貝塚の分布

 荒屋敷貝塚周辺の貝塚と遺跡の分布を示しました。灰色の楕円は遺跡を示します。遺跡は、縄文早期から中世までの住居遺跡であり、どの時代の遺跡であると一意に決められないので、灰色で示しました。 貝塚の楕円形は、古い時代のものから、赤→橙→緑→水色→紫 と、虹の色の順番で色分けをしました。草刈場貝塚、荒屋敷貝塚は日本で最大級の貝塚です。それらの貝塚を中心に、半径数百m以内に、住居集落遺跡があります。これらの集落から、大型貝塚に縄文人は集まり、共同作業やお祭りを行ないました。
 下図で、16→6→14→15に葭川の支流である小川が流れています。公式な報告書や論文には書かれていませんが、6と16の間に、「貝塚町殿山貝塚」という長さ約300mの低湿地遺跡があるそうです。ここが水場である可能性大です。ドングリの水による晒しや、飲料水の確保、丸木舟の発着所だったかもしれません。縄文人の水場であると同時に、シカやイノシシの水場であったかもしれません。

 荒屋敷貝塚を見学する人がよく、「この下の小川まで海だったんですね〜」と言われます。小輩も最初はそう考えていました。高校で貝塚は海のそばの台地にあると教えてもらいましたし、今の教科書でもそう思わさせる図が載せています。小輩は知りませんが先生がそう教えているのかもしれません。確かに松戸市とか市川市の貝塚はそうですが、千葉市の貝塚町貝塚群を含む都川関連貝塚はそうではありません。都川関連貝塚の場合、縄文時代は猪鼻から道場南に延びる低い砂州まで海だったと言われています(建築工事のボーリングで渚線が確認出来たとのこと)。郷土史誌ではその砂州の少し東あたりまで海だったと記載しているものもあります。都川関連研究者は(おそらく)すべて、都川関連貝塚の縄文時代の人は都川を舟をこいで海に行って貝等の海産物を採取したと言っています。


加曽利町、貝塚町、都町 の貝塚
1.草刈場(後晩期) 2.草刈場南(後期) 3.荒屋敷北(早期) 4.荒屋敷西(前期)
5.荒屋敷(中後期) 6.姥ヶ作(後期) 7.西光院(前中期) 8.台門(後晩期)
9.木戸場(前期) 10.向台(早期) 11.加曾利北(中後期) 12.加曾利南(中晩期)
13.花輪(中後期) 14.車坂遺跡 15.干場遺跡 16.谷津下遺跡
17.谷津上遺跡 18.貝殻後遺跡 19.草刈場北遺跡

()内は縄文時代分期、 上記遺跡名は主として「千葉市史」昭和49年によります。

荒屋敷貝塚詳細 公的機関による荒屋敷貝塚調査報告書を紹介します。 → 更に詳細なまとめにする予定
荒屋敷貝塚は京葉道路建設の際に、切り通しにする予定があり、消滅する可能性がありました。調査後、計画がトンネルに変更されました。
千葉市貝塚の意味 貝塚には、小型貝塚と大型貝塚があります。集落を伴う貝塚、伴わない貝塚があります。貝塚には埋葬ゾーンがあります。
貝塚で千葉市民がどのようなことをしていたかを考えます。
ついでに千葉市の貝塚の分布 小輩が2000〜2006年に「千葉市の遺跡を歩く会」で歩いた貝塚(一部遺跡)のうちお勧め貝塚を千葉市の地図で示します。完全に正確ではありませんが、参考まで。
更についでに「貝塚町について」 いつごろから「貝塚町/村」と呼ばれたか、近隣の町/村はどうだったのか、どのような神社/寺があるか、字名にはどのようなものがあるか、


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P.S.)荒屋敷貝塚を中心として、半径1km以内に、上記の図だけで、17個所の遺跡があります(もしかすると命名されている遺跡は倍以上あるかもしれません)。毎日、荒屋敷貝塚を見て通り過ぎる人が何千人もいます。京葉道路の貝塚トンネルを通過する人を含めると、1万人以上の人が、毎日見ているかもしれません。荒屋敷貝塚を横目で見て通り過ぎる人は、「何もない原っぱがあるな」と思うだけかも知れませんが、よくよく荒屋敷貝塚の周りを見て廻ると、縄文人の生活が観れます。
 初級者は緑色・水色の貝塚、中級者はカラフルな貝塚、上級者は灰色の遺跡の観察にチャレンジしましょう。