My Profile1(私のプロフィール1)
昭和16年 名古屋の武平町にあった名古屋医師会館にて誕生.
今の笹島の近くの祢宜町の実家にて出産準備していた母に陣痛が来たのが16日の夜8時頃、早速入ったのが医師会館.そして翌朝の6時の出産.
昔は今のように看護婦さんや、時には夫が付き添って励ますということもなく、俗に障子のさんがかすむまでと言われたように苦しかったようだ.
母の母つまり祖母がそばで両手を合わせて生まれるまで「南無阿弥陀仏.......」と繰り返し拝んでいたのが印象的だったとのこと.
自宅は名古屋市港区港楽町.ここには1年余りで、記憶の無いまま岡崎に引っ越した.父が萬有製薬に勤めていたのでその社宅へ.
戦争による空襲は岡崎の防空壕の中で体験した.勿論4歳くらいのため余り覚えていない.防空壕の中から体育館のような所が見えて全身白い包帯を巻いた人が焼き芋を食べさせてもらっている光景をかすかに記憶しているくらいだ.
ところがB29の音、焼夷弾が落ちてくるヒュルヒュルヒュルという音だけは鮮明に耳の奥に残っている.
5歳の頃に西区の国風幼稚園に通い始めた.2歳年下の妹、由子がいつも「まってー!」と私の後について通っていたようだ.
途中からもう少し近くの枇杷島幼稚園に通った.ここで確か、あけみ先生という名前の若い先生がいた、初めて異性に憧れを抱いた.
当時先生が18歳くらいとすると今年72歳ということになる.まだまだお元気なのではないだろうか?
昭和23ー29年: 東枇杷島小学校. 小学2年の夏、知多半島の長浦へ学校から海水浴に行った.名鉄電車の中でそそうをして、長浦の海水で藤吉先生(?)に洗ってもらった.
それ以来、多少いじめにあったので小学校時代はあまり良い思い出はない.
しかし小六の時、同じ竹村塾に通っていた確か樽田俊子という名前の可愛くて算数から音楽まですべて優という同級生に憧れていた.
男友達も思い出した.塾の側に住んでいた田中利明君.
唯一、堀越の東洋レーヨンの敷地内にあった三洋化学の社宅に呼んだ友達である.
私は所定の学校の方がずいぶん遠いため、登校距離が半分くらいの小学校に越境入学していたので所定の中学に戻ってからは小学時代の友達とは会っていない.
誰か同窓会をやってー!下さい.
昭和29−32年: 名塚中学校では最初卓球部に入りたかったがクラブがなかったので、やむを得ず体育の時間にやっていたバスケットボール部に入部した.
1−2年間はバスケット以外は記憶にないくらいバスケットばかりやっていた.夏休み中、上半身裸になって屋外コートでバスケットをやっていたので校内一の黒んぼになった.
それでも2年生からバスケット部の中村君に誘われて学習塾に行くようになった.この双葉塾の先生がすごいお人で.
英語の発音が悪いと灰皿が飛んでくるというようなシナリオライターさんであった.
夏休みに電灯を消してろうそくをともして聞かせる怪談話は天下一品であった.あんなに恐い話はなかった.
この先生は英文を主語、動詞、目的語、補語、前置詞プラス名詞などと分解させた.意味も理解せずに毎回そんなことばかりやっていた.
昭和32−35年: 名古屋西高等学校. 名塚中学の田内先輩に誘われて名西のバスケット部の練習に入学式の前の3月に参加.
ここでもバスケットに明け暮れた.私が1年生の3学期の時、2年生が学業に専念すると言って1年生にバトンタッチをしてバスケットをやめた.スポーツをしていて学業がおろそかになることはないと自分たちは3年の夏の大会まで意地を張って頑張った.
そのせいではないが1年浪人することになった.父は薬学の出身で私を医師にという希望があったようだ.私も漠然とそんな気でいたが、2年生の時に風邪で寝こんでしまった.
その頃の数学のスピードは最も速い時期ではなかっただろうか.予想外に易しかった数1に数学をあなどっていた.数IIの遅れは浪人したからと言って取返しがつく程度ではなかった.今思えば数学というものは分かる所まで戻る勇気が一番大切であった.ずっこけ人生第一の転機である.数学が一番好きな学科だっただけに未だに後悔が残る.
昭和36−40年: 南山大学経済学部 英語が好きなので英文学部も受験.幸い両学部とも合格したが、父が英語は自分でやることにして社会に出てから役に立つ経済学部の方へ行けというので意味も無く経済学部に入学.
英語はISA(International Student Asociation)に所属して結構熱心にやっていたが、2年の時バスケットとの両立が難しくなりバスケット1本にしぼった.経済の講義はほとんど御無礼してしまったので、ほとんどバスケット部卒と言える.
大学時代は本当によく遊んだ.
大学1年の時、成人式があり、中学時代のクラスメートの松井正雄君に出会った.これが私の第二(?)の転機となった.
今から思えばアメリカ映画の「卒業」のテーマである男としての卒業が私の大学時代であった.
昭和40−41年: バスケットの先輩の増田さんに豐田通商へ誘われたが、大企業より小企業の方が渡米のチャンスが多いと錯覚していた私はもったいない話ではあるが辞退した.それほどまでに当時の私はアメリカ病にかかっていたのである.
結局、面接の時の甘い話が動機で中小企業の玉栄貿易(株)に入社.三つ子の魂百までというが、今思えばサラリーマンも最初の会社の魂が百までの感じがある.中小企業には会議も報告もない.とにかくやるだけである.この木村勇社長の猛烈振りは兎に角ものすごかった.それだけに大いに影響を受けた.
でもアメリカ話をほごにされたのでわずか1年半で退社して自分でロサンゼルスへ行く事にした.
入社から退職までの1年半の間に第三の人生転機があった.就職して最初の夏、会社の同僚である加藤君と海へガールハントに出かけた.ところが加藤君は彼女とうまく行っているのに私の方はすぐに壊れてしまった.
そんな加藤君にさんざんに言われていた頃、名古屋の中央郵便局で私書箱の手紙を取って会社に出かける途中、学生時代付き合っていた早川芳江さんと偶然再会した.
しかも会社のもう一人の加藤という先輩に会わせた所、自分の元彼女とうりふたつと言われた.これがキッカケで急に結婚話が持ちあがり、一ヶ月後に婚約した.
幾つかの偶然が重なった結果の縁である.独身主義でアメリカへ行きたいと息巻いていた若者が急転直下.
一番ビックリしてたのは仲人をしてくれと頼まれた社長であった.
その後、結婚か渡米かで随分悩んだ. 渡米資金として貯金してきたお金を結婚資金に流用したんでは、一生後悔するかもしれない.
そこで婚約者には兎に角、渡米をする.渡米して呼べるようであれば呼び寄せる.駄目であれば帰ってくる.それから結婚しようと話して了解を得た.
それから浪人時代に始めたペンフレンドに一週間でいいからホームステイさせて欲しいと頼んだ.ペンフレンドから家族も賛成してくれたとの知せにアメリカ病の私は有頂天になった.
しかし渡米までの1年間の婚約時代は楽しくもあり、苦しくもある1年であった.会社の帰りに毎日彼女の家に行って食事をさせてもらった.そしてよる12時頃自宅に戻るという1年だった.
毎晩のように彼女は泣いた.その彼女が今の家内である.家内は毎晩とは大げさなと言うがそんな印象だった.苦しかったのは彼女の方であったと思う.彼女より1歳年上の未婚の女性の家に私がホームステイするというのだから.
心配無用であると何度聞いても泣けてきたのであろう.
昭和41年八月に退社して九月の末に横須賀港からトヨタ自動車の貨物船カルメンに乗りこんでロサンゼルスのサンピードロ港へ向かった.二週間の航海中はトヨタの鈴木さん、田口さん、それに東京海上の後藤さんと人生談義をして過ごした.
昭和41−43年 渡米中の出来事はアメリカ英語のホームステイ体験日記の方で断片的だが書いているのでここでは要約する.
ホームステイ先は1965年頃に黒人暴動が発生したワット地区の近くでロサンゼルスのダウンタウンから15kmほどの距離があった.
学校は英語を習得したい移民や留学生のための成人学校でダウンタウンにあったCambria
Adult School.なんだかケンブリッジという名前に似ているがそんな立派なものとは無縁である.
特に昼間のクラスは留学生の予備校という状況であった.それも日本人が三分の一、南米のラテン系の学生が三分の一、その他のアジア及び中近東の学生が三分の一という構成であった.
結局渡米から半年後にホームステイ宅よりアパートに移って婚約者を呼び寄せた.生計を立てるためダウンタウンの7th
Street & Flower StreetにあったRobinson
Department Storeに掃除夫として勤めた.
ここでも半分が日本人、後の半分は中南米人であった.日本人は英語もできない一世の人ばかりであった.アメリカ社会の片隅で必死になって生きている彼らは印象深かった.特に田中さんという老人の顔や掃除道具を押して歩く姿は今でも鮮明にもの悲しく脳裏に残っている.
それから1年後にコンピューターの学校に行きたいと思い母校南山大学の北野教授に相談の手紙を出した.北野教授はアメリカの大学でも教えていた人で、私へのアドバイスは、今時アメリカ留学はさほど珍しくもない、それよりも30歳前に帰国して再就職した方が良いというものであった.
コンピューターにも興味はあったけれど、このアドバイスに私もどこかでホットしていた.学校と仕事の両立は若者と言えども厳しかった.睡眠時間4時間の生活には少々疲れを感じていたのである.
教授の忠告に従って帰国することにした.でも直接日本に帰るのではなく、持ち金を全部はたいて逆周りで帰国しようと家内と相談した.帰国後の生活はその後で考えよう.
昭和43年5月にアメリカを横断してヨーロッパを巡る一ヶ月の旅に出た.アメリカ横断の最初はラスベガスだった.家内はスロットマシンで勝ってホテル代が浮いたと喜ぶような安旅行である.
アメリカ国内はグレハウンド・バスでナイアガラ、ワシントンDC、ニューヨークへと移動.ラスベガスの圧倒されるような迫力と比べてナイアガラの滝には随分がっかりした.特にアメリカ側からの滝は単にナイアガラ地区の街を流れる川が突然落下しているだけという感じであった.(しかし結婚25周年再度訪れた時は小さな舟で滝つぼへ行った.この時の水しぶきと風とごう音は迫力があったが)
ニューヨークからジェット機でロンドン、パリ、ベルギー、オランダ、オーストリー、スイス、ローマ、ミラノ、アテネ、香港、名古屋という駆け足旅行である.
ヨーロッパで感じたことはアメリカとは違い建物の内外壁に彫刻や絵画にあふれていたことである.歴史に疎い私達も大いに感動した.特にローマ法王庁やミラノの壁画(最後の晩餐など)には圧倒された.もう少し世界史を勉強しておけばと初めて自分の不勉強を悔やんだ.
旅行中のホテルの決め方はすべて空港からバスで市内に入り、バスターミナルの看板からホテルを選択して決めるというような超節約型であった.不安はあったが幸いどのホテルも一口で言えば親切で小奇麗で実に快適であった.
昭和43年8月 帰国後、機械刃物のメーカーである兼房株式会社に就職.
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