> マナコさんは生物系の知識をお持ちなんですか? 全然持ってないです。でもやっぱりこの場合は持ってると言っちゃっていいんでしょうか? 変な知識ばっかりはそれなりにあったりもするのですが、まともな知識はほとんど持ってないです。 あと、上の書き込みのアポトーシスは細胞自死というよりも、自然界における自浄作用という意味で使っています。
ぷひゅ〜、皆さんどうもです。私はもう、ずいぶんと書き込んでいるのですが、 結局、何が言いたいのかということを言ってない、というより言えていないので、 それを言うために、それが何であるかを求めて、今日もまた懲りることもせず書き込みをしています。 それで、すでにお気づきの方もいらっしゃるかと思いますが、私は片意地張りのくせに無定見です。 いくぶん、支離滅裂になるのも、そうやってあがく姿も、理解不能の言動も、そういうのもあるかと思いますが、 う〜ん、どうなんでしょう、今日はちょっとヤバ気味です。(←脳覚醒状態です)
さて、私は、前回の書き込みでは無理矢理“プログラム”なるものについて論じてしまいました。 あれから二日経ちまして、またいろいろな論議が交わされていたようですが、それをも踏まえつつ、 今回もまた、その続きから入ろうかなと思います。(←ああっ! どこまでも我執ってる!!) まず、プログラムと神との関係ですが、神とはプログラムが概念化されたものであると考えます。 どうでもいいことなのですが、厳密な意味ではプログラム=神ではなく、概念上それは区別されます。 人は神としてプログラムを認識するが、プログラムそのものは認識できない、 プログラムは不可知であり、知覚可能な現象とは表裏の、現象に対する裏面としてのプログラムを、 それを論じる上での定義上、ここに想定しているに過ぎません。 よって、ここでの概念化とは、抽象化と言い換えてもよいかと思います。 さて、しかるにオウガバトルサーガの世界は多神的であり、主神フィラーハをはじめ無数の、 言いようによっては無限の神々が、そこに息づく人々との無限の関わり合いを形成し、また世界をなしています。 しかし何故、多神的であるのか? あえてそこへと踏み込むのならば、 人と神との関係において、極めて単純な、ある一つのパラドックスが語られる必要があるものと思われます。 簡潔に言いましょう、つまり神とは人によって創り出された存在であるということです。 神は人の認識より生まれる、これがプログラムの概念化、抽象化の意味するところでもあり、 神の真の姿は人格的な個体としては定義できず、全ての神々は唯一神フィラーハとして収斂されるのです。 よって極まるに、ローディス教の説く絶対的なフィラーハとはまさにこのことであると、 プログラムという概念に絡め、私は(また強引に)考えます。
いや・・・、気づいたら話が全く関係の無い方向へ、はたしてこのベクトルは一体・・・?? 本題はニバス・・・、ニバスについて語らなければなりません。ここはもはや強引もやむを得ないでしょうか? ・・・と、つなげまして、ニバスが神に対する信仰心を持ち合わせていないのは、彼の台詞、行動からも見て取れるのですが、 それが可能であるか不可能であるかにかかわらず、やはりニバスは神を超越したかったのだと思います。 そこへと向かう意識、もしくは欲求みたいなものはたしかにあったと、彼の最期からもそういうことを感じます。 ただし、そうだとしても、やはり彼の研究というのは方法論的に頓挫し、 自分の目の前にある事象だけを捉えることのみに終始していた、 いわゆる彼の内だけでの、狭く閉ざされた視野での研究だったというのも否定できません。 そこよりも、不老不死が実現可能であるというのは、さらに純理論的な次元での話であり、 それを如何にして形而下させるか? ここがこの問題のポイントであると思うのですが、 不老不死というプログラムは、オウガバトルサーガの世界においても、それはおそらく存在しません。 あるとすれば、そこに何らかの形で起こるプログラムエラー、それによる事故的な不老不死、 これ以外の形での不老不死は、たぶん可能性としても存在し得ないはずです。 そもそも細胞死にはネクローシス(他殺死)とアポトーシス(自殺死)の二種類があり、 細胞、つまりは生命としての形態を維持しつつ、そこに不老不死という観念を両立させるには、 全ての時間現象を停止させ、一切の変化を受け付けぬ他には無いのであると・・・・・・。 ??・・・やはり変ですね、この話は。RYOさんの言う不老不死の定義からは外れているのでしょうか? またよく解らなくなったので、ちょっとRYOさんや他の方の意見も聞いてみたいと思います。
以上、ヤバイことになってるかもしれませんが、今日はこのへんで。
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