楽に幸せに生きられる社会にしたいものです。

今年はどうもありがとうございました。
来年も言いたい放題、言わせていただくつもりですので、
よろしくお付き合いください。
では、みなさま、よいお年を。

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25号「マニュアル人間」(2008年1月14日)

みなさん、こんにちは。
新年のご挨拶には遅くなりましたが、今年最初のメルマガです。 
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

昨年末のメルマガをお読みになった方から
編集部にメールをいただきました。
某食品会社お客様相談センターにお勤めの女性です。
そこに、年末にこんなお電話があったそうです。

開封していない賞味期限の切れた商品を使ってもよいか
という質問に対し、彼女は、
未開封なら体に害になることはありませんが、
徐々に風味が劣化します。
美味しくないとお客様にご迷惑がかかることになりますから
ご使用はおすすめいたしかねますという
内容のことを答えました。
しかし、お客さんは納得せず、
賞味期限が切れた後、いつまで使用可能なのかを問い詰め、
最後は怒って電話を切ったとか。

賞味期限の切れた商品を
メーカーが建前上、おすすめできないのは当然のこと。
使いたければ自分の責任において使えばいいわけで、
メーカーに相談するようなことではないと思います。

昨今、いろいろな分野において、
メーカー責任が取り沙汰されます。
もちろん、メーカーには製造者側の責任はあると思いますが、
使用者も自分の判断、使用者側の責任において使わなければ
責任のなすりあいになり、問題は解決しないでしょう。

不自然に文明の発達した、決めごとだらけの社会では、
マニュアルがないと何もできない
マニュアル人間が増えると思います。

僕の考える「お金のいらない国」では
なんの決めごともありません。
値段もついていませんから、すべての価値判断は自分次第です。

現在の社会においては、知らず知らずのうちに
誰かの都合で決めた価値観に振り回されることも
多いかと思います。
自分で考え、判断する力をつけることが大事だと思います。

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26号「続・マニュアル人間」(2008年1月28日)

前回の意味合いとはちょっと違いますが、
この経済社会に生きている人の多くは、自分を含めて
ある意味マニュアル人間と言えそうです。

すなわち、子どもの頃は教育を受けて育ち、
大人になれば仕事に就いて金を稼ぎ、税金を納め、
結婚して子どもをもうけ、育てる。

個人差はありますし、
いろいろな生き方をされている方はおられますが
今の社会では平均的な人はこのような人生を歩もうとする、
あるいは歩まざるを得なくなるでしょう。
そして、だいたいの親は子にそれを望むし、
子も多くの場合、それに応えようとするようですから、
このマニュアルはあまり疑問ももたれないくらい
きついものかもしれません。

私は、お金の存在や支配がなければ
人生は人それぞれの考えで、
もっとさまざまに、自由なものになると思います。
しかし、現在の経済社会では、就職や結婚により、
気がつけば人生をがんじがらめにされていたと
感じる人が多くて当然だと思うし、私も例外ではありません。

国としては国民が、この制度や支配の社会の中で
それなりの暮らしができればよしと考えてほしいのでしょうし、
このマニュアルの中で生きるのもある意味楽かもしれませんが、
その中に甘んじてそれを当然の人間の生きる道と思い込み、
何の疑問も持たなくなることは危険だと思います。

実際、その社会構造には無理があるから
国の内外でさまざまな問題が起き、
また、特に先進国の身勝手な振る舞いによって
被害を受ける国も生まれているわけで、
仮に自分がこの支配と制度の生活に満足できたとしても
自分さえよければいいと片付けられる問題ではありません。

さて、それに気づいたとしても、
とりあえずはこの社会において
生きて行かなければならない私たち。
お金のいらない国を理想とするなら、
現実とのギャップを埋めながら、
自分はこの社会をどのように生きていくのか
考える必要があるでしょう。
そしてそれは自分で考えることであり、マニュアルはありません。

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27号「子どもがほしいという感情」(2008年2月11日)

前回のテーマにしましたこの社会を生きる上でのマニュアル。
今回はその中の、結婚して子どもをもうけるという
ことについて考えてみます。

本来、子どもは結婚などしなくても作れます。
まあ、実際は人間が子供を作れるわけではなく
人間にできるのは子どもができるきっかけとなる行為だけですが、
とにかく今の社会ではお金を含めたいろんな制度があり、
子どもを産むなら、結婚していた方が有利と思われるので、
多くの人はそうするのではないでしょうか。

また、最近は減ってきたのかもしれませんが、
跡継ぎが必要だとか、男の子が生まれないと困るとか、
人間の勝手な都合で子どもを必要とすることもあり、
子供ができなくて苦しい立場に置かれている
方もいらっしゃるようです。

自分のDNAを残すというのは
生物としての人間の本能だとは思いますが、
子どもがほしいと考える裏には、それ以外の理由もかなりあるのが
この不自然な人間社会のようです。

また、そもそも子どもがほしいというのは
どういう感情なんでしょうか。
動物たちはどうすれば子どもができるのか多分知りません。
本能のままに交尾はしますが、子どもが生まれたのは
その結果なのだとは思っていないでしょう。

ですから、人間が故意に子どもを作ろうとするのは
不自然なことなのではないかと考えられます。
そして、例えばかわいいから子どもがほしいというような感情も
他人の産んだ子どもを見たり、
それまで他から入った知識によって生まれた
後天的なものなのではないかと僕は考えます。

また、自分の子どもがほしいという感情は
本来はないであろう所有という概念によって
起こる欲である気がします。
まあ、それはそれで否定はしませんが、
できない場合には無理に作ろうとするよりは
自然に任せて気楽に生きた方が
幸せなのではないかと僕は思います。

そして、子どもはみんなの宝として、誰の産んだ子でも
大切に育てていける社会であってほしいと思います。

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28号「お地蔵さまと魔法の薬」(2008年2月25日)

「かえるくんの葉っぱ」に続き、
また友だちにヒントをいただいてショートショートを書きました。
2週間くらい前にHPにアップし、MIXIでもお知らせしたので
既に読んでくださった方もいらっしゃると思いますが、
改めてご紹介させていただきます。
よろしかったらご意見、ご感想などお寄せくださいね。

「お地蔵さまと魔法の薬」(原案:ゆうちゃん)

あるところに、おじいさんとおばあさんが住んでいました。
裏の山には畑があって、おじいさんは毎日一生懸命、
畑の手入れをし、野菜を作っていました。

「おうおう、今日もたくさん虫たちが来よったわ。
そうかそうか、そんなにおいしいか。
でもわしらにもちょっと食べさせておくれ」
おじいさんは丁寧に虫を取ると、少し虫の食った野菜を袋に入れました。
家ではおばあさんが、とれた野菜をゆでたり、焼いたり、
スープにしたりしていろいろな料理を作ってくれました。
おじいさんはおばあさんの手料理が大好きで、
ふたりともとても健康に、幸せに暮らしていました。

隣のうちには若い男が一人で住んでいました。
男も裏山に畑を持っていましたが、ほとんど手入れをしないため、
あまりいい野菜はできませんでした。
「ちっ、この虫けらめ、俺の野菜を食うんじゃない!」
男はぶつぶつ怒りながら、虫をぶちぶちつぶしました。
ふと隣の畑を見ると、おじいさんが楽しそうに
立派な野菜を収穫しています。男はとてもうらやましく思いました。
「くそう。あのじじい。あんなうまそうな野菜を作りやがって。
きっと何か特別な方法があるに違いない」
男はおじいさんが帰る時に跡をつけました。

おじいさんは山道の途中にあるお地蔵さまのところで立ち止まり、
しゃがみました。
「お地蔵さま、おかげさまで今日も野菜がとれました。
ありがとうごぜえます」
おじいさんは袋から野菜を一つ取り出して供えると、
目をつぶって手を合わせました。
お地蔵さまは安らかな顔で微笑んでいます。
おじいさんはにっこりし、よっこらしょと立ち上がると
袋を抱えて歩きはじめました。

木の陰で見ていた男は思いました。
(ははあん。じじいめ、あの地蔵に何かいい方法を
教わっていたんだな。自分だけいい思いしやがって。
そうはさせるもんか。俺も聞きだしてやる)

↓続きはHPをご覧ください。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~nagaryu/tanpen3.html#ojizousamatomahounokusuri

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29号「オリジナル曲」(2008年3月10日)

僕は二人組のバンドをやっています。
Bm(ビーマイナー)という名前の
主にビートルズのマイナーな曲を演奏するバンドです。
アコースティックギター2本で、相方がリードギター、
僕がリードヴォーカルをとっています。

この度、オリジナル曲を作り、
ネット上にアップすることができました。
ぜひ、聴いてみてくださいね。

……………………………………………………………………………
「地球は今」 作詞:Bm 作曲:りょう 歌:Bm

大きな空は どこまで続く
そして未来は いつまで続く

この地球は かけがえのないもの
ただひとつのふるさと
広い宇宙に 創られた奇跡さ
青く光る水の星

今それが 僕たちのせいで
異常をきたし 悲鳴をあげてる
今それに 僕たちが気づいて
動き出さなければ もうおしまいかもしれない
そんなこと誰も望んでいるはずがない
考えよう

今それが 僕たちのせいで
緑がなくなり 氷が解けてる
今それに 僕たちが気づいて
動き出さなければ 生き物は死に絶える
そんなこと誰も求めているはずがない
立ち上がろう

大きな空は どこまでも続く
そして未来は いつまでも続く
……………………………………………………………………………

山元加津子さんが作られた「宇宙(そら)の約束」も
ご了承を得て、同じページにアップしました。
こちらは3月22日のイベントで、歌わせてもらいます。
ぜひ、みなさんお出かけください。

※現在、ネット上でのアップはしておりません。

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30号「モノとお金の交換について」(2008年3月24日)

「物々交換」については、以前書かせていただきました。
http://archive.mag2.com/0000224316/20070521120000000.html
本当は交換はせず、すべて与えるだけで見返りを求めなければ
お金は必要ないと思います。

しかし、この経済社会はモノとお金の交換が基本になっています。
「売る、買う」という行為です。
そして僕は、当たり前と思われているその交換の仕方に
落とし穴があるのではないかと思うのです。

本来、交換とは、等価でなければおかしいと思います。
価値の等しくないものを交換しても不公平だからです。
しかし、この経済社会においては、
売り手は、モノにその価値以上の値段をつけ、
買い手はモノの価値よりも多くのお金を払って
交換することが基本になっています。
売り手は利益を得なければならないことになっているからです。

これは当たり前のようですが、
実はとてもおかしいことなのではないでしょうか。
そして、物の価値よりも低い値段をつけると、
売り手は損をし、それを繰り返していれば
商売はやっていけなくなるでしょう。

売り手は、得たお金を使う場合は買い手になりますが、
要は、この社会では、効率よくたくさんの利益を得て、
あまり使わなかった人が金持ちになるわけです。

腐らないお金はいくらでも貯めることができるので、
経済社会はある意味、お金を貯める競争になっています。
しかし、貯めてしまうとお金は回らず、
経済はゼロサム(プラスマイナスゼロ)ですから、
金持ちが生まれれば貧困も生まれます。

先進国は発展途上国と不公平な取り引きを繰り返した結果、
極端な貧富の差を生みました。

利益を上げるのが当たり前とされている経済社会。
しかし、その利益の蓄積が始まった時、
経済は崩壊に向かうのだと思います。

今回の内容に関連することは、
ホームページにも図入りで載せましたので、
そちらも併せてご覧いただければと思います。
http://www2u.biglobe.ne.jp/%7Enagaryu/jinseishoyu.html#monotookanenokoukannitsuite

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31号「お金社会の三箇条」(2008年4月7日)

お金の存在する社会を健全に運営していこうとするなら、
こんな三箇条をみんなが意識、
実践する必要があるのではないでしょうか。

●余分に儲けない
●余分なものは買わない
●余分なお金は、足りない人にあげる

現在の経済社会の常識で考えると、
笑ってしまうような三箇条かもしれませんね。
そのくらい今のお金社会は無理があるし、
みんなが洗脳された、砂上の楼閣なのだと思います。

他の動物たちを見ればわかるように、
本来、人間も、食べ物や水や、
生きていくのに必要なものだけ手に入れば、
満足できるはずだと思います。

しかし人間は、自然界にはあり得ない
無限に貯められるという性質を持つお金を発明し、
限りない欲望を追うようになってしまった。
そして、お金がなくては生きていけない社会システムを作り、
お金儲けの競争を始めました。

余分に儲けるつもりがなければ、
余分なものを作って売る必要はありません。
また、買う人がいなければ作っても仕方ありません。

ものを作るためには、
資源、労働力、エネルギーなどを必要とします。
余分なものなら作らないほうが、あらゆる面でいいはずです。

また、全体で見ればゼロサム(プラスマイナスゼロ)の経済は、
貧富の差を生みます。
多くの人が餓死している地球上で、どこに、
余分なものを作り、無駄に使っている余裕があるのでしょうか。

必要以上にお金が儲かってしまったら、
自分のために必要ないものを買うのではなく、
足りない人にあげればいいのです。
誰にどのようにあげるかは考える必要がありますが、
自分が儲けたお金だからといって、自分が使う必要はありません。

どのくらいを余分と考えるかも人それぞれでしょうが、
極端な貧富の差がつき、資源が失われ、
環境問題が起きているこの社会を何とかしたいと思うのなら、
国をあげてこの三箇条を実践する必要があるのではないでしょうか。

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32号「木の花ファミリー」(2008年4月21日)

先日、静岡県富士宮市にある「木の花(このはな)ファミリー」に
初めてお邪魔してきました。
いやあ、驚きました。
まさにこの社会の中における「お金のいらない国」でした。

子どもを含めた50人ほどの老若男女が、完全無農薬の有機農法で、
11種類の米、200種類以上の野菜を作り、
味噌、しょうゆ、酢などの調味料まで自給自足。
また、養鶏、養蜂などをして、
とれた農産物や卵、蜂蜜などを売って得た収入を平等に分配。
一切の立場の上下もなく、共同生活していました。

子どもも、誰が親かなどはほとんど問題にせず、
みんなで育てています。
まさに血縁を越えた家族だと思いました。

そこに住む人たちで結成された『木の花楽団』の
心に響くすばらしい歌と演奏に迎えられ、
肉魚類を一切使わない、とてもおいしく美しいお料理を
大家族と一緒にいただきました。

夜、そこで「お金のいらない国」の寸劇などを
させていただくことになっていた僕は、
既にここまで実践されている人たちの前で
何を言ったらいいんだろうと躊躇しましたが、いざやってみたら、
自分たちのしていることを改めて確認できたと
とても喜んでいただけたようでした。
「お金のいらない国2」にある、結婚や家族の話まで、
このように全員に抵抗なく受け入れてもらったのは初めてでした。

この現状の社会の中に、
あのような場所があるということは本当に驚きでした。
もちろん、ああなるまでにはさまざまな人の出入りや、
紆余曲折があったようですが、
やはり理想とするものがはっきりしていたから
あそこまで形になっていったのでしょう。

現時点であそこに住める人というのは
はっきりとした自分の考えを持っている必要があると思いますし、
共同生活の苦手な僕もちょっと無理だとは思いますが(笑)、
現実化した理想社会の雛形を見せていただき、
とても勇気づけられました。

国内外からの体験ツアーは、かなりの人気のようですが、
興味がおありの方は一度訪問されてみてはいかがでしょうか。

木の花ファミリーホームページ
http://www.konohana-family.org/

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33号「反省と修正が成長への道」(2008年5月5日)

ちょっとスピリチュアルな観点から考えてみます。

自分がこの世に生まれてきた目的は何か。
僕は、さまざまな経験をしながらこの世を生きることによって
自分の心、あるいは魂を成長させることが
人間がこの世に生まれてくる目的の一つと考えています。

ですから、成長のためにこの世に生まれてきている以上、
程度の差はあれ、人間はみな未熟です。

未熟だから失敗もします。人に迷惑をかけることもあるでしょう。
そこまでは誰でも同じです。そして、違いが出るのはその先です。

失敗したら、あるいは人に迷惑をかけたことがわかったら、
その事実を素直に認め、反省することができるか。
そして、反省した上で、適切な対処と、
その後の自分の心、行いの修正ができるか。
それができるかできないかが、その人が人間として
成長するかしないかの分かれ目になると思います。
この世に生まれてきた目的のひとつを
果たせるか果たせないかの境目とも言えるでしょう。

自分は悪くない。相手が悪い。誤解だ。
そう言いたくなることもあるかもしれません。
たしかに、誤解されることもあるでしょう。
しかし、相手はそう感じたのですし、誤解だったにしても
自分が誤解されるようなことに関わったのは事実なのです。
そして、私の経験から考えますと、そういう言い訳をする人ほど、
自己防衛と、自分だけの価値観、思い込みで
事実を認めようとしないことが多いようです。

火の無いところに煙は立たぬ。
例えば自分にとっては寝耳に水のような話でも、
そういう話が持ち上がったのにはなんらかの理由があるはず。
すべては冷静に受けとめ、私情を挟まずに事実を分析し、
反省すべきところは反省して、
その後の態度、行動にあらわすこと。
それができる人は、誤解であったなら誤解も解け、自分も成長し、
その後の人間関係も良好になっていくのではないでしょうか。

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34号「重要なのは言った人ではなく、言ったこと」(2008年5月19日)

宗教をはじめとする、生き方などを説くものには、
教祖などの指導者がいます。
その人の言っていることが真理に通じているなら、
その教えは人々の心を揺さぶり、眠っていた目を開かせ、
多くの人の生きる支えになるでしょう。

しかし、ここで注意しなければならないのは、
大事なのはその教えであって、
教祖や指導者本人ではないということです。
たとえブッダやイエスであっても、
その個人に価値を求めてしまうことは危険です。

個人をあがめてしまうと、せっかくの教えも、
その人ありきになってしまいます。
信者が本当に教えを理解していなければ、教祖がいなくなった後、
その宗教は間違った方向に進むかもしれません。

また、どんな立派な教祖であっても、
肉体を持ってこの世に生まれた時点で、
あくまでも一人の人間なのです。
人間である以上、完全ではなく、誰もが修行の身です。
言っていることとやっていることが
違うような場合もあるかもしれません。

もちろん、自分が説いている以上、
あまりその教えに反するようなことをすれば
信頼を失って当然でしょうが、教祖とはいえ、
一人の人間に完璧を求めても所詮限界があるのです。

犯罪を起こすような教祖は別としても、
教祖になれるような人は、それなりの大切な役割の人だと思います。
少なくとも教えを説いている時だけは、
どこかからメッセージを受け取っているのかもしれません。

重要なのは、言った人ではなく、言ったこと。
誰が言ったかではなく、何を言ったかです。
それを言っているのが誰であれ、その人の生きざまがどうであれ、
心に響いた言葉は自分の宝として、
自分が生活の中で実践していけばいいのではないでしょうか。

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35号「いいとこ取りをする」(2008年6月2日)

宗教や生き方を説くもの、
あるいは科学など、どんな場合でもそうかもしれませんが、
とにかく、誰かが気づきや論理を展開しているもの。
そういうものを聴いたり、読んだりする際、
「いいとこ取りをする」という基本スタンスが必要と思います。

教祖であれ、先生であれ、表現には限界があるし、
完璧な人はいないのです。
その人物や、書かれたものを頭から信じ、教えを鵜呑みにすれば、
間違った部分も受け入れてしまうことになります。

私の言うことは絶対です、すべて言う通りにすればよい
などという指導者を盲信していれば
いつか大きなダメージを負うことになるかもしれません。

真理は永遠不変、完全無欠。時代や場所にも関係なく、
あらゆる場合、どんな時にも通じるものです。
しかし、それをこの3次元レベルに表した時、完全は失われます。

ですから、表面的な言葉や文字に惑わされず、
自分でその中から真理を見つけ出していくしかない。

誰からでもいい、何からでもいいのです。
肝心なのは、自分で真理を見つけることです。
判断するのはあくまでも自分であり、自分が反発を感じる部分は、
少なくともその時点では受け入れてはいけない。

そんな判断は自分にはできない。
自分にはいいとこ取りなんて無理だ。
自分は、正しい教えを説いていそうな人がいたらその人を信じ、
その人についていくことしかできない。
そう思われる方もいるでしょう。

しかし、そう思っている限りは成長しないのです。
せいぜい先生の受け売りしかできない。
先生亡き後は、遺されたものにすがって生きるしかない。

大丈夫です。すべては自分の中にある。
誰でも心の奥底には、真理を見つける力はあるはずです。

あらゆるものからいいとこ取りをして、
自分が納得できる生き方を見つけていく。
それが自分の成長につながる、
この世を生きる上での知恵ではないかと思います。

さて、以上は私の考えです。
いいとこ取りできる部分はありましたでしょうか。

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36号「動物と人間」(2008年6月16日)

自然界の動物たちから、人間はいろいろなことを学べます。

彼らにとって大事なのは、食べることと交尾すること。
非常に明快な、動物として生きる上での基本です。
そして動物たちはそれらが必要なだけ満たされれば、
それ以上は求めないし、天敵が現れなければ寝ているでしょう。

食物連鎖の関係上、襲われれば逃げるし、戦うこともあります。
また、摂食や繁殖のための縄張り争いなどもあるでしょう。
しかし、動物たちの争いは生きる上に必要なことであると言えます。

人間はどうでしょう。
先進国では食べきれない食料をたくさん捨てています。
体質もあるでしょうが、太り過ぎて困っている人もいます。
交尾は人それぞれかと思いますが、結婚などの制度に縛られ、
苦しみを作っているようにも見えます。

また、人間は食べるためでもないのに、
戦争をして人間同士で殺し合っています。
動物の一種であるはずの人間の求めているものは、
生きるという目的から外れているのではないでしょうか。

動物たちは人間のように、
生きることに直結しない欲望は持たないでしょうし、
人間のように苦しむことも悩むこともないでしょう。
そういう意味では、人間は動物としての原点に返り、
生き方を見直す必要があると思います。

しかし、人間は他の動物とは違うことも事実ですから、
すべて動物と同じにすればいいというわけではないでしょう。

人間は複雑な思考ができ、
さまざまなものを生み出す能力を与えられています。
与えられるものに無駄なものはないはずですから、
その能力を生かすことも人間の使命なのだと思います。

悩むのも人間の特権であるなら、
必要なことなら悩むのもいいでしょう。
考え、悩み、そこから何かしらの答えを見つけていく。
これも他の動物にできることではない、
人間の生かすべき能力でしょう。

私たち人間はそれだけのものを与えられているのですから、
何を思い、何を目的に、どのように生きるかということを
考える必要があると思います。

人生は、いたずらに食べることや交尾することを
目的にすればよいわけではなく、
また、殺し合い、傷つけあうことや、
とどまるところを知らない物質的発展を
目指せばいいわけでもないでしょう。

つまるところ、ある面では動物たちを手本にしながら、
人間にしかない能力を生かしつつ、
あらゆる生物が幸せに生きられる世界を築いていくことが、
人間に与えられた使命であり、
人間としてあるべき姿なのではないでしょうか。

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37号「生きる目的と、その発想の源」(2008年6月30日)

前号に関連して、人間の生きる目的について
考えてみたいと思います。

生き物にはDNAがあり、そこには遺伝情報が組み込まれています。
肉体は、DNAが生き、存続していくためのものであるという
考え方もあるようです。

DNAが主体であり、
生物は肉体をもってその運び屋をしているに過ぎない。

たしかに肉体だけを考えるとそういう見方もできるかもしれません。
でも、僕はもう少しスピリチュアルな観点から
生きる目的についてこのように考えています。

肉体は、この世を生きるために、
魂(心)が宿るための乗り物である。

人間が生きる目的の一つは、
肉体に宿り、この世を生きることによって
自らの魂を成長させるためである。

また、もう一つの目的は、
この地球上をよりよいものにすること。
究極はユートピアを築くこと。

この考え方の前提としては、人間はこの世限りのものではなく、
あの世とこの世を生まれ変わり、転生輪廻しているということ。

そして、すべてを造った創造主、
すべての源である大いなる意識があるということ。
神とかサムシンググレートとか呼ばれているものです。

スピリチュアルなことに抵抗のある方は
受け入れにくいでしょうね。
僕も30歳過ぎまでは唯物論者でしたから、
この世で死ねば終わりと思っていました。

でも、こういったスピリチュアルな考え方を知ったら、
生きるということにとても納得がいき、
それまでの疑問や悩みが解消してしまいました。
だから今は、これが真実なのではないかと思っています。

人は誰でも自分を成長させたいと思うし、
よりよい社会に住みたいと思っていますよね。

僕にとってはとても納得のいく考え方であり、
本来、すべての宗教に共通している、
あるいは共通して然るべきことなのではないかと思います。

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38号「人生の主役」(2008年7月14日)

人間が生きる目的の一つは、
肉体に宿り、この世を生きることによって
自らの魂を成長させるためである。

だとすれば、自分の人生は、
自分を主役にした映画づくりだと
考えてみてはどうでしょうか。

主役である自分の人生を演出するために、
自分の周りにはさまざまな配役がなされている。
いろいろなエピソード、事件が起き、
笑いあり、涙ありの感動のドラマが作られている。

家族をはじめ、友だちや、仕事関係の人など、
出演者の一人ひとりは、ドラマを盛り上げるために
さまざまな性格、境遇に設定され、
それぞれの役を一生懸命こなしている。

ドラマを面白くするためには悪役や憎まれ役も必要でしょう。
ドキドキハラハラするような出来事も
あった方が面白くなるかもしれません。

悲劇も喜劇もあるでしょう。
波乱万丈の人生、ハッピーエンドとは限らないかもしれません。

しかし、そのドラマのすべては、主役である自分の魂、
自分という人間を成長させるためにあり、
役者たちは自分のために迫真の演技をしてくれている。

そして、そこで起きることには、
嬉しいことにも悲しいことにも意味があり、
そのすべてから自分は学ぶことがあるのだと
考えてみてはいかがでしょうか。

そう思えれば、周りの人や起きること、
すべてに感謝の気持ちが湧き、
前向きに生きられるのではないかと思います。

そして、主役である自分は、
どこかにいるかもしれない観客、
あるいは他の出演者に喜んでもらうために、
どんな役づくり、演技をしたらいいだろうと工夫する。

そんな風に考えるとこの人生、面白くなってきませんか。

せっかく与えられた主役の座なのですから、
このチャンスを精一杯生かし、一生をかけて、
悔いのないように自分の納得の行く映画を作りませんか。

        * * *

そして、スピリチュアル的に考えるならば、
この世を去った後、自分はその映画を観て
人生を振り返ることになるかもしれません。

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39号「ユートピアのイメージ」(2008年7月28日)

前号に関連して、
人間の生きるもう一つの目的について考えてみます。

それは、この地球上をよりよいものにすること。
究極はユートピア(理想郷)を築くこと。

これを実現するためには
まず、築こうとするユートピアのイメージを
はっきりさせる必要があると思います。

理想的な社会とはどんなところなのか。
そこに住む人々は何を考え、どんな暮らしをしているのか。

人間はこれまでの歴史の中でも、
よりよい社会を作りたいと考え、
努力してきたのであろうと思います。
大昔からさまざまな社会構造が考えられ、
良くも悪くも歴史的な革命が起きたり、
試行錯誤が繰り返されてきました。

確かによくなった部分もあるでしょう。
いろいろな分野で技術が進歩し、
さまざまな発明、発見がされ、
先進国では暮らしが豊かになり、
便利快適な生活ができるようになりました。

しかし、それによって生物の存続も危ぶまれる環境破壊や、
発展途上国の飢餓貧困を生みました。
いまだに悲惨な戦争も絶えません。

いくらよりよい社会を目指してきたとはいえ、
これではその代償が大き過ぎると思います。
人類はどこかで道を誤ったとしか思えない。

先進国が豊かになったとはいっても、
日本など、ただ物があふれ、
お金に振り回されているだけで、心は置き去り。
凄惨な事件が毎日のように起き、
自殺者は年間3万人以上という状態です。
これで理想的な社会といえるでしょうか。

これは、描いたユートピアのイメージが
貧困だったからではないでしょうか。
あるいは、そのマイナス面が予想できなかった。

では、本当のユートピアとはどんなところなのか。
この先、人間が本当によりよい社会を作っていこうとするなら、
今までの価値観に流されず、根本からすべてを見直し、
あらゆる面を考え合わせて
そのイメージをふくらませていく必要があると思います。

僕は拙著「お金のいらない国」に
僕の考えた理想社会の一端を書きましたが、
ぜひ、みなさんひとりひとりに想像していただきたいと思います。
それがユートピア実現への第一歩となるのではないでしょうか。

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40号「続・ユートピアのイメージ」(2008年8月11日)

さて、ユートピア(理想社会)とはどんなところで、
そこに住む人々は何を考え、
どんな暮らしをしていると思いますか?

よりよい社会を目指して
文明を進歩発展させてきたはずの私たちですが、
物が豊かになっても理想社会にはならないということが
なんとなくわかってきました。

もちろん、生きていくのには
ある程度の物質的豊かさも必要でしょう。
しかし、必要以上に物があふれてもユートピアにはならないし、
そこに住む人々は幸せを感じられないようです。
また、そのために自然を破壊してしまったのでは
元も子もないでしょう。

ではどんな社会が望ましいのか。
どんな社会なら無理なく、
半永久的にみんなが幸せに暮らしていけるのか。

僕はこんな風に考えています。

必要最小限しか手を加えない豊かな自然の中で、
資源を再生可能な範囲で使いながら、
適度に便利快適な暮らしのできる社会。

誰もが他の動植物たちを含めたみんなのことを考え、
多くを求めすぎず、所有意識や、競争意識のない社会。

人の上に立とうとする者も、支配もなく、
余計な決めごとも争いもなく、お互いを認め合える社会。

すべてが自由であり、平等であり、
そしてそのことにすべての人が満足し、幸せを感じられる社会。

そもそもこの地球はユートピアであり、
自然は、人間や動物たちに
十分な食料と生きられる環境、
必要な資源を用意してくれているのだと思います。
そして人間はそのことに感謝し、
多くを求めすぎずに生きようとすれば
十分に皆が幸せに暮らしていけるのではないでしょうか。

それができないのは、
人間がとどまるところを知らぬ欲望を持ち、
自然の中に生かされているという謙虚さを忘れ、
自分たちが地球を支配している、
地球の資源はすべて自分たちのものだと考えた
傲慢さの表れではないでしょうか。

そのしっぺ返しがきて、今、人間たちは慌てている。
さあ、それにどれだけの人が気づき、
根本的に価値観を変え、軌道修正して
この先、ユートピア実現に向けることができるか。
人類は、今、その岐路に立たされているのだと思います。

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41号「足ることを知る」(2008年8月25日)

前回は、ユートピアのイメージ、
そこにはどんな人が住んでいるかを考えてみました。
多くを求めず、常に現状に満足し、幸せを感じられる人。
一言で言うと、足ることを知った人
ということになるかと思います。

「足ることを知る(足るを知る)」は
釈迦や老子などが説いたようですが、
京都の龍安寺の「吾唯足知」と書かれたつくばいが有名です。
中央の水穴の「口」を上下左右の4文字が共有しながら
それぞれの文字を表すという秀逸なデザイン。
「われただたることをしる」と読みます。

お金や物、肩書き、名誉など、
人がほしいと思うものがこの世にはいろいろありますね。
足ることを知らない人は、
常に、もっともっとほしいという気持ちに追われ、
満足するということがありません。

お金は無限に貯められますから、
いくらでもほしいと思っていれば
永久に満足できないことになります。
満足できなければ、幸せも感じられないでしょう。

とても残念なことだと思いますが、
この社会に住む私たちは、自分からは求めないにしても
そのような価値観の中で生かされていると言えます。

常に業績を上げようとする会社の中では
そういう価値観に合わせて働かざるを得ない。
世の中に物が普及すれば、いずれ自分も買うことになる。
この経済社会に籍を置く限りは
仕方のないことなのかもしれません。

しかし、そのような中にあっても、
自分が足ることを知り、それなりの価値観をしっかり持っておけば、
世間に振り回されずに生きられるのではないでしょうか。

例えば、物は必要なだけあればいい、
お金は必要以上に稼ぐことも貯めることもない、
出世はしたい人がすればいい、などと割り切り、
また、少なくとも食うには困らない程度の生活ができるのなら
そのことに感謝し、満足して生きる。

そのような価値観を持って生きる人が増えれば、
社会の価値観も自ずと変わってくるかと思います。
それが「お金のいらない国」実現への

第一歩になるのではないでしょうか。

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42号「続・足ることを知る」(2008年9月8日)

前回は、「足ることを知る」ということについて考えてみました。
足ることを知った人とは、
多くを求めず、常に現状に満足し、幸せを感じられる人。

しかし、それでは進歩がないのではないか、
人間は、現状に満足しないからこそ理想を持ち、
努力し、成長するのではないか。
そう感じられた方もいらっしゃるのではないでしょうか。

人類も、よりよい生活を目指したから、
いろいろな研究をし、さまざまなものを発明し、
これだけ科学を進歩させ、豊かな文明を築いてきた。
それをせずに足ることを知ったとしても
人間の生き方としては不十分なのではないか。

たしかに、理想を求めて
努力することはいけないことではないでしょう。
しかし、どんな理想を、何のために求め、
どのような努力をするかで結果は大きく変わってくるでしょう。

人間の科学文明はここ数十年の間に
主に先進国の間でめざましい進歩を遂げました。
たしかに暮らしは便利快適になりました。
しかし、そのために資源は大量に失われ、
環境は致命的に破壊されました。
そして、せっかく努力してこれだけの世界を築いてきたのに、
人々はあまり幸せを感じていないようです。

これは物質的に満たされることのみを
追い求めてきたために起きたことだ思います。
足ることを知らずに、
際限なく物質的豊かさだけを求めてきた結果でしょう。

足ることを知るということは、
努力してはいけないということではありません。
ただ、足ることを知っていれば、
努力する目的が変わってくるだろうし、
少なくとも、無理をしたり、大きなリスクを背負ってまで、
何かを求めることはしなくなるでしょう。

人類が足ることを知り、余分なものを求めず、
無駄なものを作ることをやめ、
時間に追われることから解放され、
人々の心に余裕ができたら、世界は一変するでしょう。

経済社会ではなかなか思うようにはならないかもしれませんが、
一人でも多くの人がそれに気づき、
そのための努力をするようになったら、
社会の風潮、地球環境も大きく変わるような気がします。

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43号「9・11事件の真相は?」(2008年9月22日)

今回は、以前このメルマガでも触れました
9・11事件(アメリカ同時多発テロ事件)の
真相究明に関するイベントのご紹介をさせていただきます。

2001年9月11日、
アメリカで4機の旅客機がハイジャックされ、
2つの世界貿易センタービルと
アメリカ国防総省(ペンタゴン)に激突。
しばらくしてツインビルは完全に崩壊しました。
残りの1機は墜落したということになっています。

当時、これはオサマ・ビンラディン率いる
テロ組織アルカイダによるテロだと報じられ、
間もなくブッシュ大統領の指示のもとアメリカ政府は
アフガニスタンへの報復攻撃を開始しました。

しかし、この事件、よく調べてみるとおかしなことが
いろいろと出てきました。

飛行機が突っ込んだくらいで、あれだけのビルが
あのような形で崩壊することはない。
ペンタゴンに空いた穴はとても小さく、
飛行機が入るような大きさではない。
また、周囲の損傷も少なく、飛行機の残骸すら見つかっていない。
ここで詳しくは述べませんが、数え上げればきりがないほど
いろいろな疑問が浮かび上がってきました。

日本ではこの事実はほとんど知られていませんが、
ヨーロッパなどではかなりの人が、
9・11事件にはアメリカ政府が何らかの形で
関わっていると認識し、
各界の識者たちによる真相究明会議も開かれています。

この度、「9・11事件は謀略か」著者
デヴィッド・レイ・グリフィン博士が来日され、
平和活動家のきくちゆみさんと一緒に
各地で講演されることになりました。

この機会にぜひ、お近くの会場にお越しいただき、
事件の真相について考えてみてください。
各地の予定は以下の通りです。

2008年10月27日(月) 秋田
2008年10月31日(金) 神戸
2008年11月 1日(土) 大阪
2008年11月 2日(日) 名古屋
2008年11月 3日(祝) 東京

きくちゆみさんのブログをご覧ください。
画面右、チラシの画像をクリックすると詳細がわかります。
各地の情報は下にスクロールしてください。
http://kikuchiyumi.blogspot.com/

名古屋会場は長島龍人が実行委員長をしています。

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44号「おすすめの本」(2008年10月6日)

アメリカでは大手証券会社が倒産、
また、株価が大暴落し、
いよいよ、まやかしの経済社会は
足元から揺らぎ始めた感があります。

貸したお金には利子が付き、
借りたお金は利子をつけて返さねばならないシステム。
要するに、金持ちに有利に、
格差が生まれるように作られたしくみなのですから、
どうがんばっても平等になるわけがありません。

無限に貯められ、腐らないという
自然界にはあり得ない性質を持ったお金。
何とでも交換でき、他人に対して力を持つとなれば、
人間の欲望をかきたて、それを手に入れるための争いも起こる。

人は、このお金という代物と不平等な経済システムに
長い間、振り回されてきました。
多くの人は、何かおかしいと感じながらも懸命に働き、
その代償としてお金を与えられることに
それなりの納得と満足をしてきたかもしれません。
しかし、そろそろ善良な市民をだますのも
限界が来たように思います。

僕はしばらく前からこの経済のしくみのおかしさ、
お金とは何かをいろいろな形で訴えてきましたが、
先日、ある人からとてもいい本をすすめてもらいました。

「金融のしくみは全部ロスチャイルドが作った」
安部芳裕著 徳間書店 5次元文庫(648円+税)

この本は、お金の歴史、お金の問題点、金融の歴史、
ロスチャイルドの世界革命行動計画、
ロスチャイルド関連の世界史、
世界の現状、未来への提案と
非常に幅広い内容で、詳細に、わかりやすく書かれています。

お金とは何かが改めてわかりますし、
歴史上、世界中で起きてきたことが見事につながり、
世界の裏側では何が行われてきたのか、
にわかには信じがたいようなことまで暴かれています。

陰謀論として片付ける人もいるでしょう。
それはそれでもいいですし、鵜呑みにするのも危険なことです。
でも、僕は自分の考えていたことと一致しましたし、
前回お伝えした9・11事件に関しても触れられていて、
これはこのタイミングでご紹介せねばと思いました。
まだ発刊されたばかりですが、かなり売れているようです。
ご興味が湧きましたらお読みになってみてはいかがでしょうか。

HPもあります。
http://www.anti-rothschild.net/index.html

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45号「ノーベル平和賞と911事件」(2008年10月20日)

今年のノーベル賞は日本人が何人も受賞し、
明るい話題でしたね。

ノーベル平和賞については
日本人が獲らなかったのであまり話題になりませんでしたが、
実は、43号でご紹介させていただいた、
デヴィッド・レイ・グリフィン博士が
911事件真相究明活動とともに、
ノーベル平和賞にノミネートされていました。

↓(きくちゆみさんのブログ)
http://kikuchiyumi.blogspot.com/2008/10/blog-post_07.html
↓(森田玄さんのブログ)
http://moritagen.blogspot.com/2008/10/blog-post_07.html

これは、ヨーロッパでは、
911事件の事実が公式報道とは異なり、
アメリカ政府が何らかの形で関与していることが
公に認識されているという証拠だと思います。

僕はそもそも賞というものにあまり意味を感じないし、
ノーベル賞自体もいろいろに言われているようですが、
911事件の真相究明活動が
少なくとも国際的に認められた賞に
ノミネートされたということは、
そこにはかなりの証拠が挙がっており、
単なる面白半分の陰謀説として片付けて済むことではないと
認識した方がいいということではないでしょうか。

たしかに、にわかには信じがたいことでしょう。
また、誰かが自白したわけではないので断定はできません。
実際、僕もDVDを見たり、本を読んだりするまでは
いくらなんでもそこまではしないだろう、
あるいは、できれば嘘であってほしいと考えていました。
しかし、証拠を目の当たりにすれば認めないわけにはいきません。

現在、911事件真相究明活動を
中心になってされている方の多くが、
過去にアメリカに住んでいたり、
少なくとも以前はアメリカが大好きだった人たちで、
身を切られるような思いで真相を広めようとされているのです。

この社会はそれほど病んでいるのです。
口実を作って戦争をしなければ成り立たないのが
今の経済社会なのです。
お金のためなら人の命など何とも思わない人がたくさんいるのです。

ぜひ、この機会に各地の911事件真相究明イベントに参加し、
事実を知ってください。一緒に考えてみてください。

きくちゆみさんのブログ
http://kikuchiyumi.blogspot.com/
(画面右の黄色いチラシをクリックしてください。
各地のイベント詳細は下にスクロールしてください。)

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46号「左脳と右脳」(2008年11月3日)

しばらく前に世間では、左脳、右脳の働きについて
よく話題になっていましたね。

実際のところはどうなのか僕はよく知りませんし、
要はバランスが大事なのではないかと思いますが、
知り合いがあるところに投稿していた説明が
なるほどと思わせるものでしたので、
了承を得て、ご紹介させていただきたいと思います。

(以下引用です)

左脳と右脳と言うよりも、
マインドとハートと表現した方がピンと来るかもしれませんね。
ボクが理解してることを少し書いてみます。

体は呼吸することや血液を送る能力を持っています。
これは寝ていてもボーっとしていても働いています。

マインドの能力は「考える」ことです。
ですが、この能力は何かの用を成したいと思ったときにしか作動しません。
つまり、マインドが動くきっかけは全て自我(エゴ)です。

ハートには「考える」能力はありません。
ですから、「右脳で考える」と言うのは違う気がします。
マインドのように分析や評価は出来ませんから、
都合のよいものも悪いものも関係なく伝えてきます。
ハートも体と同じように、寝ていてもボーっとしてても働いています。
生命体にとって、もっとも必要な情報を集めて(感じて閃いて)
伝えていると言われています。

今の社会の仕組みやルールは、マインドで考えて作られたものですから、
誰かの都合が必ず入っています。
それに、マインドにはハートのように
高速で大量の情報を処理する能力はありません。
だから、必ずどこかでツジツマが合わなくなります。
その問題の解決に、またマインドを使ってる訳ですから、
有史以来、調和のとれた社会(世界)が出来ないはずです。

もし人間がマインドを使うことを止めれば、
世界中の問題は一気に解決するように思います。
りゅうじんさんの書かれた「お金のいらない国」では、
マインドはほとんど必要なくなると思います。
少なくとも、今の社会のように、マインドが最優先される事はないでしょう。

よく右脳の能力が落ちてるって言われますけど、ホントにそうなのかなあ?

ボクは、ハートは結構しっかり働いてると思ってます。
ただ、マインドのように使う機会が少なかったから、
使い方(受け取り方、聞き方)が分かってないのだと思います。

ハートは、マインドと違う言語を使って伝えてきます。
能力が違うのだから、マインドと同じように「考える」言語じゃありません。
それから、マインドの言語は学校でも学べるけど、
ハートの言語はそれが出来ません。
それは、個人で全く違うものだからです。
だから、オンリーワンの個性が輝くのです。
じっくり自分と向き合って、オンリーワンの言語を理解するしかないのです。

もう一つ使えない原因があります。
それは、自分に対しての自信のなさ。

マインドは、与えられた条件で論理的(一応ね)に答えを出しますが、
ハートの出す答えには全く脈絡がありませんし、予告なく突然です。
そういうのに慣れてないとスゴク不安。
その上、マインド(頭)を使って「考える」ことが大切だって、
ず〜〜〜っと刷り込まれてきたから、
ハートで受け取った答えが、持ってる固定観念と合わないと、
自信ないから、無意識にマインドの答えを選んでいると思います。

だから、自分のことを心から信じて愛せること。
これが、ハートを使える重要な条件になると思います。

マインド(頭)を使える人が偉くて、
使えない(使わない)人は、アホだって言われてきました。
でも、個人の問題(悩み)も社会の問題も、全てマインドが作ってるものです。
その解決にマインドを使っても永遠に解決しないって思うんです。

ハートの声を聞いて生きること。
これが自分の中に答えを探すということ。
そして、これがホントの意味で人間を自然に戻すことだと、
最近のボクは考えています。 

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47号「9・11事件真相究明イベントを終えて」(2008年11月17日)

もう、2週間前になりますが、このメルマガでもお伝えしていた
デヴィッド・レイ・グリフィン博士と、きくちゆみさんによる
9・11事件真相究明イベントツアーが無事終了しました。

僕は名古屋の実行委員長をさせていただきましたが、予想以上の
300人を超える集客で、たいへんホットな会となりました。

手前味噌かもしれませんが、今回は、
一緒に中心となって動いてくれた女性が、名古屋の講演会終了後、
翌日の東京公演を控えたきくちゆみさんに送ったメールを
ご紹介させていただきます。
僕が下手に報告するより、リアリティがあると思いますので(笑)。

(以下引用)

ゆみさん

名古屋のスタッフは、300人を超える来場者への感謝の気持ちと
グリフィン博士とゆみさんが最後に残していった笑顔の余韻に包まれて
今夜はみんな最高の気分です。

お二人を名古屋にお招きできて、本当によかったです。
グリフィン博士、ゆみさん、名古屋に来てくださって”ありがとう”
そして、今日、多くのイベントがある中で
私たちの会場に足を運んでくださったみなさん、”ありがとう”

今日の講演に関するみなさんのご意見やご感想はさまざまでしょう。
でも、イラクから送られてくる傷ついた子供たちの写真を見て、
こんな悲劇をすぐにでも止めたいという気持ちは、
どなたも同じだと思います。
そして、グリフィン博士の示される証拠の中の
どれか一つでもご賛同いただけるなら、
それは日本政府が戦争に協力するのをやめさせるのに
十分な理由になると思います。
イラクの子供たちを傷つけるために私たちの税金がこれ以上使われるのは
私も残念無念でなりません。

今回の名古屋のスタッフは、
911真相究明に関心を持って日の浅い人ばかりで
自分たちも勉強しながらチケットを売り歩くのは
大変なことだったと想像します。
6ヶ月の準備期間も最初から難航続きで、
ミーティングのたびにみんなでやせ我慢をしながら
励ましあっていたのを思い出します。

でも、初めからスタッフとして参加していた人から
直前に加わってくれた人まで、
誰ひとり欠けても今日の成功はありえませんでした。
そんな意味で、今日の成功は本当に奇跡なんですよ!

今回の素晴らしすぎる多くの出会いと、
ドラマティックな演出をプレゼントしてくれた神様に”ありがとう”

私達はこれからもどんどんつながって、ここ名古屋から、日本から、
911の真相究明を含めた”幸せの種まき”をしていきます。
奇跡が奇跡を呼んで、私達にだって何かできるっていうことを
確実にみんなが感じたんじゃないかな……?
これって、決してひとりでできることじゃありません。

若い人から年配の人まで、
今回の名古屋のスタッフはとても素敵でしょ☆
そして会場に来てくれた人たちも、
年齢層はとても幅広かったように思います。
何かが確実に変わっていますね。

東京講演の成功をお祈りしています。
連日の超ハードスケジュールをこなしている博士とゆみさん、
あらん限りの最後の力をふりしぼってがんばってください!


(参考)
きくちゆみさんのブログ
http://kikuchiyumi.blogspot.com/

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48号「うつ病を克服した友人」(2008年12月1日)

彼と出会ったのは8年ほど前、音楽関係の集まりでした。
バンドなどを楽しくやっていた彼の様子が
しばらくするとおかしくなりました。
仲間たちは遠ざかり、彼は孤立してしまいました。

僕は彼とたまに個人的に会って話を聞くようになりました。
彼はとてもまじめで、父親の影響を強く受けながら
育てられてきたことがわかりました。
父親を尊敬し、期待に応えたいと思う反面、
父親に対する強い反発も覚えているようでした。

彼はうつ病と神経症に苦しみ、何度か自殺も考え、
薬漬けの毎日を送りました。

ここのところ彼とはしばらく会っていなかったのですが、
先日、彼から突然、メルマガをはじめるとの案内が来ました。
登録して読んでみると、なんと病気を克服し、
生きる術を見つけられたようです。
僕は友だちとしてとてもうれしく思います。
今回はその彼の文と、メルマガのご案内をしたいと思います。

(以下引用)

****************************************************************
弱さを自覚する時に、初めて人間は、強くなる方法を見つけるのである。
****************************************************************

『弱さ』って、そもそも何なのでしょうね。
他人と比較して、足りない部分や劣ってるところに
目が行ってしまうのでしょうか。
でもね、そんなことをいちいちしていたら、疲れちゃいますよね。

もし、その“負けてる部分”を
自分の『個性』、『味』と捉えることができたら、
生き急ぐ苦しみも和らぐことでしょう。

みんな不器用なもの。完璧な人間なんてこの世に一人もいない。
だから仲間や家族、周りの人と補い合える。
これって最高に面白いドラマなんですよね。

私たちは、競争するために生まれてきたのではないのです。
楽しむために生まれてきたのです。
今のままの、ありのままのあなたの姿でいいのです。
不完全な自分を受け入れ、認めてあげてください。
カッコつけなくても、素直に生きることが、
一番オシャレで輝いている姿ではないでしょうか。

持つべきものは、『自信』ですよ。
先ずは自分を好きになることです。
とは言っても、実践するのはなかなか難しいんですがね(苦笑)

でも意識してみてはいかがですか。
時間をかければやれないことなんて無いはずですから。
必ず変わることはできます。
例えば、鏡に向かって『大好きだよーっ!!』って叫んでみるのも、
アリだと思います。ホントに。

頑張る必要なんて全くありませんよ。
あなたらしく、人間くさく生きて行きましょうよ。
それがベストなのですから。

あなたはひとりぼっちじゃない。
あなたが今、生きているということは、
誰かにあなたが愛されているからということを、
どうか忘れないで。

Good night.(^_-)-☆
もうすぐ、また新しい朝がやって来るよ。

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49号「ある村長の勇気ある発言」(2008年12月15日)

長野県中川村の村長がホームページに
戦争で犠牲になることについて、見事な発言をされています。

必要な戦争などない。戦争によって生み出される必要な犠牲などない。
平和は戦争では得られない。僕も強くそう思います。

実はこの方は以前、僕の勤める会社にいた人で、
数年前に脱サラをし、中川村に住むようになりました。
きくちゆみさんのブログに紹介されていたので
今回の発言を知ったのですが、僕は元同僚として誇りに思います。

(以下引用です)

長野県戦没者遺族大会と長野県戦没者追悼式に出席した。
いろいろ考えさせられることがあった。

最も気になったのは、たくさんの来賓の方々が挨拶をされ、
追悼の言葉を述べられたが、どの言葉も、
その場を耳障りよく流れていくことに気をつかうばかりで、
真剣に突き詰めて考えられたものではなかったことだ。

「戦争で亡くなった方々の尊い犠牲があって、
現在日本の平和と繁栄があることを、私たちは一瞬たりとも
忘れてはならない。」
登壇したおそらくすべての人がこのようにおっしゃった。
様々な戦没者追悼式で必ずといっていいほど言われる言葉だ。
しかし、本当にそうだろうか。

戦争の犠牲がなければ、平和と繁栄は得られなかったのか。
私にはそうは思えない。もし戦争がなくて、平和のまま、
犠牲になった兵士や市民が元気に活躍し、
それぞれの夢や計画に邁進しておられたら、今の世の中は、
もっともっとよいものになっていたのではないのか。

戦死した皆さんは、戦争で犠牲となることを強いられることによってではなく、
農業や得意とする技術やみずからの構想を実現することによって、
日本や社会に貢献することを望んでおられた筈だ。
私たちは、かけがえのない人たちを失ったのだ。
破壊と殺戮が、どうして平和と繁栄に貢献するのだろうか。

戦争による死を、「無駄ではなかった、意味があった」と
信じたい遺族の方々の感情はよく分かる。
しかし、「平和と繁栄のためには犠牲が必要だった」という考えは、
危険な芽を孕んでいる。
「今後も平和と繁栄のためには時として犠牲が必要となる。」
こういう考えを誘い入れかねない。
勿論、演壇に立たれた方々がこんなことを主張された訳ではない。
しかし、深く考えていないために、
突き詰められればこういう考えを容認することになる。

(続きはこちらをご覧ください)
http://www.vill.nakagawa.nagano.jp/intro/v_chief/033_20081106.html 

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50号「戦争について」(2008年12月29日)

前回は、長野県中川村村長の、
戦争で犠牲になることについての発言を
ご紹介させていただきました。

僕も村長と同じく、
いかなる理由があろうとも戦争は絶対にすべきでないし、
そこに生まれる犠牲は必要なものではなく、
美化すべきものでもないと考えます。

僕の父は第二次世界大戦中、兵隊として沖縄に行きましたが、
足を撃たれて捕虜になり、奇跡的に生きて帰ってきた人なので、
僕は小さい頃から戦争の話をたくさん聴いて育ちました。
父は淡々と話してくれましたが、
その悲惨さは、想像を絶するものだったでしょう。

先日、原爆を開発し、自分で投下したという博士が広島を訪ね、
被爆者遺族に会うというテレビ番組を見ました。
3年ほど前に放送されたものの再放送でした。

博士は当時の写真や展示物を見ながら、
ひどいと顔をしかめながらも、謝らないと言っていました。
戦争なのだから仕方ない、戦時に罪のない人などいないと。

反発を覚える方もいらっしゃると思いますが、
僕はその言葉に妙に納得しました。

戦争は国と国が戦うのだから、
兵隊だけが危険にさらされるわけではない。
戦争は、人殺しという最も非人道的なことを
国を挙げてするのであり、そこにはルールなど存在しない。

だから、戦争によっていかなる犠牲が生まれようと仕方ないし、
その責任は双方にあるわけで、
どちらかが謝って済むような問題ではない。
だからこそ、絶対に戦争はしてはいけないのだと僕は思います。

博士はこうも言っていました。
「私たちには『真珠湾を忘れるな』という言葉がある」
日本が先に仕掛けてきたから戦争は始まったのだ
だから自分たちは悪くないのだと言いたいようです。

これを逆手にとって、戦争を始める口実を作ったのが
9・11事件だと僕は思っていますが、
やられたらやり返すという理屈を正当化している限り
戦争がなくなることはないでしょう。

しかし、理由がどうこう、どちらが悪いなんて
言っている戦争はまだましな方かもしれません。
第三世界の各地で起きている戦争は、
抵抗する能力もない人たちをただ皆殺しにするという
卑怯で、残虐極まりないやり方のようです。

この場で詳しい説明はいたしません。
一体誰が戦争を起こしているのか、
よろしければこのDVDをご覧ください。

「テロリストは誰?」公式サイト
http://www.wa3w.com/

          * * *

今年もメルマガをお読みいただき
ありがとうございました。

来年は「お金のいらない国」のイベントも
より充実させていこうと考えておりまして、
なんと2月3月で、名古屋・大阪・東京と
開催することになりました。

よいお年を。

                     長島龍人

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51号「広島、原爆ドームを訪ねて」(2009年1月12日)

2009年も幕が明けてしばらく経ちましたが、
今年最初のメルマガです。今年もよろしくお願いします。

昨年末は、戦争や原爆についてお話しさせていただきましたが、
暮に、僕は妻と、帰省していた大学生の息子と3人で
広島に行ってきました。
実際に原爆ドームを見るのも、平和記念資料館を見るのも
初めてでした。

原爆ドームの前で、資料を片手に解説されていた
ボランティアの方のお話を聴きました。

地上約600m上空で炸裂した原爆は、
1秒後には直径280m、中心温度100万度、
表面温度7000度の火球を作り、
半径2kmの人や建物を焼き尽くしました。

ほとんどの建物が跡形もなく焼かれ、吹き飛ばされた中で、
広島県産業奨励館(現・原爆ドーム)があの形で残ったのは、
爆心点のほぼ直下だったのと、
天辺のドーム部分が銅板だったため瞬時に溶け、
爆風が建物の吹き抜け部分から、たくさんある窓を破って
外に噴出したためだそうです。
中で働いていた120名はもちろん即死。
僕は、あちこち崩れながらも当時の姿のまま立っている
原爆ドームを見ながらその壮絶なシーンを想像しました。

現在の広大な平和記念公園がある場所は、
たくさんの民家が密集していたところで、
瞬時にして数千人の人の命が奪われたそうです。
これも今回、現地を訪れるまでは知らなかったことでした。

直接の被爆者は約35万人と推定されています。
爆心地に近い方は即死ですが、ご存じのように
被爆した後、苦しんで亡くなった方も
あまりにもたくさんいらっしゃいます。
平和記念資料館には、犠牲になった人の遺品が
その状況の説明とともに展示してありました。
爆弾が投下された8時15分で止まった腕時計。
ぼろぼろになった子供たちの学生服や、皮膚、爪まで。
50歳を過ぎた僕は、今まで無事に生きてこられたことが
いかに幸せなことかと何とも言えない気持ちになりました。

資料館には大勢の人、外国人の方もたくさん来られていました。
戦争がいかに悲惨で、起こしてはならないことか、
一部では憲法9条の改正が叫ばれ、
社会が揺らいでいる今こそ、日本人はもちろん、
世界中の人が肝に銘じなければいけないと思いました。

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52号「ホ・オポノポノの解釈−1」(2009年1月26日)

ホ・オポノポノってご存じですか。
みんなが幸せになるというハワイに伝わる癒しの秘法。

僕は少し本を読んだだけですが、簡単に言いますと、
世の中に存在するすべての障害や苦悩は、
自分自身の記憶の中に存在するのであり、それに対し、
「ありがとう。ごめんなさい。許してください。愛しています。」
と唱え、自分の中のその記憶を消去(クリーニング)すれば、
すべては解決できるというものです。

にわかには信じがたいような話ですが、
提唱しているイハレアカラ・ヒューレン博士は
それを実践し、奇跡のようなことも起こされているようです。

例えば、博士が、殺人などの重い罪を犯した
精神障害者の収容施設に勤めた時のこと。
職員などに対して頻繁に暴力事件が起きていたその施設で、
博士が、収容者と何ら関わることなく、
そのファイルを見ながらクリーニングしたところ、全員が治り、
普通の刑務所に移すことができたということです。

それもすべて博士が自分の記憶を消去しただけだというのですから、
信じられますか?

博士はとにかく、すべてのことは100パーセント
自分に原因があり、自分の責任であると考えないと
何一つ解決しないと言います。
この世で起きているすべての問題は、
どんな問題でも、すべて自分の記憶に原因があるのだそうです。

これはちょっと僕には受け入れがたいことでした。
いくらすべてはつながっているといっても、
平気で人殺しをするような人がいることや、
世の中で起きているとんでもない戦争や事件の原因が、
すべて自分の過去の記憶にあるというのか。

しかし、実際にヒューレン博士はそれを実践し、
具体的な結果を出している。
となると、まんざら嘘でもないのだろう。
僕は自分なりに納得できる解釈を見つけるため、
この数ヶ月間、考えていました。

そして、つい先日、なんとなくわかった気がしました。
あくまでも僕の解釈ですから間違っているかもしれません。
そのお話しは次回にすることにしましょう。
それまで、みなさんも考えてみてくださいね。

※参考文献
ハワイに伝わる癒しの秘法 みんなが幸せになるホ・オポノポノ
イハレアカラ・ヒューレン インタビュー櫻庭雅文
(徳間書店)

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53号「ホ・オポノポノの解釈−2」(2009年2月9日)

さて、みなさん、前回ご紹介したホ・オポノポノについて
考えてみていただけました?

世の中に存在するすべての障害や苦悩は、
100パーセント自分に原因があり、どんな問題でも、
自分の記憶を消去(クリーニング)することによって解決できる。

では、話を進めることにします。
今回は一気に核心に触れようと思います。
はじめにお断りしておきますが、
ここでの説明は十分ではないと思いますので、
もっと詳しくお知りになりたい方は
文末に紹介している本をお読みください。

実は、ホ・オポノポノでいうところの「記憶」とは
現在の自分が認識している記憶だけではありません。

ヒューレン博士は、人の意識には潜在意識があり、
自分が意識している顕在意識は
潜在意識の100万分の1でしかないと言います。

また、その上には「超意識」があり、
そのさらに上にある「神聖なる知能」と
潜在意識を結びつける役目をしている。

潜在意識の記憶はこの世の創世からの記憶にアクセスしており、
私たちはその記憶に洗脳され、動かされている。
潜在意識の色メガネで見ている限り、本当の姿は見えない。
人が生まれてくるのはその記憶を消去するためであり、
その必要がなければ生まれてはこない。

ですから、ホ・オポノポノでいう記憶とは、
自分の今生における過去の記憶などという小さなものではなく、
この世の創世からの記憶を指しているのです。

神聖なる知能は、いわば神の意識であり、
顕在意識が悔い改め、許しを請うことにより、
潜在意識の記憶を消去する。ここで
「ありがとう。ごめんなさい。許してください。愛しています。」
という言葉が必要になります。

ここからは僕の解釈が加わりますが、
要するに自分の魂はこの世の創世のとき、
あるいはそれ以前から存在しており、すべての存在とつながっている。
すべての存在は自分自身であるとも言えるのではないか。
だからこの世で起きていることは
すべて自分に原因があり、自分の責任なのだ。

ここまで考えたとき、思い出したことがありました。
そのお話はまた次回にすることにしましょう。

※参考文献
ハワイに伝わる癒しの秘法
みんなが幸せになる「ホ・オポノポノ」
イハレアカラ・ヒューレン インタビュー櫻庭雅文
(徳間書店)


54号「ホ・オポノポノの解釈−3」(2009年2月23日)

さあ、ホ・オポノポノの解釈の続きです。
1、 2回分をもう一度お読みになりたい方、
また、このメルマガに新たにご登録いただいた方は、
下の方でリンクしておりますバックナンバーをご覧ください。
過去のタイトル一覧(長島龍人HP内)へのリンクもあります。

では本題です。
僕がホ・オポノポノについて考えていくうちに思ったのは、
自分の魂はこの世の創世のとき、
あるいはそれ以前から存在しており、すべての存在とつながっている。
ある意味、すべての存在は自分自身であるとも言えるのではないか。
だからこの世で起きていることは
すべて自分に原因、責任があるのだということでした。

そして、ここまで考えたとき、
以前、自分が書いたショートショートの一編を思い出しました。

地球上のすべての人間が自分だったら
この世はどのようになるだろう。
今、自分は戦争も犯罪もない平和な世界を望んではいるが
果たして全世界の人間が自分だったら
そういう理想的な社会が実現するんだろうか。

そんなことを考えて書いたのが
僕のホームページに掲載しております「望み」という
ショートショートです。
http://www2u.biglobe.ne.jp/%7Enagaryu/tanpen2.html#nozomi
書いた日付を見ますと2000年11月となっています。
その頃からそういったことを考えていたのを思い出し、
これはホ・オポノポノに通じるのではないかと思ったのでした。

スピリチュアル的に考えると、
この地球上は、さまざまなレベルの人間が
それぞれの魂の修行のために生まれてくる場所です。

おこがましく聞こえるかもしれませんが、
であれば、すべての人間は、自分の過去世、あるいは未来世と
考えることができるのではないか。
自分も過去世ではとんでもないことをしてきたのかもしれない。
また、今生で魂を成長させられれば、
未来世ではもう少しましな人間になれるかもしれない。

だからどんな人に対しても、どんな考え、行いに対しても、
自分と無関係とは考えず、その人の立場になって
受けとめ、考え、自分にできる行動を起こしていくことが
大事なのではないかと思ったのです。

だから今、すべてに対してこの言葉を唱えます。
「ありがとう。ごめんなさい。許してください。愛しています。」

※参考文献
ハワイに伝わる癒しの秘法
みんなが幸せになる「ホ・オポノポノ」
イハレアカラ・ヒューレン インタビュー櫻庭雅文
(徳間書店)

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55号「お金のいらない世界に至るまで−1」(2009年3月9日)

講演会などをさせてもらっていますと、
よく、実際にお金のいらない国にするにはどうしたらいいと
思いますかと聞かれることがあります。

これはいろいろな考えや方法があるかと思います。

ひとつの例として、
自給自足や共同生活を実践していくエコビレッジを作る方法。
この経済社会の中にとりあえず、
実質的なお金のいらない国を作ってしまうということです。
また、それを各地に作って連携を図り、広げてゆこう、
そういう動きは既にあるようです。

僕には遠大な計画があります。
僕の理想は、みながお金というものの本質に気づき、
お金を貯める競争をやめ、
お金が滞りなく循環するようになった後、
不要になって消えていくというものです。
僕の活動はその第一歩と思ってやっているのですが、
以下のようなプロセスになります。

1.お金とは何かを考える人が増える。
2.お金の存在しない世界のイメージをふくらます。
3.お金の使い方が変わり、流れがよくなる。
4.世界中の貧富の差、環境破壊がなくなる。
5.お金はあってもなくてもよくなる。
6.お金がなくなる。

これを実現するには、
みながすべての人の幸せを願い、
貧富の差のない、真に平等な社会を望むことが
必要になるかと思います。

言うのは簡単ですが、
現在の資本主義社会においては、
なかなかむずかしいことかもしれません。

しかし、このマネーゲームのおかしさに気づき、
人間本来のあり方を考えるようになった人は
つまらない競争や他人との比較は
しなくなるのではないかと思います。

かなり揺らぎ始めた経済社会を見るにつけ、
お金のいらない国の実現も近づいているのではないかと
ワクワクしている今日この頃です。

次回は、プロセスの各項目について
簡単な説明をさせていただこうと思います。

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56号「お金のいらない世界に至るまで−2」(2009年3月23日)

では、前回の続きで、お金のいらない世界実現までの
僕の考えるプロセスについて簡単に説明させていただきます。

1.お金とは何かを考える人が増える。

 お金は、人間が考え出した道具であり、
 空気や水のように、本来、人が生きるのに必要なものではない。
 また、仕事はお金のためにするのではなく、
 現在の金融システムでお金を貯める競争をしていれば、
 貧富の差がつくことに気づく。

2.お金の存在しない世界のイメージをふくらます。

 お金の存在しない世界では、人々はどういう価値観で、
 どのような暮らしをしているか、
 誰もが幸せに生きられる社会のあり方を考える。

3.お金の使い方が変わり、流れがよくなる。

 お金は必要以上に貯めず、
 稼いだお金は誰のために、どのように使うかを考え、
 それを皆が実践する。

4.世界中の貧富の差、環境破壊がなくなる。

 世界中から、飢餓貧困が消える。
 過度な贅沢や、無駄な労働、自然破壊がなくなる。

5.お金はあってもなくてもよくなる。

 お金は単なる交換の道具、物の代用品として流通する。

6.お金がなくなる。

 交換をやめることにより、お金の存在が不要となる。


僕は、お金のいらない世界を実現させるためには、
5の段階が特に重要と考えています。
この段階では金融システムの変革も起きるでしょう。
放っておいても利息がつくような、
金持ちにだけ有利な、不自然なしくみがなくなるわけです。
5の段階が十分に成熟してからなら
お金の存在しない社会への移行は無理なくできるでしょう。

そして、6の段階では交換という発想がなくなり、
すべてが与えるだけになります。
そしてついに「お金のいらない国」が実現します。

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57号「イネイト整体」(2009年4月6日)

イネイト整体、あるいは、むつう整体ってご存じですか?
体に触れず、寝ているだけで脊椎のゆがみを治し、
本来、人が持っている自然治癒力を目覚めさせ、
あらゆる病気を治してしまおうという療法です。

これだけ聞くと、そんなばかなと思われるかもしれませんし、
私も医者ではないので何の責任も持てないのですが、
要は波動を利用して、リモコンでテレビにスイッチを入れるように
体の自然治癒力を活性化させるということのようです。

私は先日、大阪、曽根崎新地のイネイト整体サロンを訪れ、
施術していただきました。
私は特に悪いところもないので、
そうはっきりした変化が感じられたわけではないのですが、
でも、体が軽くなった気がして、
その夜はとてもぐっすり眠れました。

ここで施術をされている澤田さんは、
『地球村』を通じて知り合った方ですが、
なんと拙著「お金のいらない国3〜病院の役割は?〜」を読まれて、
イネイト整体を本格的にはじめることを決意されたそうです。
とても光栄なことですが、改めて読んでみましたら、
僕がその本に医療のことを書いたのはほんの1〜2ページ。
体は自然の力が治すという主旨は確かに一致していますが、
ご縁とは不思議なもの、
この人生、何がきっかけになるかわからないなあと思いました。

ほとんど体に触れることもなく、
薬も飲まされたりしませんから、副作用もないでしょう。
興味をもたれた方は試しに一度、
施術を受けてみられてはいかがでしょうか。
サロンはほぼ全国にあるようです。

◎むつう整体HP
http://www.mutsuu.com/

◎イネイトサロンHP
http://www.innate-salon.com/index.html

◎イネイト塾
http://www.innate-el.com/

◎イネイト健康法実践研究会
http://www.innate-force.or.jp/

※イネイト健康法実践研究会は
 イネイト療法の普及と実践のため
 ボランティアでイネイト療法を行うNPO法人です。

◎イネイト整体サロン 曽根崎新地
http://www.innate-seitai.jp/ 
代表 澤田育冶
ブログ http://ameblo.jp/innate/ 
メール info@innate-seitai.jp

TEL&FAX 06-6344-3995 
大阪市北区曽根崎新地2-1-13
曽根崎澤田ビル7F

※6月6日(土)にはこちらで
 「お金のいらない国」セミナーをさせていただきます。
 以下のご案内をご覧ください。

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58号「日本人が知らない恐るべき真実」(2009年4月20日)

以前、このメルマガで「おすすめの本」というタイトルで
ご紹介した「金融のしくみは全部ロスチャイルドが作った」は
お読みいただけましたでしょうか。

いかにしてこの不条理な経済システムが作られたのかを暴いた
画期的な本だと思います。

参考:反ロスチャイルド同盟
http://www.anti-rothschild.net/

その著者、安部芳裕さんによる「日本人が知らない恐るべき真実」は
昨年12月に発刊されましたが、これがまた、
目からウロコのすばらしいものになっています。
内容はあまりにも幅広く、深すぎるのでここでの紹介は控えますが、
以下が帯のコピーの一部です。

・日本の財政は既に破綻している
・グローバリゼーションの行きつく先は地獄
・むさぼるだけのギャンブル投機マネーは崩壊する
・無から創造されるお金=ロスチャイルドの詐術
・もうひとつのお金は世界を救う

これを読めば、経済の現状、システムのおかしさ、
多岐にわたるさまざまな歴史的事実を知ることができ、
また、著者の未来へ向けての具体的提案がなされています。

下世話な話ですが、これだけの内容で945円(税込)。
「金融のしくみは……」が648円(税込)ですから、
2冊まとめてアマゾンで買えば1,500円を超えるため、
送料もかかりません(笑)。

光栄なことに僕は、6月20日(土)に東京で、
7月12日(日)に大阪で、7月20日(日)に名古屋で、
安部さんと一緒に講演会をさせていただくことになりました。
東京では、ベーシックインカムを提唱されている
京都府立大学教授の小沢修司氏ともご一緒させていただきます。
ぜひこの機会をお見逃しなく、会場にお越しください。
詳しくは以下のご案内をご覧ください。

※お詫びと訂正
前号のメルマガでご案内しました、
大阪市のcafe&bar「楽」(『練』内)でのトークライブの開催日は
6月21日(日)の誤りでした。
謹んでお詫びし、訂正させていただきます。

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59号「落語はいかが」(2009年5月4日)

今、落語にはまっています。
父が落語好きだったし、昔は寄席の番組も結構あって、
テレビで見ることも多かったのですが、最近はお笑いと言えば漫才かコント。
落語に触れる機会がなく、その面白さを忘れていました。

でも知人が、シリーズで発売された落語のDVDを貸してくれ、
また、イベントで聴いたりして、そのすばらしさを再確認。
それからは寄席に足を運んでみたり、独演会を聴きに行ったり、
大いに笑って、日本の伝統芸を堪能しています。

落語は、一人で座布団に座って話すだけというあまりにもシンプルな芸。
そこに老若男女さまざまな人が登場し、奇想天外な世界が展開されていく。
古典落語では昔の人の暮らしぶりや、人情味あふれたやりとり、
その頃の文化を垣間見ることもできて、
古き良き時代の日本にしばしタイムスリップしたような
なんともあたたかい気持ちになれます。

そして、面白そうなものがあるとなんでもやりたくなる私。
なんと最近、お金のいらない国の落語バージョンを始めてしまいました。 
落語家さんは師匠に付いて何十年も修行してやっと一人前になるのに
素人の私がそれをやってしまおうなんて、おこがましいのは百も承知の上。
でも、既に芝居でも歌でもなんの勉強もせずに
やってしまっているわけですから、物はためしとやってみたところ、
それなりに喜んでくださる方もいらっしゃるようなので
ありがたいことです。

落語好きの方にアドバイスいただいて、
話も寸劇とは少し変え、キャラも変えての落語バージョン。
最近、少人数の講演会でやらせてもらっています。
聴いてやろうかという奇特な方がいらっしゃいましたら
ぜひ、いらしてくださいね。
現在こちらで告知しているものの中では、
5月30日の大阪では落語バージョンでやる予定です。

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60号「長島龍人の新刊」(2009年5月18日)

現在、新刊の企画が進行中です。
うまくいけば、7月の初めに出せるでしょうか。
出版社は新日本文芸協会さん。
僕がよく一緒に講演させていただいている
山内尚子さんの「やさしい魔法 ホ・オポノポノ」を
出されているところです。
(5月30日にも大阪でご一緒させていただきます・下部参照)

早く「お金のいらない国5」を出してくださいという
お声はよくいただくんですが、今回はそれではなく、
また、申し訳ありませんが、
「お金のいらない国5」は今のところ出す予定はありません。
まあ、お金のいらない国に関しては
僕はあそこまで考えましたから、
これからはみなさんお一人お一人に想像していただき、
一緒に実現に近づけていきたいと思います。

さて、では新刊は何かといいますと
「長島龍人のブラックショートショート(仮題)」です。
これは僕がこの10年くらいの間に、思いついたら書き、
その都度ホームページにアップしてきたものです。
一部は、一昨年、ネットワーク『地球村』さんの
「地球村通信」に連載させていただきました。

初めに書いたものなどは結構古く、
世の中の状況も、僕自身も、今とはかなり違っていたと思います。
「お金のいらない国」シリーズを書く前の
その原型ともいえるものや、
スピリチュアル色を前面に出したものなど、
改めて読むと懐かしい感じがします。

世の中の事象に対して僕が感じたこと、考えたことを
かなりの皮肉と風刺をもって僕なりに表現しています。
これを読むと、長島龍人という人間の本質が
わかってしまうかもしれません(笑)。
形になりましたら、ぜひ1冊、
お手元に置いていただけるとうれしいです。

        * * *

6月1日(月)、愛知北エフエムに生出演する予定です。
FMラジオ 84.2MHz
時間は午前10時頃から12時くらいまでの予定。
受信できる範囲は狭いですが、
放送中はインターネット配信されますので、
ぜひチェックしてみてください。
http://842.fm

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61号「この先どうなる」(2009年6月1日)

経済状況は悪化する一方で、回復のめども立たず、
不気味な新型インフルエンザが世間を騒がせ、
社会はこの先どうなってしまうのだろうという
人々の不安も日増しに大きくなっている今日この頃です。

このまま経済が崩壊して、
お金のいらない国が実現したら、それはそれでうれしいですが、
もう少し多くの人がお金のいらない国を理解していないと、
スムーズには移行しにくいかもしれません。

僕は預言者でも何でもありませんから先のことはわかりませんが、
その筋のいろんな方のおっしゃっていることに共通するのは、
ここ数年の間に地球上、あるいは人類の社会には
かなり大きな変化が起きるだろうということです。

どんなことが起きるかについてはさまざまに言われています。
アセンション(次元上昇)が起きて
人類はレベルアップするというものから、
環境破壊などによって、ほとんどの生物は死滅するというものまで。

何が本当かは起きてみなければわからないし、
手遅れでないのであれば、この先の私たちの考え、行動次第で
未来を明るい方向に変えていくことは可能だろうとも思います。

僕としては、この先何が起き、どうなろうと、
今は、やれることをするだけと思っています。
つまらない心配をしても仕方ないし、
なるがままを受け入れるしかありません。
もし、死ぬ(あの世へ行く)ようなことがあるとしても、
それはこの世での役割が済んだから帰されるのだろうし、
今は、後で悔いを残さないように
できるだけのことをして生きるしかないでしょう。

私たちは、多分私たち自身が望んで、
地球の歴史上でも、ごくごく稀な、
貴重な時に生まれてきたのではないかと思います。
この激動の時代を楽しみながら、ワクワクして生きてみませんか。

 

※お知らせ

前号でお知らせしました新刊
「長島龍人のブラックショートショート」ですが、
6月22日発刊予定になりました。
6月20日のイベントから先行発売できると思いますので、
ぜひ会場にてお買い求めください。

 

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62号「長島龍人のブラックショートショート」(2009年6月15日)

メルマガ60号でお知らせさせていただきました
私の新刊ですが、おかげさまで6月22日発行予定となりました。

「長島龍人のブラックショートショート」
著者/長島龍人
発行/新日本文芸協会
定価/1000円(本体952円)

この世の中、何かおかしいんじゃないか?
半世紀あまり生きてきた中で、作者が悩み、考え、気づいたこと。
スピリチュアル、社会風刺、さまざまなテーマを
毒舌とユーモアたっぷりに描きます。
長島龍人の世界をお楽しみください。

ということで、お求めは、以下のホームページ通販、
またはお電話、FAXなどでお願いします。
今から予約申し込み可能です。

■新日本文芸協会 きれい・ねっと
ホームページ http://kilei.net
Tel 079-285-2215 Fax 079-222-3866
メール info@kilei.net
※送料が通常200円かかります。

●送料無料キャンペーン
7月6日までの上記HPからのお申し込み分に限り、
ご注文時、備考欄に「りゅうじん」とお書きいただくと、
送料無料とさせていただきます。
ぜひこの機会にお申し込みください。

また、6月21日に大阪で、7月20日に名古屋で、
7月25日に大阪で、出版記念の講演会をさせていただきますので、
こちらもよろしくお願いいたします。
詳しくは★1)講演会・イベントご案内をご覧ください。
※6月21日には新刊の先行発売をします。

では、新刊の中からショートショートを一編。

【約 束】

ある男と女の会話。

「結婚してほしいわ」
「妻とは別れられないよ」
「じゃあ、生まれ変わったら一緒になって」
「わかった。約束する」
「わかりやすいように印を付けておきましょうよ」
「うん」

ペチ!

「いて!」

ペチ!

「いた!」

来世。

「生まれたか!」
「あなた、見て。この子、お尻にあなたと同じあざがあるのよ」
男、赤ん坊に向かって小声で。
「おせーよ。なんでここに生まれてくるんだよ、しかも息子で」

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63号「お金のいらない国が教材に」(2009年6月29日)

「お金のいらない国」の一部が、
進学塾の小学6年生の国語の教材に使用されることになりました。
使用は9月下旬の予定です。
http://www.sapientica.com/

「お金のいらない国」(『地球村』出版)
使用箇所は、29頁10行目〜38頁3行目
(※中略33頁2行目〜34頁9行目)

設問を見せてもらいましたが、これがなかなか難しい。
作者も満点をとれる自信がありません(苦笑)。

学校や教育のあり方に関しては、
私は「お金のいらない国4」で問題を投げかけましたし、
決して現在の状態がよいと思ってはいません。

しかし、今回このような形で
私の文章を取り上げていただけるのは光栄なことですし、
この機会に、子供たち、保護者の方たち、
あるいは先生たちに読んでいただけ、
何かを考えていただくきっかけになればうれしいと思い、
使用を許諾させていただきました。

進学塾といえば、私はそういった教育の走りの世代で、
東京に住んでいたせいもあると思いますが、
小学校5、6年の時は毎週日曜日に、
友だち3人と一緒に通っていました。

毎週、4教科の試験をした後、
それぞれの科目の先生が熱心に解説をしてくれ、
その週の木曜日に、採点された答案用紙と順位などが送られてきます。
週に3日は、その4人で家庭教師にもついていましたから
小学校時代が私は一番勉強したと思います。

結局、私は受験した中学はすべて落ち、
誰でも入れる区立の中学に行ったのですが(笑)。

どこかに受かっていたら今の私はなかったでしょうし、
その私の文章を、この度、進学塾で使いたいというのですから、
人生とは面白いものだなあとつくづく思います。

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64号「バシャール−1」(2009年7月13日)

バシャールという名前をご存じでしょうか。

本の紹介によりますと、惑星・エササニの多次元的存在で、
1984年より、ダリル・アンカという人によって
チャネリングされ、メッセージを発信しているそうです。

以前、私は、須藤 元気さんとの対談本を読んで
とてもおもしろいと思ったのですが、今回は、
「バシャール×坂本政道〜人類、その起源と未来〜」
(発行所:株式会社ヴォイス)という本を読みました。

信じる信じないは別として、
前半は、どのようにして人間が宇宙から地球に来たかとか、
過去の文明やピラミッドについて書いてありますが、
ここでは後半について少しご紹介しましょう。

SF小説などで、パラレル・ワールドという言葉を
聞かれたことはあるでしょうか。
ある世界(時空)に並行して、別の世界が存在するという概念です。
要するに、自分は、今存在していると認識している世界とは
別の世界にも、自分として存在しているということです。

本書では、パラレル・アース(並行する地球)という
言葉が使われています。
例えば、現在の私は、先日のアメリカ大統領選で、
オバマ氏が勝った地球に意識がありますが、
マケイン氏の勝った地球も平行して存在しており、
そこにも私が存在しているのだそうです。

ではなぜ、現在の私はここに意識があるかというと、
テレビのチャンネルを合わせるように
自分がここを選んでいるから。
そう考えると、もちろんアメリカ大統領選に限らず、
すべては自分が選んでいるということになります。

ただの空想に聞こえるかもしれませんが、
これは、以前ご紹介した
ホ・オポノポノにも通じているのではないでしょうか。

また、少なくともすべては自分が選び、
何が起きても自分の学びに必要なのだと思うことは
生きる上で非常にプラスになると思います。

そして、現在自分が意識している世界でも、別の世界でも、
自分の周りのすべては、自分が作り出しているのだそうです。

(次号に続く)

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65号「バシャール−2」(2009年7月27日)

(前号の続きです)

現在自分が意識している世界でも、別の世界でも、
自分の周りのすべては、自分が作り出していると
バシャールは言います。

それは、あなたが、たくさんの鏡に囲まれ、
その一つ一つにあなたが映っていると
例えることもできます。
そして、その一つ一つの投影が仮に人間なら、
それぞれが別々の個人だと認識しているということです。

なぜ、そんなことが必要になったのかというと、
それはあなたが「ひとつなるもの」だから。
「ひとつなるもの」はひとつのままでは
何も知ることができなかったのです。

「ひとつなるもの」とは、いわゆる神、
あるいはサムシンググレートなどと呼ばれるものでしょう。
「ひとつなるもの」は、
自分自身を知るために、あらゆるものを創造しました。

壮大な話になりましたが、ここで、
パラレル・アース(並行する地球)の話に戻しましょう。

未来の地球はどうなるのか。
以前にも触れましたが、これはさまざまなことが言われています。
アセンション(次元上昇)が起きるのか、核戦争で滅亡するのか。

パラレル・アースの考え方でいくと、
そのどちらも、あるいはそれ以外の未来も
存在していることになります。

そして、自分がどんな未来を選ぶかは自分次第。
テレビのチャンネルを合わせるように自分で選び、
そこにシフトするだけです。
言い換えれば、未来は自分が望んだ通りになる
ということかもしれません。

しかし、これは私が考えたことですが、
もし、自分が望むような未来にシフトできなかった場合、
それは自分の学びにその経験が必要なのだということを含めて
自分が本当は望んでいなかったか、
あるいはあきらめたり、努力を怠った結果かもしれません。

「バシャール×坂本政道〜人類の起源と未来〜」
(発行所:株式会社ヴォイス)

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66号「ホ・オポノポノとバシャールから気づいたこと」(2009年8月10日)

このメルマガの第53〜55号で「ホ・オポノポノ」について、
64、65号で「バシャール」について書かせていただきました。

(バックナンバーはこちらからご覧いただけます。)
http://www2u.biglobe.ne.jp/~nagaryu/merumagabackno.html

どちらも簡単には理解しがたい内容かもしれませんし、
あくまでも私が解釈した範囲で、
自分なりにかみ砕いて書いたものですから、
正しいという保証はありません。

でも、この二つの要点をまとめてみて、
共通して言っていることに気づきました。

それは私たちは創造主とつながっている、
あるいは創造主の一部である、
誤解を恐れずに言えば、創造主そのものであるということ。

神、あるいはサムシンググレートであり、
「ひとつなるもの」である私たちは、
自分を知るためにあらゆるものを創造した。

そして地球上に、宇宙のあらゆるところに、
あるいは別の次元においても存在する自分の分身を通して
自分を知ることができるようになった。

実際、その分身のひとつである現在の自分という
小さな存在から見ても、
他の人の存在や、自然界、その他の
ありとあらゆるものがあるからこそ、自分は学び、
自分を知ることができていると思います。

確かにそれらがなかったら、自分は何もわからず、
自分とも認識できないのではないでしょうか。

ワンネス、すべてはひとつというのも言うのは簡単ですが、
こう考えるとその真意が理解できるような気がします。

だからすべてのことは自分に原因があり、
私たちはすべてに責任を持ち、
自分のこととして考える必要があるのでしょう。

僕はホ・オポノポノとバシャールから、
このように考えました。
突拍子もないことに聞こえるかもしれませんが、
ある意味究極ですね。

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67号「9.11事件の真相は?〜ビル崩壊の謎を解く〜」(2009年8月24日)

今年も9.11事件の真相究明に向けて、各地で講演会が行われます。
きくちゆみさんのコーディネイトで、
建築家リチャード・ゲイジ氏をお招きし、プロの立場から、
ビル崩壊の不自然さについてわかりやすく解説していただきます。

【リチャード・ゲイジ】
AIA(米国建築家協会)会員。
「911の真相を究明する建築家とエンジニアの会(AE911Truth.org)」創始者。
世界貿易センターの3つのビルの崩壊に関して
建築家として独自のリサーチをし、
その結果を米国、ヨーロッパ各国で発表、絶賛される。

【きくちゆみ】
1990年から環境問題の解決をライフワークに。
911事件をきっかけにグローバルピースキャンペーンを立ち上げ、
米紙への全面広告や、ハリウッドへのビルボードを実現。
『戦争中毒』『911ボーイングを捜せ』『911の嘘をくずせ』
『テロリストは誰?』の日本語版を制作。

現段階では、
12月 4日(金)横浜(近代文学館)
5日(土)東京 「第3回911真相究明国際会議」(全電通ホール)
6日(日)名古屋(吹上ホール)
7日(月)京都(立命館大学)
12日(土)神戸(サラシャンティ)
13日(日)沖縄
これに大阪が加わる予定です。

きくちゆみさんのブログ
http://kikuchiyumi.blogspot.com/2009/08/blog-post_02.html

この機会にぜひ、お近くの会場にお出かけいただき、
9.11事件の真相について考えてみてください。

           ●●●

私、長島龍人は昨年に引き続き、名古屋会場を主催させていただきます。

「9.11事件の真相は?〜ビル崩壊の謎を解く〜」

 ■2009年12月6日(日)14:00〜17:30(開場13:30)
 ■名古屋市中小企業振興会館「吹上ホール」(7Fメインホール)

2001年9月11日に起きたアメリカ同時多発テロ事件。
多くの謎が未解決のまま放置されているこの不可解な事件の中でも、
とりわけ不自然なビルの崩壊について専門家がわかりやすく解説します。

詳しくは以下の講演会・イベントご案内をご覧ください。

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68号「与えることと受け取ること」(2009年9月7日)

与えることと受け取ることはどちらも同じように大事なこと。
このことに最近気づかされました。

 

与えることが大事。
交換するのではなく、与えるだけでよい。
これは前から気づいていたことでした。

お金にしても、初めに物々交換をしたために
生まれてしまったもの。
与えるだけならお金という、物の代用品は必要ないからです。
(参考)バックナンバー「物々交換」
http://archive.mag2.com/0000224316/20070521120000000.html

ですから、与えることはもちろん大事。
しかし、与えることは受け取り手がいなければできないのです。

物ばかりではありません。
話しにしても聞いてくれる人がいなければできませんし、
誰かに何かしたいと思っても、
させてくれる人がいなければできません。

歌っても聞いてもらえない。
絵を描いても見てもらえない。
それでは寂しいですよね。
受け取ってくれる人は、お客様です。

ですから、受け取ることは与えることと同じように大事。
両方があってはじめて成り立つのだということに
今さらながら気づいたのでした。

この気づきのきっかけになったのはひとつの童話でした。
『まほう便の旅』
魔女の女の子が旅をして、
3つの愛のまほうを探すというお話です。

作者のあおきゆうさんは、私と同じように
会社勤めをしながら講演活動をし、
私もよくコラボさせてもらっていますが、
このお話を絵本型の小冊子にして販売されています。
ご興味のある方はこちらにお問い合わせください。
mamforyou@globe.ocn.ne.jp(あおきゆう)

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69号「柳家喬太郎」(2009年9月21日)

vol.59のメルマガでは、私が近頃、落語にはまっており、
「お金のいらない国」の落語バージョンを始めたという
お話しをさせてもらいましたが、
今日はおすすめの落語家さんを一人ご紹介したいと思います。

柳家喬太郎(やなぎや きょうたろう)師匠。
私は、ご近所さんにお借りしたDVDシリーズでこの人を知り、
以来、独演会に行ったり、CDを買いあさるなど、
追っかけぶりを発揮しております(笑)。

この師匠、古典落語も大変にお上手なのですが、
自らがお作りになる新作落語のおもしろいことと言ったら、
筆舌に尽くしがたいところです。

奇想天外なストーリーの中に、
いかにも今風な老若男女、さまざまな種類の人間が登場。
それぞれのキャラクターを絶妙に演じ分け、
微妙な表情、しぐさ、感情の推移まで見事に表現する。

その鋭い人間観察力の中に感じられる作者の愛情、
また風刺の効いたブラックなところなど、
心憎いばかりで、何度見ても聴いても感心させられます。

その喬太郎師匠の新作落語3席がなんとYOU TUBEで見られるので、
サイトをご紹介します。
著作権上は多分ひっかかるのでしょうが、
今のうちに見てしまいましょう(笑)。
では、ごゆっくりお楽しみください。

「ほんとのこというと」
http://www.youtube.com/watch?v=wIpFHPrGQPI

「午後の保健室」
http://www.youtube.com/watch?v=lk7jQr6c2fs&feature=related

「夜の慣用句」
http://www.youtube.com/watch?v=6r-3v2OIehU

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70号「三英傑」(2009年10月5日)

三英傑って聞いたことありますか?
愛知県の人なら知っていると思います。

誰かといえば誰でもご存じ、
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康のことです。

なぜ、愛知県の人は知っているかというと、
この3人がみな愛知県の出身で、
毎年行われる「名古屋まつり」では、
「英傑行列」なるものが行われ、
武将などに扮した総勢数百名の人が
名古屋の町を練り歩くからです。

この10月3、4日にも行われましたが、
名古屋まつりは今年で55回目だそうですので、
英傑行列もそのくらいの歴史があるものと思われます。

三英傑は、一般の人から公募で選ばれます。
姫も3人選ばれますが、それは百貨店のお姉さんと決まっています。

そういうわけで、三英傑は愛知県ではおなじみ。
愛知県人の誇りでもあるのでしょう。

しかしです。
僕が東京出身だからケチをつけるわけではありませんが、
この人たちってどうなんでしょう。
結局は武力で日本を統一したわけでしょう。
もちろん、武将はこの3人だけではありませんし、
その時代は戦うのが当たり前だったのかもしれませんが、
暴力で人を支配しようというのはいかがなものかと思います。

まあ、今でも世界の各地で戦争は行われているし、
暴力は使わないまでも
支配しようとする気持ちがあるなら大差ないかもしれません。
ひょっとすると現代の武器はお金でしょうか。

いずれにしても一日も早く、
お金も支配もない社会にしたいものです。

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71号「ダム建設問題」(2009年10月19日)

ムダなダム、なんて笑えない回文もあったりしますが、
民主党が政権を取ってから
群馬県の八ッ場ダム(やんばダム)をはじめとした
ダム建設の見直しが大きな問題になっていますね。

何十年も前に計画され、激しい反対運動が起きる中、
長期にわたって地元住民との話し合いがなされ、
部分的にはかなり工事も進んでから持ち上がった中止の話。

もし、いらないものならなぜ計画したのか、
当時とは状況も変わってきているのでしょうが、
勉強不足の私などは単純に不思議に思ってしまいます。

八ッ場ダムの場合、由緒ある温泉街をつぶし、
多くの人が立ち退かねばならないという巨大な構想ですから、
よほどの必要性がなければリスクが大きすぎるでしょう。

そして、ニュースなどを見ていて思ったことがあります。
それは、今までの工事などにお金がいくらかかりました、
この先いくらかかりますということが
継続、中止をめぐっての判断材料になっていることです。

本来なら、必要なものは作ればいいし、
必要ないものなら作らなければいい。
それだけのことです。

お金ありきで物事を考え始めると
大事なことは何かという判断が揺らいでしまいます。

もちろん現代社会ではお金のことも無視はできませんが、
どんな問題でも、とりあえずお金のことは横に置いて、
考えてみることが大事なのではないでしょうか。

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72号「9.11事件の真相は?〜ビル崩壊の謎を解く〜」(2009年11月2日)

メルマガvol.67でお知らせしましたが、
今年も9.11事件の真相究明に向けて、各地で講演会が行われます。
きくちゆみさんのコーディネイトで、
建築家リチャード・ゲイジ氏をお招きし、プロの立場から、
ビル崩壊の不自然さについてわかりやすく解説していただきます。

【リチャード・ゲイジ】
AIA(米国建築家協会)会員。
「911の真相を究明する建築家とエンジニアの会(AE911Truth.org)」創始者。
世界貿易センターの3つのビルの崩壊に関して
建築家として独自のリサーチをし、
その結果を米国、ヨーロッパ各国で発表、絶賛される。

【きくちゆみ】
1990年から環境問題の解決をライフワークに。
911事件をきっかけにグローバルピースキャンペーンを立ち上げ、
米紙への全面広告や、ハリウッドへのビルボードを実現。
『戦争中毒』『911ボーイングを捜せ』『911の嘘をくずせ』
『テロリストは誰?』の日本語版を制作。

講演ツアーの予定は、
12月 4日(金)横浜(神奈川近代文学館ホール)
5日(土)東京 「第3回911真相究明国際会議」(全電通ホール)
6日(日)名古屋(吹上ホール)
7日(月)京都(立命館大学)
11日(金)大阪(エル・おおさか)
12日(土)神戸(サラ・シャンティ)
13日(日)沖縄(沖縄コンベンションセンター)

詳しくは、きくちゆみさんのブログ内、こちらをご覧ください。
http://911.globalpeace.jp/
下方にスクロールすると各地の情報が見られます。

この機会にぜひ、お近くの会場にお出かけいただき、
9.11事件の真相について考えてみてください。

           ●●●

私、長島龍人は昨年に引き続き、名古屋会場を主催させていただきます。

「9.11事件の真相は?〜ビル崩壊の謎を解く〜」

 ■2009年12月6日(日)14:00〜17:30(開場13:30)
 ■名古屋市中小企業振興会館「吹上ホール」(7Fメインホール)

2001年9月11日に起きたアメリカ同時多発テロ事件。
多くの謎が未解決のまま放置されているこの不可解な事件の中でも、
とりわけ不自然なビルの崩壊について専門家がわかりやすく解説します。

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73号「タオ・コード」(2009年11月16日)

中国雲南省の山奥に、お金のいらない国の原点のような
村があるそうです。

老子の古い写本と秘伝を代々受け継ぐ家を中心に
人々は自然と調和して、平和に暮らしています。

老子の教えは、現在一般的に理解されている
表面的な意味の裏に、実は別の意味が隠されているといいます。

老子の言う「道(タオ)」とは
実は「性(セックス)」のことだというのです。
そして、「性」の本質は、ただ一時的な快楽のようなものではなく、
言ってみれば宇宙が存在するための
根本的なエネルギーであるようです。

あまりにも深遠な内容なので、
とてもここで簡単にはまとめられませんが、
お金のいらない国に通じると思われるところを一部
引用させていただきます。

(引用文)
「ある社会が、人間本来の幸せを享受できる社会かどうかを
判断できる基準があるが、それは何だと思うか?」

「それは、性というものに対して、それを受容する社会か、
それともそれと戦おうとする社会かだ。
文明社会のあなたがたは、性とは卑猥なものと思っている。
できることならば、公には語りたくないもの。
口にしてしまえば品位が疑われる。そうしたものと思っている。
そして、それを抑圧の対象とし、
人間には厄介な性欲があるものだと信じている。
その性欲を抑え、それについて語らないことが人間らしさだと思っている。

あなた方は忘れているが、性とは本来、卑猥どころか、
その対極にあるものだ。
それを卑猥なるものにしてしまったもの、
それはあなた方の社会に現れた支配者であり、その権威だ。
そしてそうした権威者が作った善悪の観念だ。
ありのままの目でそれを見れば、
そこには、あなたがたが必要としているすべてがある。
それは命の元であり、自然の恩恵の中心であるのだから当然のことだ。
人間が必要としているすべてへと至らせる働きがそこにはある。
人間という枠を通り越し、
さらには生命という枠をも通り越した、宇宙の究極がある。
人間はこの、真の性を通してしか、
恒久なる幸福には至ることができないものだ」

「タオ・コード 老子の暗号が語り出す」
千賀一生(ちがかずき) 徳間書店 5次元文庫 629円+税

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74号「続 タオ・コード」(2009年11月30日)

前回の内容に関して、少し補足させていただきます。
(前回のものをお読みになりたい方はバックナンバーをご覧ください)

掲載させていただきました、本からの引用文は、
その村の長老がそこを訪れた著者に対して言ったことであり、
老子の教えそのものを解説したものではありません。

拙著「お金のいらない国2〜結婚って?家族って?〜」
の内容に通ずるものがあると思い、引用させていただきました。

「お金のいらない国2」に関しましては、
さまざまなご意見、ご感想をいただきますが、
私は、貨幣制度を含めたあらゆる制度は、
人間の存在する以前にはなかったもので、すべて人間が作り出したもの、
その制度が人々を幸せにし、暮らしやすくするならよいが、
それに縛られて苦しみや悲しみを生むようなら
ないほうがよいと常々考えております。

男女の関係や、性に関しても、
できれば人間が作った常識や制度に縛られずに、
一人一人が責任の持てる範囲で、
周囲と良好な人間関係を築いていくことが望ましいと思っています。

おこがましいかもしれませんが、
中国の山奥で何千年も自然とともに平和に暮らす人々の生活が
私の考えていた世界に程近いと知り、
うれしくなって紹介させていただいた次第です。

「タオ・コード 老子の暗号が語り出す」
千賀一生(ちがかずき) 徳間書店 5次元文庫 629円+税

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75号「9.11事件真相究明イベントを終えて」(2009年12月14日)

昨日の沖縄会場を最後に、
建築家リチャード・ゲイジさん、
平和活動家きくちゆみさんによる
9.11事件真相究明イベント講演ツアーが終了しました。

名古屋は12月6日、通訳のダンさん、
9.11事件で消防士のいとこを二人も亡くされた
ジョセフさんにもご協力いただき、
貴重なお話を聴くことができました。

9.11事件の真相を究明していくことにより、
その裏側にある現代社会の闇に気づき、
一人一人が考え、行動していく上での一助になればと思います。

スタッフの一人が自身のブログに、
きくちゆみさんに関する一文をアップしました。
本人の了解を得て掲載させていただきます。

(引用文)
講演会終了後にスタッフとの打ち上げがあり、
彼女とお話しする機会に恵まれました。
そこで彼女の素晴らしさに気づきました。

彼女はいわゆる環境や平和問題の市民運動家です。
それに対す情熱はその活動内容を見ればわかります。
僕が感心したのはそこではありません。

彼女は深刻な問題を実におだやかに丁寧に
そしてちょっとにこやかに話してくれるんです。
にこやかというとちょっと不謹慎に感じるかも知れませんが、
まったくそうではありません。
暗さのようなものを感じないといった方が適切かもしれません。

話を聞いてわかりました。彼女には自分の活動に使命を感じているし、
この活動が明るい未来につながっていくという、
希望の灯りが見えているんです。

彼女は決して裁こうとはしていません。過ちを犯した人に気づいてもらい、
改心してもらいたいと。彼女の原動力は間違いなく”愛”です。

ひたむきで活力のある人、すすむべき道ややるべきことに
迷いがない人には「目に力があります」

環境や平和に取り組んでいる人をたくさん見てきましたが、
意外にも「怒りとかおそれ」が原動力になっている人が多く、
がっかりさせられることが多い中で、
彼女を見て「本物」を見つけたような気がしています。

「きっと明るい未来は来る!」それを予感させてくれる出会いでした。

(元のブログはこちら)
http://ameblo.jp/blueberryokazaki/entry-10405763557.html

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76号「ゲームオーバー」(2009年12月28日)

早いもので、今年も最後のメルマガとなりました。
みなさんにはどんな一年だったでしょうか。

世間は相変わらず不景気で暗いムードではありますが、
そもそも経済などは発展し続けられるものではなく、
少なくとも環境や資源にとっては、
不景気は悪いことではないでしょう。

お金のいらない国にしてしまえば、
何の問題もないんですけどね。

しばらく前にHPやミクシーに載せたものですが、
久しぶりにショートショートをひとつ書きましたので、
紹介させてください。

           ●●●

『ゲームオーバー』

「はい。ゲームオーバーです。すべての人は全財産を出してください」
突然、全世界の上空から大きな声が響いた。

「え!終わりなんですか?全部出すんですか?」
「そうですよ。だから、これはマネーゲームだって言ったでしょ」
「せっかくこんなに貯めたのに?」
「はい、ではあなたは勝ちね。拍手〜パチパチパチ」

「では次のゲームをはじめます。お金は全員に同じ額を配り直します」

           ●●●

子供の頃、家族でトランプなんかしませんでした?
私のうちではよく、マッチ棒を賭けて、ポーカーとかやっていました。
はじめはみんなに同じ本数を配るんですが、
ゲームを進めるうちにだんだん差がついてくる。
勝負がつけばおしまい。マッチ棒は全部集めて、配り直します。

私は、お金をためる競争なんて
ほんとにこういうただのゲームだと思うんですよね。
ゲームが楽しいなら遊べばいいし、
勝負がついたら終わりにすればいい。

そんなゲームに必死にならなきゃならなかったり、
いつまでも金持ちが楽をする世の中なんておかしい。
そう考えて書いたお話でした。

ではみなさん、今年もご愛読ありがとうございました。
来年もよろしくお願いします。よいお年を。

                         長島龍人

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77号「落語をYou Tubeにアップしました」(2010年1月11日)

今年最初のメルマガです。
みなさん、今年もよろしくお付き合いお願いします。

私の演じる「お金のいらない国」落語が、
You Tubeで見られるようになりました。
昨年2月頃から始めた落語バージョンですが、
それ以来あちこちでやらせていただき、
みなさんからアドバイスなど頂戴しまして、
いろいろと手を加え、こんな感じになりました。

プロの落語家さんは師匠につき、
何十年も稽古を重ねてやっと一人前になる落語の世界。
素人が好き勝手にやったものを聞いていただこうなどと
おこがましいのは百も承知の上ですが、
これも「お金のいらない国」を広く知っていただくための
手段の一つとお許しください。

URLは下方でも紹介していますが、以下です。
(1〜3は二つに分かれています)

●お金のいらない国(落語)
http://www.youtube.com/watch?v=EASKIQu_9U8
(続き)http://www.youtube.com/watch?v=qD09pCfuTvc

●お金のいらない国2(落語)
http://www.youtube.com/watch?v=22dVar76xlo
(続き)http://www.youtube.com/watch?v=AD-ZgAXbHa0

●お金のいらない国3(落語)
http://www.youtube.com/watch?v=nghzRAqA2k4
(続き)http://www.youtube.com/watch?v=cOmcZLFxkTM

●お金のいらない国4(落語)
http://www.youtube.com/watch?v=cA6j87-qXZQ

4月10日(土)には、
名古屋の熱田文化小劇場にて独演会を開かせていただきます。
詳細は、「講演会・イベントご案内」をご覧ください。

また、よくコラボさせていただいている
あおきゆうさんの紙芝居も以下で見られます。
紙芝居の絵は、私が描きました。

●まほう便の旅
http://www.youtube.com/watch?v=Y4Q-oHaUhJA

●イカばあとタコばあ
http://www.youtube.com/watch?v=BHxahc3HCrM

講演のご依頼はお気軽にどうぞ。
交通費だけいただければどこでも伺います。
ご連絡は以下までお願いします。
ryujin@mwa.biglobe.ne.jp(長島龍人)

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78号「働くということ−1」(2010年1月25日)

メルマガ編集部に感想を送ってくださった方が
素敵な詩を紹介してくださいました。
ちょっと長いので、今回はその引用だけにし、
次号で私が思ったことを書かせていただこうと思います。

 

「預言者」カリール・ジブラン著 船井幸雄(訳)

働くということ

 農夫が言った、お話しください、働くということについて
アルムスターファは答えて言った。

人は働いてこそ、大地の魂と一緒に歩むことができる。
怠ければ、季節と他人になって、生命の歩みから外れてしまう。
そうなったら、威厳と誇りを持って身をまかせ、
どこまでも歩んでいくことが、できなくなってしまう。

働くとき、人は笛になる。その心を通して、時のささやきが音楽に変わる。
なんの音も出せない葦になりたい人がいるだろうか。
なにもかもが声をそろえて歌っているときに。

むかしから、働くことは呪いだ、
汗水たらさなければならないのは不幸だと言われてきた。
けれど働くとき、人は、大地のはるかな夢の、その一部を実現している。
その大きな夢が生まれた時から、割り当てられたものを。
人は働くことで、生命を愛している。
働くことを通して生命を愛し、
そのことで、生命の奥底に隠された神秘に近づいていく。

けれど辛さのあまり、生まれてきたことは苦しみだ、
肉体を維持することは額に書き付けられた呪いだと言う人には、こう答えよう。
その額の汗以外に、書きつけられた呪いを洗い流せるものはないのだと。

人生は闇だと言われてきた。疲れたときには、疲れた人の言葉をくり返してしまう。

たしかに人生は闇だろう、強い望みがなければ。
強く望むだけではなにも見えないだろう、知識がなければ。
知っているだけでは無力だろう、労働がなければ。
働くだけでは空しいだろう、愛がなければ。
愛をいだいて働くことで、人は、初めて自分自身と、自分以外の人と、
そして神と、つながることができる。

愛をいだいて働くとはどういうことだろう。
それは、心がつむぎ出した糸で着物を織り上げること。愛する人に着せる着物を織るように。
それは、思いを込めて家を建てること。愛する人を住まわせる家を建てるように。
それは、優しく種を播き、喜びとともに収穫すること。愛する人に食べさせるように。

そして自分の作りだすものすべてに、自分の生命を吹き込むこと。
そして知ること。祝福されて死んでいった人たちが、いつも見守ってくれていることを。

多くの人は眠りのなかでまで言う。
「大理石に囲まれて、自分の魂の姿を石の中に見つける人は、土を耕す者りも貴い。
虹をとらえて画布に吹きつけ、人の似姿を描く人は、履物を作る者よりもすぐれている」

けれど眠りの中ではなく、真昼の、はっきりした目覚めのなかで言おう。
吹く風は、カシの巨木にも、ほんの小さな雑草の葉にも、同じように語りかける。
その風の声を愛して、もっと優しい歌にできる人こそが、ほんとうに偉大な人なのだ。

働くことは、目に見える愛だ。
働いても、愛ではなく倦怠感だけしかないのなら、そんな仕事は投げ出して、
神殿の門前にすわり、喜びいだいて働く人から施しをうけたほうがいい。

冷たい心でパンを焼いても苦しくなるだけで、人の飢えの半分しか満たせない。
恨みをいだいてブドウを搾れば、その恨みがワインを毒にしてしまう。
天使のように歌っても、歌うことを愛していなければ、
その歌は人の耳をふさぎ、昼の声、夜の声を聞こえなくするだけだ。

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79号「働くということ−2」(2010年2月8日)

では、前回ご紹介した詩を読んで、
私が思ったことを書かせていただきます。

(前回のメルマガはこちら)
http://archive.mag2.com/0000224316/20100125120000000.html

働くとは、自分が生きていくために、
あるいは社会で必要とされることをするために
何らかの行為をすることでしょうか。

愛を抱いて働くことが大事。
詩ではそう言っています。

本来、働くということは誰かの役に立つこと。
その仕事に必要性を感じられ、喜んでくれる人がいるのなら、
愛を抱いて働くことも可能でしょう。

しかし、働くことは辛い部分があるのも事実。
よって、生きることは苦しみだとも考えてしまいがち。
特に、このお金中心の社会では、働くという行為の第一目的が
お金儲けにすり替えられ、苦しみを生んでいると思います。

また、その仕事がなぜ必要なのか、
社会にどんな影響をもたらすのかを真剣に考えることもなく、
ただ、お金になるからとがむしゃらに働いてきてしまった結果、
環境問題、飢餓貧困などの諸問題を生んだのかもしれません。

もし、お金儲けが目的でないのなら、
仕事に求められる内容も、スピードも、
仕事周りの人間関係も変わってくる気がします。
そんなことを考えて、
私が30代の時に仕事の腹いせに書いたのが
「お金のいらない国」の第一作です。

私自身、お金のための仕事に関しては
未だにずるずると続けておりますが、
理想社会をアピールする活動は私の最も大事な仕事として、
今後も愛を抱いて続けていく所存です。

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80号「平成22年2月22日」(2010年2月22日)

今日は平成22年2月22日。
見事に2が並んだこの日は、私の52回目の誕生日です。

年齢というのはどのくらい生きたかを計るのには便利ですし、
この年まで無事、生かされてきたことには感謝です。
まあ、この世に自分が必要なくなれば死ぬのでしょうし、
それはそれで、さっさと次に行けばいいと思っていますが。

だからというわけでもないですが、私は毎年やってくる誕生日に、
特に何かしたいとか、してほしいとかはあまり思いません。
私にとっては、毎日が特別な日なのかもしれません。

また、世間ではよくやりとりされる贈り物。
わたしはこれが、あげるのももらうのも苦手です。

子供の頃は、親からオモチャでももらえばうれしかったですが、
もう自分でお金が自由にできる大人ですから、
ほしいものがあれば自分で買います。

贈り物をする場合、相手のほしいものが
はっきりしているならまだいいかもしれませんが、
必要ないものを贈ったり、それが義務化することは
無駄だと思ってしまいます。

もちろん、誕生日などをとても大切に思い、
それ楽しんでいる方に文句を言うつもりはありません。

ただ、私の理想とする「お金のいらない国」では
簡単に入手できるようなものを贈っても意味はありませんし、
それは、お金の社会ならではの価値観のような気がします。

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81号「しないこと」(2010年3月8日)

辻信一さんが、新刊のご著書を送ってくださいました。

カバーの帯の文章をご紹介させていただきます。

          ●●●

あれをしなければ、これもしなくちゃ……。
あなたは「すること」リストをいつも抱えて生きている。
そのリストは増えこそすれ、そう簡単には減ってくれない。
(中略)
「すること」の無限増殖に歯止めをかけるには、
まず「すること」リストの横に、
「しないこと」リストを置いてみることだ。
これが「効率」と「競争」に振り回されてきたこれまでの人生に代わる、
あなたの新しい人生への入口になるといい。(本文より)

スローライフのために「しないこと」 著者 辻信一
ポプラ社 本体1,200円(税別)

          ●●●

たしかに私たちは「すること」に追いまくられ、
また、常に何かしていないといけないような気持ちで、
いつも忙しい忙しいと言いながら生きている気がします。

日本人は特に、働き続けることを良しとし、
休むことは罪悪ぐらいに考えてしまう人も多いかもしれません。

しかし、その結果が無理のある経済発展であったり、
自然、環境破壊であったとするならば、
その生き方はある意味間違っていたと言えるのではないでしょうか。

今、その価値観を見直し、生き方を変える時に来ているようです。
お金のいらない国の住人は、
「しないこと」も得意なような気がします。

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82号「安部芳裕さんの新刊」(2010年3月22日)

以前、このメルマガでも紹介させていただきました
「金融のしくみは全部ロスチャイルドが作った」
「日本人が知らない恐るべき真実」などの著者、
安部芳裕さんが新刊のご著書を送ってくださいました。

「国際銀行家たちの地球支配/管理のしくみ」
徳間書店 5次元文庫 648円+税

今回も、よくぞここまで調べ上げてくれましたという
多岐にわたる濃〜い内容です。
裏表紙の文章をご紹介します。

            ●●●

現在、地球規模で広がる4つの危機、
新型インフルエンザ、環境問題、
対テロ戦争、金融危機−−。
すべては世界政府(大衆を支配/管理、そして奴隷化)
を設立するための演出、下準備だった。
世界を覆う危機の裏側とその処方箋を徹底解説。
作られた偽の危機に騙されるな!

            ●●●

たしかに、今、世の中で騒がれていることは
どれもこれもかなりきな臭い感じがします。
何事も鵜呑みにすることは危険ですが、
誰もが自ら情報を集め、自分で判断する必要があるでしょう。

9.11事件に関しても、かなりのページ数を割いて
詳しく解説されています。ぜひ、ご一読ください。

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83号「初めての骨折、入院、手術」(2010年4月5日)

お恥ずかしい話ですが、3月30日の午前1時頃、
自宅で酔っぱらって右足首を骨折、入院しました。
30日午後に手術を受け、31日午後には退院できましたが、
当分は松葉杖の生活になりそうです。

週末に予定されていた岡山での講演会はキャンセルさせていただき、
ご参加予定だった方やスタッフの方には大変ご迷惑をおかけしました。
この場を借りてお詫びさせていただきます。

また、4月25日(日)に東京で予定していた独演会も
中止とさせていただきます。
ご参加予定だった皆様、大変申し訳ございません。

右足首の骨は太い骨と細い骨があるそうですが、
両方とも、計3か所折れていたそうです。
手術では、たくさんのボルトを打ち込み、ギプスで固定されました。
脊椎注射の半身麻酔で、腰から下の神経が完全に麻痺し、
何をされてもまったく分かりませんでした。
30日の夜は、点滴、酸素吸入、尿道に通したチューブと、
心電図のコードで寝返りが打てず、背中や腰が痛み、
また、看護師さんが1時間おきに体温と血圧を計りに来られるので、
ほとんど寝られませんでした。

僕にとって、骨折も入院も手術も初めての経験でした。
52年間、そういったことがないのはとても幸運だと思っていましたが、
ちょっとは大変な体をされている方の気持ちにもなってみろと
天から与えられた試練かもしれません。

こうなってみると、確かに今まで生きてきた上で、
いろいろと反省することはあります。
また、お医者さん、看護師の方々の治療やお気遣いがありがたく、
心配してくださる友だちや会社の人、
文句も言わずに世話をしてくれる妻にも
もっともっと感謝して生きなければいけないなあと思いました。

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84号「骨折して思ったこと」(2010年4月19日)

骨折してから20日ほどが過ぎました。
松葉杖にはだいぶ慣れましたが、両足で立てないということが、
これほど不自由なことかというのが正直な感想です。
今まで当たり前にしていたことが何一つ同じようにできないのです。

右足は腰より低くすると、うっ血して痛むので、
寝ている時はクッションなどで高く、
椅子に座っても常にもう一つの椅子に載せています。

顔を洗う、トイレに行くなどの行動も
短時間の片足立ちか、松葉杖に頼るしかありません。
風呂は右足のひざから下を、妻にバスタオルとビニールでくるんでもらい、
湯船のヘリに右足を載せてシャワーだけ浴びています。

電車には乗れませんから、
会社には妻に車で送り迎えしてもらっています。
昼食も、社員食堂にトレイを持って並ぶことはできないので、
妻に作ってもらった弁当をデスクで食べています。

実際、自分でこういう経験をするまでは、
足を不自由にされている方のご苦労は全くわかりませんでした。
私の場合など、右足首だけですし、しばらくすれば治ると思いますが、
もっと大変な怪我や病気で不自由な思いをされている方の苦しさは、
いかばかりかと思います。

それにしても、今まで当たり前と思っていた、
2本の足で歩くということがいかにありがたいことか身に沁みてわかりました。
不自由な体をされている方への配慮も全く足りなかったと思います。
これは自分にとって、とても大切な学びでした。

不慮の事故は一瞬で起きます。1秒先のことはわかりません。
みなさん、くれぐれもお気をつけくださいね。

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85号「レムリア・ルネッサンス」(2010年5月3日)

レムリア・ルネッサンスという団体をご存じでしょうか。
書籍にある紹介文を引用します。

          ●●

【レムリア・ルネッサンス】
アマーリエを介して天上界から降ろされるメッセージを記録し、
書籍やCD、インターネットを通して
世界中に伝えるための団体である。
「謙虚に愛深く、そして楽しく」をモットーに、
「愛の星、地球」を目指して活動を続けている。
公式ホームページURL http://lmr.cc

          ●●

私はしばらく前にご縁をいただき、アマーリエさんにもお会いして、
昨年4月に川崎市で行われたイベントにも出演させていただきました。
近々起こるかもしれない地球のシフトアップに向け、
メンバーの方たちは、精力的に活動されているようです。

出版されている本を一部ご紹介します。

「ガイアの祈り 光ある愛の星にアセンション」
徳間書店 5次元文庫 762円+税

「ガイア黎明 生きて意識ある地球はこうして生まれた」
徳間書店 5次元文庫 686円+税

「地球シフトアップ計画 ガイアその愛その光」
徳間書店 5次元文庫 686円+税

その内容は非常にスピリチュアルで幅広く、
霊的能力も何もない私のような者には
にわかには信じがたいところもあります。
しかし、わかる範囲では私の考えていることと一致しており、
なるほど現在の地球は、長い宇宙の歴史においても
またとない重要な岐路に立っていて、
一人ひとりの意識と行動が未来を左右するのだと納得できます。

本文の一部を引用させていただきます。

シフトアップのために、多くのことを
世界の人々が知る必要はない。簡単なことなのだ。
「すべての人間は神の子であり、本来、永遠の命を持つ魂である。
その魂があの世とこの世を転生輪廻している」
ということを世界の人々が認識することだけなのだ。

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86号「お金のいらない国 発想の原点−1」(2010年5月17日)

今さらですが、私が「お金のいらない国」を考えた
きっかけについてお話ししたいと思います。

「お金のいらない国」という話は、私が会社に入社し、
10年ほど仕事を続けた頃に思いつきました。

私の仕事は広告代理店のアートディレクター。
新聞、雑誌、ポスターなどの広告を企画、制作する仕事です。
広告制作を依頼してくださるクライアントにお金をいただき、
制作に協力してもらった会社にお金を支払いながら、
自社の利益を上げるという仕組みになっています。

しかし、クライアントからは
見積り通りにお金をいただけないことも多く、
そうなると支払いもスムーズにはいきません。
また、本来の広告制作の仕事をすればするほど、
お金に関わる仕事も増え、余計忙しくなってしまいます。

広告制作がしたくてこの仕事に就いたのに、
なぜお金の仕事にこんなに時間や労力を割かなければならないのか。
私は常日頃、そういう不満を持ちながら仕事をしていました。

もちろん、私の仕事に限らず、この経済社会においては
たいていの仕事にはお金が付いて回るわけで、
それは仕方のないことではあります。

しかし、私はある時思ったのです。
お金のやりとりなどやめてしまっても、
皆が自分のやりたい仕事だけすればいいのではないか。
仮に今の社会からお金がパッと消えたとしても
皆がそのまま自分の仕事さえ続けていけば、
社会は成り立つのではないか。

そもそもお金などというものは食べられるわけでもなく、
人の間を回っているだけで、
何かと交換しなければ何の価値もない。
誰かが作ったお金のしくみをみんなが守っているから
今の社会にはお金が通用しいるだけであって、
なくしてしまうこともできるのではないか。
単純にそう考えたのでした。

(次号に続く)

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87号「お金のいらない国 発想の原点−2」(2010年5月31日)

お金の社会で仕事をしながら
お金のいらない国を思いついた私はこう考えました。

お金は人間が考えだした道具にすぎない。
人類がこの地球上に誕生した時にはお金は存在しなかったはずだ。
ならば、お金がなければ人が生きていけないということはない。
お金は、その仕組みを人間が作り、
みながそれを守っているから成立しているだけであって、
やめることもできるはずだ。

          ●●●

それでもお金をなくすことは難しいと考える人は多いでしょう。
私もすぐには無理だろうと思います。

しかし私は、もしみなが本気でお金はない方がいいと
考えるようになったら、お金はなくせると思います。
そして、今の時点ではお金はなくせないのだとしたら、
それは本当はなくしたくないと思っている人が
多いからではないかと思うのです。

お金のいらない国はすべての人が平等で、貧富の差がありません。
お金や物の所有によって差がつくことはなく、
金持ちがうらやましがられたり、
優越感に浸れることもありません。

それでは面白くない、自分は金持ちになって人に勝ちたい、
そう思われる方もいらっしゃるでしょう。
現代社会を生きてきた私たちは、
ある意味それを良しとする価値観を植え付けられてきましたし、
また、お金の存在しない社会では進歩がないだろうと
考える方もいらっしゃると思います。

私も正解は知りませんし、何も押しつけるつもりはありません。
私はお金のいらない国になっても何も問題はないし、
それが理想だと思っていますが、
お金がなければ人間社会は成立しないし、
あった方がいいと考える方がいらっしゃっても
何も不思議ではありません。

そして、お金のいらない国は、多くの人が本気で想像し、
それが心底よいと思えて初めて
実現の可能性が生まれることだと思います。
そういう意味では、たわいない夢物語と思われても
仕方のないことだとは思います。

次号では、私の発想の、より原点に触れてみたいと思います。

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88号「お金のいらない国 発想の原点−3」(2010年6月14日)

「お金のいらない国」を書く少し前、
私はスピリチュアリズムに出会いました。
スピリチュアリズムに関してはまた後日
書かせていただこうと思いますが、
要するに、人の本質は肉体ではなく霊(魂)であり、
この世とあの世を生まれ変わっているというもの。

そして、この世のもの、例えばお金、地位、名誉などは
この世を去る時全て置いていかねばならず、
そういうものにしがみついている人生は空しい。

唯物論者だった私にとってこの考えは衝撃であったと同時に、
それまで悩んでいたことを全て解決してくれました。
これに関してはよろしければHP内のこちらをご覧ください。
「30年間、私は何を悩んだか」
http://www2u.biglobe.ne.jp/~nagaryu/30nenkan.html

スピリチュアリズムによれば
あの世(霊界)はたくさんの階層に分かれており、
誤解を恐れずに言えば、いわゆる天国から地獄まで
さまざまな世界があるようです。

私は天国にはお金はないだろうと想像しました。
そこで生まれたのが「お金のいらない国」です。
ですから、発想の原点としては天国の話なのです。
寸劇ではわかりやすくするため未来としましたが、
本には未来とは書いていません。

そういう意味では、
実現しないだろうからお金のいらない国など考えても無駄
という意見は、私から言わせれば、本末転倒なのです。

お金のいらない国を想像することは
この世を天国に近づけることかもしれません。

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89号「口蹄疫騒動に思う」(2010年6月28日)

宮崎県の口蹄疫がなかなか収まらないようです。

現地の方たちには、全くお気の毒と言う他ありません。
長年、手塩にかけて育ててきた牛や豚たちが
病気にかかっているいないにかかわらず、
発生地から半径何kmにいたというだけで殺されていく。
感染はいつ収まるとも知れず、
畜産農家の方たちは職を失い、
その不安と悲しみは察するに余りあります。

それを踏まえた上で、私は思います。
お金のいらない国だったらどうだろう。

お金のいらない国だったら、
とりあえず誰も生活に困ることはありません。

病気にかかった牛や豚たちは、
隔離し、治療するのではないでしょうか。
少なくとも周辺の動物まで殺しはしないでしょう。
もし、これが人間だったら殺すわけにはいきません。

私は肉食を否定はしませんが、
人は肉を食べなくても死ぬことはありませんから、
食べられないものは食べないまでのことです。

そもそも牛や豚たちにしてみれば、人間の都合で作られ、
病気が流行ればただ殺されるのですから
たまったものではありません。

人間はこういった現象を通して、
生き方を見直さなければならないのではないでしょうか。
これは人類に対する警告かもしれません。

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90号「FIFAワールドカップ終了」(2010年7月12日)

FIFAワールドカップ終わりましたね。
サムライジャパンも予想以上の活躍で日本中が熱狂しました。
運動音痴の私ですが、今回は日本が敗退した後も、
夜中に起きて各国の選手の見事なプレーや
予想もつかない展開を十分楽しませていただきました。

しかし、考えてみればスポーツって不思議ですね。
種目によってさまざまなルールと決められたスペースの中で、
選手たちは走ったり、跳んだり、倒し合ったり。
ボールなどを取り合ったり、蹴り合ったり、打ち合ったり。

別にそんなことしなくてもいいのに、一生懸命練習して、戦って、
選手も見る人も楽しみ、興奮し、感動する。

広げて考えれば、美術、音楽、演劇などの芸術も、
もっと広げれば遊び全般も、やらなくても死ぬわけではありません。

でも、そういった、芸術、娯楽などは
人間にとって非常に大切なもののようです。
それは自分を表現する手段だったり、
自分が楽しみたい、あるいは人を楽しませたいという欲求を
満たすものなのでしょう。

お金のいらない国でも芸術は花盛りと思います。
お金に余裕がないからできないということもなく、
お金儲けに時間を費やす必要もありませんから、
みんな自分のやりたいことは思う存分できるでしょう。

スポーツはなくなるだろうとおっしゃる方もいますが、
私はそんなことはないのではないかと思います。
勝ち負けにそうこだわる必要もないけれど、
純粋にゲームとして楽しめるのではないでしょうか。

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91号「スピリチュアリズム−1」(2010年7月26日)

先日、このメルマガの「お金のいらない国 発想の原点―3」で
ちょっと触れましたスピリチュアリズムについて
書かせていただきたいと思います。

スピリチュアリズムの基本的な考えは、
人の本質は肉体ではなく霊であり、
この世とあの世を生まれ変わっているというもの。

また、この世とあの世を通じ、あらゆるものは
全てを包括する大いなる意識(神)の法則の中にあり、
原因を作れば寸分の狂いもない正確な結果が導かれる。

私がここで言うスピリチュアリズムとは、
特定の団体や、特別な人などを指すものではなく、
あくまでもこの考えのみを指します。

また私は、この考えはスピリチュアリズムに限らず、
全ての宗教やそれに類するものの基本であるべきと思っています。

もちろん、何を信じようと個人の自由ですし、
宗教の中にはこれを否定するものもあるかもしれませんが、
それは少なくとも私を救う教えではありません。

ですから、ちょっと乱暴に聞こえるかもしれませんが、
正しい宗教であるなら、それぞれ言葉上の表現は違っても
その本質は同じでなければおかしいと思います。

そういう意味で、私は宗教同士の融合は可能であり、
真理を説いている宗教なら、対立などあり得ないと思うわけです。

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92号「スピリチュアリズム−2」(2010年8月9日)

スピリチュアリズムの基本的な考えは、
人の本質は肉体ではなく霊であり、
この世とあの世を生まれ変わっているというもの。

私がこういった考えに初めて出会ったのは33歳の時。
書店で何気なく手に取った高橋信次さんという人の本でした。
高橋信次さんはGLAという新興宗教の開祖。
その時既に亡くなられていました。

高橋信次さんは、肉体のことを、
魂がこの世を生きるために乗る「肉体舟」と表現されていました。

そして、人は死んだらその舟を下りてあの世へ帰る。
あの世には、お金、地位、名誉のような
この世で大事だと思っていたものを持っていくことはできない。

ですから、そういうものにしがみついて生きていた人間は、
死んだ時、あわてることになるでしょう。

だとすれば、本当に大事なものは何かということになります。
あの世に持っていけるのが自分自身の霊(心)だけだとすれば、
それがどのようなものであるかが自分の価値の全てです。

そして、人がこの世に生まれてくるのは
自分の心を成長させるためなのではないか。

これは私にとって非常に納得のいく考えでした。

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93号「スピリチュアリズム−3」(2010年8月23日)

高橋信次さんの本の次に出会ったのは、
「シルバーバーチの霊訓」でした。

これは第二次世界大戦前後にイギリスで開かれていた
交霊会(霊媒を介してあの世の霊と交信する会)の内容を
参加者たちが記録したもので、
シルバーバーチとは、そこに降りてくる
3000年前に地上に肉体を持っていたという霊の名です。

神とはあらゆるものに宿る生命の源。
そして、この世、あの世の全てを存在させ、
微塵の狂いもなく動かしている完全なる法則である。

この世とあの世は表裏一体。
車の両輪のようにどちらも大事なものである。

その言葉は謙虚で優しく、わかりやすく、
霊や霊界の存在を私に確信させるものでした。

余談ですが、この本の訳者は近藤千雄(かずお)さんという方で、
私は十年ほど前に浜松で行われた講演会を聴きに行きました。
その時の主催者がなんと、
現在かっこちゃんこと山元加津子さんの
付き人?をされている小林さんでした。

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94号「唯物論者から唯心論者へ」(2010年9月6日)

スピリチュアリズムとの出会いによって、
私の人生観、ものの価値観は一変しました。

それまでは目に見えないものなど信じない、
人は肉体が死んだら心も意識もすべて消えてなくなる
と考える唯物論者でした。
そして、どうせ死ぬのになぜ苦労して生きなければならないのか
という疑問を常に抱えながら、空しい思いで生きていました。

しかし、スピリチュアリズムと出会ってからは、
人の本質は心、魂であり、肉体が死んでも永遠に生き続ける、
人は心を成長させるためにこの世に生まれてくるのだと
考えるようになりました。

もちろん私はまだ死んだことはないので、
どちらが本当かはわかりません。
しかし、スピリチュアリズムをベースにものを考えることによって
私が唯物論者の時に悩み、苦しんでいたことは見事に解決しました。

それならば、本当はどうであろうと、
私は唯心論で生きて行こうと考えるようになったわけです。

その頃(35歳の時)書いたのがこちらです。
「30年間、私は何を悩んだか」
http://www2u.biglobe.ne.jp/~nagaryu/30nenkan.html

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95号「大切なのは今をどう生きるか」(2010年9月20日)

数回にわたってスピリチュアリズムのこと、
肉体や魂について私がどう考えているかを書かせてもらいました。

しかし私は、スピリチュアリズムや唯心論を
信じなさいと言っているわけではありません。

肝心なのは、自分はどう考えたら
この世に生まれてきたことを納得でき、
苦しまずに生きていけるかということです。

ですから、自分は死んだら消滅する、あの世などないと
考えた方が得心の行く人はそのように思って生きればいいし、
どちらでもかまわないという人は考えなくていいと思います。

宗教も含めてこういったことは、この世を生きていく上で
自分にとってプラスにならなければ意味はありません。
それによってやみくもに何かを頼るようになったり、
この世をしっかり生きなくなるのでは逆効果でしょう。

何を信じようと、大切なのは自立心と責任を持ち、
今をどう生きるか、自分はこの世で何をするかだと思います。

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96号「許されることの辛さ」(2010年10月4日)

先日、ある方が講演の中で、こんなことを言われていました。
私が覚えている範囲でお話しします。

霊界に行ったおばあさんからのメッセージだそうです。

「私はとてもすばらしいところにいます。
ここではすべてが許されるのです。だからとても幸せです。
でも、苦しんでいる人もいます。
生きている間に悪いことをした人たちです。
その人たちは、自分を許さないでくれ、
罰を与えてくれと言って、とても苦しんでいます。
その人たちにとってはここは地獄なのかもしれません」

私はなるほどなあと思いました。
地獄とは自分が作り出すもの。
許されれば楽になるような気がするけれど、
人によってはそれこそが地獄なのかもしれない。

しかし、それは自分が悪いことをしたと気づいたからではないか。
自覚していない人は苦しむことはない気がする。
そういう人は反省もしない代わりに進歩もないということか。

しかし、そもそも悪いことって何だろう。

おばあさんからのメッセージの続きはまた次回に。

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97号「悪いこととは」(2010年10月18日)

前回の続きです。

私は思いました。
そもそも悪いことって何だろう。

霊界に行ったおばあさんは、
たしかこんな風に言っていました。

「悪いこと、してはいけないことは、人を嫌うこと。
人を嫌うと憎しみがだんだん大きくなって、傷つけたり、
復讐しようとしたり、戦争になったりする」

私はこれもなるほどと思いました。
しかし、こうも思いました。
そういった感情を抑えようとすることは
かえってストレスになるのではないか。

人は神様ではありませんし、いろんな性格や考え方があるわけで、
すべての人と馬が合うはずもありません。

そこで私が思ったのは、好き嫌いを決めないということです。
無関心という意味ではなく、
他人の存在、行動や考え方に自分の感情を差し挟まない。

その人はその人、好きでも嫌いでもない。
そして、自分とは合わないと思った人には
できるだけ近づかない、干渉しない。

まあ、好きなのはいいかもしれませんが、
好きという感情もあまり強くなって冷静さを欠くと、
何かの反動で嫌いに変わるかもしれません。

少なくとも嫌いだと思わなければ問題は起きない気がします。

そして、どんな人に対しても
少しでもいいと思えるところに目を向けられたら、
それはすばらしいことなのではないでしょうか。

おばあさんもそう言っているのかもしれません。

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98号「講演のご依頼はお気軽に」(2010年11月1日)

今回はちょっと宣伝させてください(笑)。

長島龍人を呼びませんか。
「お金のいらない国」の落語や、歌を生で。
少人数での意見交換も可能です。
お声かけいただけば、どこでも行かせていただきます。

内容: 「お金のいらない国」に関すること。
落語、トーク、歌(ギター弾き語り)など。
寸劇をご希望の場合は、どなたか青年役、女性役をお願いします。

時間: 40分〜3時間 時間によって構成を考えます。

規模: 人数や場所は問いません。数名で一般家庭でも結構です。

費用: 講演料は要りません。
交通費、宿泊の必要な場合は宿泊費をご負担ください。
長島龍人は名古屋市内在住です。

日時: 講演者は会社勤めをしているため、
土、日、祝日、あるいは平日夜が基本ですが、
都合がつけば平日昼間でも結構です。

お申し込み・お問い合わせ: ryujin@mwa.biglobe.ne.jp
090-7045-3524(長島龍人)

お気軽にご相談ください。

講演実績はこちらをご覧ください。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~nagaryu/profile.html

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99号「少女時代にはまっています」(2010年11月15日)

これが「お金のいらない国」メルマガかよって感じですが(笑)。

韓国の女性グループ「少女時代」にはまってしまいました。
みんな息子より年下ですから、完全に娘の年齢です。
まあ、私もただのオヤジですから(笑)。

みんな可愛い、スタイル抜群。歌もダンスも超うまい!
人間業とは思えません。You Tubeでも見られますので、ぜひ。

韓流ブームと言われて久しいですが、韓国はすごいですね。
ドラマもたくさんあって、日本でも大人気。
音楽でも、映画、ドラマでも、すごい勢いを感じます。

そこで思ったんですが、
こういう文化交流が世界中でもっと盛んになれば、
みんな仲良くなれるし、戦争なんて起きないのではないかと。

もちろん今の世の中では、
お金が動くからこうい産業も発展しているんだと思いますが、
いいものはいいし、見たいし、聴きたいし、
芸術を愛する心は万国共通のはずです。

そう、韓国の北の国だって、その気になれば、
同じくらいの人材、能力があるはず。
第2の少女時代でも生んでくれたら、
世界中の見方が変わると思うんですけど。

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100号「100号 ありがとうございます」(2010年11月29日)

「お金のいらない国」メルマガ、今回で100号です。
2007年の2月に始めたので、3年半以上続いています。
いつもご愛読くださり、ありがとうございます。

とてもうれしいことなんですが、
最近ちょっと気持ちが沈んでいます。
北朝鮮と韓国のことが気になって。

北朝鮮は、韓国が先に発砲したと言い、
韓国は、いつもの軍事訓練であり、北に向けて撃ってはいないと言い。
お互いの言い分があるんでしょうが、
どちらにも報復はしてほしくないです。

報復をすればきりがなくなる。
最悪の場合、世界が巻き込まれ、人類は滅亡する。

これは戦争で儲けたい人の仕業だから
大事には至らないという意見も聞きました。
また、日本に恐怖心を持たせ、アメリカの保護が必要だと
植え付ける手口だとも。

確かにそうかもしれません。
でも、既に兵士や民間人が死んだり、負傷しているわけで、
こんなことが起きていいはずはありません。
武力では何も解決しないことがわからないのでしょうか。

前号で少女時代のことを書いたばかりなのに、
とても残念です。

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