ノート

1. 単語集

用語 英語 説明
土器 どき pottery、earthen vessel 900℃以下の温度で野焼きで焼成された焼き物
胎土 たいど 粘土と骨材からなる土器の原料。
粘土 ねんど clay 花崗岩などの鉱物が風化され粒子となり、海/川などで細かい粒子が堆積してできたもの(2次粘土)。平均粒子径5μm以下の粘性を示す鉱物粒子(粘土を使う分野によって数値は違う)。骨材を添加した後の「胎土」を粘土と言うこともある。
骨材 こつざい 土器の場合、粒子径の大きい原料。砂、動植物の繊維。成形時/焼成後に器の強度をupするために胎土に加える。混和材ともいう。
ミル みる mill 乾燥した粘土を細かい粒子にする機械。加曽利貝塚土器づくり同好会では石の車を回転させて、その車輪の荷重によって粉化している。粉化装置はgrinderと呼ぶが、おおそれた装置ではないので、mill。
土練機 どれんき kneeder 強い馬力のモーターで動くスクリューで胎土を回転/送り出すことによって胎土を練る装置。土練機は陶芸分野での呼び方。一般工業ではニーダーと呼ぶ。
成形 せいけい forming 設計図/作りたいイメージに従って土器をつくること
輪積み わづみ 粘土を数cmのヒモにして輪っかにして下段の粘土に積んで押しつぶして結合させることにより土器を成形する方法。土"器"のほとんどがこの方法。ミニチュア土器は玉造り法で作る。陶芸ではヘビ積みと言われる長い粘土ヒモを数段に積む方法もあるが縄文土器成形ではほとんど行われない。
口縁 こうえん 土器の最上部の開口部。土器を人に見立てて、上から 口縁部/頸部/胴部/底部と呼んでいる。
施文 せもん 土器等に文様をつけること。山内清男の研究によって縄文を施文する方法が解明された。
原体 げんたい 土器の縄文の施文に使用するヒモ。縄文時代はカラムシ等の繊維でヒモを作ったが、現在は綿等のヒモでも可。
磨き みがき graging 施文後、生乾燥状態のうちに表面が平滑な貝/石で土器の平滑な表面を圧迫して細孔に粘土粒子を押し込み水漏れを防ぐ
焼成 しょうせい firing 土器の場合、550℃以上の炎で施工した土器を焼いて粘土の鉱物中の結晶水を除去することにより、粒子間を配位結合させる。通常の温度は800〜900℃










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2.C14分析 このホームページでは、質量14の炭素をC14と書くことにします(厳密には化学では 14が正しいですが)


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3.C/N分析 


具体的には、次の値を X軸と Y軸にとって各々の値と両者の比率をグラフにプロットして判断します。

 δ 13(‰) = (C1312 測定値 - 1312標準)/(C1312標準)×1000

 δ 15(‰) = (N1514 測定値 - 1514標準)/(N1514標準)×1000

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4.塩の製造

 最近は、塩が食べ物に大量に使われるため、悪玉になっていますが、塩は健康管理の上で、きわめて重要な要素です。人間の体を維持するのに塩は必要ですし、神経にも。精神的にも必須な要素です。 現在、誰もが塩はあってあたりまえのものと思っています。 それではいけません。
 塩をどのように摂取していたかを考えることは、歴史を学ぶ上で大きな問題です。


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5.プラント・オパール

佐々木氏のHPにリンクします。  『焼畑、水田、プラント・オパール』 に関するHPです。

http://www.coara.or.jp/~sasakiak/Plant-Op.html

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6.谷戸地形、支谷

谷戸地形 : 下総台地の南端には湧水を集めて小川が流れています。その小川が浅い谷を台地に刻んでいます。 この地形を谷戸地形、谷津地形と呼んでいます。中世/近世には谷戸に水田が作れられました。都川や葭川は比較的大きな谷を作っていますが、それらの支流は小さな谷を作っています。その谷を、”支谷(しこく)” と呼んでいます。












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7.蛍光X線分析   

 2003/2/16、母親の宝物(タタラの鉱滓やサヌカイト、土器破片、石器など祖父が収集したもの)を開けてみました。中に、1982/8/17の朝日新聞記事がありました。


 「X線を使った新手法、岡山理大と京大が協力」  −石器の産地ピタリ−

 古代石器の原産地を、放射線科学を使ってピタリと割り出す画期的な手法が、鎌木義昌・岡山理大、東村武信・京大原子炉実験所(大阪)両教授らの十年がかりの研究で完成、・・・(中略)・・・この手法で、古代遺跡から出土した石器が、従来の想定以上に遠くの産地から運ばれていた、などの事実が判明・・・(中略)・・・岩石に含まれる元素が、X線を当てると、それぞれ異なった強さと波長の蛍光X線を放出する原理を応用。同じ種類の石でも、産地ごとに鉄、カリウム、チタン、ストロンチウムなどの含有比率が違うのを利用して、産地を判定する、というもの。・・・(中略)・・・また、二上山産と見られていた京都・弥榮町の遺跡出土のサヌカイト石器は、実は150km余南西の香川・坂出市の金山産だった。和歌山・北山村には、300kmも離れた岐阜・下呂産のサヌカイトが持ち込まれていた。・・・(中略)・・・大阪市立博物館の安井良三研究主幹は「これまで経験とカンに頼って産地を推定していたが、調べ直せば間違っていたかも知れず、・・・・・・」と歓迎している。


 小輩が20年後に縄文時代の文明に関心を持つことを知っていたのか、小輩が母親が敷いたレールの上に乗っているのか、不思議なことです。





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8.酸素同位体分析から気温を推定する   

このホームページでは、質量16の酸素を16と書くことにします(厳密には化学では 16が正しいですが)

 酸素原子には3種類の同位体があります。質量が、16,17,18の同位体です。自然界にはO16が最も多く、O18、O17は少ないですがそれらの比率は一定です。
時代ごとの気温を調べる時は、南極大陸やグリーンランドの氷(H
2O)の酸素原子同位体の比率を測定します。
 氷や水の分子を原子記号で書くと、H
2Oです(高校の化学のレベルではです)。この分子式の「O」はO16の場合もあれば、O18であることもあります。
 気温が高くなると、0
18のH2Oが蒸発しやすくなります。気温が低いと、しにくくなります。O16とO18の比率と気温の関係をグラフに書いておけば、比率を測定することによって、氷が出来た時代の気温がわかります。
 氷が出来た時代を氷に出来た年輪や氷のひずみを測定することによって決めます。
 上記の測定によって、各時代の気温がわかります。












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9.粘土とは    (浜野健也等編集「窯業の事典」朝倉書店発行 参照)

生 成 :岩石が風化作用、堆積作用、続成作用、熱成作用を受けて作られた微小粒子鉱物。
      堆積作用によって生成された粘土には、淡水成粘土と海成粘土がある。
 海生粘土:焼成温度が1000℃を超えると海生粘土は海綿状になり陶質土器以上の焼き物はできない。
        縄文土器は海生粘土で製作できたが、須恵器は海生粘土では製作できない。
        下総地方に須恵器窯跡が少ないのはこのことが原因。縄文土器製作には海生の常総粘土層が使われた。
        須恵器が5世紀に製作された近畿地方では、海生粘土層の一部が淡水生粘土層であったため、淡水生粘土層が注意深く採掘された。

成 分 :粘土性鉱物の混合物。 粘土性鉱物はカオリナイト、ハロイサイト、モンモリロナイト、タルク(滑石)、セリサイト(雲母)など。
      例としてカオリナイト = AL2O3・2SiO2・2H2O

粒子径 :粘土の性質を示すのは2μm以下の粒子。

性 質 :水を加えると可塑性を示し、乾燥させたり焼成すると硬くなる。
 可塑性:鉱物粒子の固形分が最密充填未満における界面張力による。
 固化 : 200℃以下 = 吸着水や層間水の脱水
       500〜700℃ = 結合水(結晶水)の脱水
       1000℃以上 = 晶系変化 (モンモリロナイトの晶系変化は他の鉱物に比べて低温で約900℃)
       (1350℃以上 = 熔融 但し長石分の多少や塩基性の強弱により、熔融温度は変化する)

水 簸 :すいひ。 粘土を多量の水に分散させ、静置し、デカンテーションすることによって、粒子径の小さい粘土質鉱物を分取する方法。
      弥生土器製作に、水簸を行った胎土を使用したものがあると考えられている。
      須恵器以降の陶磁器製作には一般的に行われている。
      工業的には、セントリクリーナー(遠心力利用分級器)やスクリーン(電動ふるい)、浮遊選鉱法が用いられる。

混 合 :土器、陶磁器は粒子径が大きい珪酸鉱物(砂)と粒子径の小さい粘土質鉱物(一種の接着剤)という組合せで製作される。
      土器、陶磁器胎土の鉱物の粒度分布はバイモーダルもしくはポリモーダル。

ねかせ :精製された「粘土」や「胎土」は数ヶ月〜数年熟成される。
      粘土中の有機物の分解や固形分/気泡の均一化、粒子の水和性を増加させて、可塑性や成形性をよくする。





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10.関東地方の土器編年

1978年、 江坂輝弥 作
時  代 型  式 地層
晩 期 荒海 
姥山台X
杉田U
真福寺
姥山台U
































後 期 安行 
岩井 
曽谷 
加曽利B
堀之内
称名寺
中 期 加曽利E
勝坂 
五領ヶ台
前 期 十三菩薩
草花 
四枚畑
矢上 
水子 
黒浜 
関山 
二ツ木
野中 
早 期 菊名
清水坂・鵜ヶ島台
野島 
子母口
田戸 
三戸 
平坂・花輪台2
稲荷台・花輪台1
草 創 期 夏島 
井草 
橋立 



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11.土器についた指紋が犯人捜査方法開発のきっかけ


1873年に英国人ヘンリー フォールズは医師として来日し、東京の築地に診療所を構え、病人の治療にあたりました。彼は雑誌社を創立するとともに、著名な雑誌に論文を投稿する学者でもあった。大森貝塚を発掘したエドワード.S.モースの論客であり、反対の立場で公開討論を行った実績もあります。
フォールズは大森貝塚で発掘作業に参加した際に、土器の表面にうっすらと残された何本もの平行した曲線に目をとめ、指紋に違いないと考えるようになった。現代の陶器にお同様なことがあるだろうかと思いながら東京の市場を回るうちに、陶器の茶器に指紋があることを認めた。特徴のある曲線のパターンがいくつもあることから、陶器に残された指紋からその陶器の作者を同定できるのではないかと考え始めた。
フォールズが診療を行っていた病院の棚にあるビン入りのアルコールが徐々に減るという小さな事件が起こった。近くにあったビーカーをよく調べたところ、多くの指紋が残されており、その指紋は診療に通うフォールズが教えている医学生のものであり、その人間がアルコールを酒代わりに飲んでいたことが判った。
フォールズは指紋が個人識別の方法として確立するため、多くの学者に協力を得、多くのデータを集めようとして、まずダーウィンに手紙を出したが、ダーウィンは老齢を理由にして支援することはなかった。
フォールズは雑誌「ネーチャー」1880年10月28日号に投稿し、指紋検査が犯人検挙の方法になることを訴え、データ収集の協力を求めた。各国の警察にも協力を求めたが、フォールズの運動に共鳴する人はすぐには現れなかった。
指紋による個人の識別が世間で認められるには多少の時間がかかりました。 現在、どれだけ役に立っているかは誰でも知っています。

「指紋を発見した男」 コリン・ビーヴァン著、茂木健訳、主婦の友社 発行 参照

東京都中央区明石町にある聖路加ガーデン(聖路加病院の東隣)に「指紋研究発祥の地」の石碑があります。
指紋研究発祥の地
ヘンリー・フォールズ住居の跡

ここは明治初年にあった築地居留地の18号地で、英国人医師ヘンリー・フォールズ(1843〜1930)が明治7年(1874)から同19年(1886)に至る滞日中に居住した所である。フォールズはスコットランド一致長老教会の宣教師として来日し、キリスト教布教のかたわら、築地病院を開いて診療に従事し、また日本人の有志とはかって盲人の保護教育にも尽力した。
彼はわが国で行われていた指印の習慣に興味を持ち、たまたま発掘された土器に印象されていた古代人の指紋を発見し、これにヒントを得てここではじめて科学的な指紋の研究を行った。
明治13年(1880)10月、英国の雑誌「ネーチュア」に日本から投稿した彼の論文は、科学的指紋法に関する世界最初の論文といわれ、その中で早くも犯罪者の個人識別の経験を発表し、また、指紋の遺伝関係にも言及している。
明治44年(1911)4月1日、わが警察において、はじめて指紋法が採用されてから満50年の今日、ここゆかりの地に記念碑を建立し、その功績をたたえるものである。











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12.千葉市中央区寒川町の寒川神社の茅の輪 (ちのわ)

 毎年6月30日は 「大祓い」 の日で一般に茅の輪を設ける神社があります。大阪/京都/奈良ではよく見かけましたが、千葉市では茅の輪を設けている神社は少なく、探したら本千葉駅の南西/旧街道沿いにある寒川神社で茅の輪を設けていました。6/30に行ったらご夫婦が一組、なぜ来たら聞いてみればよかったのですが聞かず。お参り方の説明を熱心に読んで、「こうすんだろう」等と話していたので初めての様子。63才の小輩も約10年前に6/30の意味や茅の輪のことを知ったので、同じようなものか。思い出してみると、小さい頃、奈良県桜井市の三輪明神に行った時に茅の輪をくぐった記憶がありました。古くからあった神社で儀式を続けている所がやっているようです。いろいろあるでしょうが。
 一般に、茅の輪のくぐり方はまず左回り、次に右回り、最後にもう一度左回り。くぐりながら祝詞を小さな声で。祝詞は神社によって違うので神社の説明を読んでください。小輩の場合、「さきみたまぐしみたままもりたまえ、さきはえたまえ」ですませています。
 茅の輪はチガヤの茎と葉を束ねて輪にして作ります。6月はチガヤの穂が終わりに近づいているので、青々しているのではなく、一部枯れた感じの輪になります。千葉市ではチガヤは野原にたくさんあるので問題ないと思いますが、都会に近い神社の場合はチガヤを入手するのに大変かもしれません。5月に穂が出始めますが、その時に穂を食んで見るとミルクのような感じがするのでチチガヤと呼ばれ、それがチガヤと言うようになったと言われています。このチガヤ、住居の屋根を葺く(ふく)のに使われたこともあるとのことです(現在アフリカで屋根を葺くのに使われることもあるとのこと)。「千葉」という地名の謂れとして、 <チガヤがたくさん自生している所> であるとの説もあります。
 古事記の時代に茅の輪をくぐることによって疫病を防いだとの話があり、その効き目は半年とのことで、毎年6/30の晦日、12/31の大晦日に茅の輪くぐりをやる習慣があったのことです。12/31要は枯れたチガヤを保存して茅の輪を作ったと思います。




神社の入り口に千葉市教育委員会の説明板があり、次のような内容の説明がありました。

 寒 川 神 社 Samugawa Jinja Shrine
所在地 千葉市中央区寒川町一丁目123
 一説には延喜式内社の寒川神社と言われ、寒川地区の総鎮守で、古く神明神社または伊勢明神と呼ばれていました。天照大神を主神に寒川比古命、寒川比売命を脇神にまつり、天正19年(1591)徳川家康も社領十石を寄進していて、明治元年(1868)に社号を寒川神社に改めました。
 昔は、海上往来の船が同社沖にさしかかると礼帆といい帆を半ば下げて航行し、また社前を馬上で通行する者は下馬して敬意を表したと伝えられる。昭和39年の出津海岸の埋立てまでは、8月20日の祭礼に海岸の大鳥居から神輿が勇壮に海に入る海上渡御の古式(お浜下り)が行われていました。
 当社はたびたび火災にあい多くの宝物を失いましたが、神鏡・袖帯・獅子頭は焼失を免れ現在に伝えられています。特に獅子頭は、桐材漆塗で刻法は力強く、全体に古雅であり、御神体として祀られています。また頭の内側に文明13年(1481)の修理朱墨銘があるが、様式が法隆寺に伝わるものと類似している所があり、製作年代を鎌倉時代とする説があります。

The shrine, originally called Shinmai Jinja or Ise Myojin, was renamed Samugawa Jinja in 1868. The shrine is so glorious that Shogun leyasu Tokugawa donated land to it; those passing on horseback dismounted in respect and ships dipped their sails to salute it. Before land along the coast was reclaimed, a time-honored ceremony involving the carrying of a portable shrine down to the sea was held each August 20. The shrine's ancient lion head is said to have been made between 1190 and 1330 as an object for worship.

平成10年3月 千葉市教育委員会    March 1998 Chiba Municipal Board of Education







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13.立秋 関連 (季節らしさ)

 立秋は最も夏さの時で一番暑い時のことです。これから秋めき立つとのこと。秋の気配が感じられ始めると二十四節気に書かれています。よく、TVのニュースなどで「季節は秋になりましたが、まだまだ暑さは続きます」などと言われますが、これは少し違っているようです。
 小輩が高校の時、学園祭が秋分の日近くにあって、その学園祭でプロネタリウムの解説をしていたら暑くて扇風機を動かしたことがありました。10月になったら涼しい日が増えて、それでも10月中にやや暑い日がありました。
 同様なことが立春/立夏/立冬についても言えます。

上の図は2002年の夏に作ったものです。参考まで。


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アライグマをオリワナで捕獲する

 昨年、落花生を庭のプランタとベランダの1坪の畑に植えました。10月末、もうそろそろ抜いて乾燥させようかと思った時に小動物に食べられました。しょうがないかと思っていましたが、今年3月初めに庭のプランタに植えていたチューリップの球根がことごとく食べられました。この管轄はカミさんなので、かなりモンクを言われて小動物の駆除を考えました。
 近くの農家の人に落花生を食べられる小動物の話をしたところ、アライグマだろうとのこと。クボタの展示会でオリのワナを買ったとの話がありました。早速星久喜のクボタ営業所でワナを注文、2週間後に再度クボタ営業所に行ってワナはどうなりましたかと聞いたところ、4月半ば過ぎになるとのこと。注文1週間後に市役所でワナを借りることができるとわかったのでクボタはキャンセル。市役所関係のいきさつは、県中央博物館の生態園で小動物の捕獲の話をしたところ、捕獲申請を市に届けなければならないとのこと。保健所でやっているとのことであったが、区役所に行って聞いたところ、市役所の環境保全課で小動物の外来種の捕獲について取り扱いしているとのこと。市役所の環境保全課に行ったところ、ワナを貸しているとのこと。申請とワナ借用の書類を提出。1週間後ワナを設置することができた。小動物は月水金に引き取ってくれるので、月水金の前日晩に餌を撒いて設定。第1回目は餌の撒き方に問題があったようでトラップが下りていたが捕獲できず、3/31。2回目は捕獲できて、尻尾の縞模様からアライグマと判断。市役所環境保全課にTELしてアライグマを引き取ってもらった。小動物の処理を市役所でやってくれるので助かりました。もしタヌキやアナグマが捕獲できた場合は自然に戻さなければならないとのこと。アライグマ/ハクビシンの場合は処分するとのこと。アライグマを引き取りと同時に代わりのワナを借用。借用開始後2か月はワナを借用できる。3回目は午後7時に設定したら午後8時半には尻尾にシマ模様があるアライグマが捕獲できていたのでトラップ板が上がらないように棒を差し込んでおいたが、翌日4時にはワナのトラップ板反対側の壁が壊されて逃げていた。4回目は午前3時に設定したが午前4時過ぎにはワナを壊して逃げていた。ワナの何らかの改良が行われなければ意味がないとしてワナ借用は打ち切った、4/14。

 第3回目結果 タイプAワナ  第4回目結果 タイプBワナ


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