消えない傷 1

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傷を見れば過去の物語を思い出す。それは名誉であり、苦い経験であり、その何れにも属さなくとも忘れがたい記憶であったりする。傷が言葉よりも雄弁に語る数々の記憶は、腕や足と同じように自分だけの物であり、自分だけに属し、他の誰にも奪う事は出来ない。同時に捨てる事も、あるいは深海に眠る宝石のようにひっそりと大切に遠ざけておく事も、全て自分だけに許された自由なのだ。


「やっと見つけたぞ!」
迷路のような長い廊下を抜けた先にある下級戦士の訓練場に、子供の甲高い声が響き渡った。惑星ベジータに数有る訓練場の中では比較的設備の整った屋内は男臭い汗の匂いに満ち、十人ばかりの兵士達は互いに格闘したり、梁から下がる砂袋に拳を打ち込んだり、高い場所に張り巡らされた網の上で身のこなしを練習していたりしたが、場違いな子供の声を耳にして皆一斉に手を休め、顔を上げた。
「おいキサマ、さっさとオレに礼をさせろ!」
大人達の視線を一身に集めながら、子供は恐れを知らぬ様子で再び声を張り上げた。腕を胸の前で組み、胸を反らせて堂々たる振る舞いで自分の倍近くもある目の前の男を睨み上げている。その瞳の輝きは強く、並みいる大人達を怯ませるほどの気迫がこもっているが、白く滑らかな肌や顔の造作はひどく愛らしくあどけない。肩から滑り落ちるマントが真紅に染められていているところを見ると、どうやらこの子供はエリート戦士の中でも特に上位に属する者の子息らしい、ということは誰の目にも分かった。なぜこんなむさい場所に階級違いの子供がいるのか、一体何の用だと皆が見守る中、子供に睨み上げられながら一人汗を拭いていた男がのそりと顔を上げた。


「――ああ、誰かと思えば、またこの前のガキか」
うるさそうに口を開いた男の顔は精悍で、何よりその左半分を覆う大きな十字傷が人目を引いた。目尻から顎にかけて走るその傷はつい最近できたばかりらしく、まだ熱を持ってあちこちの引き攣れが生々しい。それが一層、油断ならない彼の印象に凄みを与えていた。屈強な他の兵士達に比べて上背こそ高くは無いが、纏う気配は彼がこの中で一番の使い手であるという事をうかがわせる。額に落ち掛る豊かな前髪の隙間から覗く、落ちくぼんだ眼窩。武骨な顎の線はどこかしら子供っぽくもあったが、鋭い目の光は抜き身の刃物そのものだ。
「こんな場所に隠れやがって、このオレから逃げられると思ってるのか!」
「別に隠れちゃいねえよ。…ったく、しつけえガキだな」
恐らく貴族以上の身分を持つ子供を前に、何の気負いも無い顔つきで男は相手を見下ろした。
「うるさい!オレは借りを作るのが大嫌いなんだ!さっさと礼をさせやがれ!」
「俺はガキから物を受け取るようなちんけなタマじゃねえんだって何遍も言ってるだろううが。ガキは早く帰って昼寝でもしてろ」
「キサマ、このオレに向かって……!!」
軽くあしらわれて、子供は頬を紅潮させて怒りの表情になった。目の前の男は、彼がこれまで出会ってきたどの大人とも違っていた。大人は皆、彼を見れば嘘くさい笑いを浮かべ、ぺこぺこ頭を下げたり、揉み手をしたり、常に彼のご機嫌をうかがっているものの筈だ。何しろ彼はこの星で父を除けば誰より身分の高い『ベジータ王子』なのだから。


「さっさとどけ、ガキが。オレはてめえみてえなガキと遊んでる暇は無いんだ」
「何だと?!キサマ…」
「どかねえと無理やりにでも摘みだすぞ」
言うが早いがすぐさま本当に子供――ベジータを掴み上げようと手を伸ばしかけた男を、それまで固唾を飲んで事の成り行きを見守っていた同僚の一人が慌てて押しとどめる。
「まあ待て、こんなガキ相手に何ムキになってるんだ」
「別にムキになってなんかいるか。こいつが鬱陶しく纏わりつくから退かせるだけだ」
髪を後ろで束ねた同僚が男の肩を掴むと、同じく下級戦士の同僚がもう一人、立派な腹をゆすりたてながら身を乗り出してくる。
「おいおい、一体なんだこのガキは。ひょっとしてお前の隠し子か何かか?」
「カスが。そんなんじゃねえよ」
急に集まり始めた野次馬に、男はうるさそうに舌を鳴らした。こんなガキの事などどうでも良いが、痛くもない腹を探られるのは面白く無い。
「チッ、仕方ねえな。おいガキ、ここじゃ他の奴らの邪魔になる。とりあえず他の場所に行くぞ」
そう言って男は、目の前のベジータの襟首を小動物でも掴むような手つきで掴み上げた。
「?!おいっキサマ、何しやがる!!このっ離せ!下ろせ!!」
「済まねえトーマ。俺はちょっと休憩だ。トレーニングは他の奴らと続けてくれ」
掴まれて宙で手足をじたばたともがかせるベジータを全く意に介する事無く、男は仲間に言い捨てると大股で訓練場を後にした。


「――離せ、離せってんだ!!離さないとキサマを今すぐ殺すぞ!!」
「まったくうるせえガキだな、今離してやるよ」
控室の戸口で後ろ手に扉を閉めながら、男は掴んでいたベジータの襟首をようやく離した。解放されるとすぐさまベジータは見事な身のこなしで地に降り立ち、直ちに振り返って再び男を睨み上げる。
「キサマ、このオレを物みたいに掴みやがって!!……フン、まあいい、その話は後だ。キサマ、早くオレに礼をさせろ」
「本当に懲りないガキだな。そんなもの必要無えって何遍も言ってるだろうが」
再び偉そうにふんぞり返る子供を見て、男はいささか呆れた顔をしながら壁にもたれて腕を組んだ。
「キサマが必要有ろうが無かろうが、そんな事は関係無い。オレが礼をすると言っているからするんだ!」
「そんな物が『礼』と呼べるか」
「うるさい!だからオレは借りを作るのが大嫌いなんだ!さっさと借りを返させろ!そうすればキサマのような下級戦士ごとき、すぐにぶちのめしてやる!!」
「だったら尚の事、そんな礼なんか受け取れねえよ」
「キサマに選択権は無いんだ!クソッ、本当なら今すぐキサマなんか殺してやるところだ!よりによって、キサマのような下級戦士のクズなんかに……」
「へえへえ、クズで悪うございましたね」
どこまで怖いもの知らずなガキだ。それまでひたすら素っ気なくあしらっていた子供があまりにも恐れ知らずに食いさがってくるので、さすがに男は根負けした様子で少しばかり態度を軟化させた。
「そのクズに助けられて、ガクガク震えていたのはどこの誰でしたかね」
「なっ、何だと?!オレは震えてなんか…」
「ああ、震えてたな。しかも俺の膝の上で小便までちびりやがって」
「ちっ違う!!このオレがそんな無様な真似をする訳が無い!!」
小さな肩を怒らせ、顔を真っ赤にして怒鳴るベジータを見て、男は遂に声を上げて笑い始めた。
「ははは、残念だったな!証拠映像を残しておくべきだったぜ、そうすればお前みたいに聞き分けの無いガキも納得するはずだったのにな……っ!」
破顔しかけていた男は、そこまで言って急に顔をしかめた。顔の左半分を抑え、低くうめきながらよろよろと手近な椅子に腰掛ける。
「……!」
懸命に男に食いさがっていたベジータが、男の異変にはっと息を飲んだ。男が押さえる左頬に付けられた癒え切らない大きな十字傷が、再び裂けかかって手の隙間に新たな血を滲ませている。相当に痛むのか、男は肩で大きく息をしていた。
「おい、痛むのか…?」
ベジータが眉をひそめ、まるで自分の傷が痛むかのような顔で、項垂れる男の顔をそっと覗き込む。白い手袋をはめた小さな手が自分の膝に添えられた感触に気が付くと、男は息を大きく吐き、痛まない側の口の端を持ち上げてニヤリと笑った。
「……へっ、心配すんな。ガキに心配されるような傷じゃねえよ」
男の言葉に束の間安心し、直後にベジータの丸くすべらかな頬がぱっと赤くなった。
「だっ誰が!下級戦士の心配なんぞするか!」
「まあ、これも『名誉の負傷』ってやつだ」
そう言って男は、もう一度息を漏らすような声で低く笑った。