My Profile3(私のプロフィール3)


1:誕生-渡米 2:兼房-内観 3:駐在-異文化 写真集 私の英語プロフィール

それ以来、内観には入っていない.それほど大きな壁にはぶつからなかった.すくなくとも昭和60年の8月までは.

その日、私は新しい上司に呼ばれた.話は ”インドネシアに合弁会社をつくる事になった.その責任者として赴任をしなさい”というものだった.

今までにも出張ベースではマレーシアからインドネシアへ数回足を入れてた事がある. 安全、衛生、生活レベル、いずれも日本とは30−40年の格差があった.駐在となると今までのように英語だけで通す事はできない. 私は40半ばにしてまた一つの言葉を覚えなくてはならないのか? しかもあのインドネシアで? という拒絶反応だった.

タクシーの床は錆びて穴が開いている.タイヤは丸坊主、それでもでこぼこ道を80−100Kmで突っ走るのである.ローカルの人とホテル以外で食事をすると、客が自分で皿を熱湯で消毒するのである.

でもノーという返事はなかった.イエスか退職である.悩んだ.転職も考えた.今回は内観に座る時間もなかった.最終的な決断を促してくれたのは高校時代のバスケット部の部長先生であった.それは会社が君に期待をしている証拠である.男ならその話を受けるべきであると.

案ずるより産むが易し. 今ではこの坪田要三先生に感謝している.

それから赴任するまでの数ヶ月で事業計画書なるものを上司の手ほどきを受けて作成した.インドネシア市場の規模を査定し、自社の占有率から生産量を出して、必用設備機械と人材と資本金を定めるという計画書の手続きを知った.

いざインドネシアに入ってからの体験は机上論ではなかった.
海外に出ると言う事は舟に例えるなら内海から外海に出る事に等しい.思いもかけない荒海が待ちうけている. 言葉では日本より30年以上も立ち遅れていると簡単ではあるが、実感できるのは一つ一つの体験からである.

私が赴任した1986年より5年も前に赴任した前任者がいた. 彼は合弁会社のパートナーとなる会社で5年前から生産したものを販売をしてきたのである.彼に云わせると私が入った頃のインドネシアは、特にジャカルタはずいぶん良くなったというのである.

どのくらい良くなったか、それも日本人駐在員にとってどのくらい良くなったか. 一つの目安は日本食レストランの数であるそうだ. 彼がインドネシアに入った1981年の頃の日本食レストランは首都ジャカルタに3軒しかなかったという. ところが私がジャカルタに入ってからしばらくして外食産業の日本人に聞いた時には、ジャカルタには100軒の日本食レストランがあると言われた.

前任者の彼はインドネシアに入ってからはじめて自分が純粋な日本人であることに気づいたと言う. 醤油の味が切れたことに苦痛を感じたという. おでんとか味噌汁を自宅で食べられるように、なべや食器を日本から帰任の折にシンガポールで調達してからジャカルタに入ったと言う.

私の単身赴任時代の1年間、彼は実にしばしば自宅に呼んでくれた. 醤油の味が切れることがどれだけつらい事か分かっている彼はインドネシア在住の日本人や日本から出張の取引先の人を日本の家庭料理でもてなしていた.

彼と私は営業を続けながら合弁会社の工場を建てねばならない. 打合せを兼ねて家で食べたらいいじゃないかとよく誘ってくれた. でもそんなにしげしげとお邪魔するのはやはり甘え過ぎである. ある日のこと彼の小学校2年生になる娘さんから、そんなに食べちゃー駄目と言われて初めて気が付いた.子供は正直である.純粋である.甘えすぎては駄目なのだ.

それでも彼は相変わらず気さくに誘い続けてくれた. 仕事の話もある事だし家で食べていったらいいじゃないかというのである. そりゃーそうである. 個人の家を一軒建てるのだって大変だ. それを小さいながらも工場を建てるのである.打ち合わせる事は山ほどある.そこで会社が宿泊費を支払っていた合弁相手の重役の承認を得て、食費の一部を彼に支払う事にした.それも娘さんの前でお母さんに渡すようにした. これが効を奏した.それ以来、彼女から食事についてはクレームを付けられなかった.

子供の前でお金?と眉をひそめられた方は常識豊かな日本人であると思う.でも私はそのお金のことについて一つ思うことがある.日本人はお金のことは口にしないという美徳がある.でも外国ではこの美徳は通用しにくい.お金は大切なことである. 私はロサンゼルスでも数々の度肝をぬくような体験をした.

そんなこともあって合弁会社を運営する時にも、たとえわずかでも歩合制の考え方を取り入れた.それが個人ベースでなくてもいい. 彼らの努力や成果に対して気持ちだけではなくお金で報いることをしたかった. 外国ではそれだけお金に対して純粋であると思っていたからだ.それでも日系企業として少し控え目にやることにした.チーム単位とか労働組合単位にたいして福利厚生費という名目で.

トイレ事件.
インドネシアに入ってからいろんな局面で異文化を体験した. 例えばしもの話. 前任者のMさんが”インドネシアでは自分のウンは自分で掴め”と言うのである. まもなくその事を文字通りに実感せねばならない事件が起きた.

ジャワ島の東、インドネシア第二の都市スラバヤに行く事になった.ジャカルタが東京ならば、スラバヤは商業都市の大阪である.人口ではいずれも東京、大阪にひけをとらない.ジャカルタからスラバヤまではジェット機で一時間少々である.

その事件はジャカルタのスカルノ・ハッタ国際空港で起こった.前任者のMさんが空港待合室のトイレに行った.彼が戻ってから今度は私がトイレに立った.トイレに入ってペーパーが切れているのに気が付いてすぐに戻った.すると彼は当たり前の如く言う.バケツとヒシャクがあったでしょう.自分の手で洗うんだよ.えっ?どうやって?彼は右手でヒシャクを持って、左手で洗う格好をした.えーっ.そんなこと! ”出きるよ.大西さん、ここはインドネシアだよ. どこに来たと思っとるの?”

そこまで言われては. 思い直して再びトイレへ. えっ? でもなんで拭くの? また戻った. ”大西さん、手で水を切っておけば自然に乾くよ”と彼. なるほどそうか. ここは常夏の国である.

この時は水洗いも下手でズボンも濡らしたし、指もにおった.この臭いは水洗いに慣れてからも続いた.ある時ふと気が付いた.そうだ指輪がいけないのだ.早速、指輪を外した.20年間外した事のなかった指輪を苦労して外した.そしたら案の定 臭みはなくなった. なぜ右手で食事をするのか、なぜ左手で名刺を受け取らないのかを本当に体感した.

日本に帰ってからしばらくは日本のトイレにもバケツとヒシャクが置いて有ればいいのにと思っていた.それからしばらくして自宅にもウォッシュレットを取りつけた. だから紙だけのトイレは未だに気持ちが悪い.

慣れれば良い事も.
1980年代当時、インドネシアでは日本人駐在員の多くは運転手付きの車で動き、女中さん付きの家に住んでいた.公共の交通機関が外国人には適していないので仕方のないことであった. 女中さん二人でも、一人が料理を作り、もう一人の女中が掃除・洗濯をする.

じゃー日本人の奥さんは何をするのかというと、そういう女中さんに料理や掃除・洗濯を教えるのである.口減らし(?)で田舎からでてきたばかりの15−6才の女中さんは都会の生活や電化製品を知らない. ある時若い方の女中が”トワン(ご主人さま)、電話ですと言う.部屋から出て電話に出ようとしたら、受話器が電話機に戻してある.女中に電話はどうした?と聞くと.そこにあると言う.受話器は既に電話器に戻してあった、という具合である.その代わり給料は安い.先の見習いの女中が月に3000円、料理の女中が月5000円、運転手でも月一万円くらいだった.

もう一つのトイレ事件を思い出した.
ジャカルタの郊外へでた帰りに運転手が自分の家はこの近くだと言う.運転手達はどんな家に住んでいるのだろう.興味があった.ちょっとお邪魔しても良いか? きたない所だがそれでもいいか? OKだ.

奥さんがジュースを屋台で買ってきて、もてなしてくれた. しばらくしてトイレに行きたくなった. そこのついたての向こうに穴があると言う. 少し暗いがすぐ見つかった. 小水をしてから水はどこかと尋ねたら奥さんが来た. 貴方はここでしたのか? そうだが? 突然彼女は笑い出した.笑いこけた.

彼女の笑いがおさまってから聞いて見ると、私が小水をしたのはトイレではなく、彼らの井戸であった. えっ? これは井戸? トイレは? そちらの穴だ. えっ? こちらは? 井戸. つまりマンデー(行水のこと)をしたり、歯を磨いたり、料理をしたりするのに使う井戸である. えっ? マアフ!マアフ!(申し訳ない!申し訳ない!) ティダアパーパ! ティダアパーパ! (何でもないよ!何でもないよ!)と言いながらまだ笑っている.

参った.本当に心底参った.立場が逆だったらどうだろう. 悪気はなかったにせよ彼らの使っている生活水の中に小水をしてしまったのである. それを笑い飛ばせるか? 駄目である. 絶対に許せない.とんでもないことである.それをどうだ.彼女は笑いこけている. 何でもないという. 圧倒された. 打ちのめされた. それまで自分はインドネシア人を少し見下していた.馬鹿にしていたところがあった.ところがどうだ.生活は貧しくても彼女の心は自分より遥かに豊かである. 遥かに度量が大きいと思った.

照明の話.
工場建設の中で一番意外な話は工場の窓であった. 参考までにある日系企業を訪問.その日本人によると窓は無しか小さなものでよいという. 理由は工場の機械設備が盗まれるからだという.

ローカルの重役や労働者も口を揃えて同じ事を言う.
彼らの理由はスコール(一時的などしゃ降りの雨)であったり、日光の直射を嫌うためであったが. 暗くなる工場は天井の材質を一部アクリル系に変えることと大きな換気扇を取りつける事で良しとした. 事務所の照明でも日本人とローカル人では随分の格差があった. そう言えばジャカルタの街も日本人には全体に暗かった.

ジャカルタに入った頃はそんな印象を持っていたが、1年もすると逆に日本が異常に明るく思えるようになった. 一時帰国すると事務所の照明がまぶしくて目が痛かった. 街や家の中が異常に明るく感じた.

電話の話.
パートナーの重役に聞いてびっくり.正規の電話を待っていると数年かかると言う.じゃー正規でない電話は? 個人間、企業間での売買で価格は五倍以上. しかし電話がなくては話にならない.すぐに1本調達.1本100万ルピア(当時の換算で20万円). 事務所にデスク一つ電話1本が揃った.結局、電話問題はその後も続いた.なかなかつながらない、音声がとぎれる、 エコーが入る、 豪雨・洪水の時の不通. 着任早々の私はぶつぶつ言うが、前任者のMさんは当たり前顔.

陸の孤島事件.
ある日にインドネシア人の営業マンと先の運転手と三人でジャカルタの郊外にある取引先に行くことになり、準備をして朝の9時半ごろ事務所をでた. 西ジャカルタへ行く高速道路に乗ってしばらくすると車が故障した.二人で押してエンジンをかけようとしたが駄目だ.炎天下で交代して何度も何度も試みた.もう少しでかかりそうな音がするのだが駄目である.三人とも汗まみれで くたくたになった.

営業マンの彼が取引先に電話をしてくると言ってどこかへ歩いて行った. 運転手は相変わらずエンジンルームを見て何かやっている.遅いなあ.もうかれこれ一時間になる.やっと帰ってきた.聞いて見ると高速道路を降りてヒッチハイクで電話のあるところまで行って、先方に電話をして、それから車の修理工場を人に尋ねたが、この周辺には修理工場がないことを知りあきらめて帰ってきたという.

どうする? どうしようもない. 今日は運転手を車に残して我々はジャカルタへ戻ろう. それから歩いてバスに乗ってジャカルタまで戻ったら、辺りにはもうネオンがついていた. ジャカルタからわずか一時間の地点での故障である.電話という文明の利器がないとまさしく陸の孤島状態であった.

体力の話.
人の採用でも日本との格差を感じたことがある. 募集のポスターを門柱に貼ると翌日には数十人の人が集まる.新聞広告を出した時には百人を超える応募者があり、急きょ書類選考をした.

第二次選考ではMさんと相談して作った筆記テストを実行した.ジャカルタでも学歴は工業高校が随分増えたが、日本との学力差は大きなものがあった.ところがある日、学力差よりももっとびっくりする事が起こった.

前任者のMさんが事務所に入って来て、”大西さん、この間採用した人間、 ありゃー駄目だわ” と言う.工場に入って見てみると、百キロくらいの材料をブロックチェーンで研磨機に乗せようとしているがふらふらとしてなかなか乗せられないでいる.つまり彼の体重が問題であった.45Kgくらいの体重ではブロックチェーンを使っても100Kgの素材は扱えないようだ.

この体験後、採用に関しては身長体重をチェックし、更に面接では腕相撲をする事にした.栄養問題のせいかごつい顔つきをしていても意外と非力である.

ゆとりの話.
世界の中でも日本人のせっかちは有名である. 心のゆとりがない事に関しては指折りだ. インドネシアに入ってから数年間で日本に帰ったり、地方都市に出かけたりで数十回飛行機に乗ったところで出発時間の遅れの平均値を出したことがあった.一時間半くらいであったと記憶している.一時間半となると普通の日本人は非常に苛立つ.私が苛立っていると前任者のMさんは落ち着いてもの.”大西さん、インドネシアでは三つの”あ”というのが大切だよ” ”あせっても仕方がない.あわてると危険.でもあきらめては駄目” と言う.

インフラの話.
日本では当たり前の事が世界では当たり前でない事の例として最近よく取り沙汰されるのが水と安全である. 合弁企業のインフラとしてはこの他に癪の種が二つあった.

一つは自社の製品を自社で販売できないという直販不可の法律. 販売は自国の会社で出来るから合弁会社に頼らなくても良いという国の政策. これは合弁会社にとっては、コストが掛かり、競争力が低下する. 結局、半年後に輸入ライセンスの中に直販ライセンスも加えてもらった.数年後この法律は改正され、現在ではどの合弁企業も直販できるようだが.

二つ目は材料の輸入税. 完成品が無税で、逆に材料が有税では自国の産業を育成するインフラではない. 材料も無税とすべきであると役所に掛け合うも不成功. この問題には手こづった.これは前任者のMさんが言っていた ”三つのあ” の教えの通り、 あせらず、あわてず、あきらめずの精神で機を待った.数年後あるヒントから無税とする事ができた.この解決案は定年後の現在も効いているというからうれしい.

回収事件.
インドネシアでは代金の回収作業は格別に難しい. 商品を納入はしてもらったが、購入したとは思っていないと言い切ったひどい客先もいた. 地方にある工場へ何度督促に行ってもラチがあかない. 仕方なくジャカルタにいるグループ会社の総帥に会った. 支払計画ができた. 話が分かる. ホットしていると、第一回目の支払いから実行されない. そのうち事務所では会えなくなった. 上司の指導を得て、朝一番に自宅を訪問する. 何度訪問しても、女中が居留守を伝える.  ある日、腹が立って門を蹴飛ばしてしまった. その後上司に相談して弁護士の力を借りる事にした. 支払いに応じなければ、法的処置を取ると警告しても回収計画は頓挫した.もう駄目かもしれないと諦めかけた時、弁護士からGood Newsが入った. 全額回収できたというのである. 奇跡である. どんな魔法を使ったのか ?と訊いたところ、 彼の面子に訴えたと言う. これ以上支払いを遅延すれば、新聞に公示すると連絡したところ即刻支払ってきたというのだ. 裁判より新聞公示の方が威力があった. 回収という言葉を聞くたびに、この回収事件を思い起こす.


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