廃藩置県は何故成功したか?(第2報)


「道州制=廃県置州」は平成版「廃藩置県」であり、その本質は国家の構造改革でなければならない。「廃県」が単なる広域行政区画への変更で終らせてはならないのである。道州制の意義は「小さな政府」の実現、中央集権制で派生している既得権の解体にある。既得権を解体することは、既得権を持つ当事者には不可能であり、既得権を持たない人間が、人知を尽して行動しない限り、真の構造改革は実現しないだろう。
 生活者通信第83号(2002年7月号)では、明治期における時代の背景と各藩の財政事情という歴史的事実を踏まえて「廃藩」に至る経緯を説明したが、福沢諭吉は「廃藩置県」が成功した一番大きな理由は、「知力」にあるとし、人知の重要性を指摘している。

 福沢諭吉は「文明論の概略」の中で、廃藩置県を遂行したのは執政の英断ではなく、門閥なき者、門閥はあっても不平を抱く者、または無位無禄の貧書生で、「知力」はあっても銭のない改革家が「衆論」をつくり、衆論によって政府を改め、遂に封建の制度を廃することができたとしている。廃藩置県は士族などの既得権者には極めて不利で、殆どの人が好まなかったことであるが改革家は「知力」の量を以って人数の不足を補い衆論を形成することができたのだ。

 この「知力」有する者とは誰のことか?
 福沢諭吉は明治29年6月16日付の「時事新報」で維新第一の功労者は「西郷隆盛」であると述べている。「木戸、大久保と並び称して維新3傑など唱うるものあれど、西郷の名望は他に傑出して、実際の技量はともかく、その名望によって行われた事業少なからず」と述べ「西郷は淡白無欲の性質にして、元勲の身にてありながら磊落書生の生活を以って一生を終えた」としている。福沢のいう「無位無禄の貧書生」とは西郷隆盛のことだったのだ。
 事実、明治4年の廃藩置県の遂行は西郷がいなければ不可能であった。改革を断行するためには無欲で、人望のある西郷を必要としたのである。他の明治の諸改革も西郷を抜きにしては考えられない。明治5年の学制改革、明治6年の地租改正も、岩倉使節団一行が膨大な国費を使って外遊している間に西郷が断行している。大隈重信は岩倉が留守中の内閣について「大西郷の如きは我輩に向い、足下は政治が巧者なようだから、万事足下に任せる」と述べ、印鑑も大隈が預かっていたそうだ。諸改革は西郷が断行したというより、大局を見て判断を大隈に任せたと観るべきかも知れない。関係者を集めて議論していたら短期間に諸改革を断行することなどできなかっただろう。

 西郷は明治4年に「政治上の意見書」を提出し、「政府の諸官員はその本藩に復帰せしめてその数を減らし、特に聡明なるものを再選する」、「法律、兵制の治権は、帝国の各州を通じて同一とし、兵隊の数は銭財の額により確定する」、「紙幣の発行を減らし、予備の資本を作って会社の創立を奨め、貿易のバランスはわが国に利するよう謀る」、「中央政府の制度は永く続行せらるべしと思われず、その生ずべきところの不利の数、実に枚挙にいとまあらず」(マウンジー著「薩摩反乱記」)と述べている。西郷は勝海舟の説く「共和制」に賛同しており、中央集権制には反対だったのだ。中央政府と決定的な対立を生み出すことになったのは当然の成り行きだったのだ。地租改正の後、西郷が鹿児島に帰ってしまったのは「九州独立」を考えていた可能性が高い。福沢諭吉は西南戦争の直後「分権」の必要性を説いているが、西郷、福沢こそ「地方分権」「道州制」の元祖というべきかも知れない。

 西南戦争で西郷は国賊とされ、官許を得て罵詈讒謗する者が多いことに抗議し、福沢諭吉は明治10年に「丁丑公論」を執筆し西郷を弁護しようとしたが、公表されたのは20年以上も経過した明治34年になってからであった。「丁丑公論」には「政府の官員たる者は、漸く都下の悪習に倣い、妾を買い妓を聘する者あり、金衣玉食、奢侈を極る者あり、あるいは西洋文明の名を口実に設けて、非常の土木を起こし、無用の馬車に乗る等、郷里の旧を棄てて忘れたる者の如し」と書き、乱の原因は政府にもあり、「西郷の死は憐れむべし、之を死地に陥れたるものは政府なり」と指摘している。

 中央集権制は、戦争の遂行には必要な制度であったかも知れないが、権力者の不正を摘発することが難しい制度である。明治の政変では幕府の既得権者は淘汰されたが、逆に政府に取り入り財を成したものも多かった。表沙汰にはならなかったが不正が横行したことは間違いないのだ。そもそも政府が財政窮乏の極みにあるとき、岩倉一行が大挙海外に脱出したことも不審きわまることである。
 足軽の息子であった山県有朋などは40歳で東京目白の椿山荘を手に入れ、京都では鴨川と南禅寺の2箇所に無隣庵を、日本全国では9つも別荘を創った。今だったら政治家の財産形成について厳しく追求されるところだ。西郷は長州人の不正蓄財を黙認できず、右手で政治を、左手で商売をする手法に我慢がならなかったに違いない。司法省長官であった江藤新平は、中央政府の不正を糾そうとして逆に殺されてしまった。

 道州制の実現には廃藩置県後の歴史と経緯を他山の石としなければならない。道路公団の民営化の例を見ればわかるように、官僚や族議員は巧妙に税金投入の道をつくり、既得権を温存する制度を創る。旧制度の既得権の解体と同時に、新らしい制度で新たな既得権を生まないように、権力の肥大化、「大きな政府」への歯止めが必要だ。道州制の実現で成果を期待するには、軽重浮薄で「知識」を誇る学者の理論ではなく、無欲の人間の「知力」が求められるのである。

文京区 松井孝司


生活者通信第110号(2004年10月1日発行)より転載

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