材料
縄文時代の食


笹蒸と縄文クッキー
荒屋敷貝塚の近くには多くの照葉樹林があります。左右の画像は貝塚インターの北、草刈場南貝塚の南西にある常緑樹の林です。杉やシイの木があります。からっ風を避けるための屋敷森として常緑樹が植えられたものと想像します。
下の画像はシイの実です。シイは常緑樹であり、1年半かけてどんぐりを実らせます。シイの中でもマテバシイは実が比較的大きく、アクがほとんどありません。縄文前期/中期の千葉市は照葉樹林帯だったといわれています。シイ類の木が多く植生したことが千葉市の大型貝塚時代を築いたと想像します。 「食」が文明の基礎になっていたと考えます。

2001/12/24  マテバシイ

2002/1/6 スダシイ

2000/12/  マテバシイ
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縄文人が食べた春の植物 2002年は食べ物を重点的に取り扱います
右 : 「千葉の自然に親しむ会」資料参照 
(2002/3/30に泉公園で説明会がありました)

ヤブレガサです      
上、左、右 : カタクリです。カタクリはイモ(鱗茎)をつぶして片栗粉を作ります。縄文時代はこのイモを食べたかもしれません。
氷河時代(2万年前)は日本全国にありましたが、現在は関東地方を南限として北日本に分布します。千葉市泉公園には自然群生があります。
上図に示すように、7年位で花が咲くようになり、イモが食べれる大きさになります。谷地の斜面に群生していますが、背が低いため落ち葉が多いと十分に生育しません。人が山に入り、”芝刈り”をするような所でないと育たない植物です。人間の生活と密接な関係がある植物と言えます。
斜面に生えていると、だんだん斜面の下に移動すると思えますが、実に甘い部分があるため、アリが実を巣に運ぶため、斜面の上で育つことができるようです。
左、右 : アマナ。ユリ科の多年草です。鱗茎には甘みがあり、おいしいそうです。関東以西に分布します。カタクリと同様、若いアマナは葉が1本、葉が2本になると花が咲きます。
左 : ウラシマ草。サトイモ科です。イモはアクが強く、食べるためには晒す必要があります。花が面白い形をしています。長く伸びるひげを浦島太郎が使っていた釣竿と見て、ウラシマ草という名前がつけられました。雄花は虫が上から入りやすいようになっていますが、出にくく、動き回って虫の体に花粉が十分についた後、下から出れるようになっています。雌花も虫は一旦入ったら出にくくなっており、花粉を雌しべに確実につけるようになっています。不思議です。


右 : キツネのカミソリ。ユリ科の多年草です。彼岸花と同じような性質です。花は盛夏に咲き、葉は春先に出て、初夏になると枯れます。イモはアクが強く、毒性があります。晒すことによって、食べることができます。
  1. 何をどのように食べていたか
    1. 食物の材料
      シカ、イノシシ : 狩猟に弓矢を使用。落とし穴の利用も。
      鳥類、ムササビ : 網猟が行なわれた可能性がある。
      貝類 : 特別な道具は必要としない。
      イワシ、サバ、ニシン : 釣針、モリ、ヤスなど
      堅果類
      (クリ、クルミ、どんぐり):
      三内丸山遺跡のクリDNA分析では、DNAが均一化しており、栽培した可能性大。
      寒冷地帯はアクの強いクヌギやトチの実を利用したが、照葉樹林帯ではアクが少ないシイ類を利用した。
      ヒエ、豆、アサ : 三内丸山ではイヌビエのプラント・オパールが大量に発見され、栽培をしていた可能性が高い。
       
    2. 料理方法
      ・石製ナイフ : 肉は塊状。魚はぶつ切りや開き、(三枚におろす)。
      ・石皿 : ナラ、カタクリなどの植物をすりつぶし、団子/クッキー/(パン)を作る。時代が進むにつれ、石皿などが増える。  小動物/魚などもすりつぶし、料理する。山形県押出遺跡出土の炭化物を分析したところ、発酵が行なわれた可能性があるとの結果が出ました(縄文時代にパンがあった?)。
      ・煮る : シチューや雑炊のようなものが作られた。
      ・蒸す : 本ページ始めに示した土器の円筒部に水を入れて加熱し、朝顔部分で種々団子を蒸す。
      ・焼く : 焼いた証拠はないが、いろりで焼くことは容易に考えられる。
      ・蒸焼き : イモや団子を灰の中に入れて、蒸焼きにする。クッキー状/パン状のものが発見されている。

    3. 調味料
      ・塩 : いわゆる”塩”は後期/晩期から作られる。貝、海藻を調理材料とすることにより塩分として使用された。まれに岩塩が使用される。
      ・味噌/醤油 : イワシ、ニシンが大量に獲れた時に保存 → 魚醤 → 鮨 の可能性あり。
      ・酒/酢 : 三内丸山では、木イチゴ、山ブドウの種が大量に出土し、発酵果実に集まるミバエの蛹が大量に発見されました。 酒を製造した可能性があります。晩期になると、とっくり型/小型注口土器などが多く作られ、酒醸造の傍証になる。
      ・甘味 : 蜂蜜、果実。

  2. 参考文献
    戸沢充則編 新泉社 「縄文人の時代」 C縄文人の食料事情(西本豊広著)
    遠野市立博物館発行 「縄文の暮らしと精神文化」 (第35回特別展:主として小山修三執筆部分)

  3. 追加
    @イルカ漁 :
      30年前にイルカの異常発生に対して、海上自衛隊の優秀狙撃隊員がイルカの狙撃を行ないましたが、一匹も獲れませんでした。スパイイルカが別行動をとっており、情報をイルカ群の本体に超音波で情報を流しています。人間もチームワークを組み、イルカを入り江に追い込み、一網打尽にしないと獲れません。石川県真脇遺跡、千葉県鉈切洞窟遺跡、神奈川県称名寺貝塚でのイルカの骨の集中出土は、漁撈技術の高さ、集落間の意思疎通の良さを示しています。
    Aクジラ :
    クジラの骨(脊椎骨)が一つの遺跡から一頭分そろって出てきたことはないそうです。シャチに追われて、砂浜に乗り上げたクジラは、いくつもの集落の人間が集まってきて、肉を切り取り、持ち帰ったに違いない。残った骨も、集落に持ち帰り、色々な使い方をしたのでしょう。
    B魚の開き(干し魚):
     貝塚から、魚の骨が出土します。魚の骨に興味を持った研究者が、骨の数を調べたところ、魚の頭の骨は多く出土するが、胸から尾までの骨の出土が少ないことがよくあります。魚の身の部分を干すか燻製にして、保存食にしている可能性大です。保存食をどのように使用したかは、読者の想像に任せます。

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P.S.)


干し貝
 縄文時代の千葉市民は遠浅の砂浜で採取した貝を日光で乾燥させることにより、大量に干し貝を生産したという説があります。貝を日光で干すことにより、保存が可能になるともに、蛋白質がアミノ酸に分解し、おいしいものになります。保存加工が施された海産物は、塩分の摂取源として貴重なものでした。大型貝塚の時代は、"塩"が製造されておらず、海産物は商品価値のあるものだったかもしれません。

「小田原屋焼蛤店」にアサリヒメ貝(イ貝)の干貝が売られています。むき身にして、干しただけの干貝です。塩や醤油で煮られていません。縄文時代に作られた干貝はこのようなものかもしれません。塩分はそれほど高くありません。しかし、炊き込みご飯のようなものを作ると、これだけで、かすかな塩辛さと旨みが出てきます。干し貝は、調味料的に使われたと思われます。
「小田原屋焼蛤店」は、千葉市栄町/千葉駅ペリエ/稲毛駅メリーナに店舗があります。ハマグリの干貝は、現在販売していないとのことですが、木更津以南で製造例があるそうです。
 鰹ャ田原屋焼蛤店 本店 : 千葉市中央区栄町37-7  TEL:043-222-2463