現在の貝塚町範囲概要 左図は2000年頃の貝塚町。 2009年に左図若葉区役所以北を都賀5丁目に地名変更。 同年 貝塚中学校付近を「貝塚1丁目」に地名変更、貝塚第2公園付近を貝塚2丁目に地名変更。。 大正時代、明治時代の地図を比較すると貝塚町(貝塚村)はどんどん小さくなっています。 都賀関連 「都賀」という地名(字名)は作草部の一部にありました。現在都賀小学校がある付近。国鉄が現在の都賀駅付近に停車場を作り、「都賀停車場」と名付けました。その停車場が駅になり「都賀」の地域が広がり始めました。 都町関連 現在の都町は戦国時代以前、「辺田村」とよばれていました。江戸時代の或る時、都川が流れていることをきっかけから、「都村」と地名変更が行われたようです。またたく間にその行政域を広げて、貝塚村は都村の字となった時期がありました。 「都川」のいわれは、「みやごかわ」 → 「みやこがわ」のようで、都川は江戸時代初期は都村から西に流れて矢作付近で北に流れを変え、千葉神社を迂回して葦川と合流して京成千葉あたりで東京湾に注いでおり、千葉神社の後ろを流れたようです。「宮の後ろを流れた川」から「都川」と言われたとの説があります。「辺田」は地名を表す役になる地名ですが、名前の良さによって地名が消えた例です。 桜木町関連 「桜木町」は1951年に名づけられました。以前、この地域は貝塚村(昭和初期の名は都村)、加曽利村と小倉村の入会地でした。里山の産物を採ったり、屋根を葺く萱を集めたりする場所でした。その地名の良さから地域が年々拡大しています。 貝塚町にある神社 : 大六天神社 貝塚町にある寺院 : 西光院 (現都町 延命寺の末寺、江戸時代に延命寺の檀家の一部が貝塚村の南部に移住したことがありました。その時に西光院が作られました。) |
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貝塚町域の変遷
都賀駅周辺の貝塚町域が都賀/西都賀に編入されました。 現在、桜木町と接する貝塚町域が桜木町に編入されようとしています。 1891年 95戸、 508人、 49厩 1970年 929戸、3,155人、 (1960年代までは役牛が飼われていた) |
☆参考1.江戸時代、現在の千葉市には南町奉行与力給地として、犢橋村、馬加村、武石村、貝塚村があり、1619年以降与力の集団体制による支配を受けていたとあります。(千葉市図誌「桜木町」参照)
1762年(宝暦12年) 南町奉行与力給地 飯高俊一家文書(九十九里町立いわし博物館所蔵)
国 名 | 郡 名 | 村 | 給地高(石) | うち新田(石) | 給 数 | |
下 総 | 千 葉 | 犢 橋 | 32 | 5 | ||
行 々 林 | 50 | 14 | 2 | |||
馬 加 | 426 | 16 | 2 | |||
武 石 | 287 | 1 | ||||
貝 塚 | 471 | 1 | 1 |
参考2: 1590年頃に書かれた「千学集(抄)」の「惣代七社の事」の段に次のような文章があります。 1590年頃には「貝塚」という地名がありました。
一、範覚(原胤隆の子、妙見座主)の時、貝塚に物見畑と言えるのありて、宮窪と論ありけり。宮窪に十一騎の士と言へるがありし時なり。この者ども引き立てて論にはしにけり。貝塚百姓は申すに及ばず、代官罷り出で、さまざま申して宮窪に御鉾を立て給うなり。神領に落ち付きぬ。十一騎の士御罰にて今は絶えてけり。
参考3: 明治22年町村制実施時の千葉郡の町村大字 (千葉縣千葉郡誌参照)
貝塚(村)の字名 (千葉市図誌 参照)
参考4: 近代の千葉県の郡名は1897年の郡制施行時に確立しました。
「山武」や「長生」は明治時代に作られた地名です。 明治維新以前にあった地名ではありません。
明治30年の人口と2002年の人口を比較します(郡の境に出来た市があるので、”相当地域”は厳密には比較できませんが、参考まで)。
明治24年 | 明治30年(1897) | 2002年 | |||||
郡名 | 郡名 | 郡役所 | 人口(万人) | 明治相当地域 | 人口(万人) | ||
東葛飾 (ひがしかつしか) | 東葛飾 | 松戸町 | 16 | 東葛飾 | 173 | ||
南相馬 (みなみそうま) | |||||||
千葉 (ちば) | 千葉 | 千葉町 | 8 | 千葉 | 181 | ||
印旛 (いんば) | 印旛 | 佐倉町 | 11 | 印旛 | 90 | ||
下埴生 (しもはぶ) | |||||||
香取 (かとり) | 香取 | 佐原町 | 13 | 香取 | 16 | ||
海上 (うなかみ) | 海上 | 銚子町 | 8 | 海上 | 10 | ||
匝瑳 (そうさ) | 匝瑳 | 福岡町 ※ | 4 | 匝瑳 | 10 | ||
山辺 (やまのべ) | 山武 | 東金町 | 11 | 山武 | 21 | ||
武射 (むさ) | |||||||
長柄 (ながら) | 長生 | 茂原町 | 9 | 長生 | 16 | ||
上埴生 (かみはにぶ) | |||||||
市原 (いちはら) | 市原 | 八幡町 | 7 | 市原 | 28 | ||
夷隅 (いすみ) | 夷隅 | 大多喜町 | 9 | 夷隅 | 9 | ||
望陀 (もうだ) | 君津 | 木更津町 | 13 | 君津 | 33 | ||
周淮 (すえ) | |||||||
天羽 (あまは) | |||||||
安房 (あわ) | 安房 | 北条町 | 17 | 安房 | 14 | ||
朝夷 (あさひな) | |||||||
平群 (へぐり) | |||||||
長狭 (ながさ) | |||||||
合計 | 126 | 合計 | 601 |
福岡町 ※ : 明治30年に4村が合併した時の町名。 歴史を再考して、町の中心である「八日市場」町 に戻した。
参考5: 地名「千葉」の始まり
● 日本後記・延暦24年(西暦805)に千葉国造大私部直善人(おおわたしべのあたい よしと)が外従五位下を与えられたとの記述あり。
● 万葉集巻20に755年に筑紫に送られた防人の中の千葉郡大田部足人(ちばのこおり おおたべのたりと)の歌が載せられている。「千葉の野の児手柏の含まれどあやにかなしみ置きてたか来ぬ」
参考6: 近辺の町の歴史
@ 加曽利町: 古代は千葉郡かすり郷との地名あり。「源平闘諍録」に加曽利の地名がある。 「かすり」 は 糟+草冠がついた依 と書かれていた
A 桜木町: 1951年、千城村・大字小倉字四部、加曽利町・字上人塚・大作・亨願台・立木の一部、都町・字東関尾余の一部・念仏塚の一部・殿台原・姥ヶ作・筒条塚・東代作・西大作・大塚・中尾余・六方境を桜木町とした。 2006年、貝塚町北部町内会(通称殖産住宅)編入が住民との話し合いで進められている。
B 都町: 1889年、村制施行により辺田村を中心として生まれた村。繁栄を願って命名されたと言われている。
一説には、村が出来る前に南を流れる川が「都川」と呼ばれていたためとの説もある。宮後(みやご)川が都(みやこ)川に転訛したとのこと。
都川の本流は鶴沢付近から北行し、道場、院内を流れて東千葉付近で葦川に合流し、千葉神社の後ろを流れて東京湾に流れていた。
神社の後ろを流れていたため、宮後川と言われていたとのこと。
C 高品町: 高品にある等覚寺の薬師如来に1571年の銘があり、そこに「高篠村」との地名が書かれている。
1590年頃完成した千学集に「高篠」と記されている。 江戸時代に入り「高品」と書かれるようになった。
D 若松町: 1938年に設立された。その際に加曽利村より、字滑橋新田・滑橋台北・滑橋台南・中新田・枡形が編入された。
明治時代の貝塚町
明治15年の地図
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