消えない傷 8

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『覚えてろよ、…ー……ッ』
甲高い自分の声を耳にしながら、目を開くと光が飛び込んできた。寝台に身を横たえたまま手で触れた額はうっすら汗ばみ、呼吸は忙しなく心臓は早い鼓動を刻んでいる。妙に興奮した気持ちでベジータは目を覚ました。
つい今しがたまで、自分は走っていたのだ。下級戦士の訓練場を飛び出し、汗を拭いて一息つく見習い兵士や、飲み物を手に油を売る教官達を突き飛ばしながら、浮き浮きと胸躍らせて疾走した。もう、居場所も名前も突き止めたのだ、これからは毎日だって会いに行けるのだと、踊り出したくなる程の嬉しさと興奮に満たされながら、力いっぱい走っていたのだ。覚えたばかりの男の名を叫びながら。
……『会いに行ける』?一体誰に?
額に置いた手を上げて目の前にかざし、まじまじと覗きこんだ。それは白い手袋を嵌めた子供のものではない。すっかり成長した大人の手だ。二、三度瞬きしながら少しの間視線を彷徨わせ、それから夢を見ていたのだとぼんやり考えた。横たわったまますっかり明るくなった天井を見つめると、僅かばかりの違和感が頭を掠めた。


「――、よおベジータ、やっと目ぇ覚めたんか」
「………」
威勢の良い声に、まだ動きのにぶい脳を揺さぶられて顔をしかめる。なんだコイツは、ここは一体どこだ?惑星ベジータにある王宮の自室でもなければ、フリーザ軍の寄宿舎でもない。そして何より、自分が男と数日をすごした場所……氷の惑星に打ち捨てられた前哨基地ですらなかった。一体ここはどこだろう?
――……まあいい。別にどこでもかまわん
一度寝台に横たわったまま大きく伸びををする。少しの邪魔はあるものの、全体としては穏やかで実に良い朝だった。自分が身を横たえている場所が思い出せない事が不安に感じないほどに、この場所は穏やかで心地良く、信じられないほどに満ち足りていた。唯一足りないのは、隣りで忙しなく動き回る男の気配がする事と、いささか睡眠時間が短かったように感じられる事だ。
むき出しの肌に直に滑らかなシーツの肌触りを感じる。それに、シーツに残る自分以外の何物かの温もりも。顔をずらすと窓から見える木の形状が、この場所がどこなのかを物語っていた。そして何より特徴的は空の色だ。惑星ベジータのように赤くも無ければ、氷の惑星のように凍てついた大気が光っているわけでもない。透明感のある、抜けるような青い空、天気は快晴だった。そうだ、思いだしたぞ。この場所は……



「おめえいつまで寝てるんだ?もう太陽はとっくに昇っちまってるぞ」
「……うるせえ」
再び威勢のいい声がした。平和を破る不調法な声にベジータが眉を寄せながら身を起こすと、ぼんやりと頭を霞ませていた霧が次第に晴れてくる。
そうだった、ここは『地球』、宇宙の辺境に浮かぶ青い惑星だ。フリーザ軍の消滅後、ここに土着してもう10年以上になる。それから、隣りで浮き浮きとした様子で衣服を身につけている男は自分の同族。ベジータと同じく、もはや絶滅必須となった純血サイヤ人の最後の生き残りだ。昨日は日が暮れるまでこの男と戦い、月が昇れば激しく交わったのだということを、思いだした。
「おめえ寝起き悪いな。寝てる最中襲われたら、あっという間にやられちまうぞ」
「……うるせえつってんだ……」
男の言葉に答えながら、まだ少しぼんやりする頭を振った。まるで寝不足のような症状だ、昨夜は疲れて泥のように眠ったはずなのに、つい今しがた眠りに就いたばかりのような気がするのはなぜだろう。
辺りはすっかり明るかった。窓からは生まれたての日差しが燦々と射しこみ、おまけに目の前の男は窓を全開にして新鮮な風を取り入れている最中だったので、全裸のベジータはくしゃみを一つしながら慌ててシーツを体に巻き付けた。お陰で、まだ僅かに霞みがかっていた思考が今度こそはっきり晴れた。
「くそったれ、窓を閉めろ!寒くてかなわん!」
「情けねえなあ、こんなに気持ち良い朝だぞ、シャキっとしろよ」
ベジータは自分を覗きこんでくる相手の顔を睨みつけた。額に落ち掛る豊かな前髪の隙間から覗く、不躾なほど真っ直ぐな視線。削げた頬は精悍だが耳から顎に掛けての落差が短く、どこか子供っぽく人好きのする顔立ちは、良く見知った同族のものだ。そうだ、良く知っている。何しろオレはつい今しがたまで、コイツの膝に乗り上げて顔を間近で見ていたんだからな。もちろん、その左の頬にあるものも。ベジータは僅かに視線を動かした。
「……傷、治ったのか」
「へ?傷??何の事だ」
目の前の男がベジータの言葉に不思議そうに目を瞬く。その頬は太陽の恵みをいっぱい浴びてつやつやと健康的に日焼けし、傷一つ無い。傷一つ……
「……なんでもねえ」
今度はベジータが目を瞬いた。昇る朝日を受けながら、僅かに残っていた夢の余韻が霞みのように消えていく。
「……ちょっと夢を見ただけだ」
「夢か、へえ、どんな夢だ?」
「キサマの顔を見たら忘れた」
「なんだそりゃつまんねえなあ」
なぜ目の前にいる男の顔を見ながら、その頬に『傷』を探し出そうとしたのか。思いだそうとしても、もう思いだせなかった。


「いつまでも寝ぼけてないで、おめえもさっさと着替えちまえよ。飯食ったら修行の続きだ、昨日決めただろ?」
「ああ」
自分の言葉に違和感を感じたまま、ベジータは曖昧に頷いて目の前の男が手際よく衣服を身につけていく姿を眺める。ゆったりとした山吹色の道着も、良く日焼けて筋肉の発達した太い手足も分厚い胸も、見知ったものだ。それなのに今日は違和感を感じるのは何故だろう。ベジータは首を傾げた。それは不思議な感覚だった。寸歩違わず同じ物でも、体に馴染んだ衣服と、おろしたてのものが同じには思えない、あるいは投げかける光は同じなのに、夏の日差しと冬の温もりとでは同じに思われない、そんな違和感だった。ベジータが考え込んでいると、目の前の男が再び口を開いた。
「『傷』って言えばさ」
腹筋の強さを伺わせる、明るい力強い声だ。
「……なんだ」
「おめえのココの傷も消えねえな。ほらココ」
そう言って、目の前の男は、ベジータの目蓋の傷を親指の腹で撫でた。
「フン、何を今更言ってやがる。キサマが付けたんだろうが」
ベジータが初めて地球に降り立ち、戦った時に付けられた傷だ。目の前の男と死闘を演じた際、目の上に受けた男の最後の一撃は、自分の体とプライトを深く傷つけた。メディカルマシーンで治療を受けても傷痕はうっすら残り、今でも消えないままだ。


「仙豆を食ってもここだけは消えないんだな、不思議なもんだよなあ」
腰に手を当てながら感心したような声を上げる男の顔を、ベジータはもう一度眺めた。やはりその顔にも、頬にも、なんの傷痕も見受けられない。聞いて何になる、と思うより早く問いかけが口を突いて出た。
「……お前に傷は無いのか」
「オラに傷?ああ、あるぞ。小せえ時に頭を打ったやつ。今でもここに傷が残ってる」
そう言って自分の頭頂から少し後ろの部分を手で撫でる男は、なぜか誇らしげだ。
「何でもそれまでは、オラはとんでもねえ荒っぽい性格のあかんぼだったらしいけどな、頭を打ったせいで治ったらしいんだ。じっちゃんがそう言ってた」
この傷がなかったら、オラ地球をぶっ壊しちまってかもしれねえんだよな。男の言葉は予想外だったが興味深く、同時に少しばかり感慨深いものだった。もしこいつが頭を打って穏やかな気性にならなかったら。こいつに『傷』が無かったら。こいつはサイヤ人の平凡な下級戦士に過ぎず、オレ達の人生は互いにかすりもしなかったのかもしれんな。
「おめえの傷と一緒だな、オラ、この頭の傷だけ仙豆を食っても消えねえんだ」
珍しく殊勝な気持ちになったベジータを見透かしたかのように、男が真っ直ぐベジータの目を覗きこむ。
「オラ始めは何でこの傷だけ消えねえのか不思議だったけどな」
相変わらず人懐こい笑顔を浮かべる見知った同族の顔を、ベジータはまじまじと見返した。それから戦いに赴く時の表情との落差を思い返した。白目の澄んだ大きな目は嬉しそうに見開かれているが、戦いの時は鋭く好戦的に吊り上がる。大口を開けて良く笑う口元は、戦闘時には引き結ばれ時に荒々しい雄叫びを上げる。削げた頬には何の傷も無く――
『懐かしい』、唐突にそう思った。



「この頃思うんだ。頭の傷は、オラが自分で消えねえようにしてるんじゃないかってさ。この傷が有ったから、オラ悪い奴じゃ無くなったんだ。だからオラにとっては記念の傷だ。これがあれば悪い事なんかしねえっていつでも思いだせるし、地球に悪い奴らが来たらぶっ飛ばせる。大事な記念の傷だから、無意識に自分で傷が消えねえようにって願ってるんじゃないかってさ」
一息に喋った後、男はベジータの目蓋を再び撫でた。
「おめえだってそうだろ?この傷があればオラと戦った時の事を思い出せる。だから消えねえんだ。消しちまう事も、忘れちまう事もできるのに。おめえについてる傷は全部、おめえが無意識に『傷が消えねえように』って、自分で願ってるから、消えねえんだ」
そう言って笑った男の顔を見た瞬間、ベジータの目が見開かれた。堰を切ったようにどっと熱いものが溢れ、代わりに胸にぽかりと空洞が開き冷たい朝の風が吹き込む。ずっと忘れていた古い傷が唐突に開く。同時に、目の前の良く見知った男の笑顔を見ながら、なぜか自分はずっと昔から知っている顔だと思った。


――アイツと最後に分かれたあの日の夕刻、新たな惑星攻略の命令が下された。『もっと強くなるのだ』と心に決めたオレは少しの戸惑いの後すぐに惑星ベジータを離れた。その間隙を縫うかのように母星は消滅し、生き残った僅かな同胞の中にアイツの姿は無かった。恐らく死んだのだろう、確かめるまでもなかった。
――結局、10年どころか100年経ってもオレはキサマに借りを返せなくなったってわけだ。


「…ベジータ…」
古傷を押さえるように胸を強く掴むと、目の前の男が不思議そうな顔をした。
「…おめえ、何で泣いてんだ?」
「………!!!」
ベジータは目を見開き、慌てて首を振って否定した。
「なっ何だと?!くだらん事を言うな、このオレが泣く訳が…」
「けどよ、ほら…」
否定するベジータを抑えて男はその頬を拭い、何かを言いかけようとしたが、急に口を噤んだ。それからにこりといつものように人懐っこい顔で笑ってみせた。
「そうだよなあ、プライドの塊みてえなおめえが、泣いたりする訳無えもんな」
「当たり前だ、このオレが泣くなどという情けない真似なんかするか」
「うん、そうだよな」
寝台に胡坐をかいて否定するベジータの姿を見ながら、男は濡れた手をこっそり後ろに隠した。



「なあベジータ」
傷を見れば過去の記憶を思い出す。それは命の瀬戸際での遣り取りだったり、人生を変えるような衝撃であったりする。そのどれもが、忘れる事も大切に遠ざけておく事も、全て自分の自由に委ねられている。初めて誰かに思いを寄せ実らぬまま破れた古く大きな傷痕は、いつまでも胸の中に消えずに残っている。寝台から降りようとするベジータを、男の手が押し留めた。
「なんだ」
「今日は修行、休みにしねえ?」
「何だと?!ふざけるな、このオレに休みなどというものがあるか!キサマ、今更オレと戦うのが怖くなったてのか?!そんな臆病者に用は無い、オレは一人でも――」
「いいからいいから」
たちまちいきり立つベジータを、男は笑顔で制した。
「たっぷり修行したら少し休む。その方が力が付くんだ。修行ばっかだといざって時に疲れて充分に力を出せねえからな」
「そんな事このオレが――……」
まだ不満を訴えるベジータの言葉が唐突に止んだ。男の手がベジータを捕えて、腕の中に閉じ込める。ベジータの頬に、不満そうに突き出された小さな唇に、男の唇がそっと触れ合わされる。
「――――っ」
ベジータの目が驚きに見開かれ、それからゆっくりと閉じられる。目を閉じる瞬間、大写しになる男の顔と、傷の無い頬が視界の隅に映って消える。自分の頬と唇に温かく柔らかい何かが掠めるように触れた。
「……なあ、そうしねえ?」
一旦解放された後耳元で囁かれた男の言葉に、今度は素直に頷いた。それを合図に再び開始され少しずつ深くなっていく口付けを、男の首に腕を回し、自ら受け入れた。忙しなく繰り返される口付けの合間を縫って、男の名を呼ぶ。
「カカロット…」
体が再び寝台に横たえらる。寝台のきしむ音が耳に届き、全身で感じる男の体温と重みが心地良い。
「カカロット…」
むき出しの肌に男の手がそっと触れてくる。荒れてかさついた大きな掌の感触を、目を閉じて確かめる。
「カカロット…」
自分に触れる掌と唇の感触を全身で受け、時折薄眼を開いて圧し掛かる男の頬を盗み見た後、また目を閉じる。突如胸の奥にぽっかりと開いた大きな傷。これまでずっと埋まらなかった、そしてこれからも決して埋まる事は無い虚ろをそれでもどうにかしたくて、自ら足を開いて体の最奥に男を招き入れた。
「………ッ…」
大きな手のひらが頬を撫でる、その手の暖かさを何故かずっと昔から知っている気がした。深く激しく突き上げられて意識を失う直前、最後に呟いた名は小さすぎて、もう自分の耳にも届かなかった。


傷を見れば過去の物語を思い出す。傷が言葉よりも雄弁に語る数々の記憶は、腕や足と同じように自分だけの物であり、自分だけに属し、他の誰にも奪う事は出来ない。同時に捨て去る事も、あるいは大切に遠ざけておく事も、全て自分だけに許された自由なのだ。
深海に眠る宝石のように、最も深い傷は今、自分の胸の奥底でひっそりと眠っている。




- end -