廃藩置県は何故成功したか?
「道州制」は明治維新の「廃藩置県」に匹敵する大改革である。「廃藩置県」が幕藩体制の解体を意図したのに対して、「道州制」は中央集権体制の解体を必然とする制度であり、いずれの場合も難かしい既得権の解体を伴う点が共通だ。「道州制」を首尾良く成功させるためには「廃藩置県は何故成功したか?」を知る必要がある。
大前研一氏の近著「チャイナ・インパクト」(講談社刊)によれば、中央集権国家であるはずの中国では行政のスリム化が断行され、中央政府(国務院)の規模は3万4000人から1万7000人へと削減され、実質的に地方自治権が確立し、中国はアメリカに似た連邦制国家へと変貌をとげつつあるとのことである。大前氏は広東省、福建省、上海・蘇州、山東半島、北京・天津、遼東半島の6つの地域が地域国家を形成しつつあるので、日本も負けずに道州制導入で連邦地域国家を作り、多面的な付き合いを始めれば理想的な地域国家間の相互依存体制ができあがり、幸せな日中関係が築けるはずだとしている。
問題は日本ではスケールの大きい傑出した政治家が少なく、中国のような大胆な改革が難しいことである。明治初期の日本はどうであったか?歴史研究家の間でも近年になって廃藩置県がクローズアップされており、明治維新史学会という学会は最初の2年間「廃藩置県研究会」として発足し、すでに多くの研究が発表されていることが判った。
明治4年7月14日の朝、皇居に呼び出された在京の知藩事56人の前で読み上げられた廃藩置県の詔書には「さきに諸藩、版籍奉還の議を聴納し、新たに知藩事を命じ各其職を奉ぜしむ。然るに数百年因襲の久き、或は其名ありて其実挙らざる者あり。何を以って億兆を保安し、万国と対峙するを得んや。朕深く之を慨す。よって今更に藩を廃し県と為す。」と述べられており、版籍奉還によって府藩県の三治体制を実施し知藩事を命じたが、実が挙がらないので、国民の安全を保障し、諸外国と対峙するため役に立たない知藩事は罷免すると宣言したのである。旧知藩事は華族の名が与えられ上京を命じられた。
廃藩置県の宣言は多くの人にとって寝耳に水であった。この宣言のきっかけを作ったのは戊辰戦争に参加し兵部省の官吏になっていた長州藩の鳥尾小弥太と野村靖で、2人は7月初旬、親分の山県有朋を訪ね、酒を飲みながら現状を嘆き廃藩論を述べたところ、山県は即座に同意し、井上馨を通じて木戸孝允に廃藩論をもちかけることにした。長州メンバーだけでは事が運ばないので、山県は薩摩藩の西郷隆盛を訪ねたところ、西郷も「宜しかろう」と応えたとのことである。西郷は山県の提案を受け早速大久保利通を訪ねている。
7月10日、木戸、西郷、大久保会談で廃藩の発令日は14日と決まった。右大臣三条実美に廃藩断行を告げ、天皇に上奏し裁可を得ることが決まり、三条には木戸と西郷が、岩倉具視には木戸と大久保が廃藩計画を通知している。岩倉には事前に連絡しないという意見があったが、木戸が岩倉に告げないことは忍びないといったことから、岩倉にも知らせることになった。日本の伝統ともいうべき密室談合政治そのものである。廃藩置県が中堅官僚の発案であったところも日本的である。傑出した人間がいないときは談合政治もやむを得ないのかも知れない。
明治の廃藩置県で評価すべきことは、だらだらと議論せず1ヶ月に満たない短期日にドラスティックな改革を決断したことである。明治新政府の危機感がそれを可能にしたのであろう。廃藩断行には反乱者の出現も予想されたが、予期に反して武力蜂起はみられなかった。薩摩藩の島津久光が怒り心頭に発して、夜通し花火を打ち上げ鬱憤を晴らしたことはよく知られているが、藩自体は意外に平穏で、多くの士族は茫然たる様子であったという。
反乱が起きなかった理由はすでに明治2年6月17日の版籍奉還で、全国の土地と人民の所有者は中央政府(天皇)であることが制度上確認されていたこと、士族の多くは無知の集団ではなく今日の官僚に該当し、世界が国家主義、戦争の世紀に向かいつつあり中央集権化を必要とする「時代の変化」を意識していたこと、及び藩自体にとっても藩札の整理を政府が肩代わりすることになり借金から解放され、家禄が保証されたことにある。廃藩を前向きにとらえる士族もおり、福井藩のお雇い教師として物理学と化学を教えていたアメリカ人のグリフィスに「これからの日本は、あなたの国やイギリスのような国々の仲間入りができる」と喜びを語った者までいた。
しかし、無知な農民の一揆は頻発したようだ。一揆が起こった地域には様々のデマが広まり、それが一揆の原因となった。中央政府は異人が政治を行う場所であり、異人は女性の血を絞って飲み、牛肉を食べ猿のような着物をきている。女性や牛を異人へ売り渡す政府は鬼であると嘆き、旧藩主の上京を止めようとした。広島では10万人規模の一揆が起こり、軍隊による鎮圧が行われた。親兵を構成する薩摩、長州、土佐藩が新政府の拠り所であったが、木戸(長州)、西郷(薩摩)に加えて、板垣退助(土佐)と大隈重信(肥前)を参議に登用し薩長土肥4藩の結束強化と、軍事・財政面からの強化をはかり反乱に備えたため、中央政府に反抗できる藩は無かった。
明治4年11月に3府72県へと300以上有った藩の統合が完了すると、各府県の長官(府知事、県令)が任命され、県令の権限を定める県治条例が公布された。任命された地方長官は殆どが他府県出身者から登用され、旧藩勢力との断絶を図り既得権を解体する廃藩置県の方針は貫かれた。旧藩の既得権解体で中央集権国家としての基礎を築き、欧米諸国と対等な関係を築くべく、国家と社会のあらゆる分野に西洋文化を導入し、日本の大改革を成功させたが、旧藩士族の給禄をただちに変更せず、後日の課題としたことは国家財政の大きな負担となり、士族の切り捨てと苛酷な処分を避けられないものにした。日本全国では家族も含め190万人(当時の人口の約6%)の士族が失業し、苛酷な処分が一部士族の反乱となって明治10年の西南戦争に発展したことは明治維新に大きな禍根を残すことになった。明治維新にも問題先送りの弊害を読み取ることができる。
20世紀は国家主権という価値観を国際社会で確立し、国益を争い、国民の生命と財産を犠牲にして、民族の存亡をかけた大規模な戦争を繰り返してきた。戦争の世紀には「不可侵の国家主権」を守るための強大な政府と有能なリーダーが求められたが、今や時代の状況は大きく変わりつつある。インターネットに象徴される科学技術の発展が時間・空間の制約をとり物理的な国境を無くしてしまうからである。国境が無くなれば守るべき国家は無くなる。どんなに強大な政府をつくっても、個人のテロ攻撃は防止が難しい。税金を浪費する大きな政府は存在理由を問われることになるだろう。国家が個人を束縛できる世紀は終わったのだ。必然的に個人には自己責任が求められるようになる。国家の枠を超えた市場経済の相互依存性はますます強くなり、日本経済の低迷が続き、再生の道が閉ざされれば、個人資産の国外流出は避けられないだろう。
「国家」に代わる新しい時代のキーワードは「地域」、「ネットワーク(相互依存関係)」と「ボーダレス」である。「道州制」は国家の権限の多くを州政府に移し、世界に開かれた「自立」した地域社会を構築する試みの一つである。税金に依存しないリソース(人、物、資金、情報)の活用で地域の活性化をはかり、地域住民の相互扶助の力で個人の生命と財産を守る「共生」の試みでもある。
地方分権一括法施行から2年、国内では市町村合併の動きが出てきているが、地方交付税存続という餌につられた動きはかえって財政支出を増大させ、中央依存を促進することになりかねない。地方分権は掛け声だけで、東京一極集中の弊害は全く解消されないばかりか、地価下落で都心部の人口は再び増加に転じているのが実態である。中央省庁や族議員の抵抗で、税財源の地方への移譲問題が先送りされただけではなく、権限移譲には地方自治体が積極性を欠き、現行の都道府県・市町村のもとでの地方分権の限界を露呈している。
「道州制」は権限移譲に耐えられる受け皿を創り、広域行政を担う地域国家創生の試みであって、地方制度改革における選択肢の一つではない。地方自治体の中央依存を断ち切り、既得権を解体して「道州制」が実現できれば、日本は明治維新、戦後復興につづき、奇跡の再生を遂げることは間違いないだろう。
明治初期と異なり今日では、主権者は中央政府(天皇)ではなく国民であることが憲法に明記されている。主権者の国民が決意すれば、如何なる大改革も実現可能であり、前途に制度上の障害はない。幸いなことに独走する軍隊も無いので反乱の心配も無用だ。改革断行に障害となりそうなものは利権に縋る「マスメディア」と現代の士族「官僚」「族議員」である。道州制導入で中央省庁の官僚の大半は無用となるが、税金で知識を身につけた官僚は率先して自活の道を歩んで欲しいものである。「族議員」を除けば道州制に賛意を示す国会議員は多い。国家財政が破綻に瀕していることを誰よりも理解しているのは官僚であり、道州制導入に熱心な県知事の多くは元官僚だ。明治初期と同様、賢明な官僚は「時代の変化」を敏感に感じ取り、借金漬けの国家には見切りをつけていることだろう。井上馨のもとで廃藩置県の作業を手伝った渋沢栄一は官を辞し、明治の「大起業家」となった。力量のある官僚には道州制導入で鮮やかな転身を期待したい。
文京区 松井孝司
生活者通信第83号(2002年7月号)より転載