30年間、私は何を悩んだか



はじめに

一昨年、私はある本との出会いによって、それまで悩み続けてきたことが一気に解決したような気分になりました。30年余り生きてきた中で、何かおかしい、なぜだと思い続けていた疑問が、一本の筋の通った考え方をすることによって、すべて氷解してしまったように思えたのです。それからというもの、私はその教えを常に念頭において生活し、あらゆる疑問をその考え方に照らしてみるようになりました。そして、それまで悩んできたことは次々と解決されていき、私は非常にスッキリとした気持ちで生きて行けるようになりました。勿論、私の能力不足、あるいは多分この3次元世界の束縛によって、理解を越えてしまう謎は残っています。しかし、そんなことはいずれわかること、あるいはわかる必要もないことであって、およそこの世的な悩みというものは解決してしまいました。

私と同じような悩みを抱えて日々生活している人がきっといるはずだ、そういう人に是非、私に目を開かせた本の存在を教えてあげたい、そんな思いから昨年、私は一冊の小冊子を作りました。『宗教なんて大っ嫌いな人へ』というその冊子は、私が得た知識を私なりにまとめて、宗教に触れるきっかけを作り、最後は私がおすすめしたい本を紹介するという形をとっています。これまでに合計40冊ほど作り、身近な人や知人に読んでもらいました。特に反響を期待していたわけでもなく、喜んでくれる人が一人でもいたらいいなくらいに思っていたのですが、結果的には、あちこちに心のレベルで話の出来る友だちがみつかったような気がして、作ったかいがあったなと喜んでいます。

そしてこの度、そもそも私が宗教に目覚めるきっかけとなった悩みとは何だったのか、どんなことが私にとって疑問だったのかを記しておこうと思い、この『30年間私は何を悩んだか』を作ろうと思いたちました。もしかしたら、なんでそんなことを疑問に思ったんだとか、その程度のことで悩んでいたなんて幸せな奴だと思われるかもしれません。しかし、私にとってはこれらの悩みは、私を宗教に、あるいは真理探求に立ち上がらせるに充分なものでした。今となっては、これらの疑問や悩みは私を目覚めさせるための手段だったのだと思っています。さあ、私が30年間悩んできたこと、よろしかったら一緒に考えてみてください。



一、死に対する恐怖

たしか幼稚園の頃だったと思います。夜、ふとんを敷いている母と話していて、どういう話の流れだったかは忘れましたが、とにかく「人は死んだらどうなるか」という話になりました。母は、
「人はね、死んだらなくなっちゃうのよ。だから生きているうちにできるだけのことをしなきゃいけないの」
私はこれを聞いて、暗闇の谷底へ突き落とされるような怖さを感じ、大声で泣きました。
「死ぬのはいやだ、死にたくない!」
今考えると、よくそんな小さな子供が死ぬなんてことを想像したものだと思いますが、その時の私はたしかに底知れぬ恐怖に怯えて泣きました。そして、この『死の恐怖』はそれから私が成長する過程でたびたび私を襲い、その都度、私を恐怖のドン底に陥れると同時に、生きていること自体が無意味なのではないかという意識を私に持たせました。何をしていても「どうせ最後は死ぬんだ」と思うと、すべてのことが馬鹿馬鹿しくなってしまうのです。人間なんてみな死刑囚と同じじゃないか。いつ死ぬかがわからないだけで、いずれは間違いなく死ぬんだ。強制的に殺されすらしないが、1秒1秒確実に『死』に近づいている。そして死ぬときがやってきたら、きっと今、こうやって自分と認識している意識そのものがなくなってしまうのだ。となれば自分などという存在は何のためにあるのだ。そりゃ、自分が死ねば親は悲しむだろう。あるいは自分も子供ができれば死んでほしくはないだろう。しかし、自分は人類存続の中継ぎでしかないのか。だいたい人類が存続したからどうだというのだ。つらい思いをして頑張って生きたって一体何の意味があるのだ。『死』というものを考える度に、私はたとえようもない恐怖と、虚しさに襲われました。

人間にとって最大の恐怖はこの『死』です。なぜ『死』がこれほど人間を怯えさせるのかというと、多分、現代の主流である『死』イコール『魂の消滅』という解釈が、事実ではないからだと思います。この3次元世界のみがすべてだと思っている限りは、この世はとても無意味なものに思えてしまいます。しかし、私がこれまで得てきた知識によれば、『死』はあの世への誕生に他ならず、この自由のきかない肉体からの解放という、とても喜ばしいことなのです。そして、この事実を知ることは、この世におけるあらゆる疑問を解くカギになってきます。



二、教育とカネ

小学校、中学、高校と、私は、塾通い、受験などをたくさん経験しながら進んでいきました。そして、高校時代のある日、ひとりの友だちが私に言いました。
「ねえ、勉強してどうすんの」
「いい大学に入るのさ」
「いい大学行ってどうすんの」
「いい会社に入るのさ」
「いい会社に入ってどうすんの」
「いい給料をもらうのさ」……
この時私は変なことを聞くやつだなあと思いましたが、別に問題意識は持ちませんでした。しかし、今考えると、学校教育の最終目的が金を稼ぐためというのは、何か間違っているとしか言いようがありません。受験戦争で、さんざん人を蹴落とすことばかり覚えて大人になった人間たちは、社会に出ても、とにかく人より金を稼ぐことばかりに夢中になっています。個人でも企業でも政治家でも、とにかく金が欲しい、いくらでも欲しい。だんだんエスカレートしてくると、金が儲かるなら、他人や自然は犠牲になったって構うものか、などというとんでもないことを考える奴がでてきます。恐ろしい話ですが、今の世の中、特に日本はこういう意識が充満しきっているのではないでしょうか。その結果として、外国との経済摩擦、もっと大きな問題として致命傷に近い環境破壊が起きてしまいました。すべては自分さえよければ他人はどうなったってかまわないというエゴイズム、私利私欲を追い求めた結果と言えるのです。

とどまるところを知らない欲望は、人間を破滅に導きます。所詮、お金などというものはこの世限りのもの。『死』という境界線を越えてあの世に行けば、何の価値もないものになってしまうのです。そして、そんな紙切れを得るがために荒んでしまった、自分の唯一の宝であるところの『心』をあの世で浄化するには、途方もない時間と努力が必要になるのです。



三、『楽しい』とはどういうことか

この世がすべてだと思っていた私は、常に人生に疑問を持ち続けてはおりましたが、幸い、興味のあることを始めると夢中になってしまうたちなので、自分の好きなことをやっている時は、そう悩まずにいられました。
「人生なんて短いんだから、自分が楽しいと思うことをできるだけやって死ねばいいんだよな」

しかしある時、ふと思いました。「楽しいと思うこと、好きなことって、人によってみんな違うよな。要するに『楽しい』という意識はその人が楽しいと思うから存在するのであって、すべてが楽しくないと思う人には『楽しい』という意識はないわけだ。滅多に、そういう人はいないかもしれないけど、でも、いる可能性はある。この世は、自分が楽しいと思うことをして生きるのが正しい生き方だとすれば、その人は、間違っていることになってしまうが、それはおかしい。やはり、いくら自分が楽しいと思うことをしたって単なる自己満足、人生に対するごまかしでしかないのではないか」こう考えますとやはり人生は虚しいもの、死ぬまで自分をごまかし続けて生きていかなくてはならないものになってしまいます。人生とは本当にそんなものなのか。俺はその程度の存在なのか。だったら生きていたって意味がない。今すぐ死んだって同じじゃないか。

自分は『死』によって消滅する、と考えている人間は、往々にして五感の快楽のみを求めます。肉体という物質が自分のすべてだと思っていますから、とにかく肉体を喜ばせることばかりに夢中になるのです。うまいものを食べたい、いい服を着たい、いいうちに住みたい…。勿論、これらがまったく無意味だとは言いません。この3次元の世界に肉体を持って生活している以上、ある程度は必要なものです。しかしそういうものばかりに価値を見出し、次から次へと追い求めることに夢中になって、この世的なものに縛られていますと、結局はお金と同じで破滅への道が待っています。
 本当に『楽しい』とはどういうことか。勿論、自分の肉体を楽しませることだって『楽しい』のうちでしょう。しかし、もっとレベルの高い楽しみはないか。自己満足でない、だれもが認めるところの楽しみとは何か。

一言で言ってしまうと、私は『人に喜ばれること』が人生最大の楽しみなのではないかと思います。またそれは『楽しみ』であると同時に、人間が為すべき最も重要な仕事だと思います。と言ってもそんなに難しいことではありません。例えば親にとって、子供は存在しているだけで喜びです。家族をはじめ、友だちや社会で出会う人に対しても、自分の存在そのもの、あるいは行為が、仕事でも遊びでもいいから少しでも役にたち、喜んでもらえるなら、その人は充分に存在価値があるといえるでしょう。そして、その領域が広がれば広がるほど、その人の存在は大きなものになっていきます。国境を越え、全世界の人々に喜ばれ、愛される人。決して権力を持つという意味ではありません。また、人間だけでなく、動物にも植物にも大自然にも喜ばれ、愛される人。もっと言ってしまえば、この大宇宙にも、あるいは無限に存在する別次元の世界の人々にも祝福をもって迎えられる人。最も素晴らしい人とはそういう人だと思います。そして、すべてから喜ばれ、愛される人はすべてを愛することのできる人です。万物に分け隔てなく、限りない愛を与えられる人です。決して夢物語ではありません。人間は、そういう人に近づくべく努力するためにこの世に生まれてきているのです。そして、すべての人間が例外なく、そうなれる素養を持ち合わせているのです。愛する喜びと愛される喜び。これこそが人生における最大級の『楽しみ』と言えるのではないでしょうか。



四、仕事と老後

ある時、会社の新社屋が完成しました。私はそれを見上げてふと思いました。
「俺は、ここにあと三十年近く通うのか」
特に今の会社をやめる気もないし、転勤もなさそうだし。出世はしたくもないし、したって知れてるし。仕事の中身も十年もやってりゃだいたい想像がつく。まあ、俺の人生も見えたなと思うと、妙に虚しく感じてしまったのです。

子供の頃は、成長する過程で肉体的にも環境的にもいろいろと変化があります。自分の体は一年一年大きくなるし、進級、進学など、次々と新しいことが待ち受けています。その変化に追いついて行くだけでも結構大変だし不安もありますが、目の前には一応、未知の世界が広がっているといえます。それが、肉体の成長も止まり、学校を卒業し、就職し、結婚し、子供までできてしまうと、もう自分にとって期待のできるような未体験のことなどあまりありません。あとは体力の衰えを感じつつ、今までやってきたことの繰り返しに近いことを定年までやり、老後を迎えるだけです。

一時はとても老後に期待していたこともありました。会社さえやめられれば、もううっとうしい仕事なんかしなくてもいいし、うちの会社はそう退職金も悪くなさそうだから、のんびり趣味でもやろう。また、私は経済観念もわりとあるほうなので、その頃にはある程度のお金もたまっているだろう。そしたら、まあ、金なんかあまり残して死んだってしょうがないから、パァッと世界一周でもしようか。

しかし、本当にそれでいいんだろうか。俺は、死ぬ前に、たいして好きでもない旅行をするためにあと何十年も働くのか。趣味をやるといったって、もう死んでもいいと思えるほど満足できることがやれるのか。だいたい、在職中に死んだらどうなるんだ。老後にすべての期待を寄せて、金のためにじっと我慢しながら仕事を続けても、途中で死んじまったらバカみたいじゃないか。

人間はいつ死ぬかわかりません。何十年も先かもしれませんし、明日かもしれません。ですから、人間は「いま」に満足して生きられなければいけないのです。また、苦労してためたお金を老後に使っても満足できない気がする、使えるまで生きられないかもしれないとなれば、今、直面して、つらい、やめたいと思っている仕事というものの持っている意味を、もう一度考えてみる必要があるのではないでしょうか。



五、仕事とお金の関係

あなたの仕事は、あなたがお金をもらうためだけにあるのではありません。どんな仕事でも、その仕事がこの世に必要だから存在しているのです。ですから、あなたがその仕事をすることは、社会にとっても、とても意味のあることなのです。先日、ある友人と話していた時、このあたりのことに関して、彼がとても興味深い話をしてくれましたので、ここに紹介してみたいと思います。

二人で喫茶店でお茶を飲んでいる時でした。
「僕ね、このコーヒー代、払わなくてもいいと思うんですよ」
「どうして」
彼の理屈はこうでした。自分が欲しいと思うものをタダで貰っても、自分もどこかで誰かにそれだけのことをしてあげればいいのではないか。食べ物にしろ、日用品にしろ、自分の生活に必要な分だけをタダで貰い、それに見合うだけのものをまた全く別のところで自分の仕事として奉仕し、そこでは報酬は貰わない。皆がそうすればこの世にお金なんていうものは要らなくなる。

私は、なるほどと思いました。もし、人間みんなが、くだらぬ欲望に振り回されず、己をわきまえて生活し、自分が必要とするものに見合った労力を社会に提供できれば、確かにお金なんて要らない。そうすれば、余計な財産をためこむ必要もないし、馬鹿な政治家や、役に立たない金持ちもいなくなるだろう。そして、もし、自分の必要とするもの以上の奉仕が社会に対してできれば、社会はより豊かなものになるに違いない。まあ、今のこの世の状態、人々の意識を考えますと、当分、実現は不可能かも知れませんが、この理論は、仕事というものの本質をついていると思います。 また、この場合、自分がどのくらいの仕事をしたかの判断は自らすることになり、自分へのごまかしがききません。現実の社会では、ものの値段が価値を決めてしまうので、暴利を得たり、詐欺まがいのことだって、ある程度は合法的にできます。買ったほうが悪いんだという理屈です。しかし、自分が自分の仕事の価値を決めることになりますと、それだけの仕事もせずに沢山の報酬を得た人は自分に嘘をつくことになります。まあ、それでも平気な人がいる限りはこのシステムは導入できないわけですが…。

すべての人間が、無意味な欲望に振り回されなくなりさえすれば、この世にはお金も法律もいらないのかも知れません。



六、金の貸し借り

会社に入って何年かしたある日、私はある人に数万円を貸しました。彼にはそれまでにも幾度となく貸したり返してもらったりしていたので、その時も頼まれるままにそうしたのですが、それが返ってこなくなったのです。それから何年か経って、彼の転勤が決まりました。私は送別会の日、彼に一枚の手紙を渡しました。
『俺もいろいろ考えたんだけど、あげてしまうわけにもいかないので、いつでもいいから返してね。○○銀行 口座番号××××』
私が頼んだわけでもないのに、まがりなりにも借用書まで書いていた彼は、すまなそうにウンウンとうなずいていました。

あれから10年、歌の文句ではありませんが、お金は返ってきませんでした。忘れてしまったのかも知れませんが、この10年間、潔癖症の私の苦悩は大変なものでした。そして、一番腹立たしかったのは、たかがそのくらいの額で彼が私との縁を切るつもりなのかということでした。こちらとしては大切にしたい友だちだと思うから貸したのに、彼はそんな金と私を引き替えにするつもりなのか。私は思い出す度に腹立たしく、割り切れない気持ちで長い間苦しみ続けました。

この場合、苦しんでいたのは私だけです。生活を脅かすこともない、たかが数万円のことで私は腹を立て、私を苦しめる彼を憎みもしました。しかし、人を憎んでも、恨んでも、結局は自分が苦しいだけなのです。だったら、たかが数枚の紙切れのために神経をすり減らすのも馬鹿げたことです。また、憎む、恨む、怒るといった感情は、自分の思うようにならないといったエゴイズムから発するもので、そういう感情をたくさん持っている人ほど、霊的には未熟であると言わざるを得ません。

彼は、たとえあの世へ行ってからでも、反省の機会を与えられ、自らのルーズな性格から立ち直ることができるでしょう。今となっては、たったそれっぽっちの授業料で、私の真理への目覚めに一役かってくれた彼に感謝しています。



七、犯罪に対する憎しみ

場合によっては『死』につながる恐るべきものとして、『犯罪』があります。たびたび新聞の社会面を賑わす凶悪な犯罪に対して、私は絶望と戦慄を覚えると同時に、居ても立ってもいられないほどの怒りを感じていました。こんな犯人はただの死刑では足りない、気が狂うほど苦しめた挙げ句に八つ裂きにしろ!被害者や遺族の無念さを想像するほどに私は激しい怒りに燃え、心は地獄の鬼と化していました。

しかし、一方では疑問も感じていました。たとえ犯人をどんなに苦しめて殺そうと、被害者は帰ってこない。遺族の悲しみも消えるとは思えない。死刑にしても新たな殺人がひとつ行なわれるだけで、何の解決にもならないのではないか。だったら一体どうすればいいのだ。凶悪犯をのそのそ生かしておくのか。私はこの矛盾に悩み、苦しみました。

罪というものは法律を犯すことによって生まれるのではありません。法律は後から人間が作ったものであり、それに触れたこと自体が罪なのではないのです。ある行為が罪であるか否かは、人間誰しも持っている『正しい心』によって判断されます。そして、どんな犯罪者でも人間である以上、この心は持っています。自分の犯した罪は自分がすべて知っていて、ごまかしがききません。うまく法律の網の目をくぐり抜けようと、運よく警察に捕まらなかろうと、すべてを知っている自分から逃れることはできません。ですから、罪を犯してしまった人は、その償いをするために誠心誠意努力し、心から反省することです。そうしないと、人間の作った法律に従って牢屋に何十年入ろうと、死刑になろうと、自分の心には決して許してもらえません。また、苦しみに耐えかねて自殺しようと、あの世はそういう人向けの反省の場所をちゃんと設けてあります。あまり楽しい所ではないようですが。

人間には例外なく『正しい心』が与えられているにもかかわららず、自分の欲望やエゴから罪を犯してしまう人は、人間として未熟であると言わざるを得ません。と同時に、そういう人には憐れみを持って接し、早く立ち直るように手を差し延べてあげるべきです。「罪を憎んで人を憎まず」ということわざは、こういう理屈から生まれたのだと思います。



八、武力と戦争

私の父が病気で死んでからもう10年になりますが、父は戦争で沖縄へ行った経験のある人でした。ですから、私は小さい頃からよく戦争の話を聞いていました。父は足を撃たれて捕虜になったので奇跡的に生きて帰ってこられたのですが、仲間のほとんどは父の目の前で死んでしまったようです。後から考えると、その地獄絵は相当なものだったろうなと思いますが、父は淡々と、時にはユーモア混じりに戦争の話をしてくれたものでした。
「アメリカ兵なんてちっとも悪い奴じゃなかったよ。捕虜になっても、タバコや缶詰をちゃんとくれるから、かえって太っちゃった。日本軍とは大違いだよ」

私は子供心に、なぜ戦争が始まってしまうのか理解に苦しみました。戦争になれば自分だって家族だって死ぬかもしれないから嫌だし、敵になる相手だって同じだろう。そんな、誰もやりたくないことを一体誰が始めるんだろう。アメリカ人だってきっと個人的に付き合えば友だちになれるに違いない。頭のいい人間同志が殺し合うなんて信じられない。

武力によって他を制することは不可能です。武力によって得たも のは一時的に手に入ったように見えても、また武力によって奪われます。ボクシングがいい例です。チャンピオンは次々に替わっていきます。また、どんなに強く、長い間王座を誇った人でも、必ず負ける時が来ます。負け知らずで引退したとしても、チャンピオンの座は明け渡すことになります。スポーツの場合はルールの上に成り立っているからいいのですが、戦争はルールがありませんから、人々の感情は半永久的に尾を引きます。戦いに勝ったからといって、おちおち喜んではいられません。負けた方の恨みも買っているわけです。戦争という手段では、勝とうと負けようと平和は得られないのです。

近頃では人類の武力もものすごく強大になりました。一瞬にして地球を吹き飛ばすことだって可能なほどです。まったく馬鹿もここまでくりゃたいしたもんだという感じですが、もう誰かが狂うか、戦争をやって本気を出したら、われらが地球は破滅です。皆で汗水たらして働いて、せっかく築いてきた文明を自らの手で破壊するような事態だけは避けたいものです。

いかなる理由があろうとも、問題解決の手段に戦争を選んではなりません。それは、長い目で見れば何の解決にもならないからです。人間は、人類の歴史始まって以来、この過ちをずっと繰り返してきました。にもかかわらず、この現代社会において今なお、そういう短絡的な手段に打って出ようとする人間の愚かさが、私は不思議でなりません。



九、宗教に対する疑念

30年間、私はあの世の存在、神の存在を否定し続けました。あの世なんてあるもんか、神も仏もいるわきゃあねえ、宗教なんてくそくらえだ!しかし、心のどこかでこんなふうに思う気持ちもありました。宗教なんてみんなインチキだとは思うけど、なんで世界中どこにでもこんなにたくさんあるんだ。文明の進み具合に関係なく、宗教の一つもない国なんて世界中捜してもないんじゃないか。また、釈迦やイエスは文明国でもあれだけの支持を得ている。何を言ってるんだか知らないが、ちょっと気にはなるなあ。

ある日、私は手塚治虫の『ブッダ』を読み、感銘を受けました。うーん、釈迦っていうのはすごい奴だ、さすがに尊敬されるだけのことはある。ただ、この時は、その教えまでを理解することはできなかったので、もっとブッダのことを知りたいと思いました。それから暫くして、私は書店で、前回の冊子で紹介した高橋信次氏の本に出会ったのです。高橋信次氏の著書の中の『人間・釈迦(全4巻)』には、ブッダの生きざまが克明に描かれています。また、私はイエス・キリストのことも知りたいと思い、あちこち捜し回った結果『イエスの少年時代』『イエスの成年時代』(G・カミンズ著、山本貞彰訳)という2冊をみつけました。これらの本は霊界通信のため、聖書などから推測したものとはリアリティが違います。こうしてブッダやイエスのことを知っていくうちに、私はこの二人が同じことを説いていること、そしてそれが真理であることを確信しました。また、私が30年間悩んできたことに対する答えは、その真理の中にあることも発見しました。

世の中にはたくさんの宗教があります。規模の大小、祈りの形式など実にさまざまですが、どれがホンモノで、どれがニセモノかは、そう簡単に分けられるものではありません。まずは真理を説いているかどうか。これがすべてとも言えますが、言い換えれば、真理さえ説いていれば、その宗教は一応は正しいのです。ですから、うちだけが正しくて他のは皆ニセモノだ、と宣伝している宗教はそういう意味では間違っています。ただ、おおもとでは真理を説いていたとしても、その宗教独特の教義や規則がおかしい場合があります。また、どう見ても不自然な儀式を持っている宗教も、一概に間違っているとはいいませんが、抵抗があるなら、近づく必要はないでしょう。

要するに、宗教は表面的なものだけで判断してはいけないということです。と同時に、自分の理性が少しでも抵抗を示すようなものは決して受け入れてはいけません。教祖と名乗る人自ら悪霊にとりつかれている宗教も少なくないようです。



十、神の存在

唯物論者の私ではありましたが、生命に対する疑問は常に持っていました。俺はなぜ生きているんだろう。電源が入っているわけでも、エンジンをかけたわけでもないのになぜ体が動くんだ。そして、子供が生まれた時、その疑問はピークに達しました。母親の体から切り離されたばかりの赤ん坊が、目の前で一人で泣いています。こ、こいつはどっから来たんだ。なぜ勝手に動けるんだ。私には嬉しさより驚きのほうが先でした。

神という存在。私の知り得た限りの知識によれば、それは次元を越えた全宇宙におけるあらゆる生命そのもの。また、全宇宙を微塵の狂いもなく動かし続けているエネルギー、大自然の摂理そのものです。神という言葉は使い古され、特殊なイメージができてしまっているので誤解されやすいのですが、少なくとも神は、人間の形をしていたり、人間的感情を持っていたりはしないようです。極大から極小に至るまで、あらゆる次元の生きとし生けるものすべてに宿り、その生命の源となるエネルギー、それが神です。ですから、勿論、人間にも神が宿っています。言い換えれば、人間は一人一人が神で、究極的にはひとつなのだということです。ですから、その人間同志が殺し合うなんて、神の摂理に背くことです。



おわりに

私は、宗教は信仰することではなく、知ることだと思います。宗教という言葉もあまりにも手垢がついてしまったので、その先入観をぬぐい去るのは大変なのですが、あの世が存在すること、人間の本質は肉体ではなく霊であることなどは、知識として知るべきことなのです。勿論、受け入れ態勢のできていない人に押しつけるつもりはありません。しかし、私はいつの日か、現在、宗教と言われていることなど誰でも当然の事実として知る日がくると思っています。今となっては地球が丸いことを誰も疑わないように。

最後に、私にあの世の存在を確信させた本を紹介しておきましょう。


『シルバー・バーチの霊訓(全十二巻)』

アン・ドゥーリー他編・近藤千雄訳 潮文社

第2次世界大戦前後にイギリスで定期的に開かれた交霊会(霊媒を通して霊と交信する会)に参加していたメンバーによって綴られたこの書は、三千年前に地上に肉体を持っていた、シルバー・バーチという霊との交信の様子を記録したものです。実はシルバー・バーチとは、あの世で霊媒の役目をしている霊の名で、実際に交信してきているのは直接地上とはやり取りができないほど高級な霊らしいのですが、その霊訓には圧倒的説得力とリアリティがあります。ここに、その一節をお借りして、締めくくりたいと思います。
「私の申し上げることがしっくりこないという方に押しつける気持ちは毛頭ありません。私は私の知り得たものを精いっぱい謙虚に、精いっぱい真摯に、精いっぱい敬虔な気持ちで披瀝するだけです。私の全知識、私が獲得した全叡智を、受け入れてくださる方の足もとに置いてさしあげるだけです。これは受け取れませんとおっしゃれば、それはその方の責任であって、私の責任ではありません」

一九九三年五月四日

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