下タ沢会によせて(覚書)

尾去沢鉱山に伝わる唄

尾去沢鉱山に伝わる唄  さて、下タ沢からはじまった話しもめぐりめぐって、何にが何んだかわからなく なったが、先にからめ節など鉱山に伝わる唄や子供の頃うたった遊び唄など書いて おこうといったので、ここで若干まとめてみる。

 参照: 「からめ節」「花見帰り」「あへこ節」「石頭節」
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 この石頭節は、明治以降に歌われたものではないかと思われる。明治以前には、 鉱夫という言葉は使っていにいようで、金工(かなこ)、掘大工、留大工などと いったようである。麓さんの本の明治17年頃のことを書いたところに坑夫、製鉱夫、運搬夫 などの言葉が出てくる。また明治の初め頃の鉱石の品位は、田郡は含銅25%、最上 鉱は34%もあった。元山赤沢は上鉱20%、下鉱5ないし6%で平均12%弱という(閉 山の頃は.7%の鉱石まで掘っていた。正に隔世の感ありというところだ。)。それ はそれでいいとして、「明治7年火薬による爆開法を坑夫に授けたけれども、坑夫が 恐れて普及しなかったというが、常用するようになったのは明治9年としている」 という。そして明治12年に長坂永久沢に初めて洋風開鑿器械を据設した。このとき 爆開に英国製ダイナマイトを用いたという(ノーベルがダイナマイトを発明したの は1866年、ノーベル賞はその遺言により1896年(明治29年)に設けられた。)。こ の開鑿器械がさく岩機械とすれば、佐渡鉱山が明治14年、阿仁鉱山が15年からの使 用というから、わが国の採鉱技術史に一つの訂正が加えられなければならないとい う。
 
 また横道にそれたが、唄の文句の鉱夫は、坑夫であったかもしれない。唄いつが れ、書きつがれて行くうちに坑夫が鉱夫になったのかもしれない。また発破は明治 7年から9年ということであれば、この唄はやはりそれ以降のことと思われる。
 
 ちなみに、からめ節は万延元年(1860)にきた上山守古の扈従日記にも出ている ように、大分昔からあったものと思われる。阿仁鉱山(北秋田郡阿仁町)では、阿 仁鉱山で発祥して尾去沢鉱山に伝わり、明治初期になって尾去沢鉱山の人々が盛岡 の花街で歌うようになった、といっているが、尾去沢では盛岡へ伝えたのはいいと して、発祥の地は逆だと力説している。
 なお、花見帰りやあへこ節については、私はわからない。

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