<<<デュシャンの謎>>>

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私が「こ、これは高いなぁ・・・」と思いながら、 抗しきれずに買ってしまった美術書が2冊あります。

1冊は「JAPONISM(ジャポニスム)」
日本美術が西洋美術に与えた影響の特集本で、 主に浮世絵が、19世紀末から20世紀初頭にかけて、 ヨーロッパの印象派やデザイナー達に与えた影響について、 比較図版を並べての総力特集の本。

そしてもう1冊が、今からお話しする 「Marcel Duchamp(マルセル・デュシャン)」 です。


美術家(一応芸術家か?)デュシャンの、 「作品の付属品とその至近距離にある物たち (アイデアメモから写真から資料から年表から器物から近所の風景から ゴミに至るまで)」を、資料と雑物をまじえて、総ざらえしたような本です。

なんだ? 美術の作品集じゃないのか・・・ と思われるでしょうが、 デュシャンの作風を考えると、この本はもう垂涎の品  (たとえ中身が英文でほとんど読めないとしても)  なんであります。

私の好きなデュシャンについて、少しおつきあいください。


マルセルデュシャンは、一般にはダダイスム (正規の芸術概念に抵抗し、伝統的な概念を破壊しようとする反抗的芸術運動) の作家として分類されています。
私はそうではないと思っているのですが・・・ ともかく一番有名な作品は、 「泉」 と題された男性用便器に自分のサインをして美術展に出品したやつです。
中学あたりの美術の教科書によく載っていたので 「なんだこりゃ?」  と思って覚えている方もいると思います。

この 「便器」 は、デパートで買ってきたふつうに売っている大量生産の品物  (彼は ”レディメイド” と呼んでいます。 この人はフランスのダジャレ大王なので、  「待っている=レディ 処女=メイド」  というような 「語呂」 とあわせて楽しんでいたようです)  で、それを適当に買ってきて、自分のサインを入れただけのものです。
それをまともな美術展に作品として出品しようとしたので、 もちろん関係者はカンカンになり、この作品は全然展示してもらえませんでした。

このスキャンダラスな事件で、 彼は「体制的な美術界に反乱を企てたダダイスムの旗手」 と思われているのですが、実際の所は、 権威に反抗するとか伝統を破壊するとかいう目的で、 便器を買ってきて出したわけではなかったようです  (というのが私の個人的な見解です)。  この人の趣味を考えると、「趣味の悪い冗談を、 平然とマジメにやって見せたかった」 だけのような気がするんですね・・・


さて、「レディメイド」という、 超ヘンな制作(?)方法を使って作品を発表したのは、 ワタシの知る限りデュシャンだけ(多分)です。
店で売っているものを買ってきてそれを自分の作品と言い張って出す。  それも 「選択の際には自分の趣味を入れなかった」  と言い張っています。  「自分自身の選択眼すら発揮していない、 ホントに大量生産でその辺に売っているものを持ってきただけ」 というのが、  「レディメイド」 に対するデュシャンの主張なのであります。

ともかく、そんなレディメイド作品として、このほかに「びんかけ (ワインの瓶を洗って干しておくためのフランスの台所用品)」や  「雪かきスコップ(ただの雪かき用のシャベルです、しかし、 これを天井から吊して、下に自転車の車輪とサドルを置いて、 シルエットを壁に写して撮影したモノクロ写真があるのですが、 もうソーゼツに美しいものです!)」  「エナメルド・アポリネール(サポリンエナメル(というペンキ)の 広告板らしいのですが、彼はそのロゴにちょっとだけ手を加えて文字を書き、 「エナメルを塗られたアポリネール」というタイトルにしました。 ちょっと”えっちな印象”になったのが、自分では嬉しかったらしい・・・)」  などがあります。  既製品にちょこっと手を加えたヤツは 「援助されたレディメイド」  と呼ばれています。

時代は20世紀初頭、物品の大量生産が始まった時期で、 「オーダーメイド(注文生産)」や「ハンドメイド(手作り)」 に対する 「レディメイド(大量生産された既製品)」  という概念の新しい波が、何か新しい時代を定義づける先駆けのように、 一種輝いたイメージで把握されて(彼の中では)いたのでしょう。

その「大量に人工的に作られた、無機的な、どこにでもある品物」が、 美術館にある「おもいっきり手作りで精魂込めて作られた、 たった1コのオーダーメイドの純粋芸術作品」と、 同等かそれ以上の価値を持ってはいけないと言う理由はあるだろうか、 特にないだろう! ・・・と考えたデュシャンは、 自信を持って堂々と「便器」を買ってきてアンデパンダン展に出品し、 常識ある人々の袋叩きにあいました(普通はそうだよな・・・)
まわりの反応を予想していなかった訳でもないだろう・・・と思うのですが、 叩かれすぎたのか、多少メゲたようです。

おまけに妹は誰かと結婚してしまうし  (彼はここに近親相姦的な香りを匂わせているのですが、 どうも実際には特に関係はなかったというか、あったとしても片思いというか、 私はむしろ、ガラ夫人に対するダリの敬愛のような、 芸術家の「想像空想上」の熱烈な愛情  (作品に対する追い風になる感情の高ぶり) を感じます)、  まぁ、いきなり 「ローズ・セラヴィ(薔薇色の人生)」  なんて女性名を名乗って、 女装して写真撮ってしまうようなヘンなお兄さんでは、 いくら美人に写ってたとしても、妹もつきあうのはイヤだろうと思うのですが、 とにかくその結婚した妹に、「窓の外に吊して雨ざらしになったまま乾かして ぐちゃぐちゃになった本」 なんていうヘンな作品を送って、もっとあきれられたりします。
(いくら芸術家だと言っても、妹にとってはただのお兄ちゃんなんですから、 やっぱりこんな、訳わからん事する兄ちゃんじゃイヤでしょう・・・)

で、彼は「ちぇっ」と思いながらやさぐれて、 自分がそれまで作った品物のミニチュアセットを作り、 それをスーツケースの中にかわいく納め込んで それだけを持ってフランスからアメリカに渡りました。 (「たった1点の本物」 なんか必要ない、コピーでいい。 というのがこの当時の彼の主張です)

が、アメリカのダダイスムの若手作家達に嵐のように熱狂的に歓迎され、 前衛芸術の神様のようにあがめられてしまいます。(みんなはこの人が、 既成概念に反抗しているんだと思って感動したようです。)

その後、彼は好きな芸術家のコーディネートやサポートをし、 好きなチェスに没頭しまくり (なんと40年間くらい、ずーっとチェスだけをして暮らしています!) 「あなたの作品が欲しい」という人が現れると、 便器だのびんかけだのをデパートで買ってきて、 サインをして売っていました。(いいなぁ、私もびん掛け欲しいぞ・・・)
 この人の場合、「レディメイド」を売っているわけなので、 本物は何個あってもいいわけなんですね。

で、この手の作風なので、 パトロネスにある日パリからのお土産をプレゼントしたんですが、 それが透明のガラス瓶というか、 小さいフラスコの口を閉じただけのものだった、てのがあります。   題して「パリの空気」。

これが何とも言えず繊細なフォルムで、じつにキレイな品物なのであります。

デュシャンはレディメイドに対して 「デュシャンは品物を選ばない、 私の価値観は、製品の選択要素に入っていない」 と言い続けていますが、 ウソをつけ! という感じ。 どれもこれも、実にこの人好みの、 無機的で色気のある繊細な要素の加わった品物ばかりです。
だいたいこの人の供述はウソばっかりなので、 あんまり深く信用できません。
どこで騙されるか、わかったもんじゃないのであります。

さて、彼はチェスをして暮らしながら「もう作品は作らない」と、 死ぬまで何の動きもしませんでした。
−−−美術界がひっくり返ったのは、彼が死んでからです。
ものすごい超大作を美術館に運び込み(遺言で手配ができていたんですね)、 それが「部屋」になっていて、「扉」がついていて 節穴のような「覗き穴」があけてあって、 そこから中の作品を覗くだけ・・・
しかも遺言によって、死後かなりの期間、 作品の写真など一切の複製物は禁止する−−−という、 えげつない条件つきの作品です。

落語で、人を驚かすのが生き甲斐の旦那さんが、 死に際の遺言に 「私はずっと人を驚かしてばっかりで反省しています、 死んだら焼き場でみんなで送って下さい・・・」 と言うので、 みんなで 「あの人も本当はいい人だったんだなぁ」  なんて言いながら棺桶に火をつけると、棺桶から特大の花火が上がりまくって・・・  というような話がありましたが、 まさに 「死んでまで他人を驚かして喜びたいのかおまえはっ!!」  という感じ。 もう、性格がここに極まっている感じです。


この 「遺作」 の写真はようやくつい最近公開されるようになったのですが、 これがものすごい手作りの工芸作品というか、 ものすごく明るい昼間の風景の中に、大股開きの裸のおねーちゃん (顔は見えない)が「ランプ(彼の好きなガラスのレディメイド作品です)」 を手に持って捧げている・・・という、彼らしい「えっちな感じ」の作品です。
ランプは男性の象徴のようですが、彼女が手に持って高く掲げているので、 またしても切られてしまった(去勢された)ようです。  (有名な「大ガラス(彼女の独身者達によって裸にされた花嫁・・・さえも)」 でも、男達は花嫁に向かって空回りし続ける構造になっています。 女性を前にして男性の衝動がむなしく空回りするというのが、 デュシャンの永遠のテーマのようです)


で、もうこれが何が面白いと言って、 「レディメイドでいい、 唯一の本物なんていらない、コピーと本物は同価値だ」  と言い続けたデュシャンが、すべて手作りで (手作りのメモや試作品が、 大量に発見されています) 「唯一の本物」 を美術館に展示し、 写真その他の一切の複製(コピー)を禁じて、 それまでの自分の全ての主張に反する物を、 最後に置いて行ったことです。

この人の作品に触れるのは、パズルゲームをスタートするのに似ています。
彼の作品(謎/質問)があり、彼のコメントやノート(グリーンボックスと呼ばれる ものすごい量のアイデアノートが残されています。 そこには抽象的な走り書きやイメージの断片、 なんかマンガ描きのアイデアノートに近い状態の物ですが、 いろんな意味のあるようなないような事が書き付けられています)、 数々の彼に対する評論や分析、いろんなイメージソースなどを元に、 その謎を解いていくのです。

彼の「謎」は、解けたからといって何の役にも立ちません、  また特に意味もなければ教訓もありません。  多分、人生を生きるための役にも立たないでしょう。
要するに、謎が解ける事(プレイの”結果”)には、 何の成果も意味もないのです。
ただ、チェスの詰め手をずっと考え続けるように、 それを考え続ける課程が面白いのです。
その「解いてもなにも得る事のない”答え”に向かって熱中する欲望」 が「ゲーム(含>チェス)」を解くという作業で、 それが「独身者達」が「花嫁」 に向かってずっと欲望(解きたいという衝動と同じ) を空回りさせ続けるということで、 それが彼の過ごした人生で、彼の作品そのものであるわけです。


この 「(解いたからといって意味のない)純粋な謎」 を 「でも、 謎であるからには解いて答えが知りたい」 と思う衝動について、 ワタシがものすごく好きなデュシャンの作品があります。

「デュシャンが後ろを向いている間に、 巻いたタコ糸(荷造り紐かもしれない)のまん中の空洞へ、 友達に何か小さい品物を入れてもらい、 そのまま金属板で両端をフタをしてしまった作品」  というものです。

その糸を振ると、カラカラと、何か中に入っているものの音がします。 しかし何が入っているのかは、 この作品の作者であるデュシャン本人も知らないのであります。  デュシャンは何を入れたのかを相手に確認しませんでした。
この作品は単にそれだけのもので、デュシャン本人はもちろん、 それを見た我々も中に何が入っているのかわからないのです。  つまり原材料不明の作品です。

中には何が入っているんでしょうか・・・ デュシャンの部屋で入れたのだから、 どうせ押しピンとか、チョークのカケラとか、何かとてもくだらない、 何でもない品物に決まっています。
留めてあるフタを開ければ何が入っているのかわかるし、 確認する事もできます。
しかしフタをこじ開けてしまうと、その瞬間にこの  「謎」 がテーマの作品は、魅力の原因である 「謎」 が消失して、 単なるガラクタになってしまうのです。

第一、そうまでして開けるような物が入っている訳ではありません (多分・・・)
ものすごい宝石が入っているとか、すごい暗号書類が入っているとか、 何か「中身を確認しなくてはいけない価値のある物」 が入っているわけではないのです。
ただ・・・ この作品は中身が何かわからないまま、 この先もずっと美術館に飾られています。
たぶん未来永劫、このまま中身不明のままで飾られていくのでしょう。
ホントは何が入っているのだろうか・・・ ちょっとだけ中を開けて覗いてみたい衝動に駆られます。

でも、開けたトタンに「謎」は「謎」でなくなってしまうのです。 中に入っているのはくだらないガラクタで、 正体を確認しても何の役にもたちません。  玉手箱を開けた浦島太郎のように、 中身を見ても何も(有益な物は)入っていないのです。
ただ、謎が謎だという理由だけで、それを知りたい見たい確認したい・・・ と思わせるのです。 この衝動は永遠に同じ不毛な、 しかし消え去ることのない欲望の繰り返し(見たい、見てしまうと楽しくなくなる、 見たい、見てしまうと楽しくなくなる・・・)を続けるのです。


で、冒頭のデュシャンの本の話に戻りますが、 この本はつまり「ヒント集」です。・・・というか、 このゲームの謎解きに使うための補助材料集のようなものであります。  デュシャンが置いていった、彼の作品の謎を解く楽しみは、 解けたらどうだという種類のものではありませんが、 世界中でこの謎を楽しむ人はけっこういるようです。 チェスの手を40年も考え続けるような男の仕掛けた「謎」は、 解く側も同じくらい長く楽しめる事でしょう。
デュシャンご本人は、冗談好きのとんでもなくダンディな人当たりの良い紳士で、 普段は男性にも女性にも穏やかに接する、静かな感じの人だったようです。



さて彼は、代表作といわれる大作 「大ガラス」  (彼はこれを、ダ・ヴィンチのモナ・リザのように、 ずっと長い間、未完成作品として持っていました) について、  「これを完成させることには関心がなかった。 完成されていないものには、完成された作品では得られないもの、 もっと多くの暖かみというようなものがある。  第一、完成してしまったら、それ以上変えることも、 さらに完全にすることもできなくなるじゃないか」
とコメントしています。
「解けてしまった謎=作り終わった作品=考察する必要のなくなったもの =もう考える欲望を感じないもの」 には興味がなかったようです。


パズルは、解けた瞬間に魅力と価値を失ってしまいます。
しかし解けなければ、 どうしても解いてみたいという衝動をかりたて続けるものです。

この、充たされない終末を求め続ける欲望や衝動の感覚が、 デュシャンの作品全体に漂っている、冷たい色気であるようです。



[コラム__デュシャンのメモ類]

たとえば「グリーンボックス」というメモには、 自動車(のヘッドライト)についてのイメージだと思われる、  こういう文章が書いてあります。  (著作物ですので数行の引用にとどめます。)

このヘッドライトの子供は、図形では、 尻尾を前方に持った彗星であってもいいかもしれない。
この尻尾は前灯児の器官であるが、 このジュラ−パリ間のルートを粉々にしながら(図の上では金粉を)吸い込んでしまう。  (ジュラ−パリ間の自動車の小旅行についてのメモ 瀧口修造訳 以下も同じ)

あるいは「ノート」の中で何度も追求されている  「アンフラマンス(超薄膜)」 についての記述。

超薄膜(域)−− 蜘蛛の巣、巣そのものではなく灰白色の布のように見える巣。 (アンフラマンス9)

これを、デュシャンは作品の中でどう扱っているか・・・

哲学的に解釈しようと、比喩として扱おうと、 (デュシャンは 「印象派以後の絵画は絵の具を通しての表現よりも、 絵の具そのものに溺れている。一番良い絵画は、ピエロ・デ・コジモの  「蜜蜂の発見」 という比喩画だ、 それには絵だけでなく伝えるべき意味が描かれてあった」 と言っています。 比喩や象徴を含む表現は嫌いでないようです)  また、何か別の角度で (たとえば同音異義語の言葉遊びとか)  どこから切り込もうと、最終的に答えにたどり着きさえすればいいのです。

私は、何か明確な答えが用意してあるのではないかと思っています。  ただ、答えは複数あるかもしれません。  いくつか出た答えを組み合わせることもできるのかもしれません。  この人は語呂合わせや複合語、 言葉のダブルイメージなども好きなようですから・・・



* グリーンボックス風の注 *
 この解説は、デュシャンの作品解説としての価値を求めないこと。
 坂田靖子の作品と関連するときのみ、解説として成立させること。

{訳}
このコーナーは、サカタヤスコ風おたのしみ解説文です。
芸術論・美術評論・真面目な研究論ではありません。
サカタヤスコにはこんな風に見えているのですが、
マンガ描きですからマジメに信じてはいけません。
2000.2.9.
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