りゅうじんの独断と偏見の人生哲学
(所有・お金編)

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お金のいらない国になったら 2012.4.19NEW

大切なのは心に天国を作ること2012.3.31NEW

お金社会のおかしな常識2011.5.20

お金のいらない国を想像できない人2011.3.4

今のお金のシステムは変えるべき2010.10.27

人は金儲けの競争をするために生まれてきたのではない2010.6.3

お金と物と資源2009.10.15

お金のいらない世界に至るまで2009.4.1

マルチ商法について2008.5.19

自給自足とお金のいらない国2008.5.12

「お金のいらない国」活動の目的2008.4.4

お金社会の三箇条2008.3.25

モノとお金の交換について2008.3.2

お金のいらない国の住人は2008.1.15

根本に立ち返れば2008.1.15

ギブアンドテイクの限界2005.8.13

人の痛いのは3年でも我慢できる?2005.4.6

経済社会の矛盾点2004.12.20

仕事と手段2004.7.16

「お金のいらない国」の歌によせて(6)2004.4.13

「お金のいらない国」の歌によせて(5)2004.4.12

「お金のいらない国」の歌によせて(4)2004.4.10

「お金のいらない国」の歌によせて(3)2004.4.8

「お金のいらない国」の歌によせて(2)2004.4.7

「お金のいらない国」の歌によせて(1)2004.4.7

「お金のいらない国」の歌2004.3.21

お金の問題点2004.2.3

お金のいらない国の価値判断2004.1.7

所有とは2002.7.30

金の使い方2001.12.15

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お金のいらない国になったら

「お金のいらない国になったら、全部タダなんだよな」
「そうだよ。お金がないからタダって言うのもおかしいけどな」
「そしたら俺は、デパート行って、何でも片っ端からもらってきちゃうな」
「そうしたけりゃすれば」
「え?おまえはそうしないの?」
「必要な時にはいつでももらえるんだから、自分のうちに置いとくことはないだろ」
「そっか。家が狭くなるしな」

「じゃあ、スーパーでいっぱい食い物とかもらってくるな」
「食いたきゃもらってくりゃあいいけど、そんなに食えるのか?」
「冷蔵庫に入れとくよ」
「冷蔵庫が窮屈になるじゃないか。食いもんは古くなるし」
「そっか。食いたい時にもらってきた方がいいか」

「お金のいらない国ってのは自分のものはないのか?」
「所有っていう概念はないからな」
「なんかちょっと心配なんだけどな」
「あはは。自分のものがないと考えてもいいが、全部自分のものだと考えてもいいんだ」
「そっか。いつでももらってこられるんだからな」
「そうさ。デパートにあるものもスーパーにあるものも、全部自分のものだ」

「全部自分のものだと思ったら大事にするな」
「そうだろ。なるべく無駄にしないように、大切に使うと思うよ」
「デパートやスーパーに限らず、全部だよな」
「ああ、全部だよ。地球の資源も、自然も全部だ」
「みんなが地球全部を自分のものだと思って大事にするんだな」
「それがお金のいらない国さ」

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大切なのは心に天国を作ること

お金のいらない国は、実現できないから考えても無駄だ。そう思われる方も結構いらっしゃると思います。確かに実現までには行程を含めてかなりの道のりが必要でしょうし、実現は難しいかもしれません。

しかし、だからと言って、お金のいらない国を想像することは意味のないことなのでしょうか。想像しなければ、たとえ少ない可能性でも生まれることはありません。そして私は、極論すれば、想像できれば実現する必要はないと思っています。

私が一番大切だと思っているのは、自分の心の中にお金のいらない国を作ること。あるいは、理想社会、天国を作ること。お金も存在せず、戦争もなく、すべての人や生物が、幸せを感じながら暮らしている世界を自分の心の中に創造することです。

そういう世界が自分の心にできてしまえば、現実の社会の価値観に振り回されることもなく、実際の暮らしがどうであろうと、達観して生きられるようになると思います。

心に天国ができてしまえば、後はどういう行動を起こそうと自由です。農業を始めようと、エコビレッジを作ろうと、あるいはこの経済社会に身をおいたまま生きようと、大した問題ではないと思っています。

そして、もし多くの人が心に天国を持つようになったら、この社会は自然に変わって行くでしょう。気がついたら理想的な社会になっていた。お金のいらない国の実現は、そういう形が一番望ましいと思うし、それ以外に道はないかもしれません。

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お金社会のおかしな常識

お金の存在するこの社会では、仕事を頼んだ人が仕事をしてくれた人にお金を払い、仕事をした人が、お金を払ってくれた人に対して「ありがとう」と言うのが普通です。

お店に食べに行っても、料理を作って出してくれた人にお金を払うと、お店の人がこちらにお礼を言ってくれます。本来は食べた人が食べさせてくれた人にお礼を言った方がいいと思うのですが、お金を払うという行為によってその立場が逆転するようです。

お金の社会では、お金をもらうために仕事をするから、お金を払う人の方が偉くなってしまう。「お客様は神様です」が間違っているとは言いませんが、お金の存在しない社会なら、仕事を頼んだ人の方が仕事をした人より上であるという意識は起きないでしょう。

仕事は頼む方もする方もいなければ成立しないわけで、やってくれてありがとう、やらせてくれてありがとうというように、本来は、双方が同じように感謝の気持ちを表すべきでしょう。

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お金のいらない国を想像できない人

この経済社会では、お金のいらない国などあり得ない、ふざけた話だと思われる方も多いようです。確かにすぐに実現するのは難しいでしょうし、荒唐無稽と言われればその通りかもしれません。

お金のいらない国を否定する人には大きく分けて、二つのパターンがあるようです。
A.人間にはお金が必要だ。お金のいらない国は理想ではない。
B.お金のいらない国は理想かもしれないが、無理だから考えても無駄だ。

Aの人は、現在の社会がベスト、あるいはベストではなくてもお金の社会以外はあり得ないと考えているのでしょうから、お金のいらない国を想像していただくことは難しいでしょう。でも、Bの人は、少なくとも現在よりお金のいらない国の方がいいかもしれないとは思えるわけですから、想像だけでもしていただけたらと思います。

お金のいらない国に限ったことではないですが、想像力の乏しい人の思考パターンは図の青い矢印のようになっている気がします。この社会をベースに考えることしかできず、この世的なことを心配し過ぎて、いろいろ考えてもみな現実の壁に跳ね返されてしまう。私は、赤い矢印のように現実の壁を突き破れる力こそが想像力だと思います。

少なくとも思考の上では現実の壁を越えなければ、想像は生まれないし、想像なくして創造は生まれません。すべての発明、新しい理論は想像から生まれているのです。

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今のお金のシステムは変えるべき

お金の存在する社会で、貧富の差のない、みんなが幸せになれるであろう社会を目指すなら、現在のお金のシステムは変える必要があるでしょう。

自然界に劣化しないものはありません。どんなものでも時間が経てば腐ったり、傷んだり、古くなって使えなくなったりします。しかし、現在のお金は価値が下がることはありません。物価が上がれば相対的にはお金の価値は下がりますが、例えば一万円札の価値は何年たっても一万円のままです。これは当たり前のようですが、実は大変不自然なことなのです。

お金、そしてそのシステムは、人間が考えだしたものです。自然の摂理に逆らって、人間が、価値が減らないという性質を持たせたお金は、これも自然界にはあり得ない、無限に貯められるという特徴を持ちました。そして、銀行ができたとき、預ければ利息がつく、借りれば利息を払うという仕組みができました。

価値が減らずに、銀行に預けておけば利息がつくのでは、お金持ちは何もしなくてもどんどんお金が増えることになります。お金は増えるところがあれば必ず減るところができますから、誰かが金持ちになればどこかに貧しい人が生まれます。そして、一度お金が入り込んだ社会は、そのお金の奪い合いから逃れることはできなくなります。

このお金の仕組みは人の間に貧富の差をつけ、先進国と途上国の間でも長年にわたって不公平な取引が為された結果、現在のような国レベルの極端な貧富の差と、致命的な環境破壊を起こすに至りました。

この問題をシステム上で解決するなら、まず、お金の性質を、時間が経てば価値が減るように変える必要があるでしょう。例えば一万円札は、一年後には9500円の価値に下がるようにするのです。時間が経つとどんどん価値が下がるのであれば、人々は急いでお金を使うようになり、お金が循環すれば経済は活性化するでしょう。これは実際にあった話で、昔、オーストリアのある街で、そういったお金が地域通貨の形で発行され、大成功を収めました。しかし、間もなく中央銀行から禁止されてしまったそうです(注)。

また、銀行に預けたお金の利息はマイナスにすればいいかもしれません。お金をたくさん持っている人からは時間の経過とともに少しずついただき、借りている人の返済額は徐々に減って行けば、貧富の差は縮まるのではないでしょうか。

現在から見ると冗談のような話ですが、お金の存在する社会で貧富の差をなくし、すべての人の幸せを目指すなら、このような仕組みの検討と実現に真面目に取り組む必要があるでしょう。

(注)参考文献
「日本人が知らない恐るべき真実」 安部芳裕著 晋遊舎

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人は金儲けの競争をするために生まれてきたのではない

この社会ではお金のために働かざるを得ない。経済社会で生きていくにはある程度の収入は得なければならないから、それは仕方のないことだ。しかし、働くことの目的がお金だと思ってしまうと、人は大きな間違いを犯す。

自分の生活のため、家族のため、会社の発展のため。人は懸命に働く。勤勉に働くことはいけないことではないだろう。しかし、際限のない金儲けや、事業拡大が目的になると、地球、人類は破滅に向かう。

仕事というのはある意味怖い。お金の社会では、仕事となると、善し悪しの判断以前に、依頼主、あるいは会社の都合が優先される。命令されれば、悪いこと、あるいは危険と知りながらやらざるを得ないこともある。また、良かれと思ってやっていることがとんでもない結果を招くこともある。

自分一人くらい、自分の会社くらいたくさん儲けてもいいだろう。好きなだけ資源を使っても何とかなるだろうと人は考える。しかし、皆がそのようにやってきた結果が今の危機的な地球環境であり、極端な貧富の差のついた社会だ。

自分だけ、自分の会社だけという近視眼的な視野、判断が、地球に、人類の未来に致命傷を負わせてしまった。金を儲けて、より豊かな暮らしがしたい、他社に勝ちたいという意識がエスカレートし、環境破壊を止めることができなくなってしまった。

人類の文明を永続させたいと思うなら、本来、資源は量的にも時間的にも再生可能な範囲でしか使ってはならないのだ。今こそすべての人間が、地球規模、宇宙規模でものを考え、行動していかなければならない。自分の会社や国の経済的発展など考えている場合ではないのだ。このままいけば、近い将来、文明の崩壊はおろか、全生物の死滅も免れないかもしれない。

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お金と物と資源

お金をたくさん印刷して、すべての人に分配すれば皆が豊かになるでしょうか。

お金は物の代用品であり、物と交換しなければ意味はありません。仮に、たくさんの物を持つことを豊かだとするならば、まず、物を作る必要があります。

物を作るには資源が必要です。資源には限りがあり、再生可能な時間や量をオーバーして使えば、どんどんなくなっていきます。お金をいくら印刷したところで、資源が増えるわけではありません。

現在の社会に至るまで人間たちは、どんどん資源を物に変え、消費し、あるいはゴミとして捨ててきました。図は、資源が物となり、消失していくイメージを表したものです。

本来、資源は無駄にせず、再生可能な範囲で使っていかなければならないものです。お金があっても豊かにはならないのに、お金儲けのために資源を使い尽くしてきた人間社会のやってきたことは、本末転倒もはなはだしいといったところですね。

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お金のいらない世界に至るまで

お金のいらない世界に至るまでのプロセスを考えてみました。

1.お金とは何かを考える人が増える。
お金は、人間が考え出した道具であり、空気や水のように、本来、人が生きるのに必要なものではない。また、仕事はお金のためにするのではなく、現在の金融システムでお金を貯める競争をしていれば、貧富の差がつくことに気づく。

2.お金の存在しない世界のイメージをふくらます。
お金の存在しない世界では、人々はどういう価値観で、どのような暮らしをしているか、誰もが幸せに生きられる社会のあり方を考える。

3.お金の使い方が変わり、流れがよくなる。
お金は必要以上に貯めず、稼いだお金は誰のために、どのように使うかを考え、それを皆が実践する。

4.世界中の貧富の差、環境破壊がなくなる。
世界中から、飢餓貧困が消える。過度な贅沢や、無駄な労働、自然破壊がなくなる。

5.お金はあってもなくてもよくなる。
お金は単なる交換の道具、物の代用品として流通する。

6.お金がなくなる。
交換をやめることにより、お金の存在が不要となる。

私は、お金のいらない世界を実現させるためには、5の段階が特に重要と考えています。この段階では金融システムの変革も起きるでしょう。放っておいても利息がつくような、金持ちにだけ有利な、不自然なしくみがなくなるわけです。5の段階が十分に成熟してからならお金の存在しない社会への移行は無理なくできるでしょう。

そして、6の段階では交換という発想がなくなり、すべてが与えるだけになります。そしてついに「お金のいらない国」が実現します。

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マルチ商法について

マルチ商法といいますと、さまざまなイメージを持たれると思いますが、連鎖販売取引と呼ばれる商法の一種で、法律で禁止されているいわゆる「ねずみ講」とは違います。

ただ、マルチ商法はひとつ間違うとねずみ講のような問題を発生させる危険性もあると思いますから、一概にいいとか悪いとかを決めず、その都度、自分なりの分析と判断をする必要があるかと思います。

先日、私は知人に紹介され、マルチ商法を行っているある会社の説明会に行きました。製品に関しては自然破壊を起こさないという話で、よさそうなものだったし、購入するには会員になる必要があるということなので、とりあえず会員になりました。

その後、知人から説明を受けたのですが、商品の価格については、簡単に言いますと約半分が原価、研究開発費、会社の運営費、残りの半分はピラミッド状に連なる紹介者の紹介料とのことでした。

マルチ商法を行わない一般的な会社の製品の場合は、約半分(注)が紹介料の代わりに広告費に使われるので、商品の価格自体は大差ありません。要するに価格の半分を広告費に回すか、紹介者の取り分に回すかという販売方法の違いです。

私は広告代理店に勤めておりますので、広告をしてもらわないと商売にならないわけですが、販売方法はもちろんいろいろあっていいと思います。

マルチ商法の場合、ピラミッド状に紹介者のランクがあり、トップの方にはかなりの収入を得ている人がいるようです。そこで私が感じたのは、そのランクアップ、収入目的に会員を増やそうとしはじめると問題が起きやすくなるだろうということです。

世の常として、一部の人が多額の収入を得るにはたくさんの購買者が必要です。マルチ商法の場合は会員が知り合いに紹介して会員を増やし、商品を買ってもらうことによって、上に行けば行くほど取り分が増えていくという図式です。そういう意味では、単なる購買者を増やそうとしているだけではないのですが、会員が増えれば増えるほど末端も限りなく増えていくということです。

ですから、そのシステムを理解した上で参加する人ばかりならいいのですが、何もしなくても儲かりそうだというような誤解の元に会員になるような人がいる、あるいは勧誘時の説明に偽りや誤解を招くようなことがあると、トラブルは起きると思います。

また、個人的には、このようなシステムで極端に儲かる人が出るというのはいかがなものかとは思います。よい製品をたくさんの人に広めたいという発想はいいと思いますが、やはりあまりにもお金儲けが主目的になってしまうと、本末転倒になる気がするのです。

私の場合はその後、そこで数点の商品を購入しましたが、それ以上は今のところ何か買おうと思ってはいませんし、誰かに紹介するつもりもありません。製品が気に入らないというわけではなく、あまり私が必要とするものがないし、他メーカーの気に入っているものがあるからです。

私には気に入ったシャンプーがあり、ここ数年それを使っています。アミノ酸が非常に多く、ほんの少量でとてもよく泡立ち、私などはそれだけで全身を洗ってしまいます。

その販売方法は通信販売のみ。広告費は一切使わず、マルチ商法でもありません。本当の口コミだけなのですが、一度使った人は90%以上がリピーターになるそうで、売り上げは伸びているようです。私もこの製品は、よく人に薦めるし、身内にはプレゼントしたりしています。

お金のいる国ではお金儲けのために知恵を絞る必要もあると思いますが、お金はそこそこに儲かればいいと思えれば、そもそもそんなにたくさんの人に知らせたり、買ってもらったりする必要もないし、口コミで済むくらいが理想的かもしれませんね。

(注)価格に広告費が占める割合はさまざまです。

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自給自足とお金のいらない国

お金のいらない国になったら、人間は自然の中で自給自足することになるんでしょうか。文明を手放し、原始生活に戻らなければならないのでしょうか。そういった質問をたまに受けます。その結論を出す前に、今までの人類の歴史を参考に、自給自足について考えてみましょう。

この地球上には動植物が生きていける環境、条件がそろっている。ここに生まれた動物の一種である人間は、まず、近くにある木の実を採ったり、魚や小動物を捕らえて食べるだろう。自分で自分の食べるものをとるのが仕事の原点である。同時に、飲食や狩りなどに必要な道具を考え出すだろう。

次に、農業を覚えた人間は、自分で農作物を育て、それを食べるようになるだろう。既に共同生活の場としての社会が形成されているかもしれない。この頃の人間は、生活に必要な道具をいろいろと作っているだろう。すべての大人は農業をしたり、道具を作ったりしているのではないか。

この段階は最も基本的な自給自足といえる。自給自足とは、主に自分に必要な食べ物を自分でとったり、作ったりして生きることをいう。あるいは生活に必要な衣服、住居、道具なども自分で作ることを含む。

それから役割分担がはじまるだろう。それぞれ自分の得意なことを専門にするようになる。役割分担をする上では交換、または与え合いが必要になる。道具づくりの得意な人が何か作っても、食べ物と交換、あるいはくれる人がいなければ困るからである。専門職に従事できる社会は、人間同士の信頼関係が必要になる。

役割分担ができる社会においては、自分だけの自給自足ではなく、小グループの人間や、村という単位での自給自足になる。その範囲が大きくなれば、どんどん大きな社会へと広がっていく。

お金のいらない国では全世界、全人類が役割分担をして、ある意味自給自足をしていると私は考えている。農業に従事している人も多いとは思うが、決して原始生活をしているわけではなく、文明を手放しているわけでもない。

さて、人間の作るすべてのものの原料はこの地球の資源である。自分と他人を分けて考えなければ、どんな場合でも人間という種族が自給自足をしていると考えることもできる。そういう意味では、現在も世界全体で自給自足をしていると言えないこともない。長距離の輸送など、あまりにも無駄が多く、公平さを欠いているが。

現在の社会ができるまでには、お金の存在が、役割分担の細分化をしやすくし、文明を急速に発展させていったと思う。また、人間たちの、お金をたくさんほしいと思う欲がそれに拍車をかけた。

役割分担は効率がよく、決して悪いことではないと思うが、現在のようなお金ありきで成り立っている社会はその発展のスピードが速過ぎ、自然環境や人間の体力がついていかない。また、人間関係は信頼が薄く、常に不安定で危険をはらんでいると思う。

日本の食料自給率は先進国の中では断トツに低い。いくら役割分担といっても、日本は、生きるのに最も大事な、食料を作るという仕事を他国に任せ、食べられないものばかり作って、必ず交換してくれると信じきっている不思議な国である。お金は、経済が破綻すればただの紙切れである。日本が他国からそれを越えた信頼を得ているとはとても思えない。

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「お金のいらない国」活動の目的

私はここ数年、「お金のいらない国」の講演をさせてもらったり、インターネットなどを通じていろいろな方と意見交換させていただいていますが、その反応はさまざまです。

講演会などですと、集まっていただいた方にもよりますが、10人いるとすれば
1〜2人……絶賛。できると思う。早く実現させたい。
4〜5人……おもしろい。そうなったらいいな。
2〜3人……理想かもしれないけど、たぶん無理だと思う。
1〜2人……ありえない。お金がない社会が成り立つはずはない。
といったところでしょうか。

もちろん、いろいろな方がいらっしゃっていいわけで、それがこの社会だと思います。私自身、「お金のいらない国」がそう簡単に実現するとは思っていませんし、この社会では実際無理なことなのかもしれません。

ただ、その私がなぜこんな活動をしているかと言えば、この経済を中心とした社会が、本来あるべき人間社会の姿だとは思わないし、理想的な社会はどんなものかをイメージしていただきたいからです。

現在の社会で大満足、これ以上は無いと思われている方には大きなお世話でしょう。しかし、「お金のいらない国」など無理だと言われる方ほど、実は現在の社会に問題を感じておられ、しかしどうしようもないのだと思われている気がしてならないのです。

悪いことを考える奴がいるから無理だ。欲の深い奴がいるから無理だ。支配したがる奴がいるから無理だ。奪い合う奴がいるから無理だ。たしかにそういう人は無くならないかもしませんし、私自身もそういう人間かもしれません。

しかし、まず自分がそういう人にならないようにすればよいのではないでしょうか。自分が「お金のいらない国」に住めるだけの人間になること。それがこの世での修行なのかもしれません。そして、そうなれた人は、あの世では「お金のいらない国」のような世界に行けるのではないでしょうか。

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お金社会の三箇条

お金の存在する社会を健全に運営していこうとするなら、こんな三箇条をみんなが意識、実践する必要があるのではないでしょうか。
●余分に儲けない
●余分なものは買わない
●余分なお金は、足りない人にあげる

1.余分に儲けない
全体で見ればゼロサム(プラスマイナスゼロ)であるお金は、貯めることによって滞り、貧富の差が生まれます。余分に儲けるつもりがなければ、モノは余分には作らないし、売らないので、余分なお金は貯まりません。値段もモノの価値に見合ったものにし、余分な利益は生まないようにするわけです。

2.余分なものは買わない
お金があるからといって、必要以上のものや贅沢品を買うことは、それを作るため、売るための余分な資源、労働力、エネルギーを必要とします。余分なものを買おうとしなければ、余分なお金を儲ける必要はありませんし、余分なものは、買う人がいなければ作られなくなります。

3.余分なお金は、足りない人にあげる
必要以上にお金が儲かってしまったら、自分のために必要ないものを買うのではなく、足りない人にあげればいいのです。お金はあるところからないところに流せば、貧富の差は縮まります。誰にどのようにあげるかは考える必要がありますが、自分が儲けたお金だからといって、自分が使う必要はないのです。

現在の経済社会を考えると、正反対かもしれませんね。どこまでが必要で、どこまでが余分と考えるかも人それぞれでしょうが、餓死者が出ているような国がある世の中で、贅沢をしている余裕はないと思います。極端な貧富の差がつき、資源が失われ、環境問題が起きているこの社会を何とかしたいと思うのなら、国をあげてこういう意識を持つことが必要なのではないでしょうか。

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モノとお金の交換について

モノとお金の交換について考えてみました。本来は交換はせず、モノを与えるだけならお金も必要ないし、それで問題はないはずなのですが、この経済社会では、モノとお金の交換が基本になっているので、そのあたりを整理してみます。

(A)、(B)、(C)はそれぞれ、売り手と買い手がモノ(あるいは労力)とお金を交換(取引)する様子を表しています。
(A)は、モノに、その価値に見合った値段をつけて、お金と交換した場合。いわゆる等価交換です。
(B)は、モノに、その価値以上の値段をつけて交換した場合。この場合、売り手は利益を得ます。
(C)は、モノの価値より低い値段をつけて交換した場合。この場合、売り手は損をします。

本来、交換というのは等価でなければおかしいでしょう。そういう意味では(A)が正しいはずです。しかし、利益を生もうとするこの経済社会においては、(A)では商売にならず、(B)が一般的な取り引きになります。また、(C)のように売り手が儲からない取り引きを続ければ、売り手はやっていけなくなってしまいます。

売り手はお金を得ると、今度はそのお金を使う買い手となります。経済社会は、誰もが何らかの形で、売り手になったり、買い手になったりしながら回っているわけです。

誰もが、得たお金をすべて使えばお金は回っていくでしょうが、お金は腐らないし、たくさんあった方が安心なので、貯めようとする動きが出てきます。そして多くの人は、いかに効率よくたくさんの利益を生む取り引きをするかに知恵を絞ります。現在の経済社会はある意味、お金を貯める競争であり、多くの人や企業が金持ちになろうと努力しています。

経済はゼロサム(プラスマイナスゼロ)ですから、金持ちが生まれれば貧困が生まれます。世界的に見れば一部の先進国が、発展途上国と(C)のような取り引きを繰り返した結果、極端な貧富の差が生まれました。そして、森林などの貴重な資源が大量に失われました。

経済社会を健全に運営するには、(A)のようにモノには適正な値段をつけ、誰も、得も損もしないようにすればいいと思うのですが、そもそもモノや労力に値段をつけること自体に無理があるのかもしれないし、あらゆることを考え合わせて適正な値段をつけるというのは不可能に近いことかもしれません。

それはさておき、少なくとも、人々がお金を貯めたいと思い、(B)のような交換を当然と思って続けている限り、経済社会はいずれ限界が来ると思います。

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お金のいらない国の住人は

お金のいらない国の住人は

● 交換しない。与えるだけ。もらうだけ。
● 争わない。皆が必要とするものは分けるだけ。
● 競わない。競うのは遊びだけ。
● 比較しない。それぞれの特徴を認めるだけ。
● 余分なものは持たない。身近に置くのは今必要なものだけ。
● 怒らない。哀れむだけ。事実は認めるだけ。
● 食べ過ぎない。食べるのは必要な分だけ。
● 支配しない。助け合って生きるだけ。
● 無理しない。自分のできることをするだけ。
● 期待しない。なるがままに生きるだけ。

所有という概念はなく、一切の決めごとは作りません。これらの項目も決めごとと考えず、自然に実行でき、ストレスも感じない人ばかりでないと、お金のいらない国は持続しないでしょう。そういう意味ではこの世での実現は不可能かもしれません。しかし、本当にお金のいらない国になり、価値観がガラッとひっくり返れば、これが当たり前と思える人も増えるのではないでしょうか。

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根本に立ち返れば

お金なんてはじめはなかった。なんの決まりもはじめはなかった。はじめはなかったものがなければ生きていけないと思われている社会はおかしい。

動物である人間は、空気と水と少しの食料があれば生きていけるはず。それ以外のものは人間にとって一番大切なものではない。

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ギブアンドテイクの限界

人類の経済の歴史は、物々交換から始まったとされています。初めは、食料や道具などを直接交換していたのでしょう。ただ、日持ちがしなかったり、お互いが必要とするとは限らない現物の交換では不便なので、代用品として貝殻や石、布などが使われるようになりました。その後、持ち運びに便利な金属が登場。これが貨幣の始まりです。

貨幣制度は、その後、ずっと採用され続けてきました。貨幣は、物の売買に使われたり、労働の報酬として支払われました。そのやり取りの結果、ある者はたくさん貨幣を集めて豊かになり、ある者は貧しくなりました。そして、気がつくと人間社会は、お金を貯める競争になっていました。

人類は文明の進歩とともに、地球全体の地理を把握し、船や飛行機などの交通機関を発達させ、世界中の国同士が取り引きするようになりました。さまざまな資源や農産物が大量に輸出入されました。と同時に、森林破壊、二酸化炭素の増加による地球温暖化などの深刻な環境問題が生まれました。

ある時、世界を見渡してみると、お金や物があり余っている国と、食べる物もない国ができてしまっていました。それでも人類は、一度始めてしまったお金を貯める競争をやめるわけにはいかず、貧富の差は開く一方。とうとう、貧困の国では毎日何万人もの餓死者が出るまでになってしまいました。

いくらなんでもここまで極端な差をつけることを人類皆が望んだとは思えません。こうなってしまったのは、経済システムの作り方がいけなかったのか、人間の欲が原因か。しかし、いずれにしろ貨幣制度はどこかに根本的な誤りがありそうです。

私は、これはそもそもの交換という発想、ギブアンドテイクに問題があるのではないかと思います。少なくとも、テイク(得ること)が、ギブ(与えること)を上回ってはいけない。現在の経済活動は、いかにその差を生んで利ざやを稼ぐかという競争をしているわけですから、貧富の差がつくのは当然です。

そして、物々交換時代からの原則である、与えた相手自身から受け取ろうとすることが大きな間違いだと思います。本当は、必要としている人には与えるのみ。自分が何かほしい場合は、誰かから必要最小限をいただく。1対1ではなく、地球上全ての人を対象と考えなければいけないのではないでしょうか。

与える相手といただく相手は、本来、違って当然なのです。そこにお金という代用品を作って、一見平等なやり取りをはじめたことがそもそもの失敗でした。蓄えることのできる、便利であったはずのお金は、計り知れない苦しみ、悲劇を生んでしまいました。

物々交換、1対1のギブアンドテイクは、人類の成長過程には必要だったのかもしれません。しかし、私は、今こそその限界に全ての人が気づき、交換という発想をやめ、最終的にはお金の存在しない社会を作ることが、人類の救済、および環境問題を解決できる唯一の方法ではないかと思います。

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人の痛いのは3年でも我慢できる?

人の痛いのは3年でも我慢できる。こんな言葉聞いたことありませんか。なかなかユニークながら考えさせられる言葉です。

最愛の肉親などが苦しんでいれば、代わってあげたいと思う気持ちも起きるかもしれませんが、本来、痛みとは本人のものですから、他人が代わることはできないし、たいていの人は、できれば痛い思いはしたくないでしょう。肉体的、精神的にかかわらず、何らかの原因によって起きた痛みは、本人の試練であるとも考えられます。

しかし、周りの人は、その苦しみを理解しようと努め、痛みを軽減すべく手助けをすることはできます。そこでの手段が安易だったり、思慮不足だったりすると、より本人を傷つけることにもなりかねませんが、できるだけその人の身になって考える努力は必要と思います。

経済的な問題で苦しんでいる人もたくさんいます。経済大国においての苦しみもあれば、食べるものもないという貧困の中であえぐ人もいます。現在の経済システムは、貧富の差を拡大するようにつくられています。これは国と国の差もつければ、人と人の差もつけてしまいます。

生まれた時からお金というものが存在し、当然のように金儲けの競争をさせられ、うまくいって大金持ちになっても、気づいたら貧乏な人を大勢作ってしまったというのが、現在の経済社会です。世界レベルで見れば、経済大国が成長したせいで、貧しい国が犠牲になったと考えられます。後先をよく考えもせず、国も会社も個人もひたすら経済的成長を旨とし、金を儲けた奴が勝ちといった風潮がこのような世界を生み出したのです。

自分たちはそれだけの努力をしたのだから報われて当然だという考え方もあるでしょう。しかし、自分たちさえよければ、苦しむ人たちを見捨てられるのでしょうか。食べ物があふれ、太ることを気にしながらたくさんの物を捨てている私たちの陰で、飢餓で死んで行くたくさんの子供たちがいます。経済社会の矛盾に気づき、世界を変えて行かないと、この悲劇はどんどん拡大するばかりです。

私は、人間は本来、人の痛いのは我慢できないのではないかと思います。経済社会のシステムはすぐには変えられないとしても、経済的な痛みは、軽減する方法はあるはずです。経済大国は、金集めはゲームであったことに気づき、世界中の人々、地球全体を救う方法を考えることが急務なのではないでしょうか。

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経済社会の矛盾点

お金を持っていないと生活できない経済社会では、仕事はお金を得るためにするのだという概念が生まれます。仕事が無いということは、イコールお金が無くなるということだから困る。多くの場合、仕事とお金は切り離せないものとして認識されています。

本来は、仕事が無いなら休めばいいわけで、ずっと無ければ退屈だとしても、仕事をしなくて済むのは決して困るようなことではないと思うのですが、今の世では仕事が無いということは死活問題になってしまいます。そして、お金を得るために、無理にでも仕事を作らなければならないという発想のもとではさまざまな矛盾が生まれてきます。

例えば、何か製品を作るにしても、それが社会にとって必要かどうか以前に、売り上げを伸ばすことが第一目的になっている場合も多いようです。必要ないものを作れば、資源の無駄遣いになり、余計な労働力を必要とします。本当に必要なものを必要なだけ作っていれば、資源も節約でき、労働力も抑えられ、人々は肉体的にも精神的にも余裕ができて、いいことずくめだと思うのですが、経済社会は、いらない物を作って、無駄な仕事を増やさなければ成り立たないという矛盾を抱えているわけです。

農業にしても、農作物があまり豊作だと価格が下がって効率が悪いので捨てることになったり、予想外の気候の変化や天災が起きて収穫が減ると、農家がやっていけなくなってしまいます。お金の存在しない社会なら、豊作だったらたくさん分配すればいいし、収穫の無い時でも、農家が生活に困ることはありません。

現在、金銭収入にならず、ボランティアに支えられているような仕事は、本来もっと多くの人が関わるべき、大事な仕事が多いと思います。お金を得るためでなく、誰もが、本当に必要な仕事を、それを必要とする人のために純粋に行える社会は作れないものでしょうか。考えてみれば当たり前のことができないために、人間はたくさんの苦しみを生み出しているのです。

今の日本では、働くことは美徳とされているようですが、お金が絡む限り、その意味は表面的にしか理解されない気がします。お金の存在しない社会を想像すると、働くことの本質が見えてくるようです。

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仕事と手段

お金の存在する社会では、多くの場合、仕事として行われる行為にはお金が絡んできます。お金を稼ぐために仕事をするのだと思っている人も多いことでしょう。しかし、そう考えた場合、その行為は「仕事」と言うよりは、お金を手に入れるための単なる「手段」であると言った方が当たっている気がします。

仕事を手段と考えてしまうと、どんな仕事がしたいかより、なるべく効率よくお金の儲かる職業に就きたいと思うのも仕方のないことです。仕事を選ぶ上で最も重要なのは、いくら収入を得られるかであると考えれば、極端な話が、詐欺や泥棒を働こうという発想になるのも納得できないことではありません。

仕事とは本来、誰かのためになる、社会の役に立つ、自分の才能を生かせる行為で、それによって喜ぶ人がいてはじめてやりがいを感じられるものだと思うのですが、お金儲けを中心に考えますと、動機が不純になり、本来の大事な目的が見えなくなってしまうようです。お金を稼ぐために自分の望まない仕事をせざるを得ないというような悲劇も、お金の存在する社会ならではのものです。

人間が便利に暮らすために考え出したはずのお金、この道具によって人間は、多くの苦しみを作り出しました。本来の仕事の意味までもわからなくしてしまったお金。私たちは、この人類全体を蝕んでいる麻薬を、そろそろ手放さなければいけない時期に来ているのではないでしょうか。

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「お金のいらない国」の歌によせて(6)

♪お金のいらない 国になったら
 無駄なやりとり しなくていいよ
 お金で気持ちを あらわせないから
 ほんとの心が 見えてくる

現在の世の中では、お金をやりとりして気持ちを表すということがよく行われます。冠婚葬祭をはじめ、出産、入学、就職などのお祝い、入院でもすればお見舞い。その他、ちょっとした心遣いでお金を包むということもよくあります。

会社などでは、よい成績を収めた者への褒賞金やら、景気のいい時は予算達成の金一封。誰かが転勤か退職をすれば餞別。とりあえずお金はもらって嫌な気はしないし、気持ちや評価を表すにはわかりやすく、手っ取り早いものだとは思います。しかし、これはお金の存在する世界ならではのこと。お金のいらない国ではあり得ない手段です。

習慣に馴らされていると、お金が無くなったら気持ちの表しようがないと思われるかもしれませんが、そうなると、何か別の方法を考えるでしょうし、より気持ちが伝わるようになる気がします。また、現在、お金のやりとりは便利な以上に、かなりの面倒と、無駄を生んでいると思います。

個人の場合は、長い目で見ると、出る金額と入る金額は似たようなものかもしれません。冠婚葬祭などでいただいた物にはそれなりのお返しをしますし、もらいっぱなしというのも気が引けるでしょう。だったら初めからお互いにやりとりしなければいいと思うのですが、なかなかそうもいかないのがこの世のようです。

お金は罰金など、謝罪にも使われます。とりあえず罰金で被害者は納得させられるということもあるようです。しかし、お金を払っても罪が消えるわけではなく、それもこの世ならではのおかしな手段だと思います。本来は原因究明と、加害者の心からの反省以外に解決方法はないでしょう。

この世ではお金以外に、物のやりとりも頻繁に行われます。誕生日や記念日の贈り物、お祝い、中元、歳暮。お金ではちょっとそぐわないと思われる場合、或いは贈る物に何らかの意味を持たせたい場合にはさまざまな物がやりとりされます。

物はお金と違って、例えば相手が手に入れにくい物などを贈るような場合は、意味があるでしょう。お金のいらない国でもそういう目的での物のやりとりはあると思います。しかし、お金のいらない国では、その価値を金額に換算することはできません。

お金の存在しない国では、お金がかかっているからその贈り物に価値があるとは考えられないので、例えばこの世のように、高価なプレゼントに心を動かされるようなことはないわけです。あくまでも贈った人が、自分にその物を与えた意味が問われます。

お金のいらない国では、やりとり自体に意味はないので、形式的な物のやりとりはされません。誰でも簡単に手に入るもの、いらないものを与え合う必要はなく、くれないからといって気を悪くしたり、気まずくなったりすることもないわけです。

お金のいらない国、こういうシンプルな社会が私の理想です。

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「お金のいらない国」の歌によせて(5)

♪お金のいらない 国になったら
 無意味な競争 しなくていいよ
 誰かと何かを 取り合わなくても
 必要なものは 分ければいい

今の世の中は、常に他人と競いながら生きていかなければならないシステムになっています。学校に入れば、勉強や運動や技術を友だちと競わされます。学校教育の目的自体が、優劣、順位を付けるという要素が大きく、そのために特に高等科に進むに従い、必要ないような知識まで詰め込まざるを得なくなっているようです。

本来、学問とはもっと自由で、各自が自分が求める知識を得るためにするものであると思います。ある程度の義務教育は必要でしょうが、望まない人に押しつける必要はないし、皆に画一的な教育を施そうと思うところに無理が出、校内暴力なども起きるのではないかと思います。

また、現在多くの人が、よりレベルの高い学校に行きたいと考えるのは、学校を出た後、給料のいい会社に勤めたい、より高額な収入の望める職業に就きたいという理由が一番なのではないでしょうか。金銭目当ての学問というのも、不純だと思います。

会社に入っても、売り上げを上げることで同僚と競争し、よい成績を出せた者は出世して地位と、多くの場合はより多くの金銭的収入を得ます。本人の意識、やり方にもよりますが、そのまま会社にいれば、入社してから何十年かは、ずっと競争し続けになるわけです。

人と競争することで、プラスになることもあるでしょう。いいライバル関係でお互いが向上していけるようなら競うのもいいでしょう。しかし、競争は基本的には勝ち負けを決めるためのものですから、さまざまな苦痛も生み出します。この世では、競争に疲れ、肉体や精神を壊してしまう場合も多いようです。

お金が存在しなくなったら、どう変わるでしょう。将来の収入を目的とした勉強はしなくてよくなります。無理にレベルの高い学校に入ることや、余計な知識を得ることに必死になるより、学生たちは、早いうちから、自分の能力、個性を生かせることを発見しようとするかもしれません。

また、学問を追究したい人には門戸が開かれます。入学試験はあるかもしれませんが、入学希望者の多い学校は、人数を増やせばいいので、その学校に見合った能力を持つ学生が運悪く入試で落とされることはないでしょう。

会社も、人の蹴落とし合い、他社との足の引っ張り合いはしなくてよくなります。全ての人が、純粋に誰かの、何かの役に立つために仕事を進めていこうと考えます。地位は収入に関係ないので、あくまでも資質による役割分担という認識になります。

地球上にお金が存在しなくなったら、戦争も無くなるでしょう。戦争は所有欲や物欲が原因であると私は考えます。資源は全ての人間の共通の財産、誰の物ということはなく、必要とする人が無駄にしないように使えばいいのです。そうなったら、結局、国境も無くなるのではないでしょうか。

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「お金のいらない国」の歌によせて(4)

♪お金のいらない 国になったら
 使えるものは 捨てなくっていいよ
 いらなくなったら あげればいいし
 壊れたものは 直せばいい

現在の経済社会では、物を売るなどしてお金を儲けることが仕事の一番の目的のように思われています。そもそもその認識が、人間が自らの首を絞めることになる原因なのですが、例えば会社という組織は、それを第一の目的にして経営を進めているようです。

会社は、前年よりも売り上げを伸ばすことを目標として、社員にプレッシャーをかけ、仕事を増やそうとします。結果、必要のない仕事まで生み出されて忙しくなり、社員は肉体的にも精神的にも疲労してしまいます。

物をたくさん売るためには、いい物を適度に作っているだけでは済まなくなり、新しい物を次々作って売り出し、消費者の欲望を煽ります。と同時に古い物の部品の生産をやめ、或いは修理代を高額に設定し、壊れたら修理しようにも買い直さざるを得なくなるような状況を作ります。

直せない物はゴミになるしかなく、捨てられます。最近では社会全体の流れとして資源のリサイクルに力を入れているようですが、そもそも無駄な物を作り過ぎることをやめなければ、根本的な問題は解決しないと思います。

お金のいらない国では、仕事はなるべく減らす方向で考えられます。働くことは必要なことなら意味があるけれども、無駄な仕事なら無くした方がいいし、余裕があるなら休めばいいと人々は思っています。

自分に必要なくなった物は、それを必要とする人に渡ります。修理やリサイクルは当然のように行われ、新品同様の物が回っていきます。新たな資源の採掘はあまり必要としませんので、自然を破壊することはありません。

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「お金のいらない国」の歌によせて(3)

♪お金のいらない 国になったら
 余分な財産 貯めなくっていいよ
 いつでも何でも 手に入るから
 今いるものしか いらなくなる

現在の世の中では、多くの人はなにがしかの財産を貯めたいと考えるようです。その方法は、銀行の預金であったり、株式であったり、家や土地などの不動産であったりします。そこには経済的価値と同時に、永続性、いざという時の換金性が求められます。

なぜ、人々はそういった発想をするのか。そこには見栄などもあるとは思いますが、一番の理由は、現在の社会が、お金がなければ生活していけない経済システムの上に成り立っているために、ある程度の財産を所有していないと安心して暮らせないからだと思います。

しかし、なかなか余裕を持てる程の収入は得られない場合が多いですし、いくら貯めればよいという基準もなく、社会の不公平に欲も手伝った結果、お金の所有は偏り、貧富の差が生まれます。財産を貯めたら貯めたで失うことを心配しなければなりませんので、人々はどんな状況に置かれても程度の差はあれ常に経済的な不安を抱えながら暮らしているようです。

お金のいらない国では、お金と引き替えにすることなく、必要な物は必要な時にいつでも手に入れることができます。ですから、今必要とする以外のものを貯め込む必要はありません。いざという時のために貯金することも、保険に入る必要もありません。突然、自分や家族の身に何が起ころうと、少なくとも経済的な心配は一切しなくていい世界です。

経済的な不安は現在の人々にとって相当なプレッシャーになっていると思われます。お金の心配が無くなったら、人間の悩みの少なくとも半分は減り、人々の表情は今よりずっと柔和に、体も健康になるのではないでしょうか。

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「お金のいらない国」の歌によせて(2)

♪お金のいらない 国になったら
 持ちたいものを 持てばいいよ
 誰でも何でも 持てるから
 持ってるだけでは 意味がない

お金のいらない国では、何かを所有していること自体に意味はなくなります。少なくとも所有しているだけで人と比べて優れていることにはならず、あくまでもそれを所有することが何かの役に立っている、或いは自分が本当に必要としているものであることが重要になります。

お金のいらない国であるからこそ、人々は、物や資源を無駄にすることに罪悪感を覚えるようになると思います。お金というものはそれを支払うことによって、ある意味ものを粗末にしても許されるかのような錯覚を起こさせますが、それは大間違いです。

言い換えれば、現在の社会においても、自分の稼いだお金はいくら無駄に使っても本人の勝手ですから結構ですが、資源を無駄にすることは許されません。お金は単なるものの代用品で、人の間を回っているだけですが、資源は限りある貴重な、実体あるものだからです。

資源を無駄にしないためには、必要最小限を考えてみるのもいいでしょう。衣食住に関して言えば、自分にはどんな衣服が必要か、どんな物をどのくらい食べれば足りるか、どういった家に住めば満足できるか。日本の場合は諸外国に比べても、かなりこのあたりの感覚が異常になっていると思います。

ブランドものの服やバッグを買いあさり、グルメにこだわり、食べ過ぎてダイエットに苦しみ、狭い土地を取り合って多額の借金をし、家を建てようとする。そのお金を稼ぐために無理な仕事をし、体を壊し、寿命を縮める。人々は、一体何のために働き、何を得ようとしているのでしょう。

贅沢をしたいという発想も、お金の存在するこの世独特のものなのではないでしょうか。同じ生活をしても、お金のいらない国では満足度がずっと高くなり、ものにありがた味を感じ、大切にするようになると思います。足ることを知った心、これが自然に持てるようになると思います。

お金のいらない国では物質的にも精神的にも余裕が生まれ、結局、生活水準はかなり高くなるのではないかと思います。自由な研究開発をすることによって技術は進歩する上、人々が本当に必要とする物を最小限所有しようとすれば、より無駄を省いた、高性能な物が求められるようになるからです。

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「お金のいらない国」の歌によせて(1)

♪お金のいらない 国になったら
 やりたい仕事を すればいいよ
 自分のできる ことをみつけて
 誰かのためになる ことをしよう

お金の存在するこの世では、仕事といいますと報酬としてお金をもらえる行為を指すことが多いようですが、お金のいらない国では、誰かの、或いは何かのためになることは、全て同じ価値のある仕事という認識になるでしょう。

例えばこの世でのボランティアにあたることとか、一般家庭での家事、子育てなど。それは本来この世でも当然、仕事として認められるべきものですが、経済システムの上では金銭的な報酬が得られないため、一般の仕事とは分けて認識されているようです。

実際は、収入を得る仕事を別に持っている、外部から収入を得ている人と共同で生活している、或いは蓄えた財産があるからこの世でも無報酬で働けるわけですが、行為としては金銭を得られる仕事と同じ、或いはそれ以上に価値のあるものであり、外部から収入を得る仕事と平等に評価されるべきものだと思います。

お金のいらない国では、ボランティアや家事、子育てに限らず、この世では直接収入を得られない行為が、もっともっと幅広く仕事として認められるのではないでしょうか。自分のできることを見つけ、それを仕事にする。一人一人が何らかの形で世間に貢献したいと考えることによって成り立つ社会です。

プロとアマの境はなくなります。この世のように、経済的な理由で才能を伸ばせなかったり、仕事にすることをあきらめたりする必要もありません。ただし、純粋に実力の世界になりますので、人から認められない、必要とされない行為は淘汰されていくでしょう。

職業による収入の落差もなくなります。その人の才能、能力、個性に合った仕事をすればよく、全ての仕事は平等、価値は同じという認識、扱いになります。また、仕事をすることと奉仕を受けることは別ですので、一時的に仕事をしなくても、暮らしていけないという状態にはなりません。

お金のために、望まない仕事をする必要もなくなります。その人がやりがいと誇りを持てる仕事を選べばいいわけです。そうなると、就く仕事に偏りが生まれるのではないかという懸念もあるかと思いますが、私は、実際にそうなってみると、必要とされる部分にバランスよく収まるような気がしています。

いずれにしても、お金のいらない国は、誰もが自分を社会のために役立てたい、人のために尽くしたいと思えなければ成り立ちません。現在では考えにくいことかもしれませんが、私は、実際にそうなってみると、そういう社会に順応できる人は意外に多いのではないかと思っています。

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「お金のいらない国」の歌

             詩・曲 長島龍人

お金のいらない 国になったら
やりたい仕事を すればいいよ
自分のできる ことをみつけて
誰かのためになる ことをしよう

お金のいらない 国になったら
持ちたいものを 持てばいいよ
誰でも何でも 持てるから
持ってるだけでは 意味がない

お金のいらない 国になったら
余分な財産 貯めなくっていいよ
いつでも何でも 手に入るから
今いるものしか いらなくなる

お金のいらない 国になったら
使えるものは 捨てなくっていいよ
いらなくなったら あげればいいし
壊れたものは 直せばいい

お金のいらない 国になったら
無意味な競争 しなくていいよ
誰かと何かを 取り合わなくても
必要なものは 分ければいい

お金のいらない 国になったら
無駄なやりとり しなくていいよ
お金で気持ちを あらわせないから
ほんとの心が 見えてくる

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お金の問題点

原始社会を想像するに、まず人間は、自分で動物や魚、食べられる植物などをとって暮らしていたと考えられます。物々交換をするようになると、例えば自分が捕まえた動物と、他人が採った植物を取り替えて、手に入れられるものの幅を広げました。道具類もその対象になっていたかもしれません。

お金がどのように出現したかは知りませんが、お金、或いはそれに類する物が発明されると、それを代用品として取り引きするようになりました。時間が経つと傷んでしまう食べ物などと違って、お金は保存しておくことができ、自分のほしい物ができた時にそれと交換できる便利な物です。とりたてて必要な物のない時は、お金を貯めておけば、いざという時、安心です。お金をたくさん持っていれば、それだけ安心度も増すことになるので、人間たちはお金をたくさん所有したいと考え、貯めることに一生懸命になりました。

私は経済に関する詳しいことは知りませんが、この「貯める」という発想が経済社会の悲劇を招く元凶なのではないかと思います。お金をたくさん持っている人がいるということは、どこかに持っていない人がいるということです。限りある物を取り合えば、貧富の差が出るのは当然です。地位や職業の違いも原因となってお金の所有には偏りが生まれて行ったのでしょう。

現在の社会は、お金がなければほぼ何もできないという状態です。安心して暮らすためには少しでも多くのお金を所有したい、また、仕事はお金を稼ぐためにするのだという認識は、多くの人が当たり前のように持っているのではないでしょうか。比較の問題になれば、人よりもたくさんお金を所有したい、金持ちになって他人より優位に立ちたいと考えるようにもなりました。

そうなると、お金を効率よく稼ぐにはどうすればいいか、たくさん物を売るためにはどうすればいいかと考えるのも仕方のないことです。それがエスカレートしてくると、要らないものでも売りつけよう、何度も買ってもらうために壊れるように作ろう、短絡的に考えれば、人のお金を奪うのが手っ取り早いという発想になります。

しかしこれでは、仕事本来の目的を見失っているとしか言いようがありません。仕事とは社会に奉仕すること。元々は自分のために食べるものを手に入れることが動物及び人間の仕事だったのでしょうが、人間は長い歴史の中で、人それぞれの特長を生かし、さまざまな職業を作り出し、相互に奉仕しあえるよう、ここまでの社会と文明を築いてきました。

その過程ではお金という道具は必要だったのだと思います。しかし、本来お金は物の代用品でしかなく、そのもの自体に価値はありません。たくさんお金を所有したいと思うのは、持っていないと安心できない社会構造と、人間の見栄が原因です。使わなくて済むお金は持っている意味もなく、持っているからといって贅沢をするのは、資源を無駄にし、誰かがしなくてはならない余計な仕事を生み出すことになります。

この世から、お金という道具をすぐに無くすことは難しいでしょう。しかし私は、今こそ人間はお金や仕事の本質に気付き、お金の奴隷になることから自らを解放し、自分の能力を生かした仕事をしながら、皆で幸せな世界を築いて行けるよう考えるべき時期が来ているのではないかと思います。

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お金のいらない国の価値判断

お金の存在するこの世では、人はよく、価値を値段で判断します。このバッグは値段が高いから良い物だ。この人は年収がいくらあるからすごい。あの人はこんなに高価な物をくれた。多くの人は、高い値の付いた物に価値があると考え、金持ちに憧れるようです。

お金のいらない国では、当然のことながら、価値をお金に換算できません。物はあくまでもそのもの自身の良さで価値判断されることになります。このバッグは素材が丈夫だから良い、色やデザインが素敵だから良い、自分の趣味に合っているから良い、と、ここまではこの世でも同じですが、値段がいくらだから価値があるという判断はできません。

また、金銭の収入というものはありませんから、仕事はその人が何をしたかのみで評価され、それでいくら儲けたかという価値判断はありません。この世では仕事を選ぶ場合、収入がいいからという理由もあるでしょうが、お金のいらない国では、自分のしたい仕事を選べる代わりに、本当にできることを問われることになります。

何かを所有しているということにステータスは求められません。お金のいらない国では、持ちたければ誰でも何でも持てますから、自分が必要とする以外の物を持つ意味もなければ、所有していることを人に羨ましがられることもありません。自分は価値もわからないのに美術品などを買って倉庫にしまい込んだり、お金を払いさえすれば食べ物や資源を無駄にしてもいいだろうというような考えも、ナンセンスであることが明らかになります。

気持ちを、物を贈ることによって表すということでも本質が問われるようになります。お金を出せば誰でも手に入れられるような物のやりとりは、意味を為さなくなるでしょう。冠婚葬祭の祝い金なども当然なくなります。この世の習慣に慣らされていると、そうなったら一体何で気持ち表せばいいのかと思われるかもしれませんが、私は、そうなってこそ本当に贈るべき物がはっきりし、正直な気持ちが相手に伝わるようになるのではないかと思います。

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所有とは

あなたは、いろいろな物を所有されていると思います。お金、家、車、家具などの財産や道具。衣服、食器などの日用品。社会的には名前、肩書き、名誉なんかもあるでしょう。子供や家族などは所有していると考えると問題がありそうですが、ペットは所有していると言えるかもしれません。最も身近な物として、肉体も自分の所有物と言えそうです。

さて、それらのものはあなたにとって何なのでしょう。所有とはどういう意味があるのでしょうか。所有とは、所有者があってはじめて成り立つことです。ですから、所有物が所有者であることはないでしょう。肉体が所有物だとすれば、所有者はどこにいるのでしょう。

お金は使えば無くなります。消耗品をはじめ、物質的な物はいずれ朽ち果てます。肉体も物質ですから、同じ運命を辿ります。どうも物質的所有物には永遠性はなさそうです。肉体が自分そのものであると思われている方は、皿が割れるように肉体が死んだ時点でおしまいなのでしょうから、所有に関しての考察もこれ以上進める必要はないかもしれませんが、どうも自分の本質は肉体という物質ではなさそうだと思われる方は、もう少し考えを進めてみましょう。

自分の本質は肉体でなく霊、或いは魂であると考えると、物質である肉体も、他の所有物と同じ位置づけになります。そして肉体を含めたあらゆる物質的所有物は、借り物と考えることができるでしょう。自分の借りている物、人の借りている物と区別することはあるにしても、すべてはあくまでも借り物であり、人間の本質ではないということです。

この世の物質的な所有とは、自然の資源を利用して、この世を生きていくのに役に立つように加工するなどした物を借りているということであり、いずれは自然に返すことになります。その所有物が自分自身であることはありませんから、必要以上に執着することはナンセンスでしょう。すべての物は、肉体を含めていずれ用をなさなくなるものであり、その時が来たら感謝の気持ちとともに自然にお返しするのが筋であると思います。

次は、物質的でない所有について考えてみましょう。まず、名前ですが、名前は人間に関して考えれば、生まれて間もない頃に、親か周りの人によってつけられます。この時点でどうも運命的な力が作用しているようなのですが、それはさておき、少なくとも初めから魂に名前があったわけではありません。そう考えると、名前は、社会を生きる上での印であると割り切った認識をすることが第一ではないかと思います。

家の名前を存続させるために子孫を残すことに躍起になったり、墓などに執着するのも、自然の流れに逆らっているようで、あまりいい結果を生むとは思えません。すべては神のご意思のまま、授かる物は授かり、失う物は失う、なるがままを受け入れ、自然に逆らわない生き方が、安らぎを得る道であると私は考えます。すべての行為は正確な因果律から逃れることはできませんから、作為的に人間の生死を左右することなどにはよほどの注意が必要でしょう。

社会的には肩書きも所有と言えるでしょう。いかなる地位を得ようとも役割と割り切って、私利私欲を満たすことより、社会の役に立つことを考え、行動すべきでしょう。せっかくいただいた名誉もそれにあぐらをかいてしまっては、過去の栄光にすがっているというだけで進歩はないでしょう。いかなる肩書きや名誉を所有していようと、その人が現時点で何を考え、どういう行動を起こせる人物かがもっとも肝心なことです。

結局、所有とは自分自身でない物、そこにつけられた名前などを借りているだけだということです。所有している物に過剰な価値観を見出してしまうと、人はそれに縛られ、苦しみを作り出すことになると思います。

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金の使い方

この世では金というものがすごい力を持っているかのように見えます。単なる紙や金属に、本来、物質である以上の力があるはずはないのですが、多くの人は金をほしがり、たくさん金を持つと偉くなったような錯覚に陥る人もいるようです。また、人によっては金に執着し、苦しみ、傷つけ合い、一生を棒に振ってしまったりします。

金は、人間の道具です。物々交換では限界のある経済社会において、自分が作ったものや、働きを、金というものに置きかえることにより、その価値の保存や蓄積が可能になりました。金を持っていれば、その金額と等しい価値のものと交換することによって、自分の好きな時に好きなものを手に入れることができます。

蓄積しておけるなら、金をたくさん貯めて、欲しいものを自由に手に入れたいと考えるのが普通の人間の発想かもしれません。多くの人は、なるべく多くの金を効率よく手に入れたいと考えるようになりました。犯罪に当たるようなことをしなければ、金を儲けることも一つの才能かもしれず、金を人一倍貯めることのできた人は、社会的にもある程度認められるような風潮も生まれました。

一方、何らかの理由で金を得損なった人には暮らしにくい社会になりました。自給自足でもしていなければ、自分の食べるものすら金がなければ手に入れられないというのが現在の人間社会です。人々の「自分のもの」という所有意識はかなり強いので、金を十分に持っている人でも自分の金を他人にあげることはなかなか難しいようです。また、個人がやみくもに誰かに与えれば解決するという問題でもありません。金というものが生まれたことは、必然的に貧富の差を生むことにもなりました。

金の使い方は人格を表すようです。社会では、どういう金の使い方をするかでその人の性格や人間性がわかったりします。金が手に入ると全部使わないと気が済まない人、無理な借金をして返せなくなる人、一攫千金を狙ってギャンブルに走る人、使う目的はなくてもひたすら貯め込むことに一生懸命になる人。金による楽しみも苦しみも、自分の考え方や行いが作り出すようです。

他人と関わる時は、お互いの立場や経済状態を考慮した上で、バランスの取れた金の使い方を考えたいところです。金は自分のために使うのは簡単ですが、他人のために使う場合に特に人格が出るし、少なくともこの世での人間としての評価の判断材料になるようです。ケチは嫌われますが、あまり見栄を張るのも考えものです。

私は、金は「あるから使う」のではなく、「必要だから使う」と考えた方がいいと思います。必要と思うレベルも人によって違うでしょうし、持ってる人には使っていただかないと経済社会は回っていかないのも事実ですが、金があるからといって行き過ぎた贅沢をするのは資源の無駄だと思います。

収入がいくらであろうと、自分の欲しい物を減らせれば余裕が生まれます。物を買う楽しみというのは確かにありますし、無理なく買える範囲のものなら買えばいいと思いますが、どこかで満足しないと物資欲はきりがありません。落ち着きたいのなら、現状に満足する、「足ることを知る」気持ちが必要だと思います。

この世で人が必要以上に金を得たがる理由の一つに老後の心配があると思います。収入を得られなくなっても、そこそこの生活は保証されているような社会であれば、そんなに貯蓄もしておかなくていいはずです。老後に特に贅沢をしたいと思っている人は別かもしれませんが、老後のことを誰もが心配しなくてはならないような社会では、金もためざるを得ないのかもしれません。

本当は収入の多少に関わらず、誰もがそこそこに一生を生きることで満足できればいいのだと思います。どのみち一人の人間が飲み食いし、生きて行くのに必要なものが人によってそう大きく変わるはずはありません。金持ちだからといって2倍も3倍も食べられるわけではないし、必要以上のでかい家に住んでも、掃除が大変なだけです。

いくら収入があっても、自分の生活に必要なだけ使ったら、余った金は自動的に恵まれない人に回っていくようなシステムができれば、この世に金がなくて生きていくことすらできないような人はいなくなるのではないかと思います。多分無理だとは思いますが、そのためには、やはり皆が必要以上の欲を捨て、満足できる気持ちを持たなくてはならないでしょう。そして、もしそういう社会になったら、ほとんどの人は現在よりも物質的にも豊かな暮らしができるのではないかと、実は私は思っています。

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