4月の遺跡めぐり - 貝塚町貝塚群見学

◇ 2000/4/2に、貝塚町貝塚群(千葉貝塚とも呼ばれます)と貝塚城址などの見学会が行なわれました。
   

  【日  時】  4月2日(日)10:00〜12:00頃
  【集合場所】 京成バス「都町」バス停わき(国道51号)
  【参 加 費】  無料                               
  【現地講師】 日暮晃一氏
  【主  催】   千葉市の遺跡を歩く会
  【コ ー ス】
     西光院貝塚 → 台門貝塚 → 荒屋敷西貝塚 → 荒屋敷貝塚 → 荒屋敷北貝塚 → 草刈場貝塚

国道51号線、京成バス「都町」バス停で、10:00に集合しました。
出発です。県営住宅の北を通り、葭川の後背湿地に出て、干場(ほしば)遺跡/西光院貝塚がある舌状台地(左の写真)に進みました。
この舌状台地の右の崖下には、豪族の家があった等という話がありましたが、小輩は関心がないので、耳の中を左から右に抜けていきました。以降、縄文時代の話題だけを取り上げます。
約30名の参加がありました。
 健康のために歩く人、昔から住んでいる土地のことを あらためて知りたいという人、歴史を学ぶことが面白い人 ・・・ いろいろな人が歩いています。
 みんなが若く見えます。
 
「西光院」は弘法大師関連の寺院のようです。小高い西光院から西を見下ろしたところに、西光院貝塚があります。
台門貝塚は、市道「都賀車坂通り」に分断されています。道の西には、貝塚の断層を見れる場所があります。 右の写真にはイボキサゴが多く見られます。
荒屋敷西貝塚は縄文前期に作られました。貝塚が作られた当時の気候は現代より暖かく(+3℃)、貝塚がある台地の下の谷までが海でした。
隣りにある荒屋敷貝塚が作られた時代(縄文中期)は、縄文人の住宅街でした。荒屋敷貝塚を発掘調査した頃(昭和40年代)は、住居跡がよく見えたそうです。今は、盛土などが行なわれ、判りにくくなっています。
荒屋敷貝塚の入口で、今回の世話人である杉田氏がオリエンテーションしています。
荒屋敷貝塚は、縄文中期から後期に渡って、約650年間使用された貝塚です。その頃の気候は、現代とほぼ同じです。当時の縄文人は、荒屋敷貝塚から海まで、舟で川を下って貝を採ったようです。
荒屋敷貝塚の東にある荒屋敷支谷には、湧水があり、小川が流れていました。暮らしに必要な水がここにありました。この谷の周辺には、他に姥ヶ作貝塚・荒屋敷北貝塚があり、この水源は、千葉貝塚に住んだ多くの縄文人の生活の基本になりました。谷のどこかに、舟付場があったはずです。
荒屋敷貝塚/台門貝塚/草刈場貝塚は、日本で最大級の貝塚です。これらの周辺の住居跡は延べ1000軒程度あると推定されます。比較はあまりしたくありませんが、三内丸山遺跡の周辺に500軒の集落があったと言われていますが、千葉貝塚の周辺にはそれ以上の集落があったと考えられます。
荒屋敷貝塚の貝層はイボキサゴを多く含みます。イボキサゴは、大きくても2cm位の巻貝です。どのようにこれを食べたか判っていません。ハマグリをどのようにして食べたかさえ、判っていません。
荒屋敷貝塚の南側貝層では、魚の骨が多く出土します。
荒屋敷貝塚の人骨の分析ではありませんが、千葉の貝塚の人骨の分析から、植物性食物/陸上動物性タンパク質/貝類を食べていた割合は、ほぼ1/3ずつです。
荒屋敷貝塚は、京葉道路を建設する際に行政調査が行なわれましたが、本格的な学術調査は行なわれていません。しいて言えば、昭和22年に、今上天皇が皇太子の頃、酒詰仲男先生らの指導を受けて、調査したとのことです。
荒屋敷北貝塚(東辺田貝塚)付近に、ソイル・マーク(土の色が濃くなっています)がありました。これが住居跡であれば、方形の住宅跡で、古墳時代か奈良時代のものと思われます。雨後数時間後に見ると、濃淡がはっきりしていて、よく判ります。(この写真の北西では、4年位前、中古車センターの工事を行なう際に、同時代の住居跡が発掘調査されていました。)
草刈場貝塚です。直径は約200mあり、環状閉鎖型貝塚としては日本最大の貝塚です。
左の写真は日暮先生が説明している光景です。

貝層がいたるところで露出しています。土器の破片も、道から手を伸ばせるところに転がっています。
草刈場貝塚から、イノシシの骨は出土しますが、ヤジリの出土はごく数点です。どうやってイノシシを捕らえたかが判っていません。
イノシシを飼育していたという考えもあります。


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