荒屋敷貝塚の光景

 荒屋敷貝塚からは、千葉市の下町が見渡せます。貝塚は下総台地の端にあります。5000〜4000年前(縄文中期)に荒屋敷貝塚ができました。千葉市の縄文人は狩猟、魚漁、果実・種子・貝などの採取を行ない、暮らしていました。千葉市の縄文人は千年間にわたって、同じ場所に食べた貝の貝殻を集めました。現代の”捨てる”という感覚とは違っていたと思います。縄文時代は土器が発展しました。土器の過度の装飾は文化の発達を示しています。文化の発達には、ゆとりが必要です。貝塚が作られたころは千葉市民にとって良い時代だったのでしょう。

東斜面から北西を見る(ここは日本?)

夏の写真です。涼風が木陰の中を吹き抜けます。  

縄文時代の千葉市民は、遠浅の浜で貝を採取し、この斜面を運び上げました。5000〜4000年前の気温は、現在よりやや低温だったようです。荒屋敷貝塚が作られたころ、海岸線は千葉県庁から中央公園付近にありました。貝を採取するために、数km小川を丸木舟で下りました。

 東斜面から東を見る

今は、水田に水をポンプでくみ上げています。7〜8年前は、湧水がこの荒屋敷支谷(しこく)の何ヶ所かにあり、幅50〜60cmの小川が流れていました。千葉市の多くの貝塚は谷戸地形の舌状台地上にあります。貝塚の下の谷は、下総台地の地下水が湧き出る場所です。
上流の住宅地のために荒屋敷支谷に下水道が敷設され、水はけが良くなりました。生活廃水が自然を汚染しなくなりましたが、湧水と小川はなくなりました。 この画像の水田は今はなくなっています。持ち主がなくなられて、代代わりで家の人がいなくなったため。1980年代に宅地化開発の話がありましたがバブルがはじけて音沙汰がなくなりました。この画像の右方に50年前は池があって、学校から帰った時に遊んで親に怒られたとの話を土地の人に聞きましたが、貝塚トンネルができてからは池がなくなったとのこと。この話をしてくれた人は水脈が断たれたと言っていましたが。

 南西方向の眺望です

写真では、肉眼で見るほどはっきり写りませんが、右の方に千葉市の市街地があります。
荒屋敷支谷と高品支谷が荒屋敷貝塚の南で葭川本谷に繋がります。
葭川支谷を通る葭川
は高品を通り、椿森からパルコ前を流れて、千葉県庁付近で都川に合流します。
現在荒屋敷支谷を流れている川は祐光町で流れを西から南に変え、都川に合流します。この祐光町からの流路が鎌倉時代以前の都川の逆流路に近いと考えられます。
(ヨシ)”は”葦(アシ)”と同じです。”葦”と書いて”ヨシ”と読むこともあります。昔々に葭川はアシ川と呼ばれたのでしょうか。
左 : 荒屋敷貝塚の中央部分に草があまり生えていない空間があります。野芝が自生しています。 犬が遊んだり、子供が遊ぶ場所だからと思います。 10/11は新婚の2人が自転車で来て、キャッチボールをしていました(種々報告書を見ると貝塚トンネルを掘削する際に作られた立坑ののようです。深い小さい穴があって、何だろう)。
周りに生えているススキの中に座れば、仲秋の名月を自然の中で見れます。 

右 : 南の斜面を登る斜面で貝層が見れます。

2000年元旦 縄文人も、この光景を荒屋敷貝塚から見たのです。

2001年元旦 

2002年元旦
2002/1/1は東の空に雲がかかり、きれいな日の出は見れませんでした。「歩く会」の人で、乾杯!貝塚町貝塚群や園生貝塚の話しをしながら。
2001/12/31
初日の出、かえりみすれば、もちつき

サッカーやキャッチボール
     
2002/1/13 は貝塚地区児童会の凧揚げ大会でした。
左 : 2000/2/5、17:00頃の貝塚トンネル東方の景色です。南総の花畑に行った自動車で混んでいる京葉道路。


右 : 荒屋敷貝塚を南東から眺めた光景です。京葉道路は当初、荒屋敷貝塚を破壊して切り通しにする計画でした。しかし、荒屋敷貝塚を残すべきとの市民/学者の声がもりあがり、トンネルにすることで荒屋敷貝塚は後世に残ることになり、国指定遺跡になりました。荒屋敷貝塚は貝塚町貝塚群の中心である大型貝塚です。縄文時代の人々の生活を物語る遺跡を残し、市民(犬?)が憩うための自然を残すためにトンネルが作られました。貝塚トンネルは歴史と自然と近代文明が調和した結果できたものです。
貝塚トンネルを車で通る人は1日に何千人もいると思います。なぜここにトンネルがあるのだろうと考えて欲しいものです。

貝塚トンネル
左:2004年元旦。快晴でした。荒屋敷貝塚で初日の出を見たのは30人位(他に犬が2匹)。 歩く会に参加する人もいました。


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 春が来た

2000/2/12 2000/4/22

荒屋敷貝塚

by 貝塚第三自治会 前会長 千脇寅吉氏
出典:自治会会則/名簿
都川の流路を地図で眺めていたら、荒屋敷貝塚付近を流れている小川が、葭川に流れるものではなく、都川に流れる川であることがわかりました。しかし、佑光町付近での流路がおかしい。
葭川も、荒屋敷からの小川も直角に曲がっている所が佑光町です。貝塚町の熟年の人が若い頃は湿地帯があったそうです。沼があり、深田があったとのこと。川の水量が多い時代は沼も広かったのでしょう。荒屋敷からの小川はこの沼地を流れていたと想像します。さらに、縄文中期は今のJR千葉駅付近から中央公園は海岸線だったようです(千葉市モノレール建設関係ボーリング調査による)。
現在の都川の少し北を国道126が通っています。これを本千葉駅から鶴沢小学校まで自転車で走ると、葭川から稲荷神社(大和橋の北)まで力が入って、神社を過ぎると楽になって、ここから本町小学校の少し東までは緩い下り坂。今は削られて昔より平坦になっているかもしれませんが、神社から北に低い砂州があったかもしれないと感じさせます。自転車は地形を感じさせてくれるいいものです。
都川の云われは「みやご(宮後)川」であるとの説もあります。その説は都川は矢作あたりで北に流路をとって千葉神社の東を流れ、沼で葭川と合流して東京湾に注いでいたととしています。荒屋敷貝塚付近を流れている小川が佑光町あたりで直角に曲がっている所、昔(平安時代晩期)は沼で、その川が都川の分岐点からこの所までは昔は逆に流れていたのではないかと想像できます。
荒屋敷の縄文人は水量の多かった川が流れ、広い湿地帯があったため、丸木舟をこがないと海に行けなかったと想像します。
ついでですが、都川は昔々、矢作貝塚付近で北に流れを変えて、祐光町付近の沼地を経て葭川と合流して東京湾に注いだとのことです。千葉氏が本拠を千葉猪鼻城あるいはその近くに移してから、耕地を増やすため都川の流路を真西に変更して現在の流路になったとのこと。現在、荒屋敷支谷から流れる流路の祐光町〜矢作の流路は鎌倉時代以前は逆方向に流れていたと想像されます。