廃藩置県は何故成功したか?(第3報)


 戊辰戦争、西南戦争は、正邪ではなく、日本国内における既得権の有無と政策の相違をめぐる争いで、明らかな内戦である。米国が南北戦争の犠牲者を敗者も含めてアーリントン国立墓地に葬るように、靖国神社には戦乱の犠牲者を敵味方の区別なく祀るべきであった。

 多くの歴史書では明治維新の功労者西郷隆盛を武断派と位置づけ、江戸城を無血開城するまでは評価するが、それ以後はまるで愚人のような扱いである。維新以後は頑迷な不平士族にかつがれ、彼らの生計を立ててやるため韓国を征服しようとした遅れた思想の持ち主だったとされているが、事実に反するようだ。
板垣退助監修の「自由党史」は冒頭の題言で「かの征韓論の起こるや、世の膚浅なる史家、往々にして史実を転倒し、之をもって明治政府における文治、武断両派の軋轢に帰し、征韓党同志の行動の常軌を逸するを説くものあり。その史眼や真に盲せり」と指摘している。

 明治6年以降、西郷内閣に代わった大久保政権は何をしたか?
 史実を辿れば西郷と大久保利通は、成長するに従い次第に意見が合わなくなっていることが読み取れる。二人は人生観が異なり、政治理念も一致しなくなったのだ。 表向きは近代化を唱えながら、民権を圧迫し、言論統制を強化して、官僚が跋扈する有司専制の国家を創ったのは、岩倉具視と組んだ大久保と伊藤博文らである。

 明治6年、西郷とともに下野した江藤新平も、日本近代化の功労者として無視できない存在である。
西郷が薫陶を受けた薩摩藩主島津斉彬と、江藤の主君であった佐賀藩主鍋島直正は開明思想の持ち主で最新の科学技術を積極的に導入し、殖産興業に努めた。戊辰戦争での官軍の勝利は、鹿児島藩と佐賀藩の武器がもたらしたものであり、西郷と江藤は先見性を持つ藩主に見出された逸材だ。西郷、江藤らの政治理念は大久保らの思想に比べ、はるかに近代的、民主的であった。
江藤は明治4年7月文部大輔に就任すると、わずか17日で日本の教育を洋学中心に変え、新生文部省の骨格をつくり、翌年4月司法卿になると人権と司法権の確立のために苦闘し、長州閥の不正蓄財を追及しようとして、逆に殺されてしまった。

 西郷内閣で重要な働きをしたもう一人の人物は大隈重信である。明治の大実業家、渋沢栄一に重要ポストを与えた大隈の功績は大きい。大隈は官僚嫌いの渋沢を説き伏せて大蔵省の役人に採用し、渋沢は廃藩置県にともなう財政、税制改革の事務作業を不眠不休でやり遂げた。しかし、渋沢は大久保らの高官と意見が合わず、わずか在任4年で官を辞し、民間実業家に転進している。

 明治4年後半から明治6年前半までの2年間は、岩倉一行が大挙欧米を視察中であり、西郷内閣が実務を取り仕切った時期である。留守を預かったのは西郷の他、大隈、江藤、板垣、副島種臣、大木喬任、井上馨、山県有朋らであった。
廃藩置県につづく、学制頒布、国立銀行条例の公布、太陽暦の採用、四民平等の思想に基づく徴兵令の制定、地租改正など明治維新における重要改革はこの期間に集中している。

 廃藩置県が成功したのは、岩倉一行の留守を預かった西郷内閣の政策が正鵠を得ていたからである。短期間に多くの改革が実現できたのは、議会が存在せず、島津斉彬と鍋島直正の薫陶を受けた人材が談合、妥協抜きで、政策立案を担った結果でもあったのだ。まさに賢者による「小さな政府」の成果といえるだろう。
西郷は細かい指示は出さず、細部は有能な人材に任せ多くの改革を成し遂げたのである。江藤と大隈は有能であったが、権力欲が強く一癖も、二癖もある人物だったようだ。江藤、大隈ら留守組の意見の対立は激しく、井上、山県らの不正も発覚し、西郷がいなければ発足したばかりの新政府は分裂し、瓦解するところであった。清濁併せ呑む西郷の包容力が明治政府を救ったのである。

 しかし、何の成果もなく洋行から帰った岩倉一行は、長州閥の劣勢に愕然とし、反撃のために利用したのが征韓論である。西郷が無私無欲であったために権力闘争に負け、不幸な結末をもたらすことになった。明治6年の政変を契機に、天皇を上手に利用するものが権力者となり、権力に背くものは抹殺される中央集権の制度が出来上がってしまった。
儒教の毒が明治人全体に染み渡り、天皇制を批判することは許されなかった。廃藩置県が民主主義にとっては裏目に出たのである。

 明治6年の政変では、大隈は西郷と対立し、岩倉、大久保、伊藤らに味方したが、明治14年の政変で、大隈は、岩倉、伊藤らに見捨てられることになる。大隈は回想して、「こういう始末で叛乱者として首切られた。危うくすると命もとられる所であったが、明治天皇のご仁徳によって命だけは僅かに保ち得たが、遂に政府から追放されて了った」と語っている。大隈が西郷のように最後まで戦わず、自ら進んで辞表を提出したのは、政府によって殺されることを危惧したからだろう。
立花隆氏は近著「天皇と東大」(文藝春秋社刊)で、加藤弘之東大初代学長が明治14年に変節したことを指摘している。啓蒙思想家であった加藤も保身のために自著を絶版に付したのだ。

 忠君愛国を不可侵の理念とする立場からみれば、欧米の民権思想を危険視することは当然のことである。このような土壌に民主主義は育つ筈が無い。「自由党史」が主張するように征韓論が分水嶺となり、儒教思想にもとづく天皇制が民主制の萌芽を抹殺し、日本は世界に通用しない理念によって、正義の言論は封殺され、亡国への道を歩むことになってしまった。

 廃藩置県は成功したが、それ以後の歴史は必ずしも成功とは言えないのではなかろうか?

文京区 松井孝司


生活者通信第131号(2006年7月1日発行)より転載

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